85.崩れゆく花の都と伝説の遺言――巨星墜つ
# 海洋帝国日本史 第九章:赤きヒグマの台頭と新枢軸の崩壊
## 第三話:崩れゆく花の都と伝説の遺言――巨星墜つ(1943年2月後半)
### 1.滅びへの足音――フランス軍内部の反逆(1943年2月下旬)
1943年2月下旬。
ヨーロッパ全土を覆っていた記録的な大雪が小康状態を見せ始めると、凍りついていた仏独戦線の泥沼が、再び重苦しい血の臭いを放ち始めた。
フランス中部、ロワール川流域からヴィシーへと続く『中部新防衛線』。
首都パリと北部の工業地帯をドイツ軍に奪われたフランス軍は、臨時首都マルセイユのルクレール国家主席からの狂気じみた「死守命令」を受け、塹壕の中で泥と血にまみれながら抵抗を続けていた。
しかし、その防衛線はすでに「国家の力」で維持されているものではなかった。
「……弾薬の箱に、イタリア語とスペイン語が書かれているな」
最前線の塹壕で、フランス軍の将校が空箱を蹴り飛ばして自嘲気味に笑った。
フランスはすでに、**国家の工業生産力の80%以上を完全に喪失**していた。大西洋の港を失い、アメリカからのレンドリースも途絶えた今、フランス大陸軍を辛うじて生かしているのは、イタリアとスペインからの「経済・軍事支援(施し)」のみであった。
(しかもスペインのフランコ将軍は、フランスをドイツの盾として限界まで使い潰すために、生かさず殺さずの「わざと」の支援を行っていたのである。)
「……誇り高き大フランス軍が、マカロニ野郎とイベリアの老狐の残飯で戦わされているというのか」
将校たちの顔には、ドイツ軍への恐怖よりも、自国をこんな無惨な姿にまで追い込んだ「最高指導者」に対する底知れぬ憎悪が宿り始めていた。
「ルクレールは狂っている。奴は自らをナポレオンと錯覚し、無謀にもイギリスとドイツの二正面作戦を強行した。その結果がこの惨状だ」
「ああ。このままルクレールの狂気に付き合えば、フランスという国家そのものが地図から完全に消滅するぞ……」
吹雪の止んだ夜。
フランス軍の中枢、いくつかの師団司令部の幕舎の中で。
愛国心に駆られた一部の将校たちが、ルクレールを排除し、ドイツとの単独講和を画策する『反乱の機運』が、極秘裏に、しかし発火点ギリギリの熱量で広がり始めていたのである。
### 2.恐怖の防波堤――イタリアの要塞化(1943年2月下旬)
フランスが内側から腐り落ちようとしていた頃、彼らに「施し」を与えていたはずのイタリアもまた、極度の恐怖に震え上がっていた。
「……バルカン半島を要塞化しろ! コンクリートの壁を万里の長城のように築き上げ、一匹のネズミも通すな!!」
ローマのムッソリーニは、地図上のバルカン半島に狂ったように赤い線を引いていた。
東ヨーロッパを飲み込んだソビエト赤軍の「赤い雪崩」は、ルーマニアとブルガリアを完全に支配下に置き、今やイスタンブールでトルコ軍の最終防衛線を削り取っている。
「トルコが落ちれば、奴らは必ずバルカンへ来る! セルビア、マケドニア、そしてギリシャ北部に及ぶ『大規模な要塞線』を構築しろ!」
イタリア軍は、中東でのアメリカとの協調や、パレスチナでの戦闘を完全に放り出し、自国の喉元であるバルカン半島の防衛に全資源を注ぎ込み始めた。
ムッソリーニがここまで焦燥していた理由は、ソビエトの恐怖だけではない。
「……頼みの綱のアメリカは、太平洋でジャップに空母を全滅させられ、ハワイのオアフ島まで奪われたというではないか! トルコとの戦争の時も我々を見捨てたヤンキーどもが、ソビエトから我々を守ってくれる保証など、どこにもないのだ!」
太平洋で敗北を重ねるアメリカへの決定的な不信感。
そして、無尽蔵の戦車を送り出してくるソビエトへの絶対的な恐怖。
枢軸同盟の結束は、もはや紙切れ以下の価値しか持たず、イタリアは生き残るための「別の一手(裏切り)」を深刻に模索し始めていた。
### 3.帝都の落日――明石元二郎の死の床(1943年2月X日)
同じ頃、大日本帝国の帝都・東京。
ヨーロッパと中東が混沌の極みにある中、帝国の心臓部である霞が関・将軍府の奥深くの豪邸に、重苦しく、そして厳粛な静寂が漂っていた。
「……皆様、伯爵がお呼びです」
静かな襖の奥から、医師が沈痛な面持ちで姿を現した。
広大な和室の奥。最高級の絹の布団に横たわっていたのは、齢79を迎え、今まさにその生涯の幕を下ろそうとしている帝国インテリジェンスの伝説的巨星――**明石元二郎伯爵**であった。
(※史実では1919年に没した彼であるが、この世界線においては帝国の謀略の頂点として長寿を保ち、大戦の裏側で暗躍し続けていた。)
枕元を取り囲むのは、内閣総理大臣、軍令部総長、そして『秘密情報部(御庭番)』『国防総省情報総局』『特別高等警察局』という、帝国の三大情報機関のトップたちである。
「……皆、よく来てくれたな」
明石の顔は痩せこけ、呼吸は浅かったが、その眼光だけは、かつて日露戦争の裏側でロシア帝国を内部崩壊させた時と同じ、恐ろしいほどの鋭さと知性を保っていた。
「伯爵……将軍家より、特使がお見えになっております」
総理大臣が恭しく告げると、明石は微かに破顔した。
「……将軍閣下には、身に余る深い寵愛と、伯爵の位まで賜りました。この明石、祖国と将軍家のためにすべてを捧げた我が人生に、何一つの悔いもございません、と……そうお伝えくだされ」
明石は、自らの人生を回想した。
血なまぐさい謀略、暗殺、そして大国の指導者たちを意のままに操った数々の影の戦争。彼が流した見えない血の海の上に、今の大日本帝国という「太陽の沈まない影の帝国」が築き上げられている。
「……私の最期の仕事だ。よく聞け、帝国の頭脳たちよ」
明石の言葉に、情報機関のトップたちが一斉に居住まいを正した。
「ハワイを落とし、ヤンキーどもの息の根は止まりかけている。だが、ルーズベルトなどただの騒がしい狂犬に過ぎん。……我々が真に恐れ、対峙しなければならない『究極の敵』は、あのユーラシアの奥深くで、音もなく世界を赤く染め上げようとしている男……ヨシフ・スターリンだ」
明石は、激しく咳き込みながらも、言葉を紡いだ。
「ソビエトの野望は、資本主義と帝国主義の完全なる破壊だ。奴らはアメリカと我々が戦い、互いに疲弊し切ったところに、あの無尽蔵の赤軍を雪崩れ込ませる気だ。……対米戦略としては、ヤンキーとソビエトを戦わせて共倒れさせるのが最善の策。しかし……帝国の国家戦略における『最高警戒目標』は、本日からアメリカではなく、ソビエト連邦に変更せよ」
それが、半世紀にわたり世界の闇を支配した男の、恐るべき先見の明であった。
「……マカロニ(イタリア)がソビエトの影に怯えているはずだ。そこを突け。……大日本帝国の更なる繁栄と、我が子や孫たちの生きる時代が、赤きヒグマの牙に引き裂かれぬよう……頼んだ、ぞ……」
1943年2月X日。
大日本帝国の最強の盾であり、最も鋭い影の刃であった明石元二郎伯爵は、祖国の未来を想いながら、静かに、そして安らかに息を引き取った。
### 4.受け継がれる字訓と黙祷
明石元二郎、逝く。
その訃報は、大日本帝国全土に衝撃をもって伝えられた。
「……明石伯爵が、お隠れになった」
大日本帝国の国営ラジオ放送が、通常の番組をすべて中止し、厳粛な葬送曲と共にその死を報じた。
彼は「影の存在」であったが、その功績のあまりの巨大さゆえに、国民の中でも彼の名と伝説を知る者は多かった。正午を告げるサイレンと共に、帝都・東京をはじめとする日本中の街角で、数千万の臣民が足を止め、偉大なる巨星の最期に深い哀悼の黙祷を捧げた。
そして、その死を誰よりも深く悲しみ、また誇りに思ったのは、世界中で暗躍する「帝国の情報機関員」たちであった。
霞が関の『秘密情報部』本部の長官室。
防衛省の『国防総省情報総局』。
そして内務省の『特別高等警察局』。
帝国の治安と謀略を担うすべての機関の最も神聖な壁に、明石が生前に残した『字訓(座右の銘やスパイとしての極意)』を記した掛け軸が、黒いリボンと共に飾られていた。
アメリカの裏庭で暗躍する者、ヨーロッパの泥沼で情報を集める者、そしてハワイで王女を警護する者。
世界中に散らばる数万のインテリジェンス・オフィサーたちが、訃報を受け取ったその瞬間、誰に見られることもなく、心の内で「最も深い敬礼」を捧げた。
『伯爵。貴方の残した影の帝国は、我々が必ず守り抜きます』
### 5.反ソビエト戦略へのシフト――イタリアへの接触
明石の死は、決して大日本帝国の「情報戦の敗北」を意味しなかった。
むしろ、彼が遺した強烈な「対ソ警戒(反ソビエト戦略)」の遺言は、帝国の国家方針を決定的に、そして冷徹に転換させたのである。
「伯爵の遺言通りだ。アメリカとの戦争は早期講和の道を探りつつ、真の脅威であるソビエトの南下を物理的・政治的に封じ込める」
東京の首脳陣は、直ちに水面下での行動を開始した。
その第一の標的となったのが、バルカン半島でソビエトの脅威に震え上がっている『イタリア』であった。
「ムッソリーニは、アメリカを見限りかけている。そしてソビエトを極度に恐れている」
帝国の情報機関は、スイスの中立地帯を通じて、イタリア政府の高官と極秘裏に接触を果たした。
「……大日本帝国は、貴国のバルカン半島における正当な防衛の権利を支持する。もし貴国が枢軸同盟(米仏)という泥舟から降り、我が国やイギリスと手を結ぶのであれば……我々は『対ソビエト防衛』において、貴国に最大の協力(裏支援)を惜しまないだろう」
日本の提案は、恐怖に駆られたイタリアにとって、まさに地獄に垂らされた蜘蛛の糸であった。
「……アメリカに捨てられ、フランスと共に心中するか。それとも、かつての敵(日英)と手を結び、赤い悪魔から国を守るか……」
1943年2月後半。
明石元二郎という一人の天才の死と遺言が引き金となり。
機能不全に陥っていた枢軸同盟は、大日本帝国の「見えない糸」によって、その首の皮を完全に切断されようとしていたのである。
(第九章 第三話 完)
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