表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

102/131

102.帝都の聖夜と方程式――15歳の天才たちの初恋

海洋帝国日本史 

閑話:帝都の聖夜と方程式――15歳の天才たちの初恋(1943年12月)

1.帝都のクリスマスと、解けない難問

1943年12月24日。

世界が血みどろの戦争を終え、次なる冷戦の足音に怯える中。大日本帝国の帝都・東京は、有史以来かつてないほどの圧倒的な「大戦景気」と平和の喜びに沸き返っていた。


銀座から丸の内へと続く目抜き通りには、華やかなイルミネーションが瞬き、蓄音機からはビング・クロスビーの『ホワイト・クリスマス』が途切れ途切れに流れている。道行く人々は上質なウールの外套を羽織り、誰もが帝国の無敗と繁栄に胸を張っていた。


そんな華麗な帝都の片隅、有楽町の映画館前で、一人そわそわと懐中時計を見つめている少年がいた。

御子柴みこしば 龍一りゅういち、15歳。

彼は、帝国の最高学府へと直結する『東京帝国大学附属高校』において、すでに高校三年生までの全カリキュラムを飛び級で修了し、来春からは帝国理工院での航空力学研究が内定しているという、桁外れの「秀才(天才)」であった。


頭の中だけで複雑な流体力学の偏微分方程式を解き明かす彼の頭脳は、今、人生で最も難解なエラーを起こしていた。


「……計算上は、あと2分で彼女が到着するはずだが。心拍数が平常時の1.5倍に跳ね上がっている。交感神経の異常興奮だ……落ち着け、ただの5回目のデートじゃないか」


彼が深呼吸をしたその時。

「お待たせしました、御子柴くん」


鈴を転がすような声に振り向くと、そこには、白いベレー帽と上品な千鳥格子のコートに身を包んだ少女が立っていた。

西園寺さいおんじ 小百合さゆり、15歳。

彼女もまた、龍一と同じ附属高校で飛び級を果たす天才であった。数理に特化した龍一とは異なり、彼女は歴史学と国際法学において大学教授すら舌を巻くほどの異能を持つ、美しき才媛である。


「……いや、僕も今来たところだ。そのコート、とても似合っているよ。西園寺さん」

龍一は、内心の激しい動揺を完璧なポーカーフェイスで覆い隠し、精一杯背伸びをした「大人の紳士」を装って微笑んだ。


「ふふ、ありがとう。少し背伸びしてみたの。……さあ、行きましょうか」

小百合がはにかみながら微笑むと、龍一の脳内の論理回路は、いとも容易くショートした。


15歳にして帝国の未来を背負う頭脳を持つ二人。

しかし、彼らはまだ「恋」という未知の変数に対しては、驚くほど無防備で、初々しい子供に過ぎなかったのである。


2.暗闇の銀幕と、わずかな距離

二人がまず足を運んだのは、有楽町に新設されたばかりの巨大な**映画館キネマ**であった。

戦時中の国威発揚映画ばかりだった時期は過ぎ去り、今や帝都では、ハリウッドの古典を翻訳したものや、帝国キネマが莫大な予算を投じて制作したロマンティックな恋愛映画が大流行していた。


暗い館内。ふかふかのビロードの座席に二人が並んで座る。

スクリーンに白黒の映像が映し出され、甘いオーケストラの音楽が鳴り響く中、龍一の意識は、映画のストーリーなど全く入ってきていなかった。


(……近い。西園寺さんとの距離、わずか10センチ)


ひじ掛けに置かれた小百合の白い手に、自分の手がほんの少しだけ触れそうになっている。

龍一は、戦闘機の翼面荷重を計算するよりも遥かに緻密な計算で、自分の小指をあと数ミリ動かすべきか否か、という「絶望的なまでの葛藤」を繰り広げていた。


一方の小百合もまた、スクリーンを見つめながら、その横顔はわずかに朱に染まっていた。

(御子柴くん、映画……全然見てない。ずっと身体が緊張して固まってる)

彼女の鋭い観察眼は、隣に座る天才少年の不器用な緊張を完璧に見抜いていた。そして、それが「自分を意識してくれているからだ」と気付くたびに、彼女自身の胸の奥も、きゅっと甘く締め付けられるのだ。


暗闇の中で、二人の小指が偶然、ほんの一瞬だけ触れ合った。

ビクッとお互いの肩が跳ね、すぐに手が引っ込められる。


「あ、ご、ごめん」

「ううん、私の方こそ……」


小声で交わされた短い言葉。それだけで、二人の顔は映画のヒロインよりも赤く染まり、残りの一時間半、彼らはスクリーンの中で何が起きているのかを完全に理解できないまま、ただ胸の鼓動だけを数え続けていた。


3.徳川記念博物館の知的な時間

映画館を出た二人は、冬の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながら、皇居(旧江戸城)の敷地の一部を利用して建てられた壮麗な近代建築、**『徳川記念博物館』**へと向かった。


帝国の巨大財閥の一つである徳川財閥が、その財力と権信を誇示するために築き上げたこの博物館には、江戸時代の煌びやかな大名道具から、帝国の近代化を支えた巨大な蒸気機関の模型まで、歴史と技術の粋が展示されていた。


ここに入ると、二人はようやく「自分たちの本来の土俵(知的な領域)」に戻り、自然な笑顔を取り戻すことができた。


「見て、御子柴くん。あの蒸気機関のクランクシャフトの構造、幕末の時点でここまで精巧な模倣ができていたなんて驚きだわ。歴史の転換点には、必ず狂気的な技術への執着があるのね」

小百合が、ガラスケースに顔を近づけて目を輝かせる。


「ああ。熱力学の観点から見ても、当時の冶金技術でこの気密性を保っていたのは奇跡に近い。……でも、僕が面白いと思うのは、その技術を設計した名もなき職人たちの『意地』だよ。絶対に白人(欧米)には負けないという、数式を超えた情熱だ」


歴史をマクロな視点で捉える小百合と、物理と工学のミクロな視点で解析する龍一。

彼らの会話は、周囲の大人たちから見れば「15歳の子供が何を小難しいことを」と笑われるようなレベルの高度な議論であった。しかし、二人にとってそれは、世界でただ一人、自分と同じ速度で思考を共有できる、至福の時間でもあった。


「……西園寺さんの歴史の考察は、いつも見事だ。君のような人が外交の歴史を学べば、帝国は二度と道を間違えないだろうね」

龍一が真顔で褒めると、小百合は照れ隠しのようにふわりと笑った。


「御子柴くんにそう言ってもらえると、少し自信が出るわ。……でも、私がいくら過去を学んでも、未来を創るのは御子柴くんのような技術者よ。私は、あなたの創る未来を、一番近くで見ていたいな」


その言葉に込められた『一番近くで』という響きに、龍一の心臓が再び跳ね上がる。

「……っ! あ、ああ、僕も、西園寺さんの……いや、なんでもない!」


天才ゆえの明晰な頭脳が、恋の駆け引きにおいては完全に空回りする。そんな龍一の不器用さが、小百合にはたまらしく愛おしく感じられていた。


4.背伸びした晩餐――ドイツ料理とノンアルコールビール

夕闇が帝都を包み込み始めた頃。

二人は、最近の東京で若いエリート層を中心に爆発的なブームとなっている**『ドイツ料理店』**へと足を運んだ。


世界大戦における日独の同盟関係と交流の活発化により、銀座や丸の内には、レンガ造りの重厚なビアホールや、本格的なドイツの郷土料理を出すレストランが次々とオープンしていたのである。


「いらっしゃいませ。ご予約の御子柴様ですね」

ウェイターに案内されたのは、落ち着いた間接照明が心地よい、オーク材のテーブル席であった。


「……ええと、注文は。本場のチューリンガー・ブラートヴルスト(焼きソーセージ)と、ザウアークラウト。それから、プレッツェルを」

龍一は、あらかじめ暗記してきたドイツ語のメニューを滑らかに発音し、精一杯の「大人のエスコート」を試みる。


「お飲み物はどうなさいますか?」

「……僕たちはまだ未成年なので。例の、『麦芽飲料ノンアルコールビール』を二つ」


当時の帝都では、大人の真似事をしたい学生たちの間で、本物のホップと麦芽の風味を再現した「ノンアルコールビール(あるいは極めて度数の低い炭酸飲料)」をジョッキで飲むのが一種のステータスであった。


やがて運ばれてきた、肉汁滴る巨大なソーセージと、琥珀色の液体が注がれた重いガラスジョッキ。

「それじゃあ……メリー・クリスマス、西園寺さん」

「メリー・クリスマス、御子柴くん」


カチン、とジョッキを合わせて、二人は同時にそれをグイッと煽った。

「……っ!」

「んっ……」


大人ぶって飲んではみたものの、本場ドイツの製法を真似たその麦芽飲料は、15歳の味覚にはあまりにも強烈に『苦かった』。

二人は同時に顔をしかめ、そして、お互いのそんな子供っぽい顔を見て、プッと吹き出した。


「ふふっ、あはは! 御子柴くん、すごい顔!」

「そ、そういう西園寺さんこそ、目がウルウルしてるじゃないか!」


それまでの知的な緊張感も、背伸びした大人の空気も、その苦笑いと共に完全に吹き飛んだ。

天才の鎧を脱ぎ捨てた彼らは、ただの15歳の少年と少女に戻り、ジューシーなソーセージを頬張りながら、学校の友人たちの噂話や、失敗した実験の話、そして何気ない日常の出来事を、時間を忘れて楽しそうに語り合った。


窓の外では、雪がちらつき始めている。

帝国の未来を背負う秀才たちの、ささやかで、極上に幸せなクリスマスの晩餐であった。


5.丸の内のガス灯と、単色のイルミネーション

午後8時。

レストランを出た二人は、冷たい夜風に頬を赤らめながら、東京屈指のデートスポットである**『丸の内セントラルビルのガーデン』**へと向かった。


赤レンガの東京駅と、重厚な石造りの日銀本店、そして最新のコンクリート建築である丸の内や大手町の巨大なビジネスビル群に囲まれた、広大な中庭ガーデン

そこには、戦勝の喜びに沸く帝都の象徴として、巨大なモミの木の『クリスマス・ツリー』が飾られていた。当時の技術の限界でありながらも、最新鋭の白熱電球が織りなす「単色(温かな黄金色)」のイルミネーションは、現代のどんな極彩色の光よりも、圧倒的に幻想的で温かみのある光を放っていた。


石畳の道路を照らす、ノスタルジックなガス灯の揺らめき。

ガーデンには多くのカップルや家族連れがいたが、誰もがその温かな光の下で、まるで自分たちだけの世界に入り込んでいるかのように、静かに寄り添い合っていた。


「……綺麗だね」

小百合が、黄金色に輝く巨大なツリーを見上げて息を吐く。白い息が、夜空に溶けていく。


「……うん。タングステン・フィラメントの白熱光は、色温度が低いから、人間の副交感神経を刺激して安心感を与えるんだ。……って、また理屈っぽくなっちゃったな」

龍一が自嘲気味に頭を掻くと、小百合はクスッと笑って、彼の方へ向き直った。


「ううん。御子柴くんのそういうところ、私、すごく好きよ」


その瞬間、世界中のすべての雑踏の音が、龍一の耳から完全に消え去った。


ガス灯の光に照らされた小百合の瞳が、真っ直ぐに自分を見つめている。

5回目のデート。お互いの気持ちは、もう計算式を解くまでもなく、痛いほどに分かり合っていた。残されているのは、ただ「最後の一歩」を踏み出す勇気だけだ。


6.最高の方程式――フィナーレの口づけ

龍一は、ぎゅっと拳を握りしめた。

天才と呼ばれる頭脳をフル回転させ、これまでの人生で最も美しい、完璧な「告白のセリフ」を構築しようと試みる。


(シェイクスピアを引用するか? いや、キルケゴールの実存主義か? ダメだ、そんな借り物の言葉じゃ、僕の心は伝わらない……!)


無数の言葉の破片が脳内を駆け巡り、そして、すべてが弾け飛んだ。

最後に行き着いたのは、ただの15歳の少年が絞り出す、最も不器用で、最も誠実な、たった一つの真実であった。


「……西園寺さん」

龍一は、小百合の正面に立ち、その小さな両手を、自分の大きな手で包み込んだ。

小百合の肩が小さく震える。


「僕は、航空力学の数式なら、誰よりも速く解ける自信がある。……でも、君の笑顔を見ると、頭の中が真っ白になって、心臓が爆発しそうになるんだ。こんなエラー、僕の人生で初めてだ」


小百合の瞳に、うっすらと涙の膜が張る。


「……僕は、君が好きだ。天才でも秀才でもなく、ただの御子柴 龍一として。……ずっと、僕の隣で、一緒にこの国の未来を見てくれないか」


その真っ直ぐすぎる言葉に、小百合の頬から、一粒の温かな涙がこぼれ落ちた。

彼女は、包み込まれた手の中で、龍一の指をぎゅっと握り返した。


「……ずるいな、御子柴くん。私だって、あなたといる時だけは、ただの不器用な女の子になっちゃうのに」

小百合は、涙を浮かべたまま、しかし世界で一番美しい笑顔で頷いた。

「……はい。私でよければ。ずっと、あなたの隣にいさせて」


二人の間に流れる、永遠にも似た一秒間。

雪が、黄金色のイルミネーションの光を反射しながら、二人の肩にふわりと舞い降りる。


龍一は、引き寄せられるように、少しだけ背伸びをした小百合の顔に近づいた。

お互いの吐息が混ざり合い、目を閉じる。


重なる唇。

それは、雪のように柔らかく、そして涙の少しだけしょっぱい味がする、最高にピュアで初々しい、15歳の初めてのキスであった。


周囲のガス灯が、まるで二人を祝福するように温かく揺らめく。

巨大な丸の内のビル群に囲まれたその場所で、若き二人の天才は、世界大戦の終わりも、迫り来る冷戦の脅威もすべて忘れ、ただお互いの体温だけを頼りに、その純粋な愛の証明を分かち合っていた。


7.エピローグ――黄金の世代の幕開け

「……ちょっと、長すぎない?」

「ご、ごめん! 計算外だった!」


唇を離した二人は、茹で上がったタコのように顔を真っ赤にして、お互いの顔を見れずに下を向いた。しかし、その手だけは、決して離れることなくしっかりと繋がれていた。


「……帰ろうか。風邪を引いたら、明日の実験に支障が出る」

「ふふ、そうね。明日は歴史の論文の提出日だわ」


繋いだ手をコートのポケットに忍ばせ、二人は丸の内のガス灯の下をゆっくりと歩き出す。


この黄金に輝く大日本帝国の繁栄が、いつまで続くのかは誰にも分からない。

ソビエトとの水面下の暗闘、そしてアメリカのパラノイア。世界はすでに、次の「冷たく巨大な戦争」へと舵を切っている。


しかし。

御子柴 龍一や、西園寺 小百合のような、希望と愛と、そして国家を背負う誇りを持った『黄金の子供たち』が育っている限り。

大日本帝国という巨大な船が、その歩みを止めることは決してない。


帝都の夜空に響く、クリスマスの鐘の音。

それは、戦争の終わりを告げると共に、彼ら若き世代が自らの足で未来を創り上げる、新時代の幕開けを祝福する希望のファンファーレであった。


(閑話2 完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ