3.南十字星の下で
# 海洋帝国日本史 第一章:帝国の選択
## 第三話:南十字星の下で(1680〜1708)
### 1.天和の治と「知」への渇望
天和元年(1681年)、五代将軍・徳川綱吉が就任した時、帝国は変質しようとしていた。
世に言う「天和の治」。綱吉は、儒学を重んじる文治政治を推し進めたが、史実の「生類憐れみの令」は、この世界線では全く異なる形で発現した。
綱吉は、異常なほどの「博物学マニア」であった。
江戸城・紅葉山文庫には、オランダの『ドドネウス草木譜』だけでなく、南洋奉行所から送られてくる膨大な動植物のスケッチや標本が溢れかえっていた。
「上様、虎玖より、珍しき鳥の剥製が届いております」
側用人・柳沢吉保が差し出したのは、極彩色の羽を持つ鳥であった。綱吉は目を輝かせ、懐からルーペを取り出す。
「美しい。……吉保よ。余は、犬や猫を愛でるのではない。生命の理を知りたいのだ。この鳥が住む島、その植生、土壌、すべてを記録せよ。南洋のすべての『生類』を記述せよ」
綱吉の命により、南洋奉行所には「博物局」が設置された。これは単なる趣味ではない。未知の動植物、薬草、そして資源を体系化し、帝国の富として管理するための国家プロジェクトであった。
この「知の体系化」こそが、後の帝国大学や理化学研究所の礎となる。
### 2.翠海を越えて――陽州の発見
貞享年間(1684年〜)。
幕府の関心は、大南島の南に広がるという「南方大陸」の探索にあった。
南洋水師の精鋭艦隊は、大南島の東端を回り込み、危険な珊瑚礁の海域へ突入した。海面がエメラルドグリーンに輝くこの海を、水夫たちは**「翠海(すいかい/現在のコーラル・シー)」**と呼んだ。
先導するのは、探検家・**宮城十兵衛**(架空の人物)。彼は村上水軍の血を引く航海長であり、羅針盤よりも海の色で水深を読む男だった。
「岩礁が多すぎる。だが、これを抜ければ……」
数週間の難航の末、彼らは広大な陸地に行き着く。
現在のブリスベン周辺である。
川を遡上すると、そこには豊かな森と、なだらかな丘陵が広がっていた。宮城は、降り注ぐ強烈な日差しにちなみ、この地を**「陽州」**と名付けた。
「ここには、黄金はないかもしれん。だが、ここには『国』が作れる」
報告を受けた幕府は、直ちに第一次移民団を送り込んだ。
しかし、ここで悲劇が起きる。
移民船に乗っていた家畜や人間が持ち込んだ「麻疹」と「インフルエンザ」である。
陽州の先住民たちは、日本人が「挨拶」として渡した手ぬぐいや古着から感染し、またたく間に集落が全滅していった。
宮城の日記には、苦渋の記述が残る。
『昨日まで交易をしていた民が、今日は一人もいない。森が静かすぎる。我らは、剣を抜かずして彼らを殺したのか』
この「意図せざる殺戮」により、日本人はほとんど抵抗を受けることなく、陽州の沿岸部を制圧していくことになった。
### 3.志度新と住友の野望
元禄年間(1688年〜1704年)。
陽州を橋頭堡として、探検隊はさらに南下した。
気候は熱帯から温帯へと変わり、植生も日本のそれに近づいていく。そして、彼らは世界屈指の天然良港(ポート・ジャクソン湾)を発見する。
ここに建設されたのが、**「志度新」**である。
名の由来には諸説あるが、当時の勘定奉行・荻原重秀が「志を度す新しき地」として命名したとされる。
この志度新の開発に、幕府は「民間の力」を導入した。
手を挙げたのが、大阪の銅吹き商、**住友**である。
住友家当主・友芳は、別子銅山の経営で幕府の信頼を得ていたが、彼の目はすでに海外を向いていた。
「銅はいずれ枯れる。だが、南洋の『鉄』と『石炭』は無尽蔵だ」
住友は、幕府から「南洋鉱山開発御用」の特権を得る代わり、志度新の港湾整備費を全額負担した。
まだゴールドラッシュ(金)の時代ではない。住友が求めたのは、造船や建築に必要な基礎資材であった。志度新の港には、住友のトレードマークである「井桁」の旗を掲げた倉庫が立ち並び、日本からの移民を運び、帰りの船には南洋の巨木を満載して帰っていった。
### 4.羊州と櫻港
一方、志度新から東へ二千キロ。
荒れ狂うタスマン海を越えた先に、もう一つの島国があった。
現在のニュージーランド、帝国名**「羊州」**である。
発見されたのは、北島の良港、現在のオークランド。
春に訪れた探検隊が、現地の花を見て桜を想起したことから**「櫻港」**と名付けられた。
だが、ここの先住民は、陽州の民とは違った。
屈強な戦士であり、組織的な戦闘を仕掛けてきたのである。
上陸した幕府の海兵隊(当時は「陸戦隊」)との間で、数度の激しい衝突が起きた。
時の将軍・綱吉は、報告を聞いてこう命じたとされる。
「彼らは武人である。無益な殺生は好まぬ。武威を示しつつ、交易によって懐柔せよ」
幕府は、マオリの首長たちに日本刀や鉄器を贈ることで同盟関係を結び、沿岸部の一部を「租借」する形で櫻港の建設を始めた。
この地は、北海道よりも温暖で牧草地に適していたため、後にオランダから輸入された羊が放牧され、文字通りの「羊州」となっていく。
### 5.三井の台頭と「南洋為替」
物流と金融を握ったのは、**三井**であった。
江戸の本町に「越後屋」を開いた三井高利の革新性は、南洋貿易でも発揮された。
「現金掛け値なし」
この商法は、移民たちにも適用された。
三井は、志度新や櫻港に支店(出張所)を出し、開拓民に必要な農具、衣類、種籾を安価で提供した。
そして、最大の発明が**「南洋為替」**である。
当時、危険な海を現金の入った千両箱を持って渡るのはリスクが高すぎた。
三井は、江戸で金を預ければ、志度新で同額を受け取れるシステムを構築したのである。
「三井の手形があれば、南洋のどこでも飯が食える」
こうして三井は、帝国経済の血液循環を担う存在となり、幕府の公金(御用金)を扱う「幕府の金庫番」としての地位を不動のものとした。
### 6.正徳の治と「帝国の境界線」
1709年、綱吉が没し、六代将軍・家宣の時代となると、儒学者・**新井白石**が政権の中枢に座る(正徳の治)。
白石は、拡大しすぎた戦線を整理し、法的な秩序を与えることに腐心した。
当時、欧州ではスペイン継承戦争などが勃発していたが、白石はオランダ商館長から世界情勢を聴取し、冷徹な計算を行っていた。
「イギリスという国が、インドで力を伸ばしている。いずれこの海にも来るだろう。オランダとの無用な摩擦を避け、かつ、これ以上の西進(インド洋方面への進出)は国益を損なう」
白石は、長崎のオランダ商館に対し、非公式ながら**「帝国の境界線」**を通告した。
『大南島の中央部より東、および豪州全土は、日本国の版図である。その西側(現在のインドネシア方面)における貴国の活動には干渉しない』
これは、100年後の衝突を回避するための、高度な外交的「棲み分け」であった。
白石は、南洋を「無主の地」ではなく「徳川の御領」として法的に定義し、地図に赤い線を引いた。
こうして、18世紀初頭。
日本帝国は、北は蝦夷、南は豪州・羊州に至る長大な「南北回廊」を完成させた。
金こそまだ出ないが、住友の銅と鉄、三井の物流、そして数百万の開拓民を飲み込む広大な土地が用意された。
しかし、白石の緊縮財政は、拡大する南洋経済の実態とは乖離し始めていた。
次なる時代、八代将軍・吉宗は、この巨大な器に「人」というエネルギーを爆発的に注ぎ込むことになる。




