2.黒潮の回廊
# 海洋帝国日本史 第一章:帝国の選択
## 第二話:黒潮の回廊(1620〜1680)
### 1.二代目の重圧と「公儀」の海
元和九年(1623年)、徳川秀忠は将軍職を息子・家光に譲り、大御所となった。しかし、政権の実権は依然として秀忠が握っていた。
江戸城・西の丸。秀忠は、老中・土井利勝と、南洋奉行に任じられた向井将監忠勝を前に、一枚の巨大な地図を広げていた。それは、亡き家康がオランダ人ウィリアム・アダムス(三浦按針)に作らせた『南方海路図』であったが、そこには空白が多すぎた。
「上様(秀忠)、スペインのガレオン船は、マニラとアカプルコ(メキシコ)の間を往復し、莫大な銀を運んでおります。奴らは『黒潮』を知り尽くしております」
向井将監が、真っ黒に日焼けした指で太平洋の真ん中をなぞった。
「我らが小笠原までは到達できても、その先は『魔の海』。風向きも潮の流れも、瀬戸内とは勝手が違います。浪人崩れの開拓民たちは、次々と行方不明になっております」
秀忠は眉間の皺を深くした。父・家康が掲げた「南洋開拓」は、理想としては壮大であったが、現実は過酷を極めていた。水不足、壊血病、そして何よりも、広大すぎる海への恐怖。一攫千金を夢見て海に出た者たちの多くは、波の藻屑と消えていた。
「止めますか、上様」
土井利勝が、慎重に問いかけた。「国内は落ち着きました。これ以上の無理な外征は、財政を圧迫します」
秀忠は、父の言葉を反芻していた。『閉じれば、腐る』。
戦国を知る世代が死に絶え、平和な時代が来れば、武士は牙を抜かれた犬になる。徳川の支配を盤石にするためには、武士の「闘争本能」を向ける先が必要だった。それが、海だ。
「いや、止まらぬ。だが、やり方を変える」
秀忠は静かに言った。その目は、家康とは異なる、冷徹な管理者の目であった。
「これまでは、一獲千金を夢見る商人の朱印船や、浪人の寄せ集めに任せていた。だが、これよりは『公儀』が海を統べる。幕府が造船し、幕府が航路を決め、幕府が島を治める。大名には、許可なき外洋船の建造を禁ずる」
これが、後に「寛永の海禁」と呼ばれる政策の実態であった。教科書で言う「鎖国」ではない。
**「諸大名を海から締め出し、幕府だけが独占的に外洋へ進出する」**
という、極めて戦略的な情報統制と権益独占の宣言であった。
### 2.茉莉亜那攻略と「海賊公認」
寛永三年(1626年)、三代将軍・徳川家光の上洛に合わせ、驚くべき布告が出された。
『異国船打払令』ではない。『異国知見没収令』である。
日本近海に現れるスペイン・ポルトガル船に対し、キリスト教の布教道具の没収だけでなく、彼らの持つ「最新の海図」「航海日誌」の提出を強制したのである。拒めば、容赦なく拿捕した。表向きは「禁教の徹底」であったが、真の狙いは情報の略奪にあった。
その成果が最初に現れたのが、マリアナ諸島である。
スペインが「ラス・ドロネス(泥棒諸島)」と呼んで軽視していたこの島々に対し、幕府は芸州徳川家の水軍部隊を送り込んだ。
「南洋は暑い。だが、水がある」
先遣隊を率いた村上武吉の孫、村上元信は、グアム島に上陸し、そこを「大宮島」と名付けた。そして、北に連なる島々を、聖母マリアの名を音写しつつも、日本風の雅さを込めて**「茉莉亜那」**と命名した。
現地のチャモロ人に対し、幕府は過酷な同化政策を強いたわけではなかった。むしろ、彼らのカヌー操船技術を高く買い、水先案内人として雇い入れた。
景親は、江戸へ送った報告書にこう記している。
『この地の民は、星を見て海を渡る術を知る。我らが羅針盤よりも正確なり』
家光の時代、マリアナ諸島は、日本本土と南洋を結ぶ最初の「飛び石」となった。ここを拠点に、日本船は補給を行い、さらなる南、さらなる東へと触手を伸ばし始める。
### 3.絶海の要塞、虎玖の建設
寛永後期から正保年間(1640年代)。
幕府の関心は、マリアナのさらに南東、広大な環礁地帯へと向けられた。現在のミクロネシア、トラック諸島である。
「ここだ。ここを帝国のヘソとする」
南洋奉行所の技官たちは、その地形を見て震えた。直径数十キロにも及ぶ巨大な珊瑚礁の輪(環礁)が、外海の荒波を完全に遮断している。その内側は、鏡のように穏やかな天然の良港であった。
幕府はここに、史上空前の規模での土木工事を命じた。
**「虎玖要塞化計画」**
動員されたのは、島原の乱(1637年)で生き残ったキリシタン農民や、罪人として流刑にされた者たちではなかった。
幕府は、あえて「普請」として、西国の外様大名たちに人足と資材の供出を命じたのである。
薩摩、長州、肥前。彼らは莫大な費用をかけて、南洋の孤島に石垣を築き、ドックを掘らされた。これは、大名の財力を削ぐ「参勤交代」の海洋版、いわば「南洋普請」であった。
虎玖島(トラック島)の建設現場は、地獄の様相を呈していた。
赤道直下の太陽、風土病、そして突如襲い来る台風。
しかし、日本の石工技術はここで奇跡を起こす。城郭建築で培われた「穴太衆」の石積み技術が、珊瑚礁の軟弱な地盤の上に、強固な岸壁を築き上げたのである。
「石垣一つ積むごとに、侍の魂がこの島に刻まれる」
現場監督を務めた旗本、小栗忠順(後の小栗上野介の先祖)は、日記にそう記した。
完成した虎玖泊地は、千石積みの船が百隻停泊しても余裕がある、太平洋最大の海上都市となった。
ここには「南洋奉行所・虎玖支所」が置かれ、米の備蓄倉庫、味噌や醤油の醸造所、そして遊郭までもが作られた。本土から数千キロ離れた海上に、突如として「江戸の町」が出現したのである。
### 4.家綱の平和と「大南島」
四代将軍・徳川家綱の時代(1651年〜1680年)に入ると、国内は「文治政治」によって安定期を迎える。
戦国の気風は薄れ、武士たちは官僚化していった。しかし、海の上では、依然として「冒険」が続いていた。
南洋奉行所は、虎玖をハブとして、放射状に航路を拡大していた。
西へ向かえば、スペインの拠点フィリピンがある。東へ向かえば、果てしない大洋。
幕府が選んだのは「南」であった。
万治元年(1658年)、探検船「黒姫丸」が、パラオ諸島を経て、巨大な陸影を発見する。
それは、島と呼ぶにはあまりに巨大で、大陸のようであった。
「山がある。雪を被った山が、熱帯の海に聳えている……」
船長たちは言葉を失った。ニューギニア島である。
彼らはこの地を**「大南島」**と名付けた。
しかし、上陸部隊を待っていたのは、深いジャングルと、未知の熱帯病、そして剽悍な先住民たちとの戦闘であった。
幕府内では議論が巻き起こった。
「このような未開の地、統治するに能わず」とする消極論と、「ここを押さえれば、南方の資源はすべて我らがもの」とする積極論。
時の大老・酒井忠清は、現実的な判断を下した。
『大南島の深入りは無用。まずは沿岸に砦を築き、交易の拠点とするに留めよ。それよりも、この島の「東」にあるという、さらに大きな陸地を探れ』
この判断は賢明であった。当時の日本の国力では、ニューギニア全土の統治は不可能だったからだ。
日本は、大南島の北岸(現在のウェワクやマダン周辺)に「出島」のような居留地を点在させ、そこを補給点として、さらに南東の海域へと視線を向けていった。
### 5.武士から航海士へ:意識の変革
この半世紀(1620〜1680年)における最大の変革は、領土の拡大よりも、日本人自身の「意識」の変化にあったと言える。
戦国時代の武士にとって、名誉とは「敵の首を取ること」であった。
しかし、南洋に送られた旗本や御家人たちにとって、名誉とは「正確な海図を描くこと」「船を無事に港へ導くこと」「新たな島を発見すること」へと変わっていった。
帝国海軍史料館に残る『寛文航海記』には、ある若き旗本の興味深い記述がある。
彼は、実家の蔵にあった名刀「関の孫六」を質に入れ、オランダ製の最新式「六分儀」と「望遠鏡」を購入した。
『刀は、人を斬る道具に過ぎぬ。だが、このガラスの筒は、世界を切り拓く。侍の魂は、もはや腰にはない。この目と、この手の指先にあるのだ』
幕府は、築地に「海軍操練所」の前身となる「御船手講習所」を設立。
ここでは、身分に関係なく、算術に長けた者が重用された。和算家たちが、天体の動きから経度緯度を割り出す計算式を編み出し、独自の航海術「和流天測法」が確立されていく。
また、食文化も変化した。
長期航海での脚気(江戸患い)や壊血病を防ぐため、麦飯の奨励や、南洋で採れる柑橘類の摂取が義務付けられた。これが、後の「海軍カレー」や日本食の変容へと繋がっていく。
### 6.歴史の窓:1680年の帝国版図
延宝八年(1680年)、家綱が死去し、徳川綱吉が五代将軍に就任する頃には、日本の「海の版図」は確固たるものになっていた。
北は蝦夷地(北海道)、南は茉莉亜那、虎玖、原尾、そして大南島の一部。
太平洋上に、日本本土を頂点とする巨大な扇形の勢力圏、「帝国の内海」が形成されていたのである。
この時代、世界は激動していた。
欧州では絶対王政が確立し、英蘭戦争が繰り広げられていた。
しかし、日本は、幕府による巧みな情報統制と、強力な海軍力(ガレオン船と和船の技術を融合させた『安宅型フリゲート』)によって、太平洋という「裏庭」を独占することに成功していた。
「外様大名には陸(国内)を与え、幕府は海(外洋)を取る」
この二重構造こそが、徳川幕府を、単なる封建領主から、近代的な「海洋帝国」へと脱皮させた最大の要因であった。
そして時代は、希代の変革者・徳川綱吉と、新大陸「豪州」の発見へと動いていく。
帝国の絶頂期、「元禄の繁栄」は、すでに約束されていたのである。




