12.パックス・ジャポニカの萌芽
# 海洋帝国日本史 第2章:近代化と内的葛藤
## 第六話:パックス・ジャポニカの萌芽(1851〜1860)
### 1.血の戦後処理――「御家取り潰し」の真実
嘉永四年(1851年)、春。
内戦の硝煙が晴れた東京(旧江戸)は、異様な静けさに包まれていた。
焼け落ちた上野の寛永寺跡には、帝国政府軍の駐屯地が置かれ、市中には「新政府」の布告が張り出されていた。
大手門内の旧幕府評定所。ここは今、**「特別高等裁判所」**と名を変え、敗者への審判が行われていた。
裁判長席に座るのは、かつて勘定奉行として財政を切り盛りし、新政府の初代**「首相」**に指名された男、**小栗忠順**である。
彼の前には、後ろ手に縛られたかつての大大名たちが跪かされていた。
尾張徳川家、水戸徳川家、そして譜代筆頭であった井伊家の当主等列藩同盟で幕府に逆らった藩主達である。
「徳川慶勝、徳川斉昭、井伊直弼etc...。……貴殿らの罪は、単なる反逆ではない。帝国の時計の針を逆戻りさせ、国家の存亡を危うくした『文明に対する罪』である」
小栗の声には、一片の慈悲もなかった。
井伊直弼が叫ぶ。
「小栗! 貴様も譜代の家臣ではないか! 神君家康公以来の譜代筆頭たる井伊家を、まさか断絶させる気か!」
小栗は冷ややかに眼鏡の位置を直した。
「家康公は仰った。『天下は一人の天下にあらず』と。貴殿らは家名の誇りに固執し、国の未来を見ようとしなかった。……判決を申し渡す」
**一、尾張徳川家、水戸徳川家、井伊家、仙台伊達家等の列藩同盟の藩は、即日改易・取り潰しとする。**
**一、当主及びその一族は平民へ降格し、家財・領地は全て国庫へ没収とする。**
**一、華族令による爵位授与の対象外とし、永劫に政治への関与を禁ずる。**
法廷内が凍りついた。
切腹ですらない。武士としての名誉すら剥奪され、路頭に迷う平民へと落とされる。それは、死よりも過酷な刑罰であった。
傍聴席にいた加賀の前田斉泰は、震えが止まらなかった。彼もまた一歩間違えればここに座っていたのだ。中立(という名のサボタージュ)が、唯一の生存ルートであったことを骨の髄まで理解した。
この日、三百年にわたり日本の特権階級であった「門閥」の権威は完全に破壊された。
小栗は、あえて残酷な処断を行うことで、全国の旧大名に対し無言のメッセージを送ったのである。
『帝国政府に逆らう者は、歴史から抹消される』と。
### 2.「長岡の龍」と霞が関の誕生
旧大名たちの領地没収と、その資産運用を一手に引き受けた男がいた。
長岡藩出身、**河井継之助**である。
彼は内戦時、長岡藩の武装中立を画策したが、小栗忠順にその才を見出され、新政府の**「大蔵省・主計局長」**に抜擢されていた。
「武士は食わねど高楊枝……なんてのは古い。これからは、国が商売をして稼ぐ時代だ」
河井は、没収した尾張や仙台の広大な屋敷を、即座に三菱や三井に払い下げた。その売却益は、そのまま新政府の庁舎建設と、軍艦の建造費に充てられた。
現在の霞が関官庁街の原型は、河井が引いた図面によって作られたものである。
1852年から1855年にかけて、帝国政府は猛烈な勢いで統治機構を整備していった。
それは、英国の議院内閣制と、プロイセンの官僚制、そして徳川の権威主義を融合させた、世界でも類を見ないシステムであった。
**【帝国政府統治機構(1855年体制)】**
* **将軍(執政・プレジデント):** 徳川斉順
* 国家元首代行。軍の最高指揮権、条約批准権、議会解散権を持つ「絶対的権威」。
* **上院(貴族院):** 旧大名(勝ち組)、公家、功臣で構成。首相指名権を持つ。
* **下院(衆議院):** 納税者(地主・豪商・南洋入植者)による選挙。予算審議権を持つ。
* **内閣(行政府):** 将軍によって任命され、議会に責任を負う。
そして、実務を担う**「省庁」**が発足した。(最初は卿と呼んでいたが、後に大臣に切り替わる。)
1. **内務省(Home Ministry):**
* 警察、地方行政、宗教(国教会)、インフラ管理を統括する最強官庁。初代内務卿には、**土方歳三**が就任。「国家に仇なす者は、神官であろうと思想家であろうと取り締まる」という恐怖の代名詞となる。
2. **大蔵省(Ministry of Finance):**
* 財政、徴税、通貨発行。河井継之助らの手腕により、円(Yen)の信用を確立する。
3. **外務省(Foreign Ministry):**
* 外交、通商交渉。初代外務卿には**岩瀬忠震**。ロンドン、パリ、NYに領事館を設置。
4. **陸軍省・海軍省:**
* 軍政機関。参謀本部・軍令部とは独立し、予算と人事を握る。
小栗忠順は、初代総理としてこれらの省庁を指揮し、こう語ったという。
「ネジ一本に至るまで規格を統一せよ。北海道から西寧まで、同じ法、同じ通貨、同じ言葉で統治するのだ」
### 3.アロー戦争への道――アジアの利権と緩衝地帯
国内の基盤が固まりつつあった安政三年(1856年)。
海外から、再び戦火の匂いが漂ってきた。清国で発生した「アロー号事件」をきっかけとする、英仏連合軍と清国との戦争(第二次アヘン戦争)である。
「上様、出兵すべきです」
閣議の席上、外務卿の岩瀬忠震は強く主張した。
「清国はもはや死に体。今、英仏と共に兵を出さねば、アジアの利権は全て彼らに奪われます」
帝国の経済界からも、悲鳴にも似た要望が上がっていた。
香港や上海には、すでに三井物産や住友商事の支店が進出し、南洋の砂糖や日本の海産物を販売していた。彼らの資産が、清国の排外暴動によって脅かされていたのである。
しかし、将軍・斉順と小栗首相が見ていたのは、商売だけではなかった。
作戦室に掲げられた地図。そこには、朝鮮半島と台湾が赤く塗られていた。
「ロシアは必ず南下する。清が崩壊すれば、半島と台湾は力の空白地帯となる。そこを欧州列強に取られれば、帝国の喉元に刃を突きつけられることになる」
**「利益線」**という概念の誕生である。
帝国本土(主権線)を守るためには、その外側に影響力を行使できる緩衝地帯(利益線)が必要である。
台湾と朝鮮。この二つを、帝国の「保護国」として確保する。
そのための口実として、アロー戦争への参戦は絶好の機会であった。
### 4.ロンドンの握手――第一次日英同盟(1858年)
参戦に先立ち、帝国は外交的布石を打った。
1859年、ロンドン。
帝国駐英特命全権公使・**岩倉具視**は、ダウニング街10番地(首相官邸)を訪れていた。
対するは、英国首相パーマストン子爵。
「日本帝国は、東洋における英国の権益を尊重する。インド、シンガポール、香港への航路の安全は、我が海軍が保証しよう」
岩倉は、流暢な英語ではなく、通訳を介した重厚な京都弁(標準語に翻訳される)で切り出した。
「その代わり、貴国には認めていただきたい。朝鮮、台湾、そしてオホーツク海における我が国の優越的地位を」
英国にとって、極東の警察官を自認する日本は、喉から手が出るほど欲しいパートナーであった。ロシアの南下を防ぎ、広大な中国市場を開放するための番犬。
利害は完全に一致した。
ここに、歴史的な**「第一次日英同盟」**が締結される。
* **英国は、日本のアジア・太平洋における「特殊権益」を承認する。**
* **日本は、英国のインド・中国通商路を軍事的に保護する。**
* **両国は、第三国(主にロシア・清)との戦争において、相互に支援する。**
これは、有色人種国家が西洋列強と対等な軍事同盟を結んだ、世界初の事例であった。
ロンドンのタイムズ紙はこう報じた。
『東の島国は、もはやエキゾチックな極東ではない。北海の我々と同じ、冷徹な鉄の海軍国である』
### 5.遠征軍、西へ――フランスとの邂逅
安政四年(1857年)から始まったアロー戦争への本格介入。(1858年~)
日本帝国は、海軍の蒸気フリゲート艦隊と、陸軍の精鋭部隊「海兵隊(Rikusentai)」三千名を派遣した。
天津沖。
日本の「扶桑」「金剛」といった最新鋭艦が、英仏艦隊と並んで停泊する姿は壮観であった。
ここで日本軍は、初めて**「フランス軍」**と接触する。
「ほう、あれがナポレオンの末裔か」
海兵隊指揮官・**西郷従道**(吉之助の弟)は、フランス陸軍の鮮やかな軍服と、その独特な用兵思想に目を見張った。
英国軍が「規律と火力」を重視するのに対し、フランス軍は「個人の勇気と着剣突撃」を重視していた。
「悪くない気迫だ。だが、我らの方が速い」
大沽砲台の攻略戦。
英仏軍が正面から砲撃戦を行う中、日本海兵隊は、吃水の浅い強襲揚陸艇(和船を改良したもの)を使い、泥干潟を高速で突破。側面から砲台に強襲をかけた。
「チェストォォォ!」
薩摩示現流の掛け声と共に、リボルバーと軍刀を持った海兵隊が清国兵の陣地に飛び込む。
その凄まじい白兵戦能力は、同盟軍である英仏兵をも戦慄させた。
フランス軍司令官は日記に記している。
『日本の兵士は、山猫のように敏捷で、ライオンのように獰猛だ。彼らを敵に回さなくて本当に良かった』
### 6.北京入城と「円明園」の教訓
1860年、連合軍は北京に入城。
清の皇帝は逃亡し、北京条約が結ばれた。
この際、英仏軍による円明園(皇帝の離宮)の略奪と焼き討ちが行われたが、日本軍はこれに参加せず、整然と警備任務に当たった。
これには小栗総理からの厳命があった。
『略奪は三流国のすることなり。帝国軍は規律を示し、清国の民に「日本こそが真の文明国」であると知らしめよ』
この態度は、清国の知識人層に複雑な感情を抱かせた。
「西洋の蛮族は我らを獣扱いするが、日本人は礼節を持っている。……だが、彼らの要求は西洋よりも厳しい」
北京条約の結果、日本が得たものは大きかった。
1. **台湾における日本の「警察権」と「開拓権」の承認(事実上の保護国化)。**
2. **朝鮮半島における日本の「特殊な地位」の黙認。**
3. **清国主要港における、日本専用租界の設置。**
さらに、日本はこの戦争で得た賠償金を元手に、清国からの留学生を積極的に受け入れる政策を打ち出す。
「アジアの盟主」として、清国を支配するのではなく、影響下に置く。そのための布石であった。
### 7.ロンドン総領事と「パックス・ジャポニカ」の始まり
1860年、冬。
ロンドンの高級住宅街、ベルグレイヴィア地区。
ここに、日の丸を掲げた白亜の洋館がオープンした。**「日本帝国欧州総領事館」**である。
初代総領事に就任したのは、かつて遣欧使節団で通詞を務め、外務省の幹部となった**福沢諭吉**である。
彼は、シャンパングラスを片手に、英国の紳士たちと談笑していた。
「ええ、我が国では『学問のすすめ』ならぬ『商売のすすめ』が流行っておりましてね。文明とは、蒸気と電気、そして正当な契約によって作られるものです」
福沢の執務室には、巨大な世界地図が貼られていた。
英国が支配する大西洋とインド洋。
そして、日本が支配しつつある太平洋と東シナ海。
二つの海洋帝国が手を結ぶことで、世界をリングのように取り囲む「同盟の鎖」が完成していた。
一方、東京の首相官邸。
小栗忠順は、河井継之助と共に、次の十年の計画書を練っていた。
「総理。次は『鉄』です。軍艦を輸入する時代は終わりました。全て国産化します」
「ああ。横須賀と呉、そして室蘭に巨大な製鉄所を作る。……それと、北だ」
小栗の指が、樺太の北、凍てつくシベリアを指した。
「ロシアが傷を癒やして戻ってくる。その時こそ、帝国の真価が問われるだろう」
窓の外には、ガス灯が灯り始めた東京の街並みが広がっていた。
江戸の木造長屋は急速に姿を消し、レンガ造りの官庁や、三菱が建てたビジネス街(丸の内)が産声を上げていた。
髷を落とし、洋服を着て、鞄を持ったサラリーマンたちが闊歩する。
それは、誰も見たことのない、東洋の近代都市の風景。
海洋帝国日本。
その若々しくも強靭な心臓が、力強く鼓動を始めていた。
(第2章 完)
ここで第二章が完結です。
第2章にて現代まで続く「日本帝国」の国家構造と、世界戦略の基盤が完成しました。
第三章との間には閑話を挟みます。




