48.無効化された包囲網と、紙の上の狂気
海洋帝国日本史
第五章:沈みゆく鷲と赤い星(1920〜1941)
第十三話:無効化された包囲網と、紙の上の狂気(1940)
1.オーバルオフィスの癇癪――追い詰められた鷲
1940年(昭和15年)夏。
アメリカ合衆国首都、ワシントンD.C.。ホワイトハウスの大統領執務室には、かつてないほどの怒声と破壊音が響き渡っていた。
ガシャン!!
フランクリン・ルーズベルト大統領が、机上のクリスタル製の灰皿を壁に叩きつけ、粉々に粉砕した音である。
「なぜだ! なぜあの極東の猿どもは、一向に血を流さない!!」
車椅子の上で顔を真っ赤に紅潮させ、ルーズベルトは国務長官のコーデル・ハルと海軍首脳たちに向かって絶叫した。
「中国大陸で蒋介石に莫大な資金と武器を注ぎ込んだが、日本軍は国境から一歩も出てこない。北欧では防波堤を築き上げ、ヨーロッパにおける我が国の足場すら脅かそうとしている!」
ルーズベルトの焦燥は、狂気の域に達していた。
ニューディール政策は莫大な借金を積み上げたにもかかわらず、根本的な不況の解決には至っていない。失業者は街に溢れ、国民の不満を「黄禍論(反日プロパガンダ)」で外へ逸らす手法も、目に見える『日本の敗北』という果実がなければ、いずれ自らの首を刎ねることになる。
「これ以上、あの泥棒帝国を野放しにはできん!」
ルーズベルトは、車椅子の肘掛けを強く握りしめ、冷酷な決断を下した。
「世界経済の首根っこを握る『戦略物資』の供給を完全に断つ。……日本帝国に対する、石油および鉄くずの全面禁輸措置を発動しろ!」
史実において、日本を破滅的な戦争へと追い込んだ「ABCD包囲網」の逆転版である。
ルーズベルトは確信していた。いかに強大な艦隊を持っていようと、それを動かす「血(石油)」と、船を造る「骨(鉄)」を断たれれば、近代国家は一年で干上がる。極東の島国は、ついにアメリカの軍門に降り、這いつくばって許しを乞うはずだ、と。
2.霞が関の冷笑――「無効化」された包囲網と血の探求
「……ルーズベルトが、ついに石油と鉄の禁輸を発表しました。事実上の経済的宣戦布告です」
東京・江戸城(将軍府)。
最高作戦会議室にて、外務卿からの報告を受けた第18代将軍・徳川家晴は、扇子を広げながら、小さく、そして酷薄な笑いを漏らした。
「よほど国内経済が苦しいと見える。ルーズベルトの奴、ついに『自らの手足を切って我々に投げつける』という狂行に出たか」
同席していた大蔵卿や、国防総省統合参謀本部の将官たちも、一様に冷笑を浮かべていた。
史実の日本であれば、この禁輸措置は国家の死を意味する「最後通牒」であった。しかし、この世界線の帝国にとって、アメリカの禁輸など「痛くも痒くもない」のであった。
「アメリカの連中は、地図が読めないようですね」
資源管理を統括する商工省の若き官僚(岸)が、巨大な帝国版図の海図を指し示した。
「我が国には、**『オーストラリア(豪州)』**という無尽蔵の鉄鉱石を産出する絶対的な内地(本土)が存在します。わざわざアメリカから、粗悪なスクラップを高値で買う必要などありません」
さらに、最も致命的であるはずの「石油」についても、帝国のロジスティクスは盤石の体制を敷いていた。
「燃料についても問題ありません。極東ロシア王国を通じたシベリアの油田、満州国からの供給、そして我が帝国の国内領土である北樺太の油田。さらに大恐慌時に恩を売ったオランダ領東インドからのルートと、帝国の内と外を合わせた多角的な供給網が完全に機能しております」
大蔵卿が冷徹に補足する。
「帝国の備蓄タンクは、現在満杯です。しかし……」
若き将軍・家晴は、油断なく目を細めた。
「現状に満足するな。戦車と航空機が主役となる次の時代、石油は国家の血液そのものとなる。既存の油田に加え、帝国政府の全力を挙げて、南洋および満州における『新たな大油田の探索』を直ちに開始せよ。百年先まで帝国の血が枯れぬようにだ」
ルーズベルトが放った最強のカードは、日本帝国の完璧な自給自足ブロックの厚い壁にぶつかり、音を立てて砕け散った。
逆に、最も深刻な打撃を受けたのは、日本という巨大な「お得意様」を突然失い、大量の在庫を抱えて悲鳴を上げるアメリカの石油資本(テキサスの石油王たち)や鉄鋼メーカーであった。
3.多角外交の明暗――拒絶する新枢軸と、新たな駒
帝国政府の次なる反撃は、軍艦の大砲ではなく、外務省と将軍府秘密情報部が連携した「外交的切り崩し」であった。
ターゲットは、アメリカが「新枢軸」として引き込んだヨーロッパの不満分子――新ナポレオン(ルクレール将軍)率いるフランスと、ムッソリーニのイタリアである。
「アメリカのドルに縛られるな。我々と手を結べば、南洋の資源を融通してやろう」
パリとローマに潜入した秘密情報部のエージェントたちは、甘い毒リンゴを提示した。
しかし、彼らの工作は、ここでは明確な「失敗」に終わった。
「極東の猿の情けなど無用だ! 我がフランスの巨大な陸軍は、やがて全ヨーロッパを支配する!」
「地中海は我々古代ローマ帝国の末裔のものだ。アメリカの莫大な資金援助があれば、我々は自力で覇権を握れる!」
大恐慌のルサンチマンと、自国の軍事力を過大評価する肥大化したプライド。ルクレールとムッソリーニは、日本の冷徹な提案を鼻で笑い、ルーズベルトとの「反・日英包囲網(新枢軸)」にさらに固執する姿勢を見せた。
「……野蛮人どもは、自分たちの身の丈が理解できないらしい」
秘密情報部長官は、報告書を破り捨て、直ちに次の一手を打った。
「フランスとイタリアが対立軸として残るなら、奴らの足元を切り崩す。方針を転換せよ」
帝国が新たに目をつけたのは、大国ではなく、地政学的な「急所」を握る国々であった。
一つ目は、「広州政府」。
中国大陸でアメリカの支援を受ける蒋介石に対抗するため、日本軍は国境から動かず、代わりに蒋介石と対立する南部の広州政府(別勢力)へ秘密裏に莫大な資金と武器を流し込んだ。これにより、蒋介石は背後を突かれ、日本どころではなくなった。
二つ目は、「スペイン」。
イタリアの地中海制覇の野望を背後から牽制するため、内戦を制したフランコ政権に対し、イギリスと共に積極的な経済支援を行い、スペインを「親・日英」の防波堤として地中海西部に楔として打ち込んだ。
三つ目は、「イラン」。
北の凍土で不気味に沈黙するソビエト連邦。その柔らかい下腹部(南の国境)を脅かすため、産油国であるイラン王室との外交協力を劇的に強化。帝国製の武器を輸出し、ソビエトに対する強力な牽制球とした。
大国を直接動かすのではなく、その周囲の「影の駒」を操作して敵を身動きできなくする。パックス・ジャポニカの多角外交は、狂気の新枢軸を確実に真綿で締め上げていた。
4.海軍省地下の密室――探知不能の「紙の上の狂気」
1940年、秋。
ワシントンD.C.、アメリカ海軍省ビル。
その地下深く、分厚いコンクリートと鋼鉄の扉で完全に外界から遮断された特別区画。
「……経済封鎖は失敗しました。日本は我々の禁輸を意に介さず、逆に我が国の石油資本が悲鳴を上げています」
作戦部長が、重苦しい声で切り出した。
「もはや、外交も経済制裁も意味をなさない。大統領は、ついに『実力行使』の腹を括られました」
「しかし長官。正面から太平洋を渡ってあの帝国艦隊と戦うなど、自殺行為です」
立案将校の一人が、海図の上に並べられた日米の艦艇のコマを弾き飛ばした。
「連中は軍縮条約の裏をかき、フィリピンやグアムで艦隊決戦になれば、我々は一隻残らず海の底へ引きずり込まれるでしょう」
「わかっている。だからこそ、正面からは行かない」
作戦部長は、懐から万年筆を取り出し、巨大な太平洋の海図の上に、ただ一本の「赤い線」を引いた。
それは、ハワイの真珠湾から、誰も通らないような北太平洋の荒れ狂う極寒の海域を抜け、一直線に**「日本帝国の心臓部(東京)」**へと突き刺さる、狂気の矢印であった。
「……長官、これは!?」
「『オレンジ計画・特号』――日本本土(帝都)奇襲攻撃作戦だ」
作戦部長の声は、極度の緊張で震えていた。
「日本軍は、我が国の太平洋艦隊が西へ進み、フィリピン近海で決戦を挑んでくると信じ込んでいる。その裏をかく。我が国の航空母艦のすべてを投入し、無線封止のまま北回りで日本本土へ接近。東京の『江戸城(将軍府)』と海軍工廠に、爆弾の雨を降らせるのだ!」
将校たちは息を呑んだ。
航空機による「国家元首の暗殺(将軍府爆撃)」という、前代未聞のテロリズム的奇襲作戦である。
「この計画は、絶対に日本側に漏れてはならない。連中の暗号解読能力とスパイ網は悪魔的だ」
作戦部長は、自らが引いた赤い線を、万年筆の尻で強く叩いた。
「ゆえに、この作戦は**『一切の電信(無線)を使わない』**。タイプライターによる文書作成も禁ずる。すべて手書きの書類のみで伝達し、複写も許さない。……アナログという最も原始的な手段こそが、彼らの最強の情報網をすり抜ける唯一のステルス技術なのだ」
5.完璧な防壁の綻びと、スパイマスターの直感
同じ頃、東京・江戸城の地下深く。
国防総省統合参謀本部情報総局の暗号解読室は、次々と入ってくる通信の処理に追われていた。
「ワシントンからハワイ太平洋艦隊への暗号通信、解読完了。日常的な演習の指示のみです」
「フィリピン駐留軍からも、警戒レベル引き上げの兆候なし」
情報総局のトップである軍の将官は、若き将軍・家晴に対し、胸を張って報告した。
「上様、ご安心ください。ルーズベルトは完全に手詰まりです。アメリカ海軍の動きは、すべて我々の『耳』が捉えております。太平洋は、我々の箱庭同然であります」
しかし。
その報告を聞いていた将軍府秘密情報部の長官の顔には、濃い疲労と、拭い去れない「違和感」が張り付いていた。
会議のあと、秘密情報部長官は、若き家晴にただ一人で謁見を求めた。
「……上様。軍の情報総局は『異常なし』と報告しましたが、私の直感が警鐘を鳴らしております」
長官は、白髪交じりの眉をひそめた。
「アメリカ国内の反日世論は沸点に達し、ルーズベルトは経済制裁というカードまで切った。それなのに、アメリカ軍が『何もしていない』はずがないのです。……静かすぎる。嵐の前の、不気味な静けさです」
「お前は、軍の情報(暗号解読)が間違っていると言うのか?」
家晴は、怪訝な顔をした。
「軍は電波を信じすぎます。もし、敵が電波を使わず、一切の記録を残さない超極秘の『内輪の計画』を進めていたら……我々の傍受網は、ただの鉄屑となります」
秘密情報部長官は、深く頭を下げた。
「どうか、私に対米諜報の権限をさらに拡大させてください。アメリカ海軍の奥深くへ、ヒューマン・インテリジェンス(人間による直接諜報)の網を張り巡らせる必要があります」
第18代将軍・徳川家晴は、まだ経験が浅く、統合参謀本部(軍)の提出する「完璧なデータ」に寄りかかりたい気持ちがあった。しかし、祖父(第17代家正)の遺産であるこの老スパイマスターの言葉には、抗いがたい重みがあった。
(……大御所様は言われた。『アメリカの底力は想像を絶する。決して驕るな』と)
「……よかろう」
家晴の胸の奥底に、一抹の不安の影が落ちた。
「秘密情報部を全力で動かせ。アメリカの暗闇に潜む『何か』を暴き出せ」
しかし、時間はあまりにも少なすぎた。
秘密情報部のエージェントたちがワシントンで活動を強化したものの、数人の将官の頭の中と「手書きの紙切れ」だけで進められる作戦の尻尾を掴むことは、物理的に不可能であった。現状、彼らはアメリカの深い暗闇の中で、手探りで虚空を掴むことしかできていなかった。
圧倒的なテクノロジーと情報収集能力に頼りすぎた結果生じた、絶対的な**「アナログの盲点」**。
完璧な防壁に、わずかな、しかし致命的な亀裂が入り始めていた。
「……アメリカの息の根が止まるまで、あと少しだ」
帝国の軍部が完全な勝利を確信して太平洋の夕景を見つめているその裏側で。
狂気に満ちた「白き鷲」は、一切の羽音を立てることなく、帝国の喉元へ向けて、ゆっくりとその巨大な爪を伸ばし始めていたのである。
(第五章 第十三話 完)




