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8.ロンドンの回転ドア

# 海洋帝国日本史 第2章:近代化と内的葛藤


## 第2話:ロンドンの回転ドア(1813〜1838)


### 1.敗者なき凱旋と、新たな船出


文化十年(1813年)末。インド洋での海戦と講和を終えた芸州徳川斉朝なりともは、一旦バタヴィア(ジャカルタ)へ寄港した後、驚くべき決断を下した。

「これより本国へは戻らぬ。余は、このままロンドンへ向かう」


幕僚たちは騒然とした。将軍の許可なき渡欧は、本来ならご法度である。

しかし、斉朝は冷静だった。

「講和条約のインクが乾く前に、敵の本拠地を見極める必要がある。それに、英国側も『帝国の貴人を招待したい』と言っておる。これは外交儀礼だ」


こうして、帝国史上初の**「遣欧使節団」**が編成された。

旗艦は、修理を終えた「快風丸」。護衛には、なんと先日の敵であった英国海軍の戦列艦「ヴァンガード」がついた。

マストには、徳川の「葵の御紋」と英国の「ユニオンジャック」が並んで翻る。それは、東洋と西洋の二大海洋国家が、手を組んだ象徴的な光景であった。


### 2.色あせた三色旗トリコロール


航海の途中、斉朝たちは「世界の現実」を目撃することになる。

補給のために立ち寄ったケープタウン(南アフリカ)。そこはかつてオランダの植民地であったが、港を管理していたのは赤い制服を着た英国兵であった。


「オランダの旗が見当たらぬな」

斉朝の呟きに、随行していたオランダ通詞は悔しげに唇を噛んだ。

「……ナポレオン戦争の混乱で、本国はフランスに、海外領土はイギリスに接収されました。今のオランダは、イギリスの慈悲によって生かされているに過ぎませぬ」


さらにセントヘレナ島を経て、欧州海域に入ると、その傾向は顕著になった。

海を行き交う船の十隻に八隻は英国船。オランダ船は、ボロボロの帆を張り、英国船の陰に隠れるように航行していた。

かつて長崎の出島で「世界最強の海運国」と教えられた師の姿は、そこにはなかった。


斉朝は、甲板で日記にこう記している。

『花は散ったのだ。阿蘭陀オランダという花は枯れ、今は大英帝国という巨大な樫の木が世界を覆っている。我らは、枯れ木に寄り添うていては共倒れになる』


この冷徹なリアリズムこそが、後の帝国の外交方針を決定づけた。


### 3.霧の都と「産業」の怪物


1814年夏。使節団はロンドン、テムズ川に入港した。

彼らを迎えたのは、美しい宮殿ではなく、**「黒いスモッグ」**と**「轟音」**であった。


「火事か!?」

侍たちが刀に手をかける。しかし、それは火事ではなかった。無数に林立する工場の煙突から吐き出される煤煙であった。

川面は黒く汚れ、その上を蒸気船が行き交い、岸辺には見たこともない鉄のレールが敷かれ、蒸気機関車が石炭を満載して走っていた。


「これが、産業革命……」

斉朝は言葉を失った。

日本の平賀源内が作った「火輪機」は、あくまで職人が一台ずつ手作りする「工芸品」であった。しかし、ここでは機械が機械を作り、規格化された製品が山のように積み上げられていた。


英国外相カースルレーとの会談は、ウェストミンスター宮殿で行われた。

カースルレーは、極東の提督に対し、丁重だが傲慢な提案をした。


「徳川殿。世界は広い。我々英国が七つの海を管理するには、パートナーが必要です。貴国がロシアの南下を食い止め、アジアの航路を安定させるなら、我々は貴国に最新の『産業』を売りましょう」


斉朝は即答した。

「商談成立だ。ただし、我々は貴国の属国にはならぬ。対等な友人として、技術を買わせていただく」


ここに、**「第一次日英協商」**が成立する。

日本はオランダとの友好を維持しつつも、国家のモデルを「オランダの商法」から「イギリスの産業・議会制度」へと大きく舵を切ることになった。


### 4.北の脅威と「蝦夷地」の要塞化


一方、斉朝が欧州を見て回っている間、日本本国では「北の脅威」が現実のものとなっていた。

ロシア帝国である。


文化露寇(1804〜1807年)以降、ロシア船は頻繁に蝦夷地(北海道)や千島列島に出没し、薪水を求め、時には漁民を拉致していた。

さらに、捕虜となったゴローニンから得た情報は、幕府を震撼させた。

「ロシア皇帝は、不凍港を求めて南下政策を推し進めている。いずれ蝦夷は飲み込まれる」


1818年、帰国した斉朝の報告を受けた第11代将軍・徳川家斉は、老中・水野忠邦(天保の改革より少し早い登用)に対し、北方の抜本的改革を命じた。


**「松前藩から蝦夷を取り上げよ。あそこはもはや、一藩で守れる土地ではない」**


文政四年(1821年)、幕府は蝦夷地全土を**「幕府直轄領(天領)」**とし、松前藩を本州へ移封させた。

そして、函館に**「北方総督府」**を設置。

初代総督には、樺太探検で名を馳せた間宮林蔵が技術顧問として就任し、実務は水戸藩出身の烈公・徳川斉昭の側近たちが担った。


「北の海は、南洋とは違う。寒さと餓えとの戦いだ」

幕府は、東北諸藩に対し、農民ではなく「屯田兵」としての入植を命じた。

函館山には、ロンドンで斉朝が買い付けた設計図を元に、星型要塞(後の五稜郭の原型)がいち早く建設され、その砲門は北の海を睨みつけた。


### 5.技術移転と「からくり」の終焉


1820年代から30年代にかけて、日本国内では静かなる革命が進行していた。

斉朝が持ち帰ったのは、蒸気機関の模型だけではなかった。

「紡績機」と「旋盤(工作機械)」である。


これまで、日本のものづくりは「名人芸」に頼っていた。

しかし、斉朝は英国の工場で見た光景を、帝国の職人たちに説いた。

「名人が一人で百を作るのではない。百人が、誰でも同じ品質のものを一万作る。それが『工業』だ」


佐賀藩の鍋島直正や、薩摩の島津斉彬といった、外洋へのアクセスを持つ「蘭癖らんぺき大名」たちは、こぞって英国式の反射炉やガラス工場を建設し始めた。

幕府もこれを黙認した。いや、推奨した。

「北のロシア、南のイギリス(友とはいえ油断ならぬ相手)。これに対抗するには、国全体の底上げが必要だ」


江戸の町工場では、からくり人形師たちが、その指先を「蒸気機関のバルブ調整」へと転用し始めていた。

日本人の器用さと、英国の理論が融合し、独自の技術体系が醸成されていく。


### 6.歴史の窓:パックス・ブリタニカと日本


1838年、世界は「パックス・ブリタニカ(イギリスによる平和)」の絶頂期にあった。

しかし、その平和は、アジアにとっては「アヘンの煙」と共に崩れ去ろうとしていた。


隣国・清(中国)では、イギリス商人が持ち込んだアヘンが蔓延し、銀が流出、国家の屋台骨が腐り始めていた。

帝国日本の諜報機関「長崎奉行所・別室」は、この情報をいち早くキャッチしていた。


「イギリスは、友の顔をして麻薬を売る」


幕府内では、親英派の芸州家と、攘夷派の水戸家が激しく対立していたが、共通していた認識が一つある。

**『清国は、長く持たない』**


帝国の為政者たちは、オランダの没落と、清国の腐敗を「他山の石」として、来るべき激動の時代(アヘン戦争と維新)への準備を整えていたのである。


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**【歴史の窓】オランダ通詞の涙**


遣欧使節団に同行したオランダ通詞、本木正栄もときまさひでの日記が残されている。

彼はロンドンで、かつての宗主国オランダが、イギリスの外交官に卑屈に頭を下げる姿を見て涙したという。

『学問の父と思っていた国が、実はただの没落貴族であった。我々は、父を乗り越えねばならぬ。たとえそれが、父を見捨てることになろうとも』

帰国後、彼は「蘭学」ではなく「英学」の必要性を説き、日本初の英語辞書の編纂に着手する。

冷徹な国家理性の裏には、個人の葛藤と決別があったのである。



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