67.落日の運河と極東の盾――スエズ撤退戦と地中海の密約
# 海洋帝国日本史 第七章:Memorial Day――欧州大戦の勃発
## 第七話:落日の運河と極東の盾――スエズ撤退戦と地中海の密約(1941年12月25日〜28日)
### 1.クリスマスの絶望――スエズ運河防衛戦(12月25日)
1941年12月25日。世界がキリストの降誕を祝う聖なる日。
しかし、エジプトの灼熱の砂漠に、神の慈悲は存在しなかった。
地中海艦隊がアレクサンドリアを放棄し、スエズ運河を通って紅海へと敗走を始めたのと時を同じくして。
西の砂漠から怒涛のごとく押し寄せてきたアメリカ・イタリア連合陸軍の機甲師団が、ついに大英帝国の中東における心臓部――**スエズ運河**の西岸へと到達したのである。
「撃て! ヤンキーのシャーマン戦車を運河に近づけるな!」
スエズ運河の入り口、イスマイリア周辺の防衛線。
イギリス中東軍の残存部隊は、砂にまみれたマチルダ歩兵戦車と2ポンド対戦車砲を並べ、絶望的な防衛戦を展開していた。
彼らの背後(運河)では、アレクサンドリアから逃れてきたイギリス艦隊の巡洋艦や駆逐艦が、黒煙を上げながら南の紅海(インド洋方面)へと必死に下っている最中であった。
もしここで防衛線が突破されれば、運河の土手からアメリカ軍の戦車砲が直接イギリス艦隊を狙い撃ちにすることになり、艦隊は狭い水路の中で完全に全滅(あるいは拿捕)の憂き目に遭う。
「艦隊が完全に抜け切るまで、あと三日はかかる! それまで何としてもここを死守するのだ!」
イギリス軍の指揮官は、砂嵐と砲煙の中で叫んだ。
しかし、アメリカ軍のM4シャーマン戦車の75ミリ砲と、空を覆うP-40ウォーホーク戦闘機の機銃掃射は、イギリス軍の陣地を容赦なく削り取っていく。
「……司令官。我が軍の弾薬はすでに底を突きかけています。このままでは、三日と持ちません」
参謀の悲痛な報告に、指揮官は唇を噛み締めた。
イギリス陸軍もまた、艦隊の撤退を見届けた後、海路で東のソコトラ島(イエメン沖)やインド方面へ脱出しなければならない。しかし、全軍を無事に逃がすためには、誰かがこの地獄の防衛線に残り、アメリカの大軍の足止めをしなければならなかった。
### 2.ユニオンジャックの誇り――殿部隊の覚悟(12月26日〜27日)
12月26日、夜。
砲撃が一時的に止んだ冷たい砂漠の塹壕で、イギリス陸軍のある連隊(例えば誇り高きハイランダー連隊や近衛歩兵連隊の分遣隊)の将校たちが、ランプの灯りを囲んで集まっていた。
「……本隊の撤退準備が整いつつある。しかし、アメリカ軍は明日の夜明けと共に総攻撃を仕掛けてくるだろう」
連隊長は、泥と血で汚れた軍服の襟を正し、部下たちを静かに出直した。
「誰かが残り、奴らの進撃を食い止めねばならない。……我々が、その『殿』を務める」
その言葉の意味するところは、一つしかなかった。
**「玉砕」**である。退路を断ち、弾薬が尽きるまで戦い、最後は白兵戦で全滅する。それによって稼ぎ出す数時間、あるいは一日という時間が、数万のイギリス本隊と海軍の命を救うのだ。
「……連隊長。我々は大英帝国の軍人です。国家とこの軍旗のために死ぬことほど、名誉なことはありません」
若い将校が、ボロボロになったユニオンジャック(英国旗)を見つめながら、静かに、しかし力強く頷いた。
誰一人として、死の恐怖に怯える者はいなかった。彼らの胸にあるのは、数百年世界を支配してきた大英帝国の「伝統」と「誇り(プライド)」、そしてノブレス・オブリージュの精神だけであった。
翌12月27日、夜明け。
アメリカ軍の総攻撃が開始された。無数のシャーマン戦車が砂煙を上げて迫る中、残された数百名のイギリス兵たちは、塹壕から一歩も引かずに猛烈な射撃を開始した。
「ヤンキーどもに、イギリスの意地を見せてやれ!!」
対戦車砲の弾が尽きれば、彼らは手榴弾と地雷を抱えて戦車の無限軌道に飛び込んだ。
火炎放射器で焼かれながらも、彼らは決して降伏の白旗を揚げなかった。防衛線の中心には、砲風で千切れかけたユニオンジャックが、最後まで誇り高く翻っていた。
彼ら「殿部隊」の壮絶な自己犠牲によって、アメリカ軍の進撃は丸一日完全に足止めされた。
そしてその間に、スエズ運河の南端(スエズ港)では、奇跡のような「撤退劇」が繰り広げられていたのである。
### 3.極東からの民間船団――海運企業たちの奮闘(12月27日)
スエズ港。
アメリカ軍の砲弾が遠くで響く中、港には信じられない光景が広がっていた。
「急げ! 負傷兵を先に乗せろ! 武器は海へ捨てても構わん、命だけを持って船へ乗るんだ!」
数万のイギリス陸軍兵士たちが殺到する岸壁。そこに接岸していたのは、イギリス海軍の軍艦ではなかった。
船体に大きく引かれた二本の赤いライン(二引の旗)。あるいは、丸に三つ引きの紋。
**『日本郵船』『坂本汽船』『商船三井』『徳川海運』**。
大日本帝国が世界に誇る、巨大な民間海運企業の輸送船団(商船隊)であった。
「……なぜ、日本の民間船がこんな戦場のど真ん中に?」
逃げ延びてきたイギリス兵たちは、信じられないものを見るような目で、タラップを駆け上がった。
極東の日本から、イギリスの危機を察知して急派された彼らは、軍人ではない。ただの荒くれ者の船乗りたちである。しかし、彼らは同盟国を救うため、魚雷や爆弾の飛び交うインド洋と紅海を越え、このスエズの地獄へと自ら飛び込んできたのである。
「おいジョンブル! もたもたしてると置いていくぞ! 俺たちの船は豪華客船(氷川丸クラス)だ、泥を落としてから乗りな!」
日本の船長たちが、甲板から拡声器で檄を飛ばす。
軍艦とは違い、装甲も武装も持たない丸腰の商船である。一発でも爆弾を受ければ、数千人の兵士もろとも海の底へ沈む。しかし、彼らの顔に恐怖はなかった。
「同盟国の友を見捨てて逃げるような真似をすれば、日本の海乗りの名折れだ。……一人残らず、ソコトラ島(一次退避先)、さらにはインドまで送り届けてやる!」
日本の民間船団の決死のピストン輸送により、イギリス中東軍の主力は、奇跡的な速度で紅海へと脱出していく。
だが、その動きを、アメリカ陸軍航空軍が見逃すはずがなかった。
### 4.極東の盾――西花艦隊の死闘(12月28日)
12月28日。
満載のイギリス兵を乗せた日本の民間船団が、スエズを抜けて紅海を南下し始めたその時。
彼らの頭上に、エジプトの基地から発進したアメリカ軍のB-25ミッチェル爆撃機とP-40戦闘機の大編隊が飛来した。
「敵機来襲! ヤンキーの爆撃機だ!」
商船の甲板で、イギリス兵たちが絶望の声を上げた。丸腰の輸送船団が上空から狙われれば、それは単なる「的当てゲーム」でしかない。
しかし。
彼らの頭上に爆弾が降り注ぐ直前、紅海の水平線から、耳をつんざくような「対空砲火の咆哮」が轟いた。
ズドドドドドドォォォォォン!!!
空を埋め尽くすほどの黒い弾幕の花が咲き、アメリカ軍の爆撃機が次々と空中分解を起こす。
「な、なんだ!? どこからの砲撃だ!」
紅海の南から、白波を蹴立てて全速力で猛進してくる四隻の細長いシルエット。
インド洋の防衛を担う帝国海軍の要衝・西花基地(西オーストラリア)から、昼夜を問わぬ強行軍で駆けつけた、**帝国海軍・インド洋艦隊**の精鋭たちであった。
先頭を走るのは、巨大な艦橋構造物を持つ重巡洋艦**『羽黒』**と**『赤土』**。そしてその両脇を固めるのは、防空駆逐艦**『睦月』**と**『霜月』**である。
「我々が極東の盾となる! アメリカの羽虫どもに、同盟国の血をこれ以上吸わせるな!」
羽黒の艦橋で、帝国海軍の司令官が軍刀を振りかざして叫んだ。
「高角砲、全門最大仰角! 近接信管(VT信管)の雨を降らせろ!」
日本艦隊は、民間船団とアメリカ航空隊の間に自らの艦体を割り込ませ、猛烈な防空戦を展開した。
アメリカ軍の爆撃機は、輸送船を諦め、邪魔な日本艦隊へと目標を変更して急降下爆撃を仕掛けた。
ドガァァァン!!
『羽黒』の第三砲塔付近に500ポンド爆弾が直撃し、凄まじい火柱が上がった。
「羽黒、被弾! 後部甲板大破(中破)!」
「構わん! 砲撃を止めるな! 船団を逃がせ!」
さらに、海面スレスレから接近してきた雷撃機に対し、駆逐艦『睦月』が自ら進み出て盾となった。
ズゴォォォォォン!!
睦月の右舷艦首付近に航空魚雷が命中。艦首が大きくへし折れ、海水が滝のように流れ込む。
「睦月、大破! 航行不能に陥ります!」
しかし、艦首を失い、沈みかけながらも、『睦月』の乗組員たちは傾いた甲板で対空機銃を撃ち続けた。
「沈んでたまるか! イギリスの友軍がまだ空の下にいるんだぞ!」
彼らの狂気じみた闘志と、近接信管による恐るべき弾幕の前に、ついにアメリカ陸軍航空軍は攻撃を諦め、多大な未帰還機を出してエジプトへと逃げ去っていった。
「……助かったのか」
商船の甲板からその光景を見ていたイギリス兵たちは、炎上する『羽黒』と、艦首を失った『睦月』の痛々しい姿に、涙を流して敬礼を捧げた。
「栄光なる日英同盟、万歳(Banzai)……!」
自分たちの命を救うために、極東から駆けつけ、身を挺して盾となってくれた帝国海軍と民間商船たち。
スエズは陥落し、中東での戦術的敗北は確定した。しかし、この紅海の戦いにおいて、イギリスと日本の間に結ばれた「血の同盟」は、決してアメリカやフランスには砕くことのできない、鋼鉄の絆であることを証明したのである。
### 5.地中海の暗殺者――もう一つの極秘作戦(密約)
イギリス軍が紅海へと脱出していた頃。
彼らを追い落とし、スエズ運河を完全に占領したアメリカ・イタリア連合軍は、勝利の歓喜に沸いていた。
「スエズは我々のものだ! これで地中海は、完全に枢軸(新ローマ帝国)の湖となった!」
ムッソリーニはローマで高らかに宣言し、イタリア海軍の輸送船団が、エジプトの占領部隊へ向けて堂々と地中海を横断し始めた。
しかし、彼らは知らなかった。
スエズが陥落する数日前の「混乱の極み」にあった時期。
夜陰に紛れ、スエズ運河の狭い水路を北上し、誰にも気づかれることなく「地中海の内部」へと侵入を果たした、黒い影の群れが存在していたことを。
エーゲ海、ギリシャ沿岸の入り組んだ入り江。
月明かりに照らされた海面に、突如として浮上した巨大な葉巻型のシルエット。
それは、帝国海軍が誇る**『巡潜乙型』潜水艦**の群れであった。
「……機関停止。ギリシャの連絡船を待て」
艦長がハッチから身を乗り出し、暗闇の海岸線を凝視する。
ギリシャ共和国。彼らは表向きは「中立国」であった。しかし、隣国トルコが枢軸側として動きキプロス島を奪取したことに極度の恐怖を抱いており、裏ではイタリアに接近する一方で、もう一つの保険として「大日本帝国」と極秘の軍事密約を結んでいたのである。
「燃料と魚雷の補給、感謝する。……ギリシャ政府には、戦後必ず報いると将軍府がお伝えだ」
入り江に偽装された秘密基地で、ギリシャの役人から物資を受け取る日本の潜水艦乗組員たち。
「……さあ、狩りの時間だ」
補給を終えた十数隻の帝国海軍潜水艦は、再び静かに地中海の暗い水底へと潜航していった。
彼らの任務はただ一つ。
イタリア、フランス、そしてアメリカが「自分たちの安全な湖」だと信じて疑わないこの地中海全域において、ドイツ軍の大西洋Uボート作戦と呼応する形で、**『無制限潜水艦作戦』**を単独で展開することである。
数日後。
エジプトへ向かっていたイタリア軍の大型輸送船団が、地中海のど真ん中で、航跡のない「酸素の槍(九三式魚雷)」によって次々と爆沈する事件が発生し、ローマとパリをパニックに陥れることになる。
### 6.エピローグ――沈みゆく太陽と新たな牙
1941年12月末。
血塗られたMemorial Dayから始まった1941年の戦火は、ここに一つの大きな区切りを迎えた。
大英帝国は、本土南西部をフランスに占領され、地中海と中東の要衝(マルタ、キプロス、スエズ)をすべて喪失するという、建国以来最大の危機に瀕していた。
しかし、スエズの殿部隊の気高き玉砕と、日本の民間船団・帝国海軍の身を挺した救出により、数十万のイギリス中東軍の主力は、奇跡的にソコトラ島およびインド方面への撤退(ダンケルクの再来)を成功させた。
彼らは負けたが、決して心は折れていなかった。
インド洋を挟んだ大英帝国と日本帝国の同盟は、この撤退戦を通じてより強固なものとなり、次なる反撃の時を静かに待ち構えていた。
そして、ヨーロッパ大陸。
ドイツ軍はアルデンヌを突破し、ベルギーを解放。大西洋と地中海では、日独の潜水艦部隊が枢軸側の心臓に冷たい刃を突き立てている。
狂乱の1941年は終わりを告げた。
年が明け、1942年。世界は、凍てつくアルプス山脈の死闘と、イギリス上空での凄惨な航空戦、そしてマジノ線を巡る地獄の消耗戦という、さらに過酷な「第二幕」へと突入していくのである。
(第七章 第七話 完)
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