39.暗黒の木曜日――沈みゆく鷲と帝国の収穫
海洋帝国日本史
第五章:沈みゆく鷲と赤い星(1920〜1941)
第六話:暗黒の木曜日――沈みゆく鷲と帝国の収穫(1929)
1.摩天楼の頂で踊る人々――永遠の繁栄という幻覚
1929年(昭和4年)、初秋。
アメリカ合衆国、ニューヨーク。
マンハッタンの空を突き刺すようにそびえ立つ摩天楼の足元で、人々は「永遠の繁栄」という甘美な幻覚に酔いしれていた。
ウォール街の証券取引所周辺では、仕立ての良いスーツを着た銀行家だけでなく、タクシー運転手や、果ては靴磨きの少年に至るまでが、株価の話題で持ちきりであった。
「旦那、RCAの株はまだ上がりますぜ。俺もなけなしのチップを全額突っ込んだんだ」
靴磨きの少年が、客の革靴を磨きながら得意げに語る。
それを聞いた大物相場師のジョセフ・ケネディは、冷や汗を流してその場を立ち去ったという伝説が残るほど、当時のアメリカ経済は異常なまでの投機熱に浮かされていた。
一般市民の心理もまた、完全に麻痺していた。
ペンシルベニア州の自動車工場で働く中流階級の男、ジョン・スミスは、妻に最新型の電気冷蔵庫とラジオをプレゼントし、車庫にはピカピカのフォード車を停めていた。
そのすべてが「分割払い(クレジット)」である。
「アメリカ経済は右肩上がりだ。俺の給料も株の配当も増え続ける。借金なんて、明日にはハシタ金になっているさ」
ジョンは、夕食のテーブルで妻に笑いかけた。
「フーヴァー大統領も言っている。『貧困は間もなく、この国から完全に姿を消すだろう』とね。俺たちアメリカ人は、神に選ばれた勝者なんだ」
彼らは、自分たちが立っている地面が、実体のない「信用(借金)」という薄氷でできていることに全く気づいていなかった。
企業は消費者の購買力(実態は借金)を見込んで過剰な生産を続け、倉庫には売れ残った自動車や家電製品の山が築かれつつあった。農村部では、ヨーロッパの農業復興に伴い、すでに数年前から農作物価格が暴落し、静かな恐慌が始まっていた。
しかし、ウォール街のティッカーテープ(株価印字機)が弾き出す熱狂的な数字だけが、すべての不都合な真実を覆い隠していたのである。
2.崩壊の序曲――暗黒の木曜日
1929年10月24日、木曜日。
その日、ニューヨークの空はどんよりと曇っていた。
午前10時。ニューヨーク証券取引所の立会場に、開場を告げるベルが鳴り響いた。
直後、フロアは異様な空気に包まれた。
「ゼネラル・モーターズ、売り! 売りだ!」
「USスチール、十万株売り!」
何の前触れもなく、怒涛のような「売り注文」が殺到したのである。
それは、一部の機関投資家が、実体経済の悪化という足音に気づき、密かに利益を確定させようと一斉に逃げを打った結果であった。
「なんだこの売りは!? 買い手がいないぞ!」
ブローカーたちはパニックに陥った。株価が下がる。さらに下がる。
当時、多くの一般投資家は「信用買い(手持ち資金の何倍もの株を借金で買う手法)」を行っていた。株価が一定の水準を下回ると、証券会社から「追加証拠金」を求められ、払えなければ強制的に株を売却される。
「株価が下がっている! 売れ! 今すぐ売れ!」
強制決済の売りが、さらなる暴落を呼ぶという、底なしの悪循環が起動した。
カチャカチャカチャカチャカチャ……!
全国の証券会社に株価を伝えるティッカーテープの印字機は、あまりの取引量の多さに完全に処理能力を超え、実際の時間から一時間、二時間と遅れ始めた。
「今、俺の株はいくらなんだ!? わからない! 何もわからない!」
恐怖が、感染症のようにウォール街を駆け抜けた。
見えない暗闇の中で資産が溶けていく恐怖。投資家たちは証券取引所の前に殺到し、怒号と悲鳴が飛び交った。
昼頃、モルガン商会をはじめとするウォール街の巨大銀行群の頭取たちが緊急会合を開き、大規模な「買い支え」を行って一時的に市場を落ち着かせた。
「……助かった。ウォール街の魔術師たちが、市場を救ってくれた」
多くの人々は、胸を撫で下ろした。週末には、新聞各紙が「パニックは終わった。経済の基礎は健全である」と書き立てた。
しかし、それは処刑台に向かう前の、最後の晩餐に過ぎなかった。
3.悲劇の火曜日――アメリカの夢が死んだ日
10月29日、火曜日。
「悲劇の火曜日」。
この日、市場は完全に「人間の制御」を離れ、狂える怪物と化した。
もはや巨大銀行の買い支えすら、太平洋の荒波に小石を投げるようなものであった。
「全株売りだ! 値段はいくらでもいい、とにかく手放せ!!」
開場と同時に、一千六百万株という空前絶後の売り注文が市場を完全に押し潰した。
優良株とされていた巨大企業の株価が、紙くずのような値段へと垂直落下していく。
「あ、あああ……俺の、俺の全財産が……」
立会場の片隅で、一人のベテランブローカーがティッカーテープを首に巻きつけ、虚ろな目でへたり込んでいた。
ウォール街の路上には、絶望した投資家たちの群れが呆然と立ち尽くしていた。
高層ビルの窓から、借金を抱えて破産した実業家が次々と飛び降り自殺を図るという凄惨な光景が、現実のものとして展開された。
わずか数日の間に、アメリカの国家予算の数倍にも及ぶ天文学的な「富(という名の幻)」が、泡のように消え去ったのである。
崩壊はウォール街だけにとどまらなかった。
株で大損した銀行が次々と倒産し、預金を下ろそうとする市民たちが銀行の前に長蛇の列(取り付け騒ぎ)を作った。
「開けろ! 俺の預金を返せ!」
しかし、固く閉ざされた銀行の扉に貼られていたのは、「破産宣告」の冷酷な張り紙だけであった。
ペンシルベニアの工場労働者、ジョン・スミスは、ある日突然、工場長から解雇を言い渡された。
企業が生産を停止したのだ。
分割払いで買ったフォードの車は借金取りに引き揚げられ、冷蔵庫の中身は空になった。
昨日まで「永遠の繁栄」を信じていた誇り高きアメリカ市民たちは、みすぼらしいコートの襟を立て、無料のスープを求める「パンの配給列」に、力なく並ぶことになったのである。
「なぜだ……。俺たちは何も間違ったことはしていないはずだ。ただ真面目に働き、アメリカの夢を信じていただけなのに」
ジョンの呟きは、絶望の淵に突き落とされた数千万のアメリカ国民の、血を吐くような悲鳴そのものであった。
4.帝都への衝撃波――兜町の悲鳴と海運の恐怖
アメリカ経済の心肺停止という未曾有のショック波は、数日のうちに太平洋を越え、日本帝国へと到達した。
東京・日本橋兜町(証券取引所)。
「ニューヨークが死んだぞ!! ダウが半分以下に吹き飛んだ!」
兜町にも、激震が走った。
完全な自由市場を謳歌していたアメリカに対し、日本帝国は統制経済を敷いていたとはいえ、この時代、アメリカは日本にとって非常に重要な「貿易相手国」であった。
最も深刻な打撃を受けたのは、対米輸出に依存していた**「生糸(繊維)産業」と、「海運各社」**であった。
「注文がすべてキャンセルされた! アメリカの連中、絹のストッキングを買う金すらなくなったらしいぞ!」
横浜港や神戸港では、山積みにされた生糸の束が、行き場を失って埃を被っていた。
輸出企業の株価は暴落し、中小の繊維工場では悲鳴が上がった。
さらに、世界中の海に商船隊を展開していた日本郵船や大阪商船といった大手海運各社の役員室も、お通夜のような暗さに包まれていた。
「太平洋航路の貨物量が、一気に激減しました。アメリカから輸入する機械類も、向こうの工場がストップしているため、船が空荷で帰ってくる有様です」
海運会社の社長は、頭を抱えた。
「これでは船を動かすだけで赤字だ。……自由貿易というシステムそのものが、崩壊しようとしている」
アメリカの株や債券に投資していた一部の富裕層や銀行も、莫大な損失を計上し、帝都の経済界には一時的なパニックと暗い影が落ちた。
「自由主義経済の脆弱性が、最悪の形で露呈した」
霞が関の官僚たちは、青ざめた顔で報告書をまとめていた。
「アメリカという巨大なエンジンが止まれば、それに紐付いた我々の貨車も止まる。これが、他国に依存するということの恐怖だ」
5.帝国の冷徹なる収穫――ハゲタカの饗宴
しかし、パックス・ジャポニカの真の恐ろしさは、この世界的な絶望を「千載一遇の好機」と捉える冷徹な捕食者の顔を持っていたことである。
大手町、徳川財閥本社ビルの最上階。
眼下にパニックに陥る兜町を見下ろしながら、徳川家の総帥と、将軍府・商工省から派遣された特命官僚たちが、シャンパングラスを傾けていた。
「アメリカの連中が、自分たちで作ったバブルの毒に当たって自滅したか」
総帥は、冷酷な笑みを浮かべた。
「我が帝国の『国家統制』の正しさが証明されたな。我々は、あのような無軌道なマネーゲームには深入りせず、満州と南洋という『実体のある資源と市場』を固めてきたのだから」
商工省の若きエリート官僚、岸が、分厚いファイルをテーブルに置いた。
「閣下。アメリカの産業界は今、文字通りの『火事場』です。航空機メーカー、工作機械メーカー、自動車の部品工場。昨日まで我々が喉から手が出るほど欲しかった最先端の技術と設備が、今ならタダ同然の二束三文で叩き売りされています」
「なるほど」
総帥の目が、ハゲタカのように鋭く光った。
「アメリカの不幸は、帝国の栄養というわけか。……**『帝国海外投資特別ファンド』**を直ちに起動させよ」
その日の夜から、帝国の「見えざる手」が狂暴に動き始めた。
ニューヨークやデトロイトに駐在する、三菱、三井、そしてTOYOTAの特命社員たち、さらには秘密情報部の工作員たちが、ウォール街の血の海の中で、貪欲に「獲物」を買い漁り始めたのである。
「破産手続きに入ったアメリカの中堅航空機メーカーの『全特許』と『風洞実験データ』、百万ドルで買い叩きました」
「デトロイトの倒産した自動車部品工場から、最新鋭の大型プレス機と精密旋盤を、屑鉄同然の値段で買い付けました。明日、横浜行きの貨物船に積み込みます」
さらに、彼らが狙ったのは「機械」だけではなかった。
「技術者(頭脳)を一本釣りしろ」
路頭に迷い、家族を養うこともできなくなったアメリカの優秀なエンジニアたちに対し、日本の企業は「破格の給与」と「東京での安定した生活」を提示した。
「ミスター・スミス。我々のTOYOTAで、トラックのエンジン設計を手伝ってくれませんか。あなたのアメリカでの給料の三倍を保証しましょう。家族も全員、安全な日本へお連れします」
「……神よ、感謝します。私は、悪魔に魂を売ってでも、家族にパンを食べさせたいのです」
誇り高きアメリカの技術者たちは、背に腹は代えられず、かつて見下していた極東の島国へと、自らの知識と経験を売り渡していった。
パニックに陥るアメリカの足元で、帝国日本は、自らの兵器開発と産業基盤を一気に数世代分も飛躍させるための「技術と頭脳の略奪」を、完全に合法的なビジネスとして、冷酷かつ静かに完遂していたのである。
6.エピローグ――砕け散った王冠
1930年代初頭。
「狂騒の20年代」の華やかなネオンは完全に消え失せ、アメリカ全土は「大恐慌」という果てしない闇に包まれていた。
街角には失業者が溢れ、広場には段ボールや廃材で作られた粗末なスラム街(のちにフーヴァーヴィルと呼ばれる)がどこまでも続いていた。
誇り高き白き鷲は、その巨大な翼をもがれ、地に落ちて泥水をすすっていた。
「完全なる自由市場が、我々を地獄へ導いた」
政治家も資本家も、為す術なく立ち尽くす中、ウォール街から海を隔てた遠く極東の地では、全く異なる光景が広がっていた。
帝国の巨大な貨物船が、アメリカから安値で買い叩いた最新の工作機械と技術者たちを満載して、次々と東京港へ入港してくる。
これらの「獲物」は、国防技術研究所や各メーカーの工場へと運び込まれ、すでに始動している「極秘の兵器開発(装甲空母、レーダー、ジェットエンジン)」の完成を劇的に早めるための強力なブースターとなっていた。
輸出産業の打撃という一時的な痛みを伴ったものの、帝国政府は「国家主導の統制経済」という強靭なシステムと、満州・南洋という絶対的な内需を活用し、この世界的な破局から世界で最も早く立ち直ろうとしていたのである。
「資本主義の敗北だ。これからの世界は、国家がすべてを統制し、経済を武力で囲い込む『ブロック』の時代となる」
霞が関の官僚たちは、新たな世界地図を広げた。
沈みゆく鷲を冷笑しながら。
パックス・ジャポニカは、イギリス帝国と共に、世界経済からアメリカを完全に締め出す究極の防壁――**「円・ポンドブロック」**の構築へと、その巨大な歯車を回し始めていた。
(第五章 第六話 完)




