13.幕間:龍と天女の休日
# 海洋帝国日本史 幕間:龍と天女の休日(1866年)
### 1.広島・呉――黒煙と潮騒の旅立ち
慶応二年(1866年)、初夏。
帝国の海軍拠点、広島・呉港。
空を覆うような黒煙と、カンカンというハンマーの音が響き渡る中、一組の男女が桟橋を歩いていた。
男は、ボサボサの総髪に、紋付袴、そして足元は西洋の革ブーツ。懐手をして、猫背気味に歩く。
女は、男よりも背が高いのではないかと思わせるスラリとした長身。漆黒の髪を束ね、涼しげな目元が印象的な、類まれな美人である。
「お龍、早う歩かんか。弥太郎の奴が用意してくれた船が出ちまうぜよ」
坂本龍馬は、子供のように目を輝かせて振り返った。
「急かさないでおくんなはれ。……それにしても、とんでもない景色どすなあ」
おりょう(楢崎龍)は、呆れたように、しかし感嘆を込めて港を見渡した。
そこには、三菱のマークが入った巨大な外輪蒸気客船**「土佐丸」**が、白い蒸気を吐いて停泊していた。その向こうには、帝国海軍の最新鋭フリゲート艦がずらりと並び、水平線を埋め尽くしている。
「これぜよ。わしが夢見た『洗濯』後の日本は」
龍馬はブーツのつま先でコツコツと桟橋を叩いた。
寺田屋(京都で薩摩と幕府を繋げていた際に薩摩藩の列藩同盟派に襲われる)で負った手の傷はまだ痛むが、心は晴れやかだった。幕府の勝利と、内戦の終結。その裏で走り回った龍馬に、帝国政府と岩崎弥太郎が贈ったのが、この「南洋巡り」のチケットだった。
「ハネムーン、言うらしいぜよ。英国では、夫婦で旅をして絆を深めるんじゃと」
「ふーん。まあ、京都の血なまぐさい風よりは、潮風の方がマシどす」
おりょうは素っ気なく言ったが、その手は龍馬の袖をしっかりと掴んでいた。
汽笛が鳴り響く。
「土佐丸」は、ゆっくりと巨体を回頭させ、瀬戸内から外洋――帝国の海へと滑り出した。
### 2.大宮島――常夏の風とハイビスカス
広島を出て五日。
海の色が、深緑から深い藍色へと変わり、そして底抜けに明るいエメラルドグリーンへと変わった。
最初の寄港地、**大宮島**である。
「暑い! なんじゃこの湿気は!」
甲板に出た龍馬は、着物の襟を大きく寛げた。
「龍馬さん、見ておくれやす。花が、燃えているよう」
おりょうが指差した先には、港の生垣に咲き乱れる真っ赤なハイビスカスがあった。
下船した二人は、南洋特有の熱気に包まれた。
街並みは不思議だった。日本の長屋のような木造建築だが、壁はなく柱だけで風通しを良くしており、屋根にはヤシの葉が葺かれている。
行き交う人々も、髷を結った役人もいれば、鮮やかな腰布を巻いた現地のチャモロ人もいる。
「旦那、いいヤシ酒があるよ!」
日焼けした日本人の露天商が声をかけてきた。
龍馬は早速、ココナッツの殻に入った酒を煽る。
「ぷはーっ! 甘い! 甘いが、この暑さには合うのう!」
二人は、白い砂浜を歩いた。
おりょうは、履物を脱ぎ、素足を波に浸した。
「冷たくない。お湯みたい」
裾をまくり上げた彼女の脚は白く、南国の日差しの中で眩しいほどだった。
「お龍、おまんは本当に南国の花にも負けん美人じゃのう」
「何言うてはりますの。酔っ払いは置いていきますえ」
そう言いながらも、おりょうは浜辺で拾った白い貝殻を、龍馬の掌に乗せた。
「お土産。……喧嘩ばかりの日本じゃ、こんな綺麗なものは拾えまへん」
龍馬はその貝殻を、懐のピストルの隣に大切にしまった。
### 3.洋上の日々――南十字星を探して
大宮島を出た船は、さらに南へ。
赤道を越える夜、船上では「赤道祭」が行われた。
乗客も船員も、酒を酌み交わし、三味線と南洋の太鼓が入り混じった奇妙な音楽で踊る。
喧騒を離れ、二人は甲板のベンチに座っていた。
「見えんのう」
龍馬が夜空を見上げてぼやく。
「何がどす?」
「サザン・クロスじゃ。南十字星。オランダの書物には、南の海には十字架の形をした星があると書いてあったんじゃが」
空には満点の星。天の川が、まるで牛乳をこぼしたように濃く流れている。
「龍馬さんは、星が好きどすなあ」
「星はええ。誰のもんでもない。幕府のもんでも、薩摩のもんでもない。世界中どこから見ても、星は星じゃ」
おりょうは、龍馬の肩に頭を預けた。
「うちは、星より、今のこの風が好きどす。……龍馬さんの匂いがします」
波音だけが響く洋上で、二人は静かに寄り添った。
帝国の海は、どこまでも広く、そして優しかった。
### 4.翠海――珊瑚の森と熱帯雨林
次に船が着いたのは、大南島の東を抜け、豪州大陸の北東岸。
**翠海(すいかい/現在のケアンズ)**である。
ここは、「世界最大の珊瑚礁」への玄関口だった。
「龍馬さん! 海の下に、森があります!」
小舟に乗り換えたおりょうが、歓声を上げた。
**「大翠海」**。
ガラス箱(覗き眼鏡)を通して見る海中は、まさに竜宮城だった。
青、黄、赤の珊瑚が迷路のように広がり、その間を宝石のような魚たちが舞っている。
「こりゃあ……言葉にならん」
龍馬も息を呑んだ。
土佐の海も綺麗だが、これは次元が違う。生命の爆発だ。
「この海も、帝国のものか。広すぎるのう。人間が刀振り回して奪い合うのが、アホらしくなるぜよ」
二人はその後、内陸の熱帯雨林(キュランダ周辺)へも足を伸ばした。
蒸気機関車が、巨大なシダ植物の森を切り裂いて走る。
窓から見えるのは、見たこともない青い蝶や、極彩色のインコたち。
「ここでは、鳥まで派手なんどすな」
おりょうは、市場で買ったマンゴーを齧りながら笑った。
「甘酸っぱい。初恋の味、言いますやろ?」
「わしの初恋は、剣術道場の竹刀の味じゃったがの」
「色気のない人」
二人は笑い合った。
暗殺の恐怖も、政治の駆け引きも、この極彩色の森の中では遠い夢のようだった。
### 5.羊州――櫻港の羊とマオリの戦士
旅の後半、船は南下し、気候は一変した。
熱帯の湿気は消え、涼しく爽やかな風が吹く。
**羊州**、北島の**櫻港**への入港である。
「寒いぐらいどすな」
おりょうは、龍馬が羽織らせてくれた外套の前を合わせた。
港には、その名の通り、日本から持ち込まれた桜の木が植えられていたが、今は季節外れで緑の葉を茂らせていた。
下船した二人を迎えたのは、顔に刺青を入れた巨漢たちだった。
「おお、あれが噂のマオリ族か!」
龍馬が興味津々で近づこうとすると、おりょうが袖を引いた。
「あきまへん! 怖そうな顔してはります!」
しかし、マオリの男たちは、龍馬たちを見ると、人懐っこい笑顔で「キオラ!(こんにちは)」と手を挙げた。彼らの腰には日本刀が差され、身なりは立派な羽織袴だった。
「帝国臣民じゃき。彼らは勇敢な武士として遇されとるんじゃ」
二人は馬車に揺られ、郊外の牧草地へ向かった。
見渡す限りの緑の丘陵。そこに、白い雲が落ちてきたかのような、数万頭の羊の群れ。
「メェエエエ」という鳴き声が、風に乗って響く。
「すごい数……あれが全部、毛織物になるんどすか」
「そうじゃ。あの羊が、帝国の軍服になり、カネになる。三井や住友が目の色変えるわけじゃ」
その夜の食事は、羊肉の鍋(ジンギスカンの原型)だった。
臭みを消すためにニンニクと醤油ダレで焼かれた肉を、二人は腹いっぱい食べた。
「精がつくなあ! これなら夜も元気じゃ!」
「……龍馬さん、声が大きおす」
おりょうは顔を赤らめながら、肉を追加で注文した。
### 6.星都――天の川の真下で
旅の終着点は、南島の**星都(せいと/デカポ)**。
「南洋のイギリス」と呼ばれるこの街は、石造りの教会や洋館が立ち並び、街路樹のポプラが黄金色に輝いていた。
「綺麗などこやね。日本じゃないみたい」
「ここは空気が澄んどる。だから『星都』言うんじゃ」
その夜、二人は街外れの丘、「テカポ」と呼ばれる湖畔まで足を伸ばした。
そこには、人工の明かりが一切ない、太古の闇があった。
そして、見上げた空には――。
「…………!」
おりょうは言葉を失った。
空ではない。光の洪水だった。
星が多すぎて、星座がわからない。天の川は、もはや雲のように分厚く、空を二分している。
流れ星が、一つ、二つ、いや、数え切れないほど流れていく。
「お龍、あれじゃ」
龍馬が指差した南の空低く。
四つの星が、ひときわ強く輝き、十字を描いていた。
**「南十字星……」**
おりょうが呟く。
「やっと会えたのう」
龍馬は、夜露で濡れた草の上に腰を下ろし、おりょうを抱き寄せた。
「わしはな、お龍。この星の下に、新しい国を作りたかったんじゃ」
龍馬は静かに語り始めた。
「日本は狭い。身分だの、藩だの、しがらみばかりじゃ。でも、この海を見てみい。この星を見てみい。ここには、何もない。だからこそ、何でもできる」
「……龍馬さんの夢は、大きすぎます」
おりょうは、龍馬の胸に顔を埋めた。
「でも、うちはその夢を追いかける龍馬さんの背中が好きでした」
「過去形にするなちや」
龍馬は笑って、おりょうの髪を撫でた。
「これからじゃ。この国は、これからもっと大きくなる。わしらは、その始まりを見たに過ぎん」
「……帰りとうないなあ」
おりょうが小さな声で言った。
「このまま、二人でどこかの島で、漁師でもして暮らしまへんか」
龍馬は少し黙って、それから優しく、しかし力強く言った。
「それもええ。……じゃが、わしにはまだ、やることがある。勝先生や、西郷どんが待っちょる。この広い海を、誰もが自由に行き来できる世の中にせんとな」
おりょうは顔を上げ、涙ぐんだ目で微笑んだ。
「わかってます。……あんたは、日本の龍ですもの。空を飛んでなきゃ、死んでしまいます」
二人の頭上で、南十字星が静かに瞬いていた。
それは、新しい時代への道標のように見えた。
### 7.エピローグ――帰路
一ヶ月に及ぶ旅を終え、二人は再び「土佐丸」に乗っていた。
肌はこんがりと焼け、その表情は出発前よりも精悍に、そして穏やかになっていた。
「お龍、腹減ったのう」
「またですか。……ほら、大宮島で買うた干し肉がありますえ」
「気が利くなあ! さすがわしの女房じゃ!」
船は北へ向かう。
帝国の首都、東京へ。
そこには、めまぐるしい変革の日々と、近代国家建設という大仕事が待っている。
しかし、今はまだ。
二人だけの青い時間。
「日本に帰ったら、まずは何をします?」
おりょうの問いに、龍馬はニカっと笑って答えた。
「そうじゃのう。まずは弥太郎に、土産話を高値で売りつけてやるぜよ!」
海風が、二人の笑い声を乗せて、広い太平洋へと消えていった。
海洋帝国日本。その歴史の片隅に刻まれた、短くも美しい、愛と冒険の休日であった。
(幕間 完)




