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95.迫り来る赤い足音――撤退の波とグアテマラ防衛線

# 海洋帝国日本史 第十章:第二次世界大戦の終結と赤き新世界


## 第三話:迫り来る赤い足音――撤退の波とグアテマラ防衛線(1943年8月)


### 1.傷ついた鷲の帰還――アメリカ大撤退(1943年8月上旬)


1943年8月。

東京条約とロンドン条約という二つの巨大な紙切れによって、世界を血の海に沈めた第二次世界大戦の「公式な境界線」が引かれた直後。

アメリカ合衆国の東海岸、ニューヨークやボストンの港、そして西海岸のサンフランシスコやサンディエゴの軍港には、建国以来かつてない規模の「異様な光景」が広がっていた。


「……見えたぞ。自由の女神だ……!」


錆びつき、弾痕だらけになったリバティ船(戦時標準船)の甲板から、包帯を巻いた数万、数十万のアメリカ兵たちが、霞むマンハッタンの摩天楼を見上げてむせび泣いていた。

彼らは、ヨーロッパの泥沼(アルザス=ロレーヌやフランス中部)でドイツ軍に包囲され、降伏と飢餓の淵を彷徨っていた残存部隊であり、あるいはアイルランドで爆撃の恐怖に怯えていた航空兵であり、アラビアの熱砂で帝国陸軍と死闘を演じたマッカーサーの部下たちであった。


トルーマン大統領の「本土完全撤退命令」により、世界中に展開していたアメリカ合衆国軍の大部分が、フランスで捕虜になっていた者たち(講和条約による引き渡し)も含め、怒涛の勢いで北米大陸へと引き揚げてきたのである。


「よく生きて帰ってきてくれた……!」

港では星条旗が振られ、軍楽隊が『星条旗よ永遠なれ』を演奏していた。しかし、帰還兵たちの顔に「勝利の歓喜」は微塵もなかった。彼らの瞳には、何十万という戦友を異国の泥と砂の中に置き去りにしてきたという、深く、暗い虚無感だけが宿っていた。


「我々は、何のためにヨーロッパやハワイで血を流したんだ。……結局、すべてを投げ出して逃げ帰ってきただけじゃないか」

「静かにしろ。……俺たちの『本当の戦争』は、これから始まるんだ」


帰還兵を乗せた列車は、休む間もなくアメリカ大陸を南へと向かって走り出した。

彼らが休養を与えられなかった理由はただ一つ。合衆国の喉元である「南」から、ヨーロッパのドイツ軍や大日本帝国よりも遥かに巨大で、恐ろしい怪物が、足音を立てて這い上がってきていたからである。


### 2.中米のドミノ――南米赤軍の北上


アメリカ合衆国が世界中からその巨大な手足を引っ込めていた、まさにその隙を突いて。

南米の最南端・アルゼンチンで産声を上げた『赤い革命の炎』は、ブラジルという巨大な燃料を飲み込んだことで、完全に制御不能の「真っ赤な大津波」へと変貌を遂げていた。


「ブルジョワジーの豚どもを血祭りに上げろ! ヤンキーの帝国主義から、ラテンアメリカを解放するのだ!」


1943年8月上旬。

南米大陸を完全に制圧した共産主義勢力は、怒涛の勢いでパナマ地峡を突破し、北中米へとその魔の手を伸ばした。

彼らはもはや単なるゲリラや労働組合の寄せ集めではなかった。モスクワから極秘裏に派遣された少数の『ソビエト赤軍(KGB・NKVDの政治将校や軍事顧問)』が手綱を握り、大多数の熱狂的な南米兵士たちを組織化した、巨大な正規軍――**『南米赤軍(Suramericano Ejército Rojo)』**であった。


南米赤軍の進撃は、熱帯のジャングルという過酷な地形をものともしなかった。

彼らは地元の農民たちを「解放軍」という甘い言葉で次々と味方につけ、アメリカの傀儡であった現地の腐敗した親米政権を内側から崩壊させていったのである。


パナマが陥落した。

アメリカが莫大な血と資金を注ぎ込んで建設した「パナマ運河」の管理施設には、鎌と槌の赤い旗が掲げられた。

続いて、軍隊を持たないコスタリカが、一発の銃弾も撃つことなく赤軍の軍門に降った。

さらにニカラグアの親米独裁政権が、民衆の蜂起と南米赤軍の挟撃に遭ってわずか数日で瓦解。首都マナグアの通りは、支配階級の血で赤く染まった。


「……ニカラグアが落ちました! 南米赤軍の先鋒部隊が、ついにホンジュラスの国境を越えて侵攻を開始しています!」

ワシントンのホワイトハウスに、毎時間のように中米諸国の「死亡診断書」が届けられる。


ただし、ソビエトにも「手を出せない領域」が存在した。

「……カリブ海の島々には手を出すな。あそこは米英蘭の艦隊が睨みを効かせている」

キューバ、プエルトリコ、ジャマイカといったカリブ海方面は、イギリス海軍、オランダ亡命海軍、そして残存するアメリカ海軍の艦艇が強固な海上防衛網を敷いていたため、革命の炎は飛び火しなかった。

しかし、海が青く保たれていようとも、中米の「陸の回廊」は、確実に関節を一つずつ外されるように、真っ赤に染め上げられながら北上を続けていたのである。


### 3.悲鳴を上げる隣人――メキシコの懇願(1943年8月12日)


南米赤軍の刃がホンジュラスに深く突き立てられたという現実は、アメリカ合衆国のすぐ南に隣接する大国・**メキシコ**を、極限のパニックへと叩き込んだ。


1943年8月12日。

ワシントンD.C.のトルーマン大統領の元へ、メキシコ大統領から血の滲むような懇願の直通電話が入った。


『……トルーマン大統領! お願いだ、我が国を助けてくれ! ホンジュラスの次はグアテマラ、そしてグアテマラが落ちれば、我がメキシコは南米赤軍の数十万の兵士と直接国境を接することになる!』


メキシコ政府は、自国の貧困層にも「共産主義のウイルス」が深く静かに蔓延していることを察知し、極度の恐怖に震え上がっていた。もし南米赤軍がメキシコ国境を越えれば、国内で必ず大規模な革命(内戦)が連鎖爆発する。


『我がメキシコが赤化すれば、次はおたくのテキサス州やニューメキシコ州、カリフォルニア州が、ソビエトの直接の火の海になるのだぞ!』


その悲鳴を聞きながら、トルーマンは葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。

「……落ち着きたまえ、大統領。我が合衆国は、隣人を見捨てるような真似は決してしない」


トルーマンの眼光は、ヨーロッパでの優柔不断なルーズベルトとは異なり、極めて冷酷な地政学的計算によって澄み切っていた。

彼が、中東のアブラやヨーロッパの覇権という「帝国主義の甘い果実」をすべてドブに捨ててまで、数百万のアメリカ軍を本土に呼び戻した理由。

それは、まさにこの「絶対防衛線」を構築するためであった。


「……マーシャル将軍。メキシコ政府の要請を受諾する。ただちに、我が国の陸軍および陸軍航空軍の全精鋭を、メキシコ領内を通過させ、南へ向かわせろ」


トルーマンは、作戦地図の中米の細い首の部分――**『グアテマラ』**の国境線に、太く、そして決して越えさせることのない「赤い斜線」を引いた。


「これより、グアテマラ北部のジャングルと山岳地帯に、我がアメリカ合衆国の『絶対防衛ライン』を構築する。……ヨーロッパで生き残った歴戦のベテランたちをすべて投入し、この線から北へは、赤いネズミ一匹たりとも通すな」


### 4.熱帯の鉄壁――グアテマラ絶対防衛線(1943年8月中旬)


トルーマンの命令は、かつてないほどの驚異的なスピードで実行に移された。


アメリカ本土の鉄道網と、残存する輸送船、そして輸送機がフル稼働し、メキシコ湾を越え、あるいは陸路を南下して、無数の星条旗がグアテマラ国境へと殺到した。


「急げ! 陣地を構築しろ! 塹壕を掘り、トーチカを据えろ!」


グアテマラ北部の過酷な熱帯雨林(ペテン盆地のジャングル)と、険しい火山帯。

そこに、ヨーロッパのアルザスの泥沼でドイツ軍の猛攻を耐え抜いた歩兵師団、そしてアラビアの砂漠で帝国陸軍を粉砕したマッカーサー麾下の機甲師団が、次々と配置されていった。


彼らは、遠い異国の地で「何のために戦っているのか」を見失っていた兵士たちとは違った。

「……ここを抜かれれば、俺たちの故郷テキサスやカリフォルニアの家族が、アカの連中に殺されるんだぞ!」

アメリカ兵の士気は、皮肉なことに、本土防衛という「最も原始的で絶対的な目的」を与えられたことで、開戦以来最高潮に達していた。


ジャングルを切り裂いて巨大な軍事道路が建設され、M4シャーマン戦車や新型のM26パーシング重戦車(試作機)が、迷彩ネットの下で砲身を南へ向けて不気味に沈黙する。

上空には、イギリスから持ち帰った航空戦訓を元に改良されたP-51ムスタング戦闘機や、P-38ライトニングの編隊が、隙間なく哨戒飛行を続けていた。


「……メキシコ軍の三個師団も、右翼の防衛線に配置完了しました。我がアメリカ軍と合わせた『メキシコ・アメリカ連合軍』の総兵力は、およそ五十万」

前線司令部で報告を受けたアメリカの将軍は、ジャングルの向こう側から立ち上る黒煙を双眼鏡で見つめた。


ホンジュラスを蹂躙した『南米赤軍』の先鋒部隊が、ついにグアテマラの国境へと迫りつつあったのである。


### 5.息詰まる睨み合い――冷戦の最前線(1943年8月21日)


1943年8月21日。

グアテマラ国境の密林地帯。湿気と熱気で息も詰まるような緑の壁の向こう側から、無数の軍靴の音と、ソビエト製T-34戦車のディーゼルエンジンの重低音が響き始めた。


「……来たぞ。アカの軍隊だ」

前線のアメリカ兵たちは、M1ガーランド小銃を強く握り締め、照星の向こうに現れた「真っ赤な腕章」をつけた南米兵士と、その後方に陣取るソビエト将校の姿を捉えた。


両軍の距離は、わずか数キロ。前哨の斥候部隊同士の間で、乾いた銃声が数発交わされた。

しかし、大規模な戦闘の火蓋が切って落とされることはなかった。


南米赤軍を指揮するソビエトの政治将校コミッサールたちは、双眼鏡で前方のジャングルを観察し、背筋に冷たい汗を流していた。

「……駄目だ。進軍を停止しろ」


彼らの目の前に広がっていたのは、中米の弱小な政府軍などではなく。

何千門もの大砲、最新鋭の戦車群、空を覆う戦闘機、そして何より「祖国を守るために絶対に一歩も引かない」という強烈な殺気を放つ、アメリカ合衆国の最強の正規軍が構築した、文字通りの『鋼鉄の防衛線』であった。


「……ヤンキーどもは、ヨーロッパの覇権を捨てて、すべてのリソースをこのジャングルに集結させている。ここで正面衝突すれば、我が軍もただでは済まない」

ソビエトの将校は、これ以上の北上は「アメリカの逆鱗に触れる(全面的な核開発競争や本土決戦を招く)」と判断し、部隊に完全停止を命じた。


一方のアメリカ軍も、国境線を越えてホンジュラスやニカラグアへと逆侵攻する愚は犯さなかった。

「……我々の目的は、本土の防衛だ。この線を守り切ることだけを考えろ。無闇にジャングルの奥へ踏み込めば、ゲリラ戦の泥沼に引きずり込まれるぞ」


1943年8月21日。

グアテマラ国境に引かれた見えない境界線を挟み。

南からの巨大な「赤い津波」と、北からの強固な「青い防波堤」が、完全に真っ向から激突し……そして、一切の動きを停止した。


それは、第二次世界大戦の「熱戦」が終わりを告げ、アメリカとソビエトという二つの超大国が、互いの喉元にナイフを突きつけたまま身動きが取れなくなる、**『冷戦コールド・ウォー』という名の新たな恐怖の時代**が、地球上で初めて明確な形となって現出した瞬間であった。


ジャングルの静寂の中、両軍の兵士たちは塹壕の中から互いの姿を睨みつける。

銃声の代わりに、息の詰まるような「イデオロギーの対立」が、熱帯の空気を極限まで張り詰めさせていたのである。


### 6.エピローグ――見捨てられた黄土の落日へ


アメリカ合衆国が、自らの足元に引かれた『グアテマラ防衛線』に全国家の心臓を縛り付けられ、ソビエトとの息の詰まる睨み合いに完全に釘付けになっていた、1943年8月。


アメリカの目が完全に中南米へと向いたことは、太平洋の向こう側、アジア大陸において、極めて残酷な「もう一つの決着」を促すことになった。


「……アメリカが自国に引きこもり、ソビエトが南米で大成功を収めた。……ということは、もはやあの男に『利用価値』はないな」

モスクワのスターリンは、南米の作戦図から目を離し、ユーラシア大陸の東端――**中国大陸**の地図を冷酷に見下ろした。


アメリカからのレンドリースが途絶え、東と南を親日国家(北中華と南華)に塞がれ、重慶の盆地に孤立していた国民党の蔣介石。

彼がこれまで辛うじて息をつなぐことができていたのは、ソビエト連邦が「日本を牽制するための駒」として、共産党軍の進撃をある程度コントロール(寸止め)していたからであった。


しかし、日本とソビエトが互いの勢力圏を暗黙に認め合い、アメリカという共通の脅威が極東から消え去った今。ソビエトにとって、蔣介石という男はただの「不要なゴミ」へと成り下がってしまったのである。


「……毛沢東に伝えよ。蔣介石の息の根を止め、四川の盆地を赤く染め上げろ、と」

スターリンの冷酷な指令が、中国共産党(八路軍)の前線へと下された。


1943年8月。

世界の覇権構造がアメリカ大陸のジャングルで固定化されようとしていたその裏で。

かつて四億の民を率い、大日本帝国と正面から激突した中華の覇者・蔣介石の、最も凄惨で、最も孤独な『最後の数週間』が、ついにその幕を開けようとしていたのである。


(第十章 第三話 完)


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