32.遺構が語る帝国の記憶――パックス・ジャポニカ産業遺産群
海洋帝国日本史 閑話
遺構が語る帝国の記憶――パックス・ジャポニカ産業遺産群
【登場人物】
* 柴田教授: 帝国大学歴史学部教授。海洋帝国の産業史と労働者階級の歴史を専門とする。
* 神崎: 大手旅行代理店の凄腕観光コンサルタント。帝国の産業遺産を巡る新たな富裕層向けツーリズムを企画中。
序:長崎の風と黒いダイヤ
現代。長崎港を見下ろす高台の高級ホテルのラウンジ。
眼下には、かつて世界の海を支配した巨大な造船所のクレーン群が、夕日に照らされて巨大な恐竜の骨格のように並んでいる。
「本日は実際に軍艦島(端島)へ足を運んでいただき、ありがとうございます、柴田先生」
神崎は、タブレット端末に表示された近代産業遺産のリストをスワイプしながら微笑んだ。
「我が社では現在、『海洋帝国の軌跡を辿るヘリテージ・ツーリズム』を企画しております。江戸時代から第一次世界大戦に至るまで、この国を世界最強の覇権国家へと押し上げた『鉄と石炭と汗の記憶』を、観光資源として再構築したいのです」
柴田教授は、窓の外の長崎港を見つめたまま、静かにコーヒーのカップを置いた。
「観光資源、ですか。……神崎さん。今日あなたが上陸した軍艦島は、ただのノスタルジーを誘う廃墟ではありません。あそこは、帝国という巨大なボイラーに石炭をくべ続けた、数万の男たちの『戦場』だったのですよ」
1.【長崎】始まりの港と、財閥の城下町
「長崎は、海洋帝国の『ゆりかご』です」
柴田は語り始めた。
「江戸時代、海外貿易を国内で唯一行い、その莫大な富と情報が集積したのがこの街でした。そして、付近に眠る石炭を近代的な『産業』へと昇華させたのが、岩崎弥太郎が興した三菱財閥です」
神崎が頷く。
「現在の長崎市は、まさに三菱の企業城下町ですね。三菱重工業長崎造船所を中心とする巨大な造船群は、今見ても圧倒されます。特に、江戸後期から明治にかけて作られた巨大ドック群の石組みは、芸術品の域です」
「ええ。当時のドック建設には、城の石垣を積む穴太衆の末裔たちが駆り出されました。彼らは、鋼鉄の巨艦を包み込む揺り籠を、ノミと玄翁だけで削り出したのです。近代的なクレーンなどない時代、何千人もの労働者が、血の滲むような掛け声と共に巨石を運びました」
柴田の脳裏には、当時の記録写真に写る、褌一丁で汗まみれになった男たちの姿が浮かんでいた。
「彼らの手によって、木造のガレオン船から、鉄の装甲艦へ、そして世界を震撼させた弩級戦艦へと、帝国の刃がここで鍛え上げられたのです。……そして、その鉄を叩き、船を動かすエネルギーの源が、今日あなたがご覧になった**軍艦島(端島)**を始めとする石炭採掘場でした」
「海底炭鉱ですね。ガイドの説明によれば、本土屈指の出炭量を誇ったとか」
「想像してみてください」
柴田の声が熱を帯びる。
「気温四十度、湿度九十五パーセント。ガス爆発と落盤の恐怖が常に付きまとう、海底数百メートルの暗闇です。当時の鉱夫たちは、そこを『モグラの地獄』と呼びました。ツルハシを振るうたびに黒い粉塵が舞い、肺を真っ黒に染めていく。彼らは一日十時間以上もその地獄で働き、這い上がるようにして地上へ戻ってきました」
「過酷ですね……」
「しかし、彼らには強烈な『誇り』がありました。自分たちが掘り出したこの黒い石ころ(石炭)が、巨大な戦艦を動かし、欧米列強を震え上がらせているのだと。軍艦島は、そんな彼らとその家族が寄り添って生きた、世界一人口密度の高い、熱気と人情に溢れたコンクリートの要塞だったのです」
神崎は、タブレットにメモを打ち込んだ。
「『暗闇の誇りが、帝国の光を作った』……素晴らしいキャッチコピーになりそうです。長崎には他にも、江戸時代からの外交の舞台であった出島の遺構がありますね」
「出島は、鎖国どころか、将軍家が世界を覗き込むための『巨大な望遠鏡』でした。市内に残るオランダとの友好関係を示すレンガ造りの洋館群は、帝国が西洋の技術を貪欲に吸収した証です」
柴田は、長崎港の対岸を指差した。
「そしてもう一つ忘れてはならないのが、**坂本財閥(旧海援隊)**の遺構です」
「坂本龍馬が設立し、今や世界的な巨大コングロマリットとなったあの坂本財閥ですね」
「そうです。長崎に残る彼らの巨大な赤レンガ倉庫群と、傭兵たちの待機所であった兵舎跡。彼らは正規軍ではなく、将軍家から『私掠免許(実質的な海賊行為の許可)』を与えられた海のならず者たちでした。南洋の荒波を越え、時には血の流れる抗争を経て物資を運んだ彼らの荒々しい息遣いが、あの石畳とレンガには染み付いているのです」
2.【広島および呉】鋼鉄の心臓と水軍の末裔
神崎はタブレットの地図をスワイプし、瀬戸内海へと視点を移した。
「さて、長崎が『ゆりかご』なら、こちらは帝国の『鋼鉄の心臓』ですね。中四国最大のメガロポリス、広島都市圏です」
「広島は特殊な地です」
柴田は語気を強めた。
「徳川御三家の一つ、芸州徳川家のお膝元。江戸時代から軍事と産業が高度に結びついた、帝国の最重要拠点です。現在でも自動車産業や半導体産業が密集していますが、そのルーツはすべて明治期の軍需産業にあります」
「特に**呉**の軍港は、ツアーの目玉です。村上造船の巨大なドックと、戦艦大和の展示施設は、外国人観光客にも大人気ですから」
神崎の言葉に、柴田は頷いた。
「村上造船……かつて瀬戸内海を支配した村上水軍の末裔たちです。彼らは刀をハンマーに持ち替え、世界最高峰の造船集団へと変貌しました。呉海軍工廠の第一ドック(現在は稼働を終え、歴史記念物となっている)の底に立ったことはありますか?」
「ええ、視察で。下から見上げる石組みの壁は、まるでグランドキャニオンのようでした」
「あのドックで、後に世界を驚愕させる超弩級戦艦群が産声を上げました。工員たちは、船の装甲板を単なる鉄の板ではなく、『日本刀』を鍛えるように扱ったと言われています。数ミリの歪みも許さず、リベットの一つ一つに魂を込めて打ち込む。夏のドックは灼熱の鉄板焼きの上のような暑さで、冬は海風で手足の感覚が消えるほどの寒さでした。彼らは火傷と凍傷だらけの手で、帝国の『矛』を研ぎ澄ませ続けたのです」
「職人たちの執念ですね。……そして、その鉄を生み出したのが、日本製鉄広島製鉄所ですね」
「はい。現在は稼働を終え、巨大な高炉だけがモニュメントとして保存されていますが、明治から大正にかけて、あそこは『眠らない火の山』でした。ドロドロに溶けた千五百度の銑鉄が真っ赤な川となって流れる光景は、まさに地獄絵図。作業員たちは、熱気で髪の毛が焦げるのも構わず、長大な鉄の棒で炉の中をかき混ぜました。少しでも気を抜けば、跳ねた鉄の飛沫で命を落とす。あの巨大な高炉は、文字通り労働者たちの血と汗を養分にして、強靭な帝国製鋼鉄を吐き出し続けたのです」
柴田は、タブレットに映る広島城の画像に触れた。
「そして、これらすべての重工業と軍事拠点を統括したのが、この広島城と、周囲に張り巡らされた城郭群(要塞群)でした。表向きは美しい日本の城郭ですが、その地下には分厚いコンクリートで覆われた司令部と、鉄道網が複雑に絡み合っていました。芸州徳川家の武士たちは、髷を落とし、軍服や背広を着て、この城から『産業と戦争』という新しい時代の戦を指揮したのです」
「侍の魂が、そのまま軍産複合体のマネジメントへと移行したわけですね。非常にドラマチックです」
神崎の目は、すでにこのツアープランの成功を確信して輝いていた。
3.【帝国の動脈】六つの産業遺産
「長崎と広島だけではありません。この巨大な帝国を回すためには、広大な領土の隅々から血(資源)を吸い上げる必要がありました」
柴田は、さらに六つの重要な産業遺産について語り始めた。
① 北海道の炭鉱
「北の果て、極寒の北海道。ここにも巨大な炭鉱群が拓かれました。夕張や幌内といった内陸部の炭鉱は、冬にはマイナス二十度にもなる過酷な環境です。初期の開拓には、政治犯や重罪人を集めた『囚人労働』も投入されました。足に鉄の鎖をつけられ、粗末な小屋で凍えながらツルハシを振るった男たち。彼らの多くの遺体が、冷たい土の下に埋まっています。その犠牲の上に、鉄道が敷かれ、北の石炭が本州へと運ばれ、帝国の近代化の火を絶やさずに燃やし続けたのです。雪に閉ざされた巨大な立坑櫓は、彼らの墓標でもあります」
② 佐渡の金山
「時代を少し遡りましょう。将軍家が南洋へと進出するための『初期投資』、その莫大な軍資金を叩き出したのが、佐渡の金山です。江戸時代から続くこの鉱山では、『水替無宿』と呼ばれた無宿人たちが、地下深くで湧き出る冷水を、手動のポンプ(水上輪)で昼夜問わず掻き出し続けました。湿気と酸欠で次々と人が倒れる中、彼らが命と引き換えに掘り出した黄金が、ガレオン船の建造費となり、西洋から最新の兵器を買う資金となったのです。帝国の最初の推進力は、この暗い坑道から生まれました」
③ 筑豊炭田
「九州の北部、筑豊。ここは長崎の軍艦島とは異なり、内陸の川沿いに無数の炭鉱が広がる地域でした。掘り出された石炭は、『川艜』と呼ばれる川舟に乗せられ、遠賀川を下って海へ運ばれました。筑豊の川筋者と呼ばれる鉱夫や船頭たちは、荒々しくも義理人情に厚い気性で知られていました。真っ黒に汚れながらも、『俺たちが国の腹を満たしているんだ』という強烈な自負心を持っていた。彼らが掘り出した石炭が、すぐ隣にある八幡の製鉄所の炉を燃やし、近代化の屋台骨を支えたのです」
④ 八幡の製鉄所
「その筑豊の石炭を受け入れ、帝国初の本格的な国産鉄を産み出したのが、官営・八幡製鉄所です。英国の技術を模倣して建設された第一高炉に初めて火が入った日、明治の技術者たちは涙を流して抱き合いました。『鉄は国家なり』灼熱の炉の前で、汗で軍手から煙を上げながら鉄の塊と格闘した労働者たち。彼らの努力があったからこそ、帝国は諸外国の顔色を窺うことなく、独自の戦艦と大砲を造り続けることが可能になったのです」
⑤ サイパン島の鯨油基地
「目を南へ向けましょう。帝国が世界に先駆けて手に入れたマリアナ諸島、そのサイパン島に残るのが、初期の巨大な『鯨油精製基地』の遺構です。まだ石油が世界の主要エネルギーになる前、欧米諸国は照明用の油を求めて世界中の海でクジラを狩っていました。帝国は、南洋の地の利を活かし、ここに巨大な捕鯨拠点と精製工場を建設しました。南の島の強烈な日差しの中、血と脂の悪臭にまみれながら、巨大なクジラを解体し、油を煮詰めた海の男たち。彼らが精製した鯨油が、帝都・東京の夜を明るく照らし、工場の機械を滑らかに動かしていたのです」
⑥ 豪州西部の露出鉱床
「そして最後が、海洋帝国の究極のチート(反則)とも言える場所。豪州西部の広大な赤い大地です。ここでは、掘るまでもなく、地表に高純度の鉄鉱石がむき出しになっていました。19世紀末から20世紀初頭にかけて、帝国はこの地に巨大な蒸気ショベルカーと鉄道を持ち込みました。見渡す限りの荒野で、砂埃にまみれながら巨大な機械を操り、山を丸ごと削り取った開拓者たち。この無尽蔵の鉄鉱石が、専用の鉱石運搬船で広島や八幡へと次々と運び込まれました。このスケールの暴力こそが、大英帝国やアメリカを絶望させた『パックス・ジャポニカの真の動力源』だったのです」
結:廃墟に響く鼓動
神崎コンサルタントは、しばらくの間、言葉を失っていた。
ただの「古い建物の跡」だと思っていた場所が、柴田教授の語りによって、血の通った人間たちの壮絶なドラマの舞台として鮮やかに色づいたからだ。
「……先生。素晴らしいです」
神崎は、深く息を吐き出した。
「私たちが企画するツアーは、単なる遺跡巡りではなく、名もなき労働者たちへの『巡礼』にしなければなりませんね」
「その通りです」
柴田教授は、再び長崎港の夕景へと目を向けた。
「華やかな外交や、連合艦隊の勇ましい海戦の裏側には、常に泥と煤と熱気にまみれた労働者たちの存在がありました。彼らは歴史の教科書には名を残していません。しかし、この国に残る錆びついたクレーンや、コンクリートの廃墟、崩れかけたレンガの壁に耳を澄ませば、今でも彼らの力強いツルハシの音と、重い息遣いが聞こえてくるはずです。……それこそが、海洋帝国日本が世界を制した、真の理由なのですから」
夕日に照らされた長崎の街は、かつてこの国を動かした数多の命の熱を帯びているかのように、赤く、力強く輝いていた。
(閑話 完)
ついこの前、長崎で軍艦島ツアーに行ったので書きたくなって書きました笑
あそこは近代日本において非常に重要な遺産であり、多くの労働者の血と汗の結晶でした。
既に使われなくなって、数十年が経ち、今や観光客が多く訪れていますが、
ごくまれに昔の島民が訪れると緑の多さにびっくりされるそうです。
鉱山の島も再生を始めている。
ぜひ一度行かれることをオススメします。




