18.鷲と熊の視線
# 海洋帝国日本史 第三章:覇権への鉄路
## 第五話:鷲と熊の視線(1880〜1890)
### 1.松陰塾の双璧――「文」の伊藤、「理」の山県
明治十八年(1885年)。
帝国の首都・東京。
首相官邸の執務室で、二人の男がチェス盤を挟んで向き合っていた。
第三代内閣総理大臣・**伊藤博文**。
そして、陸軍大臣・**山県有朋**である。
この二人は、かつて広島の「松陰塾」で吉田松陰の薫陶を受けた同門であったが、その才覚の方向性は対照的であった。
伊藤は、南洋総督府での実務経験を経て、政治と外交の駆け引き(文)を極めた「国家の設計者」。
対する山県は、松陰塾を出た後、新設された**「帝国理工院」**の第一期生として入学。数学と弾道学、そして築城術を修めた、冷徹なる「理の軍人」であった。
「山県よ。北の熊が、傷を癒やして東へ顔を向けたようだ」
伊藤がポーンを進める。
「露土戦争の傷ですか。ベルリン会議でビスマルクにしてやられましたからな。欧州へ出られぬ鬱憤を、極東で晴らすつもりでしょう」
山県は表情一つ変えず、ナイトを動かした。
「想定の範囲内です。私の計算では、彼らがシベリアの荒野を越えて、師団規模の兵力を極東へ展開するには、あと十年はかかります。……鉄道さえなければ」
「その鉄道だ。フランスの資本が入った」
伊藤の言葉に、山県の眼鏡の奥が鋭く光った。
「厄介ですな。ですが、私が設計した『北辺防衛ライン(満州・朝鮮国境要塞群)』の完成には間に合います。……彼らが鉄の道を敷くのが先か、我が軍が不沈の壁を築くのが先か。競争ですな」
この二人には、恐怖心など微塵もなかった。
あるのは、エンジニアがダムの強度計算をするような、冷厳な現状分析と対策だけであった。
### 2.傷ついた双頭の鷲――東方への転回
舞台は変わり、サンクトペテルブルク。
皇帝**アレクサンドル3世**は、苛立ちを隠せずにいた。
「英国め! どこまで我らの邪魔をすれば気が済むのだ!」
露土戦争での勝利は、英国の外交圧力によって水泡に帰した。地中海への出口は閉ざされたままである。
「陛下。西が塞がれたのなら、東の扉を開ければよいのです」
側近が、極東の地図を広げた。そこには、かつて朝鮮から亡命してきた元国王・**高宗**が、ウラジオストクで「朝鮮亡命政府」を名乗っている事実が記されていた。
「日本という猿が、朝鮮を奪い、満州にまで触手を伸ばしております。しかし、彼らは所詮、海しか知らぬ島国。陸戦の何たるかを知りません」
ロシア軍部には、根拠のない自信が蔓延していた。
ナポレオンを破った冬将軍と、無尽蔵のコサック騎兵。これが極東の平原を駆け抜ければ、ちょこまかと動く日本の歩兵など踏み潰せる、と。
「よかろう。シベリア鉄道を急がせろ。そして、あの亡命王を使え。朝鮮国内の不平分子を煽り、日本統治を内部から崩壊させるのだ」
皇帝の命令一下、ロシアの諜報機関「オフラーナ」と、軍の鉄道大隊が動き出した。
### 3.朝鮮半島の「静寂」――総督府の統治
しかし、ロシアの目論見は、国境の豆満江で壁にぶち当たっていた。
朝鮮国内に、煽動すべき「不平分子」がほとんどいなかったのである。
ソウル。
日本が設置した「朝鮮総督府」の統治下で、半島は有史以来、稀に見る繁栄を謳歌していた。
かつて餓死者が転がっていた路地は、舗装され、ガス灯が灯り、子供たちは真新しい学校へ通っている。
農民は、日本の技術指導で倍増した収穫を喜び、商人は鉄道(京釜線)を使って釜山とソウルを往復している。
「ロシアから来た密偵? ああ、あいつなら警察に突き出したよ」
市場の老婆は、日本の憲兵にそう告げた。
「前の王様(高宗)は、わしらから米を奪った。今の総督様は、肥料と種籾をくれた。どっちについても、腹は膨れんが、日本についても腹は減らん」
民心は、完全に日本へと傾いていた。
ロシアが送り込んだ工作員たちは、民衆の海に溶け込むことができず、次々と**「朝鮮警察(日本人の指導を受けた現地警察)」**によって摘発されていった。
平壌に駐屯する帝国陸軍・第六師団長は、東京へ打電した。
『半島内、異常なし。民心安定。ロシアの策動、効果見られず。我々は国境のみを注視すべし』
### 4.北の工作員――明石機関の胎動
守るだけではない。帝国は、攻めの諜報戦も展開していた。
ロシア帝国の懐深く、ペテルブルクやモスクワに、一人の男が網を張っていた。
駐ロシア公使館付武官、**明石元二郎**大佐。
彼は、帝国陸軍きっての「語学の天才」であり、欧州の社交界に溶け込む術を知っていた。
「ロシアという巨人は、病気にかかっている」
明石は、カフェでウォッカを煽りながら、部下の工作員に囁いた。
「皇帝の圧政に苦しむのは、朝鮮の民だけではない。ロシアの農民、労働者、そしてポーランド人やフィンランド人。彼らは皆、火種だ」
明石の懐には、帝国政府から預かった無制限の機密費があった。
彼はそれを使い、ロシア国内の革命家(レーニンらを含む)、独立運動家たちに資金援助を行った。
「日本が正面から戦う時、背後から火をつけてくれればいい」
明石の工作は、ロシア軍の機密情報を盗むだけでなく、ロシアという国家そのものを内部から腐らせる毒薬として、静かに浸透していった。
同時に、シベリア鉄道の建設現場にも、日本の「目」が入っていた。
中国人苦力に紛れた御庭番たちは、枕木の数、トンネルの崩落事故、労働者のストライキ情報を詳細に記録し、東京の参謀本部へ送り続けていた。
### 5.ロンドンの密約(修正版)――対等の握手
1889年、ロンドン。
帝国特命全権大使・**青木周蔵**は、ダウニング街の英外相執務室にいた。
今回の交渉は、かつてのような「技術供与のお願い」ではない。
世界第二位の海軍力を誇る海洋帝国日本が、世界第一位の英国に対し、「世界の海の分担」を提案しに来たのである。
「バルト海をご存知か、閣下」
青木は、葉巻をくゆらせながら単刀直入に切り出した。
「ロシアが極東へ野心を燃やせば、必ず艦隊を回してくるでしょう。リバウ港のバルチック艦隊です」
「……その通りだ。だが、日本海軍なら迎撃できるのでは?」
「できます。我が国の造船所(三菱長崎・横須賀)では、貴国の『ロイヤル・ソブリン級』を凌ぐ戦艦を建造中です。津軽海峡も対馬海峡も、すでに我が庭。ロシア艦隊が通る隙間などありません」
青木はニヤリと笑った。
「我々が懸念しているのは、戦闘ではありません。『手間』です。彼らが極東まで来るための石炭、水、港。これらを提供する国がないよう、貴国に手配していただきたい」
英国外相は、青木の提案の意図を察し、唸った。
日本は、英国に「戦ってくれ」と言っているのではない。「兵站を断て」と言っているのだ。
**【第二次日英同盟(秘密協定条項)】**
1. **海洋の分担:** 日本は太平洋および東インド洋の安全を保障する。英国は大西洋および地中海、インド洋西部の安全を保障する。
2. **ロシア封じ込め:** ロシア艦隊が極東へ回航する場合、英国はその植民地(アフリカ、インド、シンガポール)での補給を拒否し、中立国にも同様の措置を働きかける。
3. **情報共有:** 英国は欧州におけるロシア軍の動向を、日本はシベリアおよび極東におけるロシア軍の動向を、相互に提供する。
「いいでしょう。ロシアの艦隊が極東に着く頃には、石炭ではなく、船員の靴底を燃やして走ることになるように手配します」
英国との握手は、対等なパートナーとしての、冷徹な実利に基づくものであった。
### 6.帝国の工場――自立する軍産複合体
この頃、日本国内の工業力は爆発的な進化を遂げていた。
もはや、英国から軍艦を買う時代は終わっていた。
横須賀海軍工廠。
ドックには、排水量1万トンを超える巨艦が横たわっていた。
戦艦**「富士」**。
設計は帝国理工院、鋼鉄は八幡製鉄所(官営)、大砲は呉海軍工廠、そしてエンジンは三菱重工。
オールジャパン(純国産)で作られた最初の主力戦艦である。
「美しい……」
視察に訪れた山県有朋は、その鋼鉄の肌を撫でた。
「理工院の連中は、良い仕事をした。この装甲板(ハーヴェイ鋼の改良型)なら、ロシアの砲弾など豆鉄砲だ」
さらに、東京砲兵工廠では、陸軍の新兵器が量産されていた。
**「三年式機関銃」**。
フランスのホチキス機関銃を参考にしつつ、山県ら理工院のチームが改良を加えた、空冷式の重機関銃である。
「ロシア兵が密集して突撃してくれば、こいつが挽肉にしてくれる」
帝国は、来るべき戦争に向けて、武器弾薬から缶詰に至るまで、全てを自国で賄う体制(自律的国防圏)を完成させつつあった。
南洋からの資源輸入ルートさえ確保されていれば、帝国は永久に戦い続けられる。
### 7.エピローグ――開戦へのカウントダウン
1890年代初頭。
シベリア鉄道の建設は、難工事と汚職により遅々として進んでいなかった。
しかし、それでもレールは確実に東へ伸びていた。
「あと5年。……いや、3年か」
伊藤博文は、カレンダーを見つめていた。
ロシアの鉄道が完成し、万全の態勢で南下してくるのを待つ義理はない。
相手が準備不足のうちに、こちらから仕掛け、極東から叩き出す。
それが、勝率100%の戦争だ。
「在ウラジオストクの諜報員より入電」
秘書官がメモを差し出した。
『ロシア極東艦隊、旅順への移動を画策中』
伊藤は、静かに受話器を取った。
相手は、海軍軍令部長・樺山資紀。
「樺山君。……そろそろ、抜いてもいいかね」
「いつでもどうぞ、総理。我々の刀(艦隊)は、錆びつくどころか、切れ味が良すぎて鞘が鳴っております」
鷲と熊の視線が交錯する中、帝国の龍は、静かにその巨体を起こし始めていた。
次の瞬間、極東の地図が炎に包まれることは、もはや避けられない運命であった。
(第五話 完)




