4.享保の青い改革
# 海洋帝国日本史 第一章:帝国の選択
## 第四話:享保の青い改革(1708〜1750)
### 1.正徳の黄昏と人口の壁
正徳五年(1715年)。
新井白石は、江戸城の御用部屋で、積み上げられた報告書を前に苦渋の表情を浮かべていた。
「また、暴動か」
報告書には、越後、信濃、そして東北諸藩で、次男・三男坊らによる「食い詰め騒動」が頻発しているとあった。
この百年間、大きな戦乱がなかった帝国は、平和の代償として「人口爆発」という未曾有の危機に直面していた。農業技術の向上により人口は三千万人を突破しようとしていたが、耕地面積は限界に達していた。
「白石殿、もはや『海禁』を解くしかありませぬ。あふれた民を、南洋へ逃がすのです」
南洋副総督・村上康成からの書状は、悲痛な叫びにも似ていた。
村上水軍の末裔である康成は、現場(南洋)の窮状を知り尽くしていた。志度新や櫻港には無限の土地がある。しかし、白石が定めた厳格な「渡航制限令」が、人の流れを堰き止めていた。
白石は頑迷だったわけではない。彼は恐れていたのだ。
「無秩序に人を送れば、南洋は無法地帯となる。それに、英国や蘭国との摩擦も増える。国家の品格を守るためには、秩序ある縮小こそが必要なのだ」
儒学者である白石にとって、国家とは「礼節によって統治される美しき庭」であった。雑草のように広がる南洋の荒野は、彼の美学に反していた。
しかし、時代はすでに彼の美学を超えて動き始めていた。
### 2.大奥の密議――絹と香木の論理
事態を動かしたのは、男たちではなく、江戸城の最奥、**「大奥」**であった。
正徳六年(1716年)、七代将軍・家継がわずか八歳で危篤に陥る。
次期将軍を巡り、尾張徳川家か、芸州徳川家(初代が紀州→芸州のため)(吉宗)か、城内は騒然となった。
通説では、白石ら幕閣が主導したとされるが、帝国の深層史料『大奥南洋覚書』は異なる真実を伝えている。
深夜、大奥・御鈴廊下。
対立していたはずの天英院(六代家宣の正室)と、月光院(七代家継の生母)が、膝を突き合わせていた。
「白石殿は、南洋からの『船』を減らすと言うております」
天英院が静かに言った。
「更紗、香木、砂糖、そして翡翠。大奥を、いや、この国の文化を彩っているのは、南洋の富です。それを閉ざせば、徳川の威光もまた、色あせましょう」
大奥の女性たちは、実は帝国最大の「南洋物産消費者」であり、経済の動きに敏感であった。彼女たちは知っていた。南洋とのパイプが細れば、幕府の財政そのものが枯渇することを。
「尾張殿は、白石殿と同じく『内(国内)』を守るお方。しかし、芸州の吉宗殿は……」
「海を見て育ったお方。芸州の檸檬を、嵐の中で江戸へ運ばせたという気骨の持ち主」
二人の意志は一致した。
**「海を知る将軍を」**
天英院は、懐から一通の書状を取り出した。それは、芸州藩邸にいる吉宗への密書であった。
だが、誰に届けさせるか。男の役人は信用できない。
そこで白羽の矢が立ったのが、大奥の警護を務める**「別式」**の女たちであった。
### 3.女たちの抜刀――「奥別式」の誕生
当時、大奥には「別式」と呼ばれる武芸に秀でた女性たちがいた。薙刀や小太刀を扱い、女中の警護や不審者の排除を行っていたが、あくまで「奥向き」の存在と見なされていた。
天英院は、別式の筆頭である**佐々木累**を呼んだ。
累は、剣術小野派一刀流の達人であり、身長五尺八寸(約175cm)の偉丈夫な女性であった。
「累。この書状を芸州公へ届けよ。そして、そのまま紀州公の『剣』となり、江戸城へ無事にお連れせよ」
「……男の護衛では不服と?」
「男は、派閥や面子で裏切る。そなたら女子にしか、帝国の未来は託せぬ」
累は深く頭を垂れた。
この夜、累率いる五名の女性武芸者が闇に紛れて江戸城を脱出。芸州藩邸に入り、吉宗の寝所へ忍び込んだ。
驚く近習たちを制し、累は吉宗の前で平伏した。
「大奥よりの使いにございます。これより我らが、上様の楯となりまする」
吉宗という男は、型破りであった。女が武装して現れたことに驚くどころか、その鍛え上げられた所作を見てニヤリと笑った。
「面白い。白石の爺なら卒倒するだろうが、南洋の荒波に比べれば、女子の剣もまた頼もしきものよ」
吉宗は将軍就任後、彼女たちを正規の職制として採用する。
役職名は**「奥別式・特別警護役」**。
通称**「芙蓉衛」**。
彼女たちは、帯刀を許され、将軍の身辺警護だけでなく、時には隠密として市井や南洋へも派遣された。これは、帝国において「女性が武官として公的に認められた」最初の事例であり、後の女性将校や女性官僚の登用へと繋がる「社会進出」の原点となった。
### 4.享保の青い改革――「外洋(Gaiyo)」の誕生
享保元年(1716年)、八代将軍・徳川吉宗が就任。
彼は直ちに新井白石を罷免し(名誉ある隠居とし)、南洋副総督・村上康成を江戸へ召喚した。
「白石の作った法は、美しいが窮屈だ。余は、その枠を壊す」
吉宗が発したのは、歴史的な**「享保の大移民令」**である。
**一、農家の次男以下、および希望する町人は、南洋への渡航を自由とする。**
**一、渡航者には、幕府が一時金を貸し付け、現地での農地所有を認める。**
**一、大名による「南洋入植事業」を解禁する(ただし軍事権は幕府が握る)。**
これにより、堰き止められていた人の流れが一気に決壊した。
江戸の品川、大坂の天保山からは、連日満員の移民船が出航した。行き先は、志度新、陽州、櫻港。
この頃から、幕府の公文書や人々の会話の中に、新しい言葉が定着し始める。
日本列島(内地)に対し、海を越えた先の領土を指す言葉――**「外洋(Gaiyo)」**である。
「外洋へ行けば、食える」
「外洋へ行けば、土地が持てる」
それは、閉塞した封建社会に開いた風穴であった。
吉宗はさらに、外洋での「日本人意識」の維持にも心を砕いた。
「体は南洋にありても、心は日本人たれ」
吉宗は、儒学者・室鳩巣に命じ、外洋向けの教科書『南洋往来』を作成させた。そして、現地の主要都市に**「藩校」ならぬ「府校」**を設立。
ここでは、読み書きそろばんだけでなく、日本の歴史や道徳、そして現地の地理や航海術が教えられた。これが、後の帝国全土に広がる義務教育制度の原型となる。
### 5.女たちの外洋
移民船の中には、多くの女性の姿もあった。
かつては「女が船に乗ると神が怒る」などと言われたが、吉宗の側近である「芙蓉衛」の存在が、その迷信を打ち砕いていた。
「上様をお守りするのも女子なら、新天地を切り拓くのもまた女子よ」
外洋では、男手だけでなく、女手も貴重であった。
内地のような厳しい身分制度や「家」の縛りが緩い外洋では、才覚のある女性が商売を始めたり、農場を経営したりすることが黙認された。
特に、志度新の港町では、元「芙蓉衛」の引退者が開いた道場が人気を博し、護身術を学ぶ女性たちで溢れたという。
### 6.帝国の変容(1750年頃)
吉宗の治世が終わる1750年頃には、帝国の姿は一変していた。
人口は内地三千二百万に加え、外洋人口がついに百万人を突破。
志度新は人口五万の都市に成長し、レンガ造りの街並みが広がっていた。
平賀源内が長崎に遊学し、オランダ語の書物を貪り読み始めるのがこの頃である。
吉宗が蒔いた種――「実学の重視」「外への開放」「人材の流動化」は、やがて来る「科学と産業の時代」への準備を整えていた。
晩年、吉宗は「芙蓉衛」の隊長となっていた佐々木累と共に、江戸城の天守から海を眺めたという。
「累よ、あの海の向こうで、新しい日本が育っておる。白石の爺が見たら、何と言うかな」
「きっと、『なんと騒がしく、なんと力強き庭か』と眉をひそめつつ、筆を執るでしょう」
吉宗は豪快に笑った。
その笑い声は、来るべき蒸気と鉄の時代への号砲のようでもあった。




