40.黄金の防壁と、誇りなき懇願
海洋帝国日本史
第五章:沈みゆく鷲と赤い星(1920〜1941)
第七話:黄金の防壁と、誇りなき懇願(1930年代初頭)
1.世界を分断する「壁」――三つの経済圏
1930年代初頭。
ウォール街から始まった世界大恐慌の黒い津波は、容赦なく大西洋と太平洋を越え、資本主義経済を採用するすべての国家をどん底へと引きずり込んだ。
工場の煙突から煙は消え、港にはサビ付いた貨物船が係留されたまま放置され、街角には失業者があふれ返った。
しかし、この未曾有の破局に対し、生き残るための「巨大な壁」を築き上げ、無傷、あるいは最小限の被害でやり過ごした国々が存在した。
一つは、東の凍土に引きこもったソビエト連邦である。
彼らは資本主義の市場経済から完全に切り離された「計画経済」を実行していたため、ウォール街の暴落などどこ吹く風であった。
「見ろ、資本主義の豚どもが自らの欲望に溺れて自滅していくぞ!」
モスクワのクレムリンで、スターリン率いるボリシェヴィキたちは、恐慌に苦しむ欧米諸国を嘲笑い、この機に乗じて重工業化(五カ年計画)を暴力的な速度で推し進めていた。
そしてもう一つ。世界の海を支配する二つの大帝国、日本とイギリスが構築した絶対的な防壁である。
「自国の市場を、高い関税の壁で囲い込め。外からの安価な商品は一切締め出し、ブロックの内部だけで血液(資源と富)を循環させるのだ」
ロンドンと東京は、極秘の電信を交わし、世界経済を物理的に分断する強硬策に出た。
大英帝国の植民地ネットワークを結ぶ**「ポンド・ブロック(スターリング・ブロック)」。
そして、日本帝国が支配する日本本土、広大な南洋諸島と羊州、オーストラリアの資源地帯等の内地と台湾、朝鮮、満州国、極東ロシア王国によって構成される「円ブロック」**である。
両帝国は互いのブロック間でのみ特恵関税(低い関税)を結び、広大な「ユーラシア・太平洋・インド洋の超巨大経済圏」を形成した。南洋の鉄と石炭、満州の大豆、豪州の羊毛が、円とポンドの血液に乗って両帝国の工場を回し、そこで作られた製品が再びブロック内の数億人の胃袋へと消費されていく。
一方、ヨーロッパ大陸では、没落を恐れるフランスが、自国の植民地(北アフリカやインドシナ)を囲い込む**「フラン・ブロック」**を急遽形成した。しかし、その規模と資源の豊かさは、日英の巨大な同盟ブロックには遠く及ばなかった。
世界は、自由貿易という「開かれた海」から、高い関税の壁に守られた「三つの巨大な要塞」へと完全に分割されたのである。
2.見捨てられた鷲――アメリカの嫉妬と逃走する黄金
この巨大なブロック経済圏から、完全に締め出された国家があった。
かつて世界に「永遠の繁栄」を誇示していた超大国、アメリカ合衆国である。
「関税の壁だと!? イギリスも日本もフランスも、我々のアメリカ製品を締め出すというのか!」
ワシントンD.C.のホワイトハウス。大統領執務室に怒号が響いた。
大恐慌で国内市場が完全に死滅したアメリカにとって、過剰な在庫(自動車や農作物)を売りつける「海外の市場」は、国家の生存を賭けた最後の生命線であった。
しかし、日本とイギリスは、自国の産業を保護するため、アメリカ製品に対して数十パーセントから百パーセントという殺人的な高関税を課した。アメリカ製のフォードは日本の港でホコリを被り、カリフォルニアの小麦は誰にも買われずに腐っていった。
「日本政府に抗議しろ! 自由貿易の精神に反する暴挙だ!」
アメリカの国務長官が吠えるが、霞が関の官僚たちは冷ややかにそれを突き返した。
「貴国こそ、恐慌以前から自国の産業を守るために高関税(スムート・ホーリー法など)をかけていたではありませんか。我々は貴国のやり方に学んだだけですよ」
アメリカには、自前の広大な植民地ブロックが存在しなかった。フィリピンや中南米だけでは、巨大すぎるアメリカの生産力を吸収することは到底不可能であった。
さらに、アメリカの絶望に追い打ちをかけたのが**「資本の逃避」**である。
ウォール街の株券が紙くずと化したことで、アメリカ国内の富裕層や銀行家たちは、自らの資産を守るために、泥船となったアメリカ経済から黄金(資金)を猛烈な勢いで引き上げ始めた。
「ドルはもう信用できない。資産を安全な『円』と『ポンド』に換えろ!」
莫大な資本が、大西洋と太平洋を越え、ブロック経済によって安定を保つロンドンのシティと、東京の丸の内へと奔流のように流れ込んでいった。
「我々の血(金)が、あの憎き極東の猿どもの懐へ吸い込まれていく……!」
アメリカの政治家や資本家たちは、一人勝ちする日本とイギリスに対し、ギリギリと歯ぎしりをして強烈な嫉妬と憎悪を募らせた。
彼らは円もポンドもフランも受け入れたくなかったが、自国の経済が崩壊していく現実を前に、為す術がなかったのである。
3.霞が関のトリアージ――命の優先順位
世界経済のシステムが崩壊し、アメリカという巨大な市場が消滅したことで、ヨーロッパの国々はパニックに陥った。
これまでアメリカへ輸出することで外貨を稼いでいた国々は、行き場を失った自国の製品を抱え、国家破産の危機に瀕していた。
彼らが生き残る道はただ一つ。
世界で最も豊かで、安定した消費市場を持つ**「日英の円・ポンドブロック」**にすがりつき、特恵関税の枠内に入れてもらうことであった。
東京・霞が関の外務省には、ドイツ、イタリア、スペイン、そして東欧諸国の大使たちが連日押しかけ、悲痛な顔で面会を求めていた。
「どうか、我が国のワインを、オリーブオイルを、機械部品を、無関税で買っていただけないか。このままでは我が国は飢え死にする!」
しかし、いくら日英のブロックが広大とはいえ、世界中の輸出品をすべて買い取るだけの無限の胃袋を持っているわけではない。
帝国政府(将軍府と大蔵省、外務省)は、冷酷なまでの**「トリアージ(命の選別)」**を行った。
外務大臣は、机の上に広げられたヨーロッパの地図を見下ろし、赤鉛筆で冷徹に線を引いた。
「第一優先は、当然ながら我が日本帝国と、大英帝国本土である」
「第二優先は、我々のブロックを直接構成する衛星国と植民地。満州国、極東ロシア、インドなどだ」
「第三優先は、我が帝国が『ヴェルサイユ条約の莫大な賠償金(債権)』を肩代わりして握っているドイツ。彼らが破産すれば、我々の債権が焦げ付く。ドイツからの輸入は、ある程度優遇して彼らの経済を回してやらねばならない」
「特別枠として、フィンランド。彼らは対ソビエトの最前線の『防波堤』だ。最新の武器と引き換えに、彼らの木材や鉱物は適正価格で買い上げる」
そして、外務大臣の赤鉛筆は、イタリアやスペイン、その他の南欧・東欧諸国を冷酷に切り捨てた。
「……それ以外の国々に回す余裕はない。関税の壁の向こう側で、勝手に飢え死にさせろ」
4.落日の風車――オランダ特使の屈辱
その冷酷なトリアージの現場に、かつて日本帝国の「恩師」であった国の特使が、肩を落として立っていた。
オランダ王国である。
江戸時代、鎖国下にあっても長崎・出島を通じて西洋の知識(蘭学)をもたらし、近代海軍の創設期には軍艦の操練まで指導してくれた、旧き友である。
オランダは、本国こそ小国だが、東南アジアに「オランダ領東インド(現在のインドネシア)」という広大で資源豊かな植民地を持っていた。しかし、彼らもまた大恐慌の嵐に巻き込まれ、本国の経済は深刻な打撃を受けていた。
外務省の重厚な応接室。
オランダ特使は、プライドを完全に捨て去り、日本の外務次官に向かって深く頭を下げた。
「……次官閣下。どうか、古き良き友誼に免じて、我が東インドの石油とゴムを、円ブロックの特恵関税枠で買っていただけないでしょうか。本国の経済が、もう限界なのです」
かつて、大航海時代に世界の海を制し、江戸幕府に対して上から目線で世界の情勢を教えていたあのオランダが。今や極東の島国にひれ伏し、命乞いをしている。
外務次官は、感情のない冷たい目でオランダ特使を見下ろした。
「特使閣下。我が帝国も、かつて貴国から賜った御恩を忘れたわけではございません。しかし、現在の世界経済は冷酷です。……我が帝国にはすでに、南洋諸島や豪州という安定した資源供給地がございます」
「そ、そこをなんとか……! 東インドの権益の一部を割譲しても構いません!」
オランダ特使の悲痛な叫びに、次官はわずかに口角を上げた。
「……よろしいでしょう。我が国も鬼ではありません。『そこそこの量』の石油とゴムであれば、一定の関税引き下げを認め、買い上げましょう。ただし、あくまで『第三優先』の枠組みの中での話です。……我が国にとって、現在の絶対的な同盟国(新同盟国)は大英帝国であり、彼らとのポンドブロックの維持が最優先事項ですので」
オランダ特使は、その屈辱的な言葉にギリッと唇を噛み締めた。
かつての「唯一のヨーロッパの友」は、今や広大な帝国にとって、数ある取引先の一つ、それも格下の存在へと完全に没落していたのである。
「新しき大英帝国との強固な絆」と、「旧き恩師オランダへの冷淡な扱い」。
それは、パックス・ジャポニカが完全に「情」を捨て、「力と国益」のみで世界地図を塗り替える冷血な覇権国家へと成長し切ったことを証明する、象徴的なシーンであった。
5.怨嗟の欧州と、ファシズムの足音
日本のトリアージから完全に弾き出されたイタリアやスペイン、そしてフランスのフラン・ブロックにも入れなかった中小国は、凄まじい絶望と混乱に陥った。
「日本とイギリスは、自分たちだけが助かればいいというのか!」
「我々のワインも絹も、誰も買ってくれない! 工場は倒産し、街には失業者が溢れている!」
イタリアのローマでは、怒り狂った民衆が街頭で暴動を起こし、無能な政府に対する不満が爆発寸前となっていた。
アメリカの資本も逃げ出し、日英のブロックからも締め出され、完全に孤立無援となったこれらの国々。
その絶望のどん底で、人々は「力強き指導者」の登場を渇望し始めたのである。
「民主主義も、自由貿易も、我々を救ってはくれなかった! 今必要なのは、国家を強力に統制し、我々の生存権(領土と資源)を実力でもぎ取る『鉄の意志』だ!」
イタリアではベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党が完全に権力を掌握し、古代ローマ帝国の復活を掲げて地中海への拡張を目論み始めた。
スペインでは、王政が崩壊した後の混乱の中で、極右と極左が血みどろの内戦へと突き進んでいく。
そして、日本から「第三優先」として辛うじて命脈を保たれていたドイツでも、莫大な賠償金と失業の恨みを吸い上げ、一人の扇動政治家が不気味に勢力を拡大しつつあった。
日英の「円・ポンドブロック」という黄金の防壁は、皮肉にも、その外側に残された国々に強烈な怨嗟と生存の危機を与え、ヨーロッパに「ファシズム(全体主義)」という巨大な怪物を生み出す最大の土壌となってしまったのである。
6.エピローグ――車椅子の闘将
1932年。
アメリカ合衆国。
未だ大恐慌の泥沼から抜け出せず、国民の四分の一が失業するという地獄の中で、大統領選挙が執り行われた。
「私に、アメリカを救うチャンスを与えてほしい。恐怖そのもの以外に、恐れるべきものは何もない!」
力強い演説で国民を熱狂させ、フーヴァー大統領を破って新たなホワイトハウスの主となった男。
**フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)**である。
小児麻痺によって車椅子での生活を余儀なくされていた彼は、その不屈の精神と「ニューディール(新規巻き直し)政策」という大規模な公共投資によって、アメリカ経済の心臓を無理やり蘇らせようとしていた。
しかし、執務室に入ったルーズベルトは、側近から渡された「極東の経済レポート」を見て、その表情を怒りに歪ませた。
「……信じられん。我々が血を吐きながら泥水をすすっている間に、日本とイギリスはブロック経済で市場を独占し、我が国から逃げ出した資本を吸い上げて、丸々と太り続けているというのか」
ルーズベルトの心の中に、アメリカの正義に対する強烈な自負と、それを嘲笑うかのように繁栄を続ける日本帝国に対する「どす黒い憎悪」が芽生えた瞬間であった。
「このままでは、アメリカは永遠に極東の猿どもの後塵を拝することになる。……彼らの黄金の壁を叩き壊さねばならない。たとえ、どんな手段を使ってでもだ」
世界がブロックごとに分断され、憎悪と嫉妬の炎が国境線で燻り始める中。
沈みゆく鷲の国で、パックス・ジャポニカを最も憎み、最も恐れた男が、ついに歴史の表舞台へと姿を現したのである。
(第五章 第七話 完)




