表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/21

1.紅蓮の残火、碧落の野望

久しぶりに投稿を始めました。

時間があまりないので、構成を練って、指示を出しながらgeminiに打たせています。

AIの記憶能力の問題で直してはいますが、抜け漏れがあるかもしれません。

暖かく見守っていただければ幸いです。

# 海洋帝国日本史 第一章:波濤の産声


## 第一話:紅蓮の残火、碧落の野望(1615〜1620)


### 1.大坂、焦土の果てに


元和元年(1615年)五月。大坂城天守が業火に包まれ、豊臣氏が滅亡した時、日本は一つの特異な分岐点に立っていた。

世に言う「元和偃武げんなえんぶ」。応仁の乱より百数十年続いた戦乱の時代は、徳川家康という老いた巨星の手によって幕を閉じた。しかし、駿府の隠居所へ戻る家康の胸中にあったのは、平和への安堵ではなく、巨大な空虚への危機感であった。


「この十万の浪人どもを、いかに処すべきか」


大坂の陣に従軍した兵は、徳川方十五万、豊臣方十万。その多くは、土地を持たず、槍一本で身を立ててきた「戦のプロフェッショナル」である。戦が終われば、彼らはただの失業者となる。武功を立てる場を失った旗本、御家人たちの不満もまた、くすぶる火種であった。


江戸城の奥座敷。二代将軍・徳川秀忠、老中・土井利勝、そして家康の懐刀である金地院崇伝らが集った「御前会議」の記録が、帝国図書館の奥底に『元和海防秘録』として残されている。


「異国よりの宣教師どもは、デウスの名の下に人心を掌握し、いずれはこの日の本をスペイン・ポルトガルの領土とせんとしている。早々に禁教とし、異国との交わりを断つべきかと」

土井利勝が、後の「鎖国」に繋がる進言をした。しかし、家康は首を振った。


「閉じれば、この国は腐る。内に向いた刃は、いずれ徳川を刺す。利勝、海だ。海に、新たな領国を求めるのだ」


### 2.「御開拓」という名の決断


家康の構想は大胆であった。

当時、マニラやマカオからもたらされる南蛮の情報は、日本人の想像力を刺激していた。南方には、黄金を産む島々や、未開の広大な大地があるという。家康は、国内で持て余された武士のエネルギーを、南方への「開拓」へと転換することを決断したのである。


しかし、懸念は宗教であった。カトリック教会の浸透は、幕府の権威を根底から揺るがしかねない。ここで、帝国史上最も重要な「元和の妥協」が成立する。


**一、切支丹(キリスト教)は、国内において一切を禁教とする。**

**一、ただし、異国の航海術、造船術、海図についてはこれを徹底的に吸収し、幕府の管理下に置く。**

**一、朱印船貿易を拡大し、武装した武士による「南洋開拓」を国策とする。**


これは、史実の「鎖国」とは正反対の、「管理された拡張主義」への舵切りであった。


家康は、英国人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)を召喚し、西洋式の大型帆船の建造を命じた。また、長崎の商人たちに命じ、南洋の島々の正確な座標を集めさせた。この時、後に「帝国海軍」の精神的支柱となるある組織の接収が行われる。


### 3.芸州徳川家の創設と村上水軍


瀬戸内海。中世以来、この海域を支配してきたのは村上水軍であった。戦国末期、彼らは毛利家の傘下にあったが、その航海技術と戦闘力は依然として日本屈指であった。


元和二年(1616年)、幕府は電撃的な人事を発令する。

家康の十男、徳川頼宣を紀州ではなく、敢えて広島(芸州)へ配そうとしたが、最終的には家康の直命により、毛利家から「海路の要衝」としての権利を部分的に接収。これに徳川の血を引く一門を据える「芸州徳川家」の構想が浮上したのである。


「村上の技、徳川の武。これをもって帝国の楯とせよ」


家康は、村上水軍の末裔たちに対し、家禄を保障する代わりに、幕府直轄の「南洋水師」としての再編を命じた。広島は、単なる地方都市から、太平洋へ睨みを利かせる「帝国最初の軍港」へと変貌を遂げる。後の広島都市圏が、重工業と海軍の本拠地として栄える萌芽は、この瞬間にあった。


### 4.初代南洋提督、発つ


元和三年(1617年)、家康はこの世を去る。しかし、彼の遺志は二代・秀忠に引き継がれた。

秀忠は、父の遺訓に基づき、初代「南洋開拓総督(後の南洋提督)」に、勇猛果敢で知られた旗本、向井将監忠勝を任命する。


江戸・品川沖。

そこには、按針の指導の下で建造された二千石積みの和洋折衷型ガレオン船「観音丸」が、白帆を翻していた。

船上には、大坂の陣で居場所を失った浪人たち、次男坊以下で家督を継げない旗本の若武者たち、そして村上水軍の生き残りたちが、一様に南方を見据えて立っていた。


「目指すは、硫黄の島。さらにその先、熱風の吹く茉莉亜那マリアナの海なり!」


向井将監の号令と共に、大砲が空を衝くような轟音を響かせた。江戸の民衆は、かつて見たこともない巨大な影が、浦賀の向こう、黒潮の彼方へと消えていくのを、畏敬の念を持って見送った。


これが、後に「帝国大航海時代」と呼ばれる三百年におよぶ拡張の、第一歩であった。


### 5.歴史的概観:元和の転換点


当時の記録によれば、1615年から1620年にかけて、幕府は約一万二千人の「志願開拓民」を南方に送り出したとされる。

彼らの多くは、当初、飢えや疫病、そして未知の熱帯気候に苦しんだ。しかし、幕府は執拗に補給船を送り続け、小笠原諸島を「中継拠点」として整備することに成功する。


この時期の幕府の決断がいかに特異であったかは、同時代の清(中国)が「海禁」政策を維持していたことと比較すれば明白である。日本は、大陸的な「陸の秩序」を捨て、不安定ではあるが無限の可能性を秘めた「海の秩序」へと、その国家のOSを書き換えたのである。


**【歴史の窓】芸州徳川家と村上水軍の融合**

広島に拠点を置いた芸州徳川家は、後に「海軍元帥」を輩出する名門となる。村上水軍から伝わった「法螺貝による艦隊指揮」と、按針から学んだ「球面三角法による航海術」の融合こそが、後の日本帝国海軍が世界に冠たる所以である。



次は明日の6:30に投稿します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
どうせなら毛利を安芸に戻して、防長と安芸の一部(厳島あたりまでと、できれば江田島)を御三家領にしとけば…… そうしたら幕府が倒れないか、時期が遅れてしまうかするから駄目か……
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ