86.無謀なる反転攻勢とバルカンの防波堤――鉄の雨と裏切りの連鎖
# 海洋帝国日本史 第九章:赤きヒグマの台頭と新枢軸の崩壊
## 第四話:無謀なる反転攻勢とバルカンの防波堤――鉄の雨と裏切りの連鎖(1943年3月前半)
### 1.狂人の賭け――ルール長距離爆撃計画(1943年3月上旬)
1943年3月上旬。
長く厳しい冬の雪が溶け始め、ヨーロッパの大地が再びぬかるんだ泥濘へと姿を変えつつあった頃。
フランス南部の臨時首都マルセイユ、そしてフランス中部で泥沼かつ終わりの見えない戦いに巻き込まれているアメリカ陸軍司令部には、極度の焦燥と絶望が充満していた。
大西洋艦隊が壊滅し、海からの補給線が不安定になって数ヶ月。彼らの弾薬庫は底を突きかけ、兵士たちの士気は飢えと寒さによって崩壊寸前にあった。
「……このまま座して死を待つわけにはいかん。何としても、膠着状態を打破する劇的な一撃が必要だ!」
フランス国家主席ルクレールは、血走った目で地図上のドイツの心臓部を指差した。
**『ルール工業地帯』**。
石炭と鉄鋼を産出し、クルップ社をはじめとするドイツの巨大軍需工場が密集する、文字通りの第三帝国の「心臓」である。
「残存するフランス空軍の全爆撃機と、アメリカ陸軍航空軍のB-17重爆撃機をすべてかき集めろ! ルールを火の海にし、ドイツの兵器生産能力を根底から消滅させるのだ!」
それは、軍事的な合理性を完全に欠いた「狂人の賭け」であった。
長距離爆撃を行えば、護衛の戦闘機は航続距離の限界で随伴できず、爆撃機部隊は丸裸で敵地上空に突入することになる。
しかし、補給路の小さな米仏連合軍にとって、もはや「空からの一撃」以外に、ドイツ軍に一矢報いる手段は残されていなかったのである。
### 2.鋼鉄の防空陣地――高射砲塔の威容
1943年3月X日、早朝。
フランス中部の飛行場から、数千発の爆弾を満載したアメリカ軍の『B-25』と、フランス軍の双発爆撃機の大群が、空を黒く染め上げてドイツ国境へと飛び立った。
その数、およそ五百機。米仏同盟の残されたすべての航空戦力であった。
「……目標、ルール工業地帯! ドイツの工場を一つ残らず灰にしてやる!」
アメリカ軍のパイロットたちは、酸素マスク越しに荒い息を吐きながら、ライン川の向こう側へと侵入した。
しかし、彼らを待ち受けていたのは、無防備な工場地帯などではなかった。
「……ネズミどもが、まんまと罠に飛び込んできたぞ。全砲門、迎撃用意」
ドイツの防空司令部で、将校が冷徹に命令を下した。
ドイツ軍は、米仏軍が窮余の策として長距離爆撃に出ることを完全に予測していた。ルールの主要都市の周囲には、コンクリートで固められた巨大な要塞――**『高射砲塔』**が幾つもそびえ立っていたのである。
ズドゴォォォォォォン!! ドドドドドッ!!!
空を覆う爆撃機編隊がルールの空域に侵入した瞬間、大地が割れるような轟音と共に、数千門の『8.8センチ高射砲』と多連装対空機関砲が、一斉に火を噴いた。
空は瞬く間に、黒い高射砲弾の破裂煙で埋め尽くされ、文字通りの「死の壁」が形成された。
「対空砲火が濃すぎる! まるで空中に機雷が敷き詰められているようだ!」
アメリカ軍のB-25が、分厚い弾幕に突っ込み、次々と主翼をへし折られて火だるまになっていく。
### 3.死の急降下――ルフトヴァッフェの逆襲
さらに、米仏の爆撃機部隊にトドメを刺したのは、上空で獲物を待ち構えていた「空の狩人」たちであった。
「アハトゥンク(気をつけろ)! 敵の戦闘機だ! 上から来るぞ!」
雲の切れ間から、太陽を背にして急降下してきたのは、ドイツ空軍が誇る主力戦闘機『フォッケウルフ Fw190』と『メッサーシュミット Bf109』の迎撃部隊であった。
護衛戦闘機を持たないB-17とフランス爆撃機は、彼らにとってただの巨大な的でしかなかった。
ドロロロロロロ……!
Fw190の20ミリ機関砲が、防御火器の死角を突いて無慈悲に火を噴く。
エンジンから黒煙を噴き上げたB-17が、次々とスピンに陥り、ルールの冷たい大地へと墜落していく。空を舞うパラシュートの数は、雪のように空を白く染めた。
「……駄目だ! 爆撃地点に到達する前に、部隊が壊滅する! 退却だ、爆弾を捨てて引き返せ!!」
悲鳴のような撤退命令が下されたが、後の祭りであった。
出撃した約五百機の爆撃機のうち、フランス中部やアイルランドの基地に奇跡的に生還できたのは、わずか三割に満たなかった。
**損耗率、70%。**
航空戦の歴史において「全滅」を意味するこの絶望的な数字は、アメリカとフランスの航空戦力がヨーロッパにおいて『完全に息の根を止められた』ことを意味していた。
実際にはルール工業地帯に対して一定のダメージを与えたことは間違いなく、特にドルトムント市の被害は大きかったが、それも全体の被害で見れば軽微であるし、米仏側の被った被害の方が圧倒的に多いと言える。
反転攻勢の夢は、ルール上空の無惨な鉄屑となり、ルクレールの狂気は完全にその手足を檟がれたのである。
### 4.老狐の尻尾――イタリア情報機関の感知(1943年3月中旬)
一方、ヨーロッパの南、地中海の覇者たるイタリア・ローマ。
バルカン半島の要塞化を急ぎ、ソビエトの影に怯える独裁者ムッソリーニの元に、イタリア軍情報部(SIM)から極秘の報告書が届けられていた。
「……なんだと? スペインの特使が、極秘裏に大日本帝国の東京を訪れているだと?」
報告書を読んだムッソリーニは、驚愕のあまり葉巻を床に落とした。
「間違いありません。我が国の情報員が、スイスの外交ルートを通じて確認しました。……フランコ将軍は、アメリカとフランスの敗北を確信し、枢軸同盟を離脱して日英独との『単独講和』を結ぶ裏工作を進めております」
ムッソリーニの顔が、怒りから次第に青ざめた恐怖へと変わっていった。
「あのイベリアの老狐め……! 我々を出し抜いて、自分だけ無傷で生き残る気か!」
スペインが裏切れば、ただでさえ息も絶え絶えのフランスは一瞬で崩壊する。そして、地中海におけるイタリアの権益も、スペインとイギリスによって挟み撃ちにされ、完全に孤立してしまう。
「……だが、フランコがそう動くのなら。我々も泥舟と心中する義理はない」
ムッソリーニは、自らのプライドと「新ローマ帝国」の妄想を、ここでついに完全に現実的な生存戦略へと切り替えた。
「アフリカと中東で得た権益(領土)だけは確保する。その上で、大日本帝国やイギリスに対して最大限の譲歩を行い、講和の道を探るのだ! ……我々の真の敵は、アメリカでもイギリスでもない。今まさにバルカンを飲み込もうとしている、あの赤い悪魔なのだからな!」
イタリアは、ついにアメリカとフランスという「死に体の同盟国」を完全に見捨て、自らの生き残りと『対ソビエト防衛』への全振りという、究極の掌返しを決断したのである。
### 5.マケドニアの赤い雪――ソビエトとの直接衝突(1943年3月下旬)
イタリアが必死の外交工作に乗り出したその直後、彼らの危惧していた「最悪の事態」が、ついに現実のものとなった。
1943年3月下旬。
ブルガリアを無血で通過したソビエト赤軍の西進部隊が、バルカン半島の中央部――ギリシャとユーゴスラビアの国境地帯である**『マケドニア地方』**へとその巨大な軍靴を踏み入れた。
そこは、イタリア軍が急ピッチで構築していた「バルカン対共産防衛線」の最前線であった。
「……来たぞ! アカの戦車だ! 撃てェェッ!!」
マケドニアの険しい山岳地帯に築かれたイタリア軍のトーチカから、対戦車砲と重機関銃が火を噴く。
しかし、ソビエト赤軍の将兵たちは、命の価値など微塵も感じていないかのように、雪崩のようにイタリア軍の陣地へと突撃してきた。
「ウラー!! ファシストの豚どもを地中海へ追い落とせ!」
T-34戦車の分厚い傾斜装甲がイタリア軍の砲弾を弾き返し、カチューシャ・ロケットの雨がイタリア兵の塹壕を吹き飛ばす。
イタリア軍は、かつてオーストリア・アルプスで中欧連合に惨敗した時以上の、絶対的な「物量の恐怖」に直面していた。
「駄目です! 防衛線が持ちこたえられません! 敵の数が多すぎます!」
「死守しろ! ここを抜かれれば、アルバニアからイタリア本土まで一直線だぞ!」
マケドニアの雪解けの泥土は、イタリア兵とソビエト兵の血でドロドロの赤色に染め上げられた。
ファシズムと共産主義。決して相容れない二つのイデオロギーによる、凄惨極まる「真の殺し合い」が、ついにバルカン半島で直接火花を散らし始めたのである。
### 6.エピローグ――裏庭の赤い火種
ヨーロッパと中東が、裏切りとソビエトの恐怖によって完全にカオスに陥っていた頃。
アメリカ合衆国・ワシントンD.C.のホワイトハウスでは、病魔に蝕まれたルーズベルト大統領が、ハワイからの絶望的な報告に頭を抱えていた。
「……ハワイ・エクスプレスの輸送船が、また五隻沈められただと? オアフ島のアメリカ兵は降伏し、マウイ島も陥落……。残るはハワイ島だけか」
大西洋艦隊を失い、海軍力が事実上崩壊しているアメリカにとって、太平洋の彼方へ無数の船団を送り続けることは、もはや国家の血管から直接血を抜き続けるような自殺行為であった。
「……大統領。もはや決断の時です。『ハワイ諸島の完全放棄』と、西海岸の本土迎撃作戦(要塞化)へと移行しなければ、我が国は持ちません」
統合参謀本部の悲痛な進言に、ルーズベルトは力なく頷くしかなかった。
しかし。
彼らが「本土だけは守り抜く」と決意を固めたその足元、アメリカが最も安全だと信じ切っていた「絶対的な裏庭」で、ルーズベルトの心臓を止めるに等しい、恐るべき事態が進行していたのである。
1943年3月末。南米・**アルゼンチン**。
首都ブエノスアイレスの巨大な広場を、数十万の労働者と農民たちが、赤い旗を掲げて埋め尽くしていた。
「ヤンキーの帝国主義を打倒せよ! 我らの血と汗を搾取する白人資本家どもを追い出せ!」
彼らの背後で糸を引いていたのは、ソビエト連邦KGB(NKVD)の極秘工作員たちであった。スターリンが数ヶ月前から蒔いていた「共産主義革命」の種が、アメリカが戦争に気を取られている隙に、一気に発芽したのである。
「大統領!! アルゼンチンで労働組合の武装蜂起が発生! 政府が倒され……親ソビエトの『アルゼンチン人民共和国』の樹立が宣言されました!!」
「……な、なんだと!?」
ルーズベルトは車椅子から立ち上がろうとし、そのまま激しく咳き込んで倒れ伏した。
ヨーロッパの泥沼、太平洋の敗北。
そしてついに、アメリカ大陸という自らの「不可侵の裏庭」にまで燃え広がった、赤い革命の炎。
合衆国の狂乱は、いよいよ国家機能そのものを麻痺させる、極限のパニックへと突入していくのである。
(第九章 第四話 完)
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