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117.帝国南洋の繁栄――三つの窓から見るパックス・ジャポニカの絶頂

# 海洋帝国日本史 第十二章:黄金の狂騒と解き放たれる世界


## 閑話:帝国南洋の繁栄――三つの窓から見るパックス・ジャポニカの絶頂(1978年)


### 1.南半球の巨大な心臓――帝国の第二の柱


1970年代後半。世界が冷戦の枠組みの中で、アジアやアフリカ、バルカンの独立戦争、あるいはソビエト連邦の静かな経済停滞に揺れ動く中、極東の盟主たる大日本帝国は、EATO(極東条約機構)を中心とする広大な経済圏の頂点に君臨し、国際情勢において絶対的な存在感を放っていた。


この時期、アメリカ合衆国がNAFTA(加米墨同盟)の内側に引きこもり、ソビエトが計画経済の泥沼に足を取られていたため、自由主義経済圏における大日本帝国の地位は「相対的な一極集中」とも呼べる状態にまで高まっていたのである。


帝国の力の源泉が、内地(日本列島本島)から朝鮮半島、満州、そして北中華へと連なる、巨大な重工業と先端ハイテク産業の密集地帯『太平洋ベルト(環黄海メガロポリス)』にあることは論を俟たない。

しかし、その強大な工業生産力を下支えし、帝国臣民に豊かな生活と文化を享受させていた「もう一つの巨大な原動力」の存在を忘れてはならない。


それこそが、赤道を越えた南半球に広がる巨大な大陸――**『帝国豪州(豪州地方)』**である。


今回は、1978年当時の記録映像と経済白書を紐解きながら、帝国の圧倒的な富と文化の象徴として輝いていた、南洋の三つの巨大都市を「歴史の窓」から覗き見てみよう。


### 2.志度新シドニー――三都金融環と摩天楼のスカイ回廊


南洋大陸の東海岸に位置する、帝国南洋最大の都市・**志度新しどにい**。

1978年当時の都市圏人口は1500万人を突破しており、これは帝都・東京、そして大阪に次ぐ、大日本帝国内で第三位の規模を誇る超巨大メガロポリスであった。


この都市の性格を決定づけているのは、「巨大財閥による計画的な経済支配」である。

志度新は、古くから**三井財閥**と**住友財閥**のお膝元として発展してきた。市街地の中心部、オペラハウス(史実)のある湾岸エリアから少し内陸に入った場所には、**『三都金融環』**と呼ばれる、文字通り南半球最大の金融センターが形成されている。


ここに聳え立つのは、三井銀行本店、住友銀行本部、そして帝国銀行(中央銀行)の巨大な高層ビル群である。これらのビル群は、単なるオフィス街ではない。1975年に完成した**『スカイ回廊』**と呼ばれる、地上200メートルの高さを空中で結ぶガラス張りの巨大な連絡橋によって、これらの超高層ビルは物理的にも接続されていた。


当時の観光パンフレットには、次のようなコピーが躍っている。

『雲の上を歩き、南半球の富を見下ろす――志度新・三都金融環スカイ回廊』


多くの観光客がこの回廊を訪れ、足下に広がる青い海と、数千隻のコンテナ船が行き交う巨大な港を眺めながら、大日本帝国が動かしている「莫大なマネーの血流」を実感したのである。


一方で、この街は単なる無機質なコンクリートジャングルではない。

金融街のすぐ隣には、1705年の入植時代から続く古いレンガ造りの街並みと、かつての『旧総督府公邸』がそのまま残された歴史保存地区が存在し、近代的な摩天楼との見事なコントラストを描き出している。


そして、市民の精神的な支柱となっているのが、小高い丘の上に広大な鎮守の森を構える**『南十字帝国神宮』**である。

南洋最大の神宮であるこの場所には、南十字星を意匠に取り入れた独特の美しい社殿が建ち並び、正月や例祭には数百万人規模の参拝客が訪れる。


「……志度新に行けば、帝国の『今』と『伝統』のすべてがある」

この街は、南洋文化と流行の絶対的な中心地として君臨しており、帝都・東京をはじめとする本土の若者たちはもちろん、同盟国である韓国、満州、北中華などのアジア圏からも、最新のファッションや南洋特有のオープンな空気を求めて、連日何万人もの観光客が押し寄せていたのである。


### 3.明爾湾メルボルン――芸術とテクノロジーが交差する街


志度新から南西へ約900キロ。

財閥の重役たちや、多くの観光客を乗せた「南洋新幹線」が、最高時速250キロで広大なユーカリの森を切り裂いて走り抜ける。その終点に位置するのが、都市圏人口1300万人を誇る第二の巨大都市・**明爾湾めいじわん**である。


志度新が「金融と商業」の街であるならば、明爾湾は**「学術・芸術」**と**「最先端の自動車産業」**という、一見相反する二つの顔を見事に融合させた特異な都市であった。


この街の工業地帯の主役は、本土からいち早く南洋へと巨大な生産拠点を移した**『本田技研工業ホンダ』**とその関連企業群である。

明爾湾の郊外には、地平線の彼方まで続くような巨大な自動車工場と、最先端のテストコースが広がっている。彼らはここで、広大な南洋大陸を走破するためのタフな四輪駆動車から、本土へ逆輸入される流線型の高級スポーツカーまでを大量生産し、世界中へと輸出していた。

また、都市の北部に広がる肥沃で広大な農地を生かし、帝国全体の食糧安全保障を担う「農業都市」としての側面も持ち合わせていた。


しかし、明爾湾が多くの人々を惹きつけてやまない最大の理由は、その**『芸術都市』**としての洗練された空気感にある。


1970年代後半の帝国民の間では、次のような言葉が流行していた。

「……日本の古風芸術は京都にあり。アニメなどのサブカルチャーは東京にあり。そして、現代芸術モダンアートは明爾湾にある」


その象徴とも言えるのが、街の中心に聳え立つ**『明爾湾スカイヒルズ』**である。

高さ450メートルを誇るこの超高層ビルは、四角い箱型ではなく、流れるような曲線を多用した「非対称構造」という、当時の建築工学の限界に挑んだ前衛的なデザインを採用していた。

低層階には巨大な『国立現代美術館』が併設されており、帝国内外の気鋭のアーティストたちの作品が常設展示されている。街角には洗練されたカフェやギャラリーが並び、自由でクリエイティブな空気が都市全体を包み込んでいた。


さらに、明爾湾から少し車を走らせれば、そこには息を呑むような大自然のパノラマが広がっている。

特に、南氷洋の荒波によって削り出された石灰岩の奇岩群が連なる**『蒼海湾と断岩帯(史実のマーターズ湾およびザ・トゥエルブ・アポストロズ)』**は、大日本帝国屈指のドライブ・ルートとして知られていた。


1970年代後半、一般家庭にも普及し始めた「国産の高性能一眼レフカメラ」を首から下げた観光客たちが、ホンダやトヨタの新型車レンタカーを駆り、この断崖絶壁のルートを走り抜けながら、南洋の雄大な自然をファインダーに収める。それは、豊かな中産階級へと成長した帝国民の「理想的な休日の過ごし方」であった。


### 4.西寧パース――白と青の迷宮、インド洋の真珠


東海岸のメガロポリスから、大陸を横断する長距離鉄道(あるいは国内線のジェット旅客機)で西へ向かう。

広大な砂漠地帯を越えた先、大陸の西海岸において、ただ一つインド洋に向けて開かれた大都市が存在する。

都市圏人口500万人を擁する、南洋西部の要衝・**西寧さいねい**である。


この都市のアイデンティティは、東海岸の二都市とは全く異なっている。

西寧の最大の武器は、その背後に広がる広大な大地から掘り出される、文字通り「無尽蔵の地下資源」であった。

金、石油、ボーキサイトといった伝統的な資源に加え、1970年代から需要が急増し始めたレアメタル(リチウムやシリカなど)。西寧は、これらを産出する巨大な資源地帯の玄関口として機能していた。


市内には、**住友金属鉱山、三井鉱業、三菱マテリアル**といった帝国の重厚長大産業を担う巨大企業の支店ビルが建ち並び、さらにそれらの資源を世界中へ売りさばく総合商社や化学メーカーの駐在員たちが、忙しく駆け回っている。

西寧は、大日本帝国の高度経済成長を「物理的な資源の面から」支え続ける、極めて重要な心臓部であった。


そして、この西寧のもう一つの大きな特徴が、その**「特異な歴史的景観と文化」**である。


かつてこの地は、大日本帝国と大英帝国が激しく衝突した『日英戦争』における、最大の激戦地の一つであった。西寧の港の入り口には、当時の巨大な『要塞跡』が歴史遺構としてそのまま残されており、平和な時代となった今でも、その重厚な大砲の跡がかつての歴史の激しさを物語っている。


観光客の目当ては、その戦争で一度燃え落ちた旧市街の跡地に、戦後になって再建された美しい街並みである。

西寧の郊外で豊富に採れる純白のシリカ(珪砂)を用いた白い壁。そして、紺碧のインド洋を思わせる鮮やかな青タイルの屋根。

地中海性気候の乾いた風が吹き抜ける、高低差のある丘陵地帯に作られたこの『白と青の階段市街地』は、まるでエーゲ海の島に迷い込んだかのような錯覚を観光客に与え、超人気の写真撮影スポット(当時の言葉で言えば「絵葉書のような風景」)となっていた。


さらに、西寧は地理的にインド洋に面しているため、かつては大英帝国の植民地であったインドや、南アフリカ、東アフリカ方面からの交易船が多数寄港する「中継港」としての歴史を持っていた。

そのため、街の文化には日本的な要素に加えて、旧港の巨大なレンガ造りの倉庫群や、パブでのビール文化、あるいはアフリカから伝わった独特のスパイス料理など、**『英国とインド洋圏の文化』**が色濃く混ざり合っている。


東海岸の近代的な喧騒とは異なる、どこかエキゾチックで、のんびりとしたインド洋の風を感じられる街。それが西寧という都市の持つ、独特の魅力であった。


### 5.閑話休題――豊かさという名の「絶対の盾」


1978年。

志度新の金融回廊を歩くエリートたち。

明爾湾の美術館で現代アートについて語り合う若者たち。

西寧の青と白の街並みで、カメラのシャッターを切る家族連れ。


これらの風景は、大日本帝国が冷戦という極限の緊張状態の中で、武力ではなく「経済と文化の力」によって、自国の臣民にいかに莫大な豊かさを提供していたかを示す、何よりの証拠であった。


もし、イタリアのように時代錯誤な軍事力にのみ固執していれば、このような繁栄は絶対に訪れなかったであろう。

あるいは、ソビエト連邦のように硬直化した計画経済に縛られていれば、多様な芸術や流行が生まれる余地などなかったはずだ。


帝国は、太平洋ベルトという「頭脳と心臓」を持ち、南洋大陸という「広大な資源と文化の庭」を持っていた。

この二つの巨大な歯車が完璧に噛み合い、互いに豊かさを循環させ続ける限り、パックス・ジャポニカ(大日本帝国の平和)は揺るがない。


世界が来るべき1980年代の「新たなる嵐」へと向けて静かに息を潜めている中。

南半球の巨大な空の下で、帝国の南洋都市群は、その眩いばかりの光を放ち続けていたのである。


(閑話 完)


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