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9.アヘンの煙と冷徹なる覚醒

# 海洋帝国日本史 第2章:近代化と内的葛藤


## 第3話:アヘンの煙と冷徹なる覚醒(1838〜1842)


### 1.広東の嘲笑――御庭番「黒鳥」の報告


天保十年(1839年)、清国・広東。

珠江の河口を見下ろす高台に、二人の男が立っていた。一人は英国海軍の将校。もう一人は、長崎の福建商人に変装した、帝国幕府御庭番衆組頭・**村垣範正むらがきのりまさ**である。


眼下では、一方的な「狩り」が行われていた。

英国東インド艦隊の最新鋭鉄製蒸気船「ネメシス号」が、清国水師のジャンク船団を次々と木っ端微塵に粉砕している。清国の旧式大砲は届かず、風上を取ろうとする必死の操船も、蒸気機関の機動力の前では滑稽な踊りに過ぎなかった。


「どうだい、ミスター・ムラガキ。我が国の『掃除機』の威力は」

英国将校が葉巻をくゆらせながらニヤリと笑った。村垣は表情を変えずに答えた。

「悪くない。だが、あの程度のジャンク船なら、我が帝国の『快風丸』でも同じことができますよ。……それにしても、脆い」


村垣の胸中にあったのは、恐怖ではない。**強烈な軽蔑**であった。

(これが中華か。世界の中心と自惚れ、海を閉ざし、古い夢に浸った豚の末路か)


村垣は知っていた。清国の敗因は兵器の差だけではない。

アヘンによって高級官僚から兵卒に至るまで精神が腐敗し、賄賂が横行し、国としての体を成していないのだ。

「それに引き換え、英国は汚いが、流儀がある」

彼らはアヘンという毒を売りつけながら、軍隊の規律は鉄の如く、商人たちは契約を(彼らに有利な形であれ)遵守する。


村垣は懐から手帳を取り出し、走り書きをした。

『清国、見る影もなし。巨体なれど中身は腐肉なり。我が帝国が学ぶべきは、英国の冷徹なる合理性と、国家を一つの巨大な機械として動かすシステムにあり』


この報告書は、長崎の「芸州屋敷(海軍の出先機関)」を経由し、最速のクリッパー船で江戸へと運ばれた。


### 2.江戸城・黒書院の哄笑


報告書が届いた江戸城・黒書院には、重苦しい空気など微塵もなかった。

第12代将軍・**徳川家慶いえよし**を中心に、老中首座・**水野忠邦**、南洋総督兼海軍総裁・**芸州徳川斉順なりゆき**が集まっていた。


「ククク……聞いたか、斉順。あの誇り高き満州八旗が、アヘン中毒の敗残兵となり果てたそうだ」

家慶が報告書を放り投げ、冷ややかに笑った。

「笑止千万。中華の天子などと威張り散らしておきながら、自国の民が毒に犯されるのも止められぬとはな」


芸州斉順が、グラスに注がれたシェリー酒(英国直輸入)を傾けながら応じた。

「まさに反面教師にございます。彼らは『陸』にこだわりすぎた。海を捨てた国は、海から来る嵐に耐えられぬのです」


彼らにとって、英国の勝利は「想定通り」であった。

30年前の日英戦争、そしてその後の使節団派遣を通じて、幕府中枢は英国の実力を骨の髄まで理解していた。

むしろ、彼らの議論の焦点は「清の敗北」ではなく、「英国の速度」にあった。


「問題は、英国の成長速度です」

水野忠邦が真剣な眼差しで地図を広げた。

「彼らは蒸気船だけでなく、鉄道、電信と、次々に新しい血管を国中に張り巡らせております。我が帝国も海軍力では負けておりませぬが、国家の意思決定の速度において、遅れを取り始めております」


「藩、だな」

家慶が短く言った。

帝国の海軍は、すでに幕府直轄の「帝国海軍」として一本化されている。しかし、陸軍はいまだに各藩の寄せ集めであり、徴税権も行政権も分散している。

「英国は、議会と王室が一体となり、世界中から富を吸い上げ、それを即座に次の投資へと回している。それに比べ、我が国は外様大名の顔色をうかがいながら、ちまちまと年貢を集めている。これでは、いずれ追い抜かれる」


「上様、時は来ました」

斉順が進み出た。

「清国がアヘンで沈んでいる今こそ、アジアにおける真の王者は誰か、世界に示す好機。……国家の骨組みを、鋳直すべきでございます」


### 3.徳川財閥の独占と「持つ者、持たざる者」


帝国の近代化を裏で支えていたのは、**「徳川財閥」**であった。

家康以来の禁教政策の「抜け道」として、幕府は欧州(特に英国)との直接交易権を、幕府直轄の商社「徳川興産(後の徳川財閥)」に独占させていた。


ロンドンから届く最新の旋盤、製鉄機械、そしてアームストロング砲の設計図。

これらはすべて徳川の船で運ばれ、幕府直轄の工廠(横須賀、長崎、広島)へと運び込まれた。


一方で、三井や住友といった民間の豪商たちは、歯噛みしていた。

「おい、聞いたか。徳川様はまた英国から蒸気機関車なるものを買い付けたそうだ」

「我々には、南洋の砂糖と羊毛しか扱わせてもらえんのか」


日本橋の三井本家。大番頭は、南洋支店からの報告書を握り潰した。

国内とアジア圏の商売は許されている。しかし、最も利益率の高い「対欧州先端技術貿易」は、徳川家の聖域であった。

この不満が、やがて来る変革期において、彼らを複雑な動きへと駆り立てることになる。だが今はまだ、彼らは幕府という巨大なパトロンに従うしかなかった。


### 4.「帝国国体改造案」――不滅の将軍権力


天保十二年(1841年)。

水野忠邦と芸州家のブレーンたちが極秘裏に作成した**「帝国憲法草案」**が、家慶に提出された。

それは、西洋の民主主義を模倣したものではない。

徳川の支配を、近代的な法体系の中で永遠のものにするための、極めて冷徹な設計図であった。


**第一条:大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス**

(天皇は国家の精神的支柱であり、祭祀の主宰者である。政治権力は持たないが、その権威は絶対である)


**第五条:天皇ハ行政権ヲ将軍ニ委任ス**

(ここが肝である。将軍は、天皇から統治権を預かる「永年執政官プレジデント」と定義される)


**第十条:将軍ノ継承ハ、徳川宗家及ビ将軍府最高顧問会議ノ議決ニヨリ定ム**

「ここが重要にございます」

斉順が解説した。

「英国のように、下々の者が選挙でトップを選ぶなど、言語道断。国家の舵取りは、帝王学を修めた徳川の血筋と、実務を知り尽くしたエリート(将軍府各長)のみが決める。大衆の熱狂に政治を委ねてはなりませぬ」


**第十五条:帝国議会ヲ設置ス**

「では、議会は何のために?」家慶が問う。

「ガス抜きと、利害調整のためです」

水野が答えた。

「上院には旧大名や華族を、下院には地主や豪商を入れます。彼らに『予算審議権』を与え、国政に参加しているという自負を持たせる。しかし、将軍の決定権は議会に優越する。これで、独裁の効率性と、立憲の正当性を両立させるのです」


それは、世界でも類を見ない**「権威主義的立憲君主制」**の誕生であった。

「よし。これでいこう。だが、これを実現するには……」

家慶の目が鋭く光った。

「邪魔な『藩』を消さねばならぬな」


### 5.北方の亀裂と「陸」のもろさ


改革の必要性を決定づける事件が、北の国境で起きた。

樺太サハリンである。


当時、樺太南部には仙台藩や秋田藩の藩兵が警備に当たっていた。しかし、彼らの装備は旧式の火縄銃が関の山で、指揮系統もバラバラであった。

そこに、ロシア帝国の南下圧力がかかる。


天保十三年(1842年)、ロシア海軍の将校が率いる「武装測量隊」が、アニワ湾に上陸。

現地のアイヌ住民を脅し、拠点を築き始めた。

警備に当たっていた某藩の部隊は、恐れをなして報告もせずに後退。その結果、現地の漁場が略奪される事態となった。


これに激怒したのが、函館の北方総督府である。

「藩兵など、案山子かかしにもならん!」

総督府は、直ちに幕府直轄の「海兵隊マリーン」を派遣。

最新のゲベール銃と、英国仕込みの近接戦闘術を持つ海兵隊は、ロシア兵をわずか半日で制圧・武装解除した。


この事件は、幕府中央に衝撃を与えた。

「海軍と海兵隊は、世界レベルにある。だが、陸軍(各藩の兵)はどうだ?」

水野忠邦は、諸大名を集めた席で、ロシア兵から没収したライフル銃を突きつけた。

「貴殿らの家臣は、槍と刀で、この連発銃に勝てるのか? 国を守る気概があるなら、その兵権と領地を、公儀(帝国政府)に返上すべきではないか!」


これが、事実上の**「廃藩置県」**の予告であった。


### 6.「海洋国家」への脱皮


1842年末。

アヘン戦争の終結(南京条約)を見届けた帝国は、大転換へのアクセルを踏み込んだ。


幕府は、英国との間で新たな通商協定を結ぶ。

**「日英技術供与協定」**

日本は英国に対し、清国情勢の詳細な情報(御庭番のネットワーク)を提供する。

その見返りとして、英国は日本に対し、最新の蒸気機関車、通信機、そして「近代陸軍の教官」を派遣する。


ロンドンのシティでは、日本の評価はうなぎ登りであった。

「中国人は過去に生きているが、日本人は未来を見ている」

「彼らは我々と同じ匂いがする。海の匂いだ」


一方、国内では嵐の予感が漂っていた。

「廃藩置県」の噂を聞きつけた外様大名たち――薩摩の島津、仙台の伊達、加賀の前田――は、密かに会合を重ねていた。

「徳川は、我々をただの『金持ちの平民』にする気だ」

「武士の魂を、英国の機械に売り渡すつもりか」


彼らは、改革に反対する「守旧派」ではない。むしろ、彼らもまた独自に密貿易を行い、力を蓄えていた「抵抗勢力」であった。

彼らが恐れたのは、近代化そのものではなく、**「徳川家による近代化の独占」**であった。


「徳川の専制を許すな。天皇の下に、列藩会議(大名による連合政府)を作るべきだ」

この思想が、やがて「維新戦争」という内戦の火種となる。


しかし、歴史の歯車はもう戻らない。

横浜のドックでは、芸州徳川家が発注した、排水量3000トン級の新型装甲フリゲート艦「扶桑」のキール(竜骨)が据えられようとしていた。

その鋼鉄の輝きは、もはや江戸時代のそれではない。

近代帝国の産声であった。



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