34.クレムリンのチェス盤
海洋帝国日本史
第五章:沈みゆく鷲と赤い星(1920〜1941)
第一話:クレムリンのチェス盤(1922)
1.モスクワの凍てつく冬
1922年(大正11年)、冬。
五年間に及ぶ血みどろの内戦(赤軍と白軍の戦い)を経て、広大なユーラシア大陸の凍土に、人類史上初となる全く新しい国家が産声を上げた。
「ソビエト社会主義共和国連邦」。
その首都モスクワの中心、分厚い城壁に囲まれたクレムリン宮殿。
かつてロマノフ王朝の皇帝たちが栄華を極めたその場所は、今や赤旗が翻り、プロレタリアート(労働者階級)の独裁を掲げるボリシェヴィキの最高中枢となっていた。
重厚な執務室の暖炉の前で、ソビエト連邦の最高指導者ウラジーミル・レーニンは、一人の東洋人とチェス盤を挟んで向かい合っていた。
「チェックメイトだ、我が友よ」
レーニンがナイトの駒を進めると、向かいに座る男は小さく息を吐き、自らのキングを倒した。
「やはり、あなたには敵いませんな、ウラジーミル。盤上全体を俯瞰するその目は、まさに革命を成功させた指導者のものです」
男は、流暢なロシア語で微笑んだ。
名を、**李**という。
レーニンがまだスイスやロンドンで亡命生活を送っていた不遇の時代から、莫大な活動資金を秘密裏に援助し続けてくれた「中国人の裕福な貿易商」であった。
「君の資金援助がなければ、我々の革命は三年は遅れていただろう。いや、実現していなかったかもしれない。君は我が祖国にとって最高の恩人だ、李」
レーニンは、珍しく心を許したような、温和な笑顔を向けた。
李は、恭しく頭を下げた。
「私など、あなたの偉大なる思想に感銘を受けた、ただのしがない商人に過ぎません。西洋の帝国主義に蹂躙された我が祖国(中国)も、いつかあなた方の力で解放されることを願っております」
しかし、レーニンは知らなかった。
自分と最も親しいこの「中国人の親友」の正体が、ソビエトの東方への進出を完全に阻み、極東ロシア王国という傀儡国家をでっち上げた最大の宿敵・日本帝国の将軍府秘密情報部長官、明石元二郎大将その人であることを。
2.奇妙な友情と、明石の探り
「しかし、李よ。革命は成し遂げたが、我々の前途は多難だ」
レーニンは紅茶をすすりながら、忌々しげに窓の外を見た。
「ヨーロッパの資本家どもは、我が国を『感染源』として忌み嫌い、包囲網を敷いている。そして何より許し難いのが、極東のあの忌まわしい島国――日本帝国だ」
明石(李)は、表情を一切変えずに相槌を打った。
「ええ。彼らはあなたの祖国からウラジオストクを奪い、ロマノフの残党を匿って『極東ロシア王国』なる偽りの国を立てました」
「あの日本人どもの狡猾さは異常だ。彼らは泥沼のヨーロッパ戦線には指一本触れず、ヴェルサイユ会議で莫大な債権を握って覇権国にのし上がった。帝国主義の最も醜悪な完成形と言っていい」
レーニンは拳を握りしめた。
「だが、我々は武力で彼らに挑むような愚は犯さない。……李、君だけに教えておこう。我々の次の戦争は、大砲や戦艦を使うものではないのだ」
「ほう? と、仰いますと」
明石は、静かにレーニンの言葉を促した。
「**『コミンテルン(第3インターナショナル)』**だ。我々は、世界中の労働者や知識人に共産主義の思想を植え付ける。日本帝国の国内にも、すでに我々の同志が潜入し、秘密裏に細胞を増やしつつある」
レーニンの目は、狂信的な光を帯びていた。
「いかに強大な軍隊や財閥を持っていようと、国家を内側から腐らせれば、いずれ必ず倒壊する。我々は、十年、二十年かけて、奴らの足元に毒を流し込むのだ」
明石は、内心の戦慄を完璧な作り笑いの裏に隠した。
「素晴らしい戦略です。武力を持たぬ者には、思想こそが最強の武器。あなた方の赤き星が、極東の空を赤く染める日を楽しみにしておりますよ」
「ありがとう、李。……ところで、君はいつまでモスクワに滞在する予定だ?」
「残念ですが、明日には発たねばなりません。ロンドンで商談がありまして」
「そうか。くれぐれも気をつけてな。君は、私にとって数少ない、本当に信頼できる『同志』なのだから」
レーニンと固く握手を交わし、クレムリンを後にした明石は、馬車の中で一つだけ深い溜息をついた。
(……恐ろしい男だ。彼は軍事的な敗北など微塵も恐れていない。自らの思想が世界を覆い尽くすという、純粋な狂気を信じ切っている)
帝国は、極東ロシア王国という「物理的な防波堤」を築いた。
しかし、相手が「思想」という目に見えないウイルスで攻撃を仕掛けてくるのなら、物理的な壁など何の意味も成さない。
明石は、この凍てつくモスクワの地で、来るべき全く新しい形の戦争(情報戦とイデオロギー戦)の始まりを確信していた。
3.江戸城地下の報告――思想という名のウイルス
数週間後。
東京・江戸城(将軍府)の地下深くに設けられた、国防総省統合参謀本部の特別会議室。
そこには、将軍・徳川家正をはじめ、首相、内務卿、そして陸海軍の首脳たちが顔を揃えていた。
「……以上が、私がクレムリンの奥深くで、レーニン本人から直接聞き出したソビエトの国家方針の全貌です」
軍服姿に戻った明石元二郎が、冷徹な声で報告を締めくくった。
会議室は、水を打ったような静寂に包まれた。
「武力による侵略ではなく、思想による内部崩壊、だと……」
内務卿が、唸るように言った。
「我が国が最も警戒すべきシナリオだ。帝国の強さは、将軍と天皇という絶対的な権威と、強固な身分秩序の上に成り立っている。階級闘争を煽る共産主義は、帝国の国体に対する『致死毒』に他ならん」
家正将軍は、鋭い視線を内務卿へ向けた。
「内務省・特別高等警察局(特高)。国内の防諜体制はどうなっている」
「すでに動いております、上様」
内務卿が即答する。
「労働組合や大学の思想研究会など、コミンテルンの息がかかりそうな組織には、すべて我々の『犬(潜入捜査官)』を放っております。不穏な動きを見せる者は、国家反逆罪として容赦なく摘発し、社会の表舞台から抹殺します。我が国に、赤いウイルスが蔓延する隙間は一ミリたりとも与えません」
「それでよい。だが、国内だけでは不十分だ」
家正は、海図の広がるテーブルを叩いた。
「明石。お前の率いる秘密情報部は、今後ともソビエトの動向を完全に掌握せよ。奴らが『思想』を輸出するならば、我々はそれを水際で防ぐだけでなく、逆に奴らの内部へ工作員を送り込み、疑心暗鬼の種を蒔き続けろ」
「はっ。レーニンは私のことを『中国人の同志』と信じ切っております。このパイプを利用し、ソビエト中枢の情報を骨の髄まで吸い上げます」
帝国は、誕生したばかりのソビエト連邦に対し、正面からの軍事衝突を徹底して避けた。
シベリア出兵の泥沼に足を踏み入れた史実とは異なり、極東ロシア王国という「壁」の向こう側で起きていることには直接関与せず、ただ情報だけを冷酷に抜き取り続ける。
それが、パックス・ジャポニカの合理性であった。
4.エピローグ――静かなる暗闘の幕開け
1920年代初頭。
第一次世界大戦の硝煙が晴れ、世界は「平和」という名の仮面を被った新しい時代へと移行しつつあった。
ソビエト連邦は、世界中の共産党を指導するコミンテルンを通じて、各国への見えない侵略を開始した。
対する日本帝国は、特高警察による徹底した国内の思想統制と、秘密情報部による海外でのスパイ網の構築により、この「赤いウイルス」に対する強固な免疫システムを完成させようとしていた。
モスクワと東京。
二つの首都の間で、銃声の鳴らない、しかし国家の存亡を懸けた影の戦争が、静かに、そして激しく火花を散らし始めていたのである。
しかし、この時期の帝国が警戒しなければならないのは、北の赤い星だけではなかった。
太平洋の対岸では、大戦景気によって空前の富を蓄積したもう一つの巨大な国家が、その有り余るエネルギーを持て余し、傍若無人な振る舞いを始めようとしていた。
アメリカ合衆国。
彼らの「自由の女神」は、極東の黄金の島国に対し、羨望と嫉妬に歪んだ冷たい視線を向け始めていたのである。
(第五章 第一話 完)
遂に第5章。ここは物語の山場である第二次世界大戦に向けて重厚感ある物語にするため、また多くの歴史の重要な分岐点が起こるために少し長めに設定しています。お付き合いいただけますと嬉しいです。




