6.獅子の咆哮、龍の目覚め
# 海洋帝国日本史 第一章:帝国の選択
## 第六話:獅子の咆哮、龍の目覚め(1780〜1810)
### 1.迫りくる「測量」の影
天明年間(1780年代)。
田沼意次による重商主義政策で、帝国経済は絶頂期にあった。江戸の街には南洋の珍獣や果物が溢れ、志度新からの定期船は満載の物資を運び続けていた。
しかし、帝国の防衛中枢である「将軍府・海防掛」の空気は張り詰めていた。
「また、黒い船か」
海防掛の壁には、巨大な太平洋図が掲げられている。そこには、赤いピン(帝国領)と、青いピン(オランダ領)が共存していたが、近年、不気味な「黒いピン」が増殖していた。
イギリスである。
かのジェームズ・クック船長による太平洋探索は、帝国の首脳部に冷水を浴びせた。
彼らは、日本が「無主の地」として隠しておきたかった島々を次々と発見し、正確無比なクロノメーター(経度測定器)で地図に書き込んでいったのである。
「奴らは、我らの庭の寸法を測っている。いずれ、土足で入り込む気だ」
田沼意次は、長崎のオランダ商館長を江戸に極秘招集した。
この時代、日本とオランダの関係は、単なる貿易パートナーを超え、事実上の「同盟関係」にあった。
カピタンは、沈痛な面持ちで語った。
「老中様。欧州の情勢は不穏です。イギリスは、我が国の東インド(インドネシア)利権を狙っております。彼らは『自由貿易』を旗印に、貴国の閉ざされた海をもこじ開けるでしょう」
田沼はこの時、決断する。
「オランダの旗を守れ。イギリスという獅子が来る前に、この海を鉄の檻とするのだ」
### 2.寛政の「海防国家」構想
1787年、松平定信が老中首座となると(寛政の改革)、内政の引き締めと共に、国防方針の大転換が行われた。
定信は、田沼の拡大路線を修正しつつも、海防に関してはさらにタカ派(強硬派)であった。
彼は、仙台藩出身の戦略家・**林子平**を幕府の「海防参与」に抜擢する。
史実では処罰された林子平だが、この世界線では、その著書『海国兵談』が帝国のドクトリン(基本教義)となる。
「江戸の日本橋より、唐・阿蘭陀まで境なしの水路なり」
子平は、海が防御壁ではなく「侵略のハイウェイ」であることを説いた。
「これよりは、単なる開拓ではなく、要塞化が必要です」
子平の献策により、以下の「帝国三方面防衛計画」が発動される。
1. **北方ライン:** 蝦夷地(北海道)および千島列島に、恒久的な砲台と屯田兵を配置し、南下するロシア(ラッコの毛皮を求めて来ていた)を牽制する。
2. **南方ライン:** 虎玖、茉莉亜那の港湾を軍港化し、海軍の常駐艦隊を置く。
3. **外洋ライン:** 豪州・羊州の主要港に、オランダ製の最新式沿岸砲(カノン砲)を配備する。
特に重要だったのは、オランダとの技術協力である。
「敵の敵は味方」。イギリスの脅威に晒されていたオランダは、最新の鋳造技術や弾道学を惜しみなく日本に提供した。
江戸の湾岸には、オランダ人技師の指導の下、黒光りする巨砲が並び始めた。
### 3.ナポレオン戦争と「国旗の貸し借り」
1790年代後半、欧州でフランス革命戦争が勃発すると、情勢は一変する。
オランダ本国がフランス軍に占領され、バタヴィア共和国となったのだ。
これ好機と見たイギリスは、「フランスの支配下にあるオランダ植民地を保護する」という名目で、アジアのオランダ領(セイロン、マラッカ、そして東インド)への攻撃を開始した。
ここで、日本帝国は奇妙かつ大胆な外交に出る。
**「日蘭海上相互保護協定」**である。
長崎の出島にて、幕府の長崎奉行と、孤立無援のオランダ商館長の間で密約が交わされた。
『東インド水域において、オランダ船は「徳川の葵の御紋」を掲げることを許す。日本船と見なされた船への攻撃は、日本帝国への宣戦布告と見なす』
これは、イギリスに対する強烈なブラフ(脅し)であった。
当時、イギリスはまだナポレオンとの戦いに手一杯で、東洋の軍事大国である日本と全面戦争をする余裕はなかった。
マラッカ海峡やジャワ海では、オランダの商船が日本の旗を掲げて堂々と航行し、イギリス海軍がそれを歯噛みして見送るという光景が見られた。
オランダ商館長は、日記にこう記している。
『東洋の小国と思っていた日本が、今や我々の守護神である。葵の紋所は、ユニオンジャックを遠ざける魔除けの札となった』
### 4.北の熊、南の鮫
しかし、19世紀に入ると、包囲網は狭まっていく。
1804年、ロシアの使節レザノフが長崎に来航。通商を求めるも、幕府はこれを拒絶。
これに激怒したロシア軍の一部が、樺太や択捉の日本人居留地を襲撃する事件(文化露寇)が発生する。
時を同じくして、南洋でも事件が起きていた。
1808年、長崎港にイギリス軍艦「フェートン号」が、オランダ国旗を偽装して侵入したのである(フェートン号事件)。
彼らはオランダ商館員を人質に取り、薪水を要求した。
時の長崎奉行・松平康英は、切腹を覚悟で攻撃命令を出そうとしたが、港内の日本船への被害を恐れた商館長の説得により、屈辱的な物資提供を行って退去させた。
この二つの事件は、第11代将軍・**徳川家斉**を激怒させた。
家斉は、華美な生活を好む「オットセイ将軍」と陰口を叩かれていたが、その本性は、曾祖父・吉宗譲りの武断派であった。
「舐められたものよ。葵の紋が、ただの模様だと思われておる」
家斉は、即座に**「異国船無二念打払令」**を発布。
さらに、平賀源内亡き後の「帝国理工院」に対し、厳命を下した。
「源内が残した『火輪機(蒸気機関)』を、直ちに軍艦に乗せよ。風に頼る船など、もはや案山子に過ぎん!」
### 5.開戦前夜――1810年の境界線
1810年。
欧州ではナポレオンが絶頂期を迎え、イギリスは海上封鎖に苦しんでいた。
イギリス海軍は、新たな市場と資源を求めて、なりふり構わず太平洋への進出を加速させていた。
彼らの標的は、日本が「帝国の内海」と定めていた、大南島以東の海域である。
特に、志度新の羊毛と、南洋の鯨油は、産業革命が進むイギリスにとって垂涎の的であった。
「ジャップ(日本人)は、広大な海を独占しすぎている。これは神の意志に反する独占だ」
ロンドンの議会では、対日強硬論が沸騰していた。
一方、江戸城・大広間。
老中首座・松平定信(高齢をおして復帰)は、全国の大名に**「総動員令」**の準備を通達していた。
「戦になれば、相手は世界最強の海軍国である。だが、引けば豪州を失い、南洋を失い、最後は本土が飢える。……戦うしかない」
帝国のドクトリンは、ここに来て「専守防衛」から「洋上撃滅」へと切り替わった。
小笠原諸島の父島要塞には、南洋水師の主力艦隊が集結していた。
その中には、煙突から黒煙を吐く、世界初の蒸気補助推進ガレオン船「快風丸」の姿もあった。
### 6.小笠原沖の砲声
1810年10月14日、運命の朝。
小笠原諸島、父島の東方50海里。
哨戒任務にあたっていた幕府海軍のフリゲート艦「千歳丸(艦長:榎本釜次郎、後の榎本武揚の祖父)」は、水平線に現れた三本マストの巨大な艦影を捉えた。
イギリス海軍の最新鋭フリゲート艦「HMS ターミガント」である。
「旗を確認しろ。……ユニオンジャックだ。オランダの偽装ではない!」
榎本艦長は叫んだ。
相手は、日本の領海深くへ侵入し、あろうことか小笠原の測量を始めていた。
「千歳丸」は信号旗を掲げる。
『貴艦は帝国の領海にあり。直ちに退去せよ』
しかし、イギリス艦からの返答は、威嚇射撃であった。
ドォン、という重い音が海面に響き、水柱が上がる。
それは、200年続いた「パックス・トクガワ(徳川の平和)」の終わりを告げる弔鐘であった。
榎本艦長の顔から血の気が引いたが、目は燃えていた。
彼は、腰の刀を抜き放ち、伝声管に向かって叫んだ。
「打ち方、始めッ! 帝国の海を、奴らの血で染めてやれ!」
千歳丸の右舷砲門が一斉に開き、轟音と共に鉄の塊が吐き出された。
第一弾がイギリス艦のメインマストをへし折る。
この瞬間、後に**「第一次日英戦争」**と呼ばれる、太平洋の覇権をかけた戦いの火蓋が切って落とされたのである。
(第一章 完)
これにて第一章は終了です。200年を6話で駆け抜けました。
帝国戦記を書く中で、江戸時代の存在は迷いましたが、ここを書かないと、Aiが上手く認識できないので、書くことに決めました。
1600年の関ヶ原・大坂の陣から始まり、1810年の日英戦争勃発まで、一貫して「海への意志」を描き切れたかと思っています。




