30.シベリアの雪、皇女の逃避行
海洋帝国日本史
第四章:世界大戦と双頭の鷲(1900〜1918)
第九話:シベリアの雪、皇女の逃避行(1918)
1.血塗られた地下室――エカテリンブルクの惨劇
1918年(大正7年)7月17日、深夜。
ウラル山脈の麓、エカテリンブルク。幽閉されていたロマノフ家の人々が収容されていた「イパチェフ館」の地下室は、むせ返るような黒色火薬の煙と、夥しい血の海に沈んでいた。
レーニン率いるボリシェヴィキ(共産党)の秘密警察「チェカ」の処刑隊長ユロフスキーが、無慈悲な銃弾を撃ち込んだ直後である。
皇帝ニコライ2世、皇后、そして幼き皇太子アレクセイは、床に崩れ落ちて息絶えていた。
「生存者を確認しろ! 息のある者は銃剣で突け!」
ユロフスキーが怒鳴り声を上げたその瞬間。
地下室の窓ガラスが外から蹴り破られ、黒い筒が床に投げ込まれた。
閃光と、鼓膜を破るような轟音(スタングレネードの原型)。
「な、何だ!?」
処刑隊が視力を奪われ混乱する中、黒装束に身を包んだ数個の影が、天井の梁と窓から音もなく滑り降りた。
彼らは、ユーラシア大陸の西の果てから極東に至るまで、世界中の暗部で暗躍する帝国最大の謀略組織――将軍府秘密情報部の精鋭工作員たちであった。
「対象を発見。……皇帝と皇太子はすでにロスト(死亡)。だが、娘二人に息がある!」
コルセットに縫い込まれた大量のダイヤモンドが防弾チョッキの役割を果たし、奇跡的に致命傷を免れていた四女アナスタシアと、長女オリガである。
「運び出せ! 赤軍の増援が来るぞ!」
工作員の一人が、一〇〇式短機関銃の掃射で処刑隊を蜂の巣にし、血だまりの退路を切り開く。
気絶した二人の皇女を担ぎ上げた工作員たちは、イパチェフ館を包囲しようとする赤軍兵士の網の目を縫い、漆黒のウラルの森へと姿を消した。
2.悪魔の提案――明石元二郎の冷徹
数日後。ウラル山脈中腹に位置する、秘密情報部の隠しセーフハウス。
粗末な暖炉の火の前で、毛布にくるまった十七歳のアナスタシアと、二十二歳のオリガは、肩を震わせて泣き続けていた。
家族を目の前で惨殺された絶望とトラウマが、彼女たちの心をズタズタに引き裂いていた。
そこへ、一人の東洋人が静かに部屋へ入ってきた。
将軍府秘密情報部長官・明石元二郎大将である。彼はこの歴史的作戦を完遂するため、自らシベリアの最前線へと足を踏み入れていた。
「……助けていただいたことには、感謝します」
オリガが、震える声でロシア語で言った。
「あなたは日本帝国の将軍ですね。お願いです、今すぐ我が国へ大軍を送り込み、あの憎きボリシェヴィキどもを皆殺しにしてください! お父様とお母様の仇を討ち、ロマノフの誇りを取り戻して!」
アナスタシアも、涙で腫れた目で明石を睨みつけた。
「私たちはロシアの正統なる後継者です。帝国が私たちをモスクワの玉座へ戻してくれるなら、どんな見返りでも差し出します!」
明石は、表情一つ変えずに懐から銀のシガレットケースを取り出し、タバコに火をつけた。
「皇女殿下。残酷なことを申し上げるようですが、我が日本帝国は、あなた方の復讐のために十万の兵の血を流す気はありません」
「……えっ?」
「我々が恐れているのは、共産主義という『病原菌』が、シベリアを越えて我が帝国の防波堤(満州・朝鮮)へ感染することです。モスクワの玉座など、我々にとってはただの燃えカスに過ぎない」
明石は、冷ややかな瞳で二人の皇女を見下ろした。
「ですが、帝国はあなた方に『悪魔の提案』をいたします」
明石は、一枚の地図をテーブルに広げた。バイカル湖からウラジオストクに至る、極東ロシアの広大な領土である。
「あなた方を、極東の果て(ウラジオストク)までお連れする。そこで、帝国の保護の下、新たな国家を樹立していただきます。我々は金も、武器も、軍事顧問も出しましょう」
「国を、二つに割れと言うのですか!?」
オリガが顔を青ざめさせた。「それでは、ロシア人同士で殺し合いをしろと……!」
「その通りです」
明石は冷徹に言い放った。
「ボリシェヴィキを極東に近づけないためには、ロシア人の血をもって『壁』を作るのが最も効率的だ。……ロマノフの誇りと歴史を守りたいのであれば、我々の操り人形(傀儡)となり、自らの手で同胞を撃ち殺す覚悟を決めなさい。それができないなら、今すぐこの扉から外へ出て、赤軍に撃たれて死ぬことです」
あまりにも非情で、残酷な二者択一。
オリガは絶望に泣き崩れた。
しかし、アナスタシアは違った。彼女は血の滲む唇を噛み締め、両手でドレスの裾を強く握りしめた。
その目から少女の弱々しさが消え、氷のような冷たい光が宿るのを、明石は見逃さなかった。
「……わかりました」
アナスタシアは、明石を真っ直ぐに見据えて言った。
「誇りを泥に塗れさせてでも、私は生き延びます。そしていつか、あの悪魔たちを根絶やしにする。日本帝国の毒杯、飲み干して差し上げます」
「見事なご覚悟です、殿下」
明石は深く一礼した。
「これより、将軍府秘密情報部の総力を挙げ、殿下をウラジオストクへお送りいたします。……地獄の逃避行の始まりです」
3.地獄のシベリア横断――三百人の決死隊
エカテリンブルクからウラジオストクまで、およそ六千キロ。
赤軍(共産党軍)が支配を広げつつあるシベリア鉄道の沿線を、密かに突破しなければならない。
この絶望的な作戦に投入されたのは、満州から極秘裏に潜入した将軍府秘密情報部の実働部隊・三百名であった。
彼らは、全員がロシア語に堪能であり、ロシア兵の軍服や現地人の衣服を身にまとい、完全な偽装工作を行っていた。
部隊を指揮する影山少佐は、兵士たちに訓示した。
「我々の命は、皇女殿下の盾である。殿下の髪の毛一本でも赤軍に触れさせれば、帝国の防衛線は崩壊すると思え。……一人残らず、死ぬ気で守り抜け!」
逃避行は、凄惨を極めた。
最初は偽造した身分証で貨物列車に潜り込んだ一行だったが、オムスクを過ぎた辺りで、チェカ(秘密警察)の検問に勘付かれた。
「怪しい奴らだ! 荷台を開けろ!」
「……始末しろ」
影山の合図と共に、サイレンサー(消音器)を取り付けた拳銃が火を噴き、赤軍の検問部隊を瞬殺する。
しかし、これを機に彼らの存在はトロツキー率いる赤軍上層部に露見した。
「ロマノフの生き残りが東へ向かっている! 何としても捕らえよ!」
赤軍の「装甲列車」が追撃を開始し、果てしないシベリアの雪原を舞台にした、血みどろの追走劇が幕を開けたのである。
マイナス三十度の極寒。
吹雪で視界が閉ざされる中、猛スピードで走る客車の屋根の上で、工作員たちと赤軍兵士の死闘が繰り広げられる。
「手榴弾、投げろ!」
「左舷後方より、敵騎兵部隊接近!」
工作員たちは、手持ちの一〇〇式短機関銃と爆薬を駆使し、次々と迫る赤軍を退けていく。しかし、多勢に無勢である。
流れ弾が工作員の胸を貫き、雪原へと転がり落ちていく。
追撃を断ち切るため、自らポイント(分岐器)の切り替え所に残り、敵の装甲列車と道連れに自爆する者もいた。
「少佐、第五班の五名、全滅しました!」
「止まるな! 殿下の車両を切り離して、先へ進め!」
エカテリンブルクを出発した時、三百人いた精鋭たちは、イルクーツクに到達する頃には二百人を切っていた。
彼らは文句一つ言わず、ただ黙々と、冷たいロシアの土へと還っていった。
アナスタシアは、窓越しに散っていく東洋の黒衣の戦士たちを見て、自らの命の重さと、帝国と結んだ「血の契約」の恐ろしさを骨の髄まで噛み締めていた。
4.白軍の財宝と、裏切りのイルクーツク
逃避行の最大の難所は、バイカル湖畔の都市イルクーツクであった。
ここは、反革命軍(白軍)の有力者であるコルチャーク提督の残党が支配しており、同時にロシア帝国が残した**「五百トンの金塊(ロマノフの財宝)」**が保管されている場所でもあった。
明石元二郎の狙いは、単なる皇女の救出だけではない。この「財宝」を強奪し、極東に建国する傀儡国家の「準備金」として丸ごと頂くことであった。
「白軍のボグダノフ将軍と話がつきました」
先回りしていた工作員が報告する。
「殿下の身柄と引き換えに、金塊を載せた特別列車をウラジオストクまで通行させると」
しかし、影山少佐は嫌な予感を感じていた。
「白軍とはいえ、所詮は烏合の衆。信用できる相手ではない」
その予感は最悪の形で的中する。
イルクーツク駅に到着した深夜。皇女たちを別の列車へ移乗させようとした瞬間、駅の周囲を数百人の白軍兵士が包囲した。
「武装を解除しろ、日本のスパイども!」
ボグダノフ将軍が、冷笑を浮かべて姿を現した。
「すまんな。殿下と金塊を赤軍に引き渡せば、俺と部下たちの命は助かり、一生遊んで暮らせるだけの恩赦がもらえる手はずになっているのだ。帝国の皇女様には、我々の人身御供になっていただこう」
白軍による、致命的な裏切りであった。
「防衛陣形を取れ!」
影山の怒号と共に、生き残った百数十名の秘密情報部員たちが、アナスタシアとオリガを庇うように円陣を組む。
「無駄な抵抗だ。撃てッ!」
四方八方からの激しい十字砲火。
工作員たちが次々と血を吹き出して倒れていく。圧倒的な火力差の前に、もはや全滅は時間の問題に思われた。
5.オリガの死と、凍てつく覚悟
「きゃあああっ!」
銃弾が飛び交う中、身をすくめていたオリガの肩を、流れ弾が掠めた。
「お姉様!」
アナスタシアが駆け寄ろうとしたその時、背後からボグダノフの部下が、皇女たちを仕留めるべくライフルを構えた。
「させない……!」
オリガは、咄嗟に妹の前に立ちはだかった。
ズガン!
無情な銃声が響き、大口径のライフル弾が、オリガの華奢な胸を深々と貫いた。
「お姉様!? 嘘、嘘よ……!」
鮮血に染まり、雪の上に崩れ落ちる姉を、アナスタシアは絶叫して抱きとめた。
「アナスタシア……」
オリガは、血を吐きながら、妹の頬に冷たい手を添えた。
「あなたは……生きなさい。ロシアの、最後の誇り……」
その瞳から光が失われ、オリガの腕が力なく雪の上に落ちた。
「ああああああっ!!」
アナスタシアの悲痛な叫び声が、バイカル湖の凍てつく夜空に響き渡った。
両親を殺され、弟を殺され、最後に残った最愛の姉まで、同胞(ロシア人)の手によって殺された。
アナスタシアは、姉の血で真っ赤に染まり、その少女の心はこの瞬間死んだのだ。そして絶望と復讐に囚われるも、状況は最悪。
死を覚悟した工作員たちが、最後の手榴弾のピンを抜き、捨て身の突撃をかけようとしたその時。
ドォォォォン!!
イルクーツク駅の西側から、突如として無数の大砲の弾が降り注ぎ、白軍の包囲網を木っ端微塵に吹き飛ばした。
「何だ!? 赤軍の増援か!?」
混乱するボグダノフの視線の先。
雪煙を巻き上げて地平線から姿を現したのは、毛皮の帽子を被り、サーベルを振りかざした**「コサック騎兵」**の大群であった。
「ウラーーーッ!!」
6.明石の奇策――黄金のコサック同盟
「お待たせいたしました、皇女殿下」
騎兵部隊の背後から、装甲車に乗って悠然と姿を現したのは、明石元二郎であった。
「明石長官! これは一体……!」
影山が驚愕する中、コサック騎兵の頭目であるグリゴリー・セミョーノフ(極東の有力な白軍将軍)が、馬から降りてアナスタシアの前に跪いた。
「偉大なるロマノフの正統、アナスタシア皇女殿下。我らザバイカル・コサック軍、殿下のために馳せ参じました。……裏切り者のゴミ屑どもは、すべて我々が掃除いたします」
セミョーノフの騎兵たちは、逃げ惑うボグダノフの部下たちを容赦なくサーベルで斬り捨て、あっという間に駅を制圧してしまった。
すべては、明石の仕組んだ「二重の罠」であった。
明石は、イルクーツクの白軍が裏切ることを見越した上で、さらに東のザバイカル地方を支配するセミョーノフに対し、事前に密約を交わしていたのだ。
『イルクーツクにある五百トンの金塊を、帝国軍の支援で強奪する。金塊の半分はコサック軍の軍資金として提供しよう。その代わり、極東ロシアの武力となり、皇女を神輿として担げ』
イデオロギーよりも金と権力を愛するコサックの将軍にとって、帝国軍の最新兵器と莫大な金塊、そして「ロマノフの正統なる皇女」という大義名分は、喉から手が出るほど欲しいものであった。
「……見事な手際ですわね、明石将軍」
アナスタシアは、姉の遺体を抱きしめたまま、感情のない目で明石を見つめた。
「同胞を同胞に殺させる。あなたの悪魔の計画は、完璧に成功しました」
「これも全て、殿下に極東の玉座へお座りいただくためです」
明石は、深く頭を下げた。
しかし、その足元には、皇女を守るために命を落とした百名以上の秘密情報部員たちの死体が転がっていた。
彼らの尊い犠牲の上に、この非情なる同盟は結実したのである。
7.ウラジオストクのバルコニー――極東ロシア王国の誕生
1918年、冬。
ユーラシア大陸の東の果て、ウラジオストク。
この不凍港には、すでに帝国海軍の戦艦群が停泊し、市街地は帝国陸軍のシベリア派遣軍と、日本によって再編・武装された「極東ロシア陸軍(コサックと白軍の混成部隊)」によって完全に掌握されていた。
総督府として接収された巨大な洋館。
そのバルコニーに、一人の女性が姿を現した。
アナスタシア・ロマノヴァ。
かつて無邪気だった十七歳の少女は、漆黒の軍服調のコートに身を包み、その表情には一片の感情も読み取れない「氷の女王」へと変貌していた。
広場を埋め尽くす何万ものロシア人(赤軍から逃れてきた難民や白軍兵士)たちに向け、彼女はマイクを握った。
「誇り高きロシアの民よ。私は、ロマノフの血を引く最後の一人、アナスタシアです」
彼女の凛とした声が、スピーカーを通じてウラジオストクの空に響き渡った。
「西のモスクワを乗っ取ったボリシェヴィキの悪魔どもは、私の父を、母を、弟を、そして最愛の姉を惨殺しました。彼らは神を否定し、私たちの歴史と誇りを泥で汚そうとしています。……しかし、ロシアは死んでいない!」
広場の群衆が、息を呑んで彼女を見上げる。
「私はここに、新たな国家の樹立を宣言します! 悪魔の支配から独立し、正統なる歴史を受け継ぐ**『極東ロシア王国』**の誕生を!」
ウラーーーッ!!
広場から、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
祖国を失い、絶望のどん底にいたロシア人たちにとって、奇跡的に生き延びた皇女の存在は、まさに神から遣わされた「最後の希望」であった。
「我々は、偉大なる同盟国・日本帝国の支援の下、この極東の地に新たな牙城を築きます。そしていつの日か、必ずやモスクワを取り戻し、悪魔どもに正義の鉄槌を下すのです!」
熱狂する群衆を見下ろしながら、アナスタシアの目は、誰とも視線を合わせていなかった。
彼女の背後には、明石元二郎をはじめとする日本帝国の将官たちが、静かに控えている。
極東ロシア王国。
それは、世界地図に新たに書き加えられた「ロマノフの国」でありながら、その実態は、ソビエト連邦(共産主義)の東進を防ぐために日本帝国が築き上げた、巨大な「肉の防波堤」に過ぎなかった。
8.第四章エピローグ――盤石なる防波堤
ウラジオストク港に停泊する戦艦の艦長室。
明石元二郎は、東京の統合参謀本部へ作戦完了の暗号電文を打っていた。
『作戦「氷の玉座」、完了セリ。極東ロシアは我が帝国の完全なる緩衝国トナリタリ。秘密情報部ノ犠牲者、一〇八名。負傷者、五十六名。八咫烏は無事。旧明石機関の被害は甚大。』
明石はペンを置き、窓からウラジオストクの街並みを見渡した。
南には「満州国」、北には「極東ロシア王国」。
日本帝国は、第一次世界大戦の混乱とロシア革命の狂気を逆手に取り、ユーラシア大陸の東岸に、誰も手を触れることのできない「二重の絶対防衛線」を完成させたのである。
「これで、西からの脅威(共産主義)は完全に封じ込めた」
明石は、タバコの煙を深く吸い込んだ。
「だが……東の海は、どうだ?」
彼の視線の先、遥か太平洋の向こう側。
ヨーロッパが焼け野原となり、ロシアが分断されたこの世界で、無傷のまま莫大な富と工業力を蓄え、ついに「世界の覇権」を握ろうと巨大な筋肉を蠢かせている超大国。
アメリカ合衆国。
「モンロー主義の殻を破ったアメリカと、パックス・ジャポニカの最終決戦。……我々が生きている間に、必ずその火蓋は切って落とされるだろう」
1918年。
世界大戦の終結は、真の平和の訪れではなく、次なる「世紀の頂上決戦」に向けた、壮大なインターバル(休息)の始まりに過ぎなかった。
海洋帝国日本史・第四章「世界大戦と双頭の鷲」、完。
(次章、第五章へ続く)
これにて第4章も完結です。
大戦と革命を経て、帝国はユーラシア大陸東岸を完全に要塞化しました。欧州は第一次世界大戦で双方ともに疲弊しロシアは崩壊。帝国は最終戦争に向けて歩みだします。




