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19.国境の砲声

# 海洋帝国日本史 第三章:覇権への鉄路


## 第六話:国境の砲声(1890〜1894)


### 1.樺太・大泊の雪――屯田兵の覚悟


明治二十三年(1890年)。

帝国の最北端、樺太サハリン

日露雑居条約の下、南部の**大泊オオトマリ**は、日本側が開拓した港町として繁栄していたが、北部のロシア領からの圧力は日増しに強まっていた。


極寒の二月。

ロシア側の刑務所から「脱走」したとされる凶悪犯と、彼らを扇動する私服のコサック兵、計五百名が、闇に紛れて国境を越えた。狙いは、日本人が備蓄している食料と燃料である。

「日本人の家を襲え! あそこにはウォッカも女もあるぞ!」


深夜、警鐘が鳴り響く。

しかし、彼らは相手を間違えていた。大泊の住民の多くは、帝国陸軍を退役し、予備役としてこの地に入植した**「屯田兵」**たちであった。


「総員、配置につけ! 家族を地下室へ隠せ!」

村長(元曹長)の号令一下、農夫たちは鍬を捨て、手入れの行き届いた**「十八年式村田銃」**を手に取った。

彼らは慌てず騒がず、町の入り口に雪と土嚢でバリケードを築き、十字砲火を浴びせた。


「撃てッ!」

乾いた銃声が雪原に吸い込まれる。

略奪者たちは、整然とした射撃の前に次々と倒れ伏した。海兵隊のような重装備はないが、ここには「自分たちの土地は自分で守る」という強烈な開拓者精神があった。


夜明けと共に、南の亜庭アニワ湾から汽笛が響く。

北海道・旭川に駐屯する**「帝国陸軍・第7師団(北鎮部隊)」**の先遣隊、歩兵第71連隊が、緊急輸送船で到着したのである。

「遅れてすまん! 予備役の先輩方、助太刀します!」


現役部隊の到着により、暴徒は完全に鎮圧された。

この事件は、帝国の世論に火をつけた。

「ロシアは脱獄囚を使って侵略を仕掛けてきた」

もはや、話し合いの通じる相手ではないことが、誰の目にも明らかとなった。


### 2.千島の霧――巡洋艦「石狩」


東の国境、千島列島北端・**占守島(シュムシュ島)**。

ここでもロシアの影が蠢いていた。

濃霧の中、ロシア海軍の砲艦「アレウト」が領海を侵犯し、測量ボートを下ろし始めていた。


島の守備隊長・**郡司成忠**(海軍予備役大尉)は、わずかな部下と共に海岸線でライフルを構えていたが、火力差は歴然としていた。

「撃ち方やめ! ……クソッ、大砲があれば」


その時、霧を切り裂いて、灰色の巨体が現れた。

帝国海軍・防護巡洋艦**「石狩いしかり」**である。

国産の艦体に、最新のアームストロング速射砲を搭載した、北海警備の要。


『貴艦の領海侵犯を確認した。直ちに退去せよ』

「石狩」は信号旗を掲げると同時に、空砲ではなく、実弾をロシア艦の鼻先へ撃ち込んだ。

ドォン! という水柱が上がる。


ロシア艦長は、双眼鏡で「石狩」の主砲が正確に自艦の弾薬庫を狙っていることを確認し、顔面蒼白となった。

「日本人は本気だ……退却しろ!」


ロシア艦は逃げ去ったが、報告を受けた東京の海軍省は戦慄した。

「奴らは、太平洋への出口を探している。千島を抜かれれば、帝国の横腹(東海岸)が無防備になる」


### 3.江戸城・黒書院――将軍の決断


1893年、冬。

東京(旧江戸)。帝国の心臓部、江戸城。

奥深くにある「黒書院」には、重苦しい空気が漂っていた。

**「御前会議」**である。


上座に座るのは、第16代将軍・**徳川家達いえさと**。

まだ若いが、幼少期より英国式の帝王学を叩き込まれた、帝国の最高権力者(永年執政官)である。

(※注:この世界線では天皇は京都におり、政治決定の場には不在。将軍が国家元首代行として統帥権を持つ)


彼の前には、帝国の頭脳たちが平伏していた。


* **第3代内閣総理大臣:伊藤博文**(衆議院議員選出、元朝鮮総督府高官)

* **外務大臣:榎本武揚**(海軍出身の国際派)

* **陸軍大臣:山県有朋**

* **海軍大臣:樺山資紀**

* **将軍府近衛庁長官**

* **御庭番衆司令(後の将軍府秘密情報部)**


「榎本、外交的解決の望みはあるか」

家達の問いに、榎本は静かに首を振った。

「ありませぬ。ロシア皇帝は、シベリア鉄道の開通を待って、満州と朝鮮を軍事占領する腹積もりです。対話は、時間稼ぎに使われるだけかと」


伊藤博文が進み出た。

彼は、かつて南洋総督府で辣腕を振るい、朝鮮の近代化を成功させた実績を買われ、衆議院の圧倒的支持と将軍の指名を受けて総理の座に就いていた。

「上様。座して死を待つよりは、打って出るべきです。今ならまだ、鉄道は完成しておりません」


家達は、御庭番司令に視線を移した。

「敵の戦力は」

「極東への増派は遅れております。今なら、局地的な兵力差は我に有利」


家達は、手元の扇子を閉じた。その音が、部屋に響く。

「よかろう。……**『戦時緊急措置法』**の発動を許可する」


これは、宣戦布告なき総動員令である。

将軍の裁可により、議会の承認を待たずに、国内の全リソースを軍事優先に切り替える、帝国の「抜刀」の合図であった。


### 4.帝国の財布――日銀と財閥の総力戦


将軍の決断から一時間後。

日本橋、日本銀行本店。

総裁室の電話が鳴った。受話器を取ったのは、かつての名宰相・小栗忠順の息子、**小栗忠一ただかず**である。


「……承知いたしました。直ちに『金庫』を開けます」


小栗は、直通回線で横浜正金銀行、そしてロンドンの安田銀行支店へ指令を飛ばした。

「戦時国債を発行する。目標額は二億エン。三井、三菱、住友の各当主を呼べ。彼らの内部留保をすべて吐き出させる」


同時に、帝国の産業界も戦時モードへと変貌した。

三菱長崎造船所では、建造中の民間船がドックから出され、代わりに損傷した艦艇の修理ラインが敷かれた。

東京砲兵工廠と、東芝(電信・無線)、沖電気の工場は、24時間操業を開始。

「ロシア兵より先に、我々が倒れるまで作れ!」


帝国の強みは、この意思決定の速さにあった。

独裁的な将軍権力と、高度に組織化された財閥(軍産複合体)が、一つの生き物のように連動して動く。

それは、官僚主義に蝕まれたロシア帝国には真似のできない、近代国家の速度であった。


### 5.豆満江の雷鳴――機関銃の洗礼


1894年春。

朝鮮半島北端、豆満江トマンガン

ついに、陸上での大規模な衝突が始まった。


南下を試みるロシア軍先遣隊、コサック騎兵師団。

「黄色い猿どもなど、馬蹄にかけて蹴散らせ!」

彼らは、ナポレオン戦争時代と変わらぬ密集隊形で、凍った川を渡り始めた。


対岸で待ち構えていたのは、**帝国陸軍・第一軍**(司令官:野津道貫)。

彼らは、ドイツ軍事顧問団の指導の下、徹底的な陣地防御訓練を受けていた。


「引きつけろ……まだだ……」

塹壕の中、兵士たちは息を殺していた。

彼らの前には、帝国理工院が改良し、東京砲兵工廠が量産した**「三年式機関銃」**が、黒い銃口を並べている。


コサック兵が川の中ほどまで来た瞬間。

「撃てェッ!!」


バリバリバリバリ!

機関銃の轟音が、静寂を引き裂いた。

馬もろともなぎ倒されるロシア兵。サーベルを振り上げても、弾丸の雨には勝てない。

後続の歩兵部隊には、後方から**「帝国製・山砲」**の榴弾が降り注ぐ。


「バカな! こんな火力が……!」

ロシア軍司令官は愕然とした。

日本の陸軍は、もはや「サムライの末裔」ではない。最新の兵器と戦術を使いこなす、冷徹な近代軍隊であった。

この日、豆満江の氷は、ロシア兵の血で赤く染まった。


### 6.日本海の疾風――巡洋艦「浪速」


陸での敗報に焦ったロシア極東軍司令部は、海軍による通商破壊を命じた。

「日本の輸送船を沈めろ。朝鮮への補給を断てば、陸軍は干上がる」


日本海へ侵入したのは、ロシア装甲巡洋艦「ルリク」。

対するは、輸送船団護衛の任に就いていた帝国海軍防護巡洋艦**「浪速なにわ」**。

艦長は、**東郷平八郎**大佐である。


「右舷前方、敵艦発見!」

見張り員の絶叫。

「ルリク」は排水量1万トンを超える巨艦。「浪速」の倍以上の大きさである。

常識的に考えれば、逃げる一手だ。


しかし、東郷は冷静にパイプを咥え直した。

「逃げれば、後ろの輸送船(兵士と食料)が沈む。……行くぞ」


東郷が下した命令は、敵艦への突撃であった。

「距離を詰めろ! 相手の懐に入れば、巨体は動きが鈍る!」


「浪速」は、機関出力を最大まで上げ、ジグザグ運動を繰り返しながら「ルリク」に肉薄した。

ロシア艦の大口径砲弾が水柱を上げる中、東郷は微動だにしない。

「まだだ……今だ、撃て!」


至近距離からの速射砲連打。

「浪速」の放った砲弾は、正確に「ルリク」の上部構造物、艦橋と煙突を破壊した。

火災が発生し、指揮系統を失ったロシア艦は、たまらず回頭し、北へと逃走した。


「深追いは無用。任務は護衛なり」

東郷のこの判断と勇気は、後に彼が連合艦隊司令長官に抜擢される決定的な要因となった。


### 7.エピローグ――宣戦の詔勅


1894年夏。

もはや、局地戦のレベルを超えていた。

北朝鮮国境には、日本軍の師団が集結し、日本海では艦隊決戦の予感が漂っている。


東京・首相官邸。

伊藤博文は、ロシア政府からの最後通牒(朝鮮からの即時撤退要求)を握りつぶした。

「撤退などすれば、帝国は瓦解する。……総力戦だ」


翌日、将軍・徳川家達は、江戸城にて**「対露宣戦の詔勅(天皇の名による宣戦布告)」**を読み上げた。


『ロシア帝国は、東洋の平和を乱し、我が帝国の生存を脅かす者なり。

陸海軍は、全力を挙げてこれを討ち果たせ』


東京の街には、号外の鈴の音が鳴り響いた。

「開戦だ! ついにロシアとやるぞ!」

国民は熱狂した。恐怖よりも、長年抑えつけられてきた北の巨人に対する敵愾心が勝っていた。


その頃、ロシアの首都サンクトペテルブルク。

駐在武官に昇格した明石機関の**明石元二郎**大佐は、カフェの窓から、出征するロシア兵の列を見下ろしていた。

彼のポケットには、レーニンら革命家との接触記録が入っている。


「行け、ロシアの若者たちよ。君たちが極東で血を流せば流すほど、この国(帝政ロシア)の寿命は縮まる」


明石は、冷ややかにコーヒーを飲み干した。

正面からの「鉄の戦争」と、背後からの「毒の戦争」。

帝国日本は、持てる全てのカードを切って、国家の存亡をかけた大博打へと突入していった。


(第六話 完)



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