万倍の報い、あるいは彼女の等身大の奇跡
第四章:万倍の報い、あるいは彼女の等身大の奇跡
「春の新作プロモーション」のローンチ当日。
佐藤美咲は、銀座の百貨店に特設されたポップアップストアのバックヤードで、震える指先をそっと重ねていた。
昨日までの厳しい寒さが嘘のように、東京には柔らかな春の陽光が降り注いでいる。二十九歳の最後の一日が、今、始まろうとしていた。
午前十時、開店を告げる鐘が鳴り響く。
「……っ」
美咲の視界に飛び込んできたのは、開店と同時にエスカレーターを駆け上がってくる客たちの波だった。彼女たちが真っ先に向かったのは、美咲が心血を注ぎ、工場の職人と共に血の滲むような調整を重ねた、あの「春の色」のパッケージが並ぶ棚だった。
「可愛い! この色、実物で見るともっと素敵」
「SNSで話題になってたやつだよね。リーダーの人が工場まで通い詰めて作ったって記事、感動しちゃった」
客たちの弾んだ声が、会場に心地よい波紋のように広がっていく。
美咲の隣で、後輩の陽菜が涙を堪えながらスマートフォンを差し出した。
「佐藤さん、見てください! トレンド一位です。私たちの『#春を纏う』、日本中で爆発してます!」
画面には、美咲が深夜の静寂の中で、あの日消えたデータと格闘しながら絞り出したキャッチコピーが躍っていた。多くのユーザーが、まるで宝物を見つけたかのような笑顔で商品を手に取っている。
その時、人混みを割って一人の男が歩み寄ってきた。デザイナーの工藤だ。
彼は美咲の前に立つと、普段の偏屈な表情を封印し、穏やかな笑みを浮かべて右手を差し出した。
「佐藤さん。君の『諦めなかった一万円分の意地』が、市場を動かしたね。完敗だよ」
美咲はその手を、力強く握り返した。
「いえ……工藤さんの色があったから、私は走れたんです」
その日の売り上げは、同社のプロモーション史上、過去最高記録を大きく塗り替えた。
一週間後。
怒涛のプロジェクトを終えたオフィスは、穏やかな達成感と祝祭感に包まれていた。
美咲は自分のデスクで、ひび割れ一つない新しいスマートフォンの画面を見つめていた。そこには、数え切れないほどの感謝のメールが届いている。
「佐藤、ちょっといいか」
高木部長が、珍しく上機嫌な様子で美咲を呼んだ。案内されたのは、普段は入ることのない役員会議室だった。
「来月から、新規事業開発部の『課長代理』に任命する。……それと、これは今回のプロジェクトに対する役員会からの特別賞与だ」
示された金額は、あの日、美咲が絶望の中で賽銭箱に入れた一万円の、百倍を優に超える数字だった。
けれど、美咲の心を震わせたのは、その金額以上に、部長が静かに語った言葉だった。
「佐藤。お前が『運が向いてきた』と謙遜しているのは知っている。だがな、運というのは、何もしない人間に降ってくる宝くじじゃない。お前があの日、どん底の状態でも深夜まで資料を作り直し、翌朝一番にフォローの連絡を入れた。あの『誰にも見られていない場所での努力』を、見ていた人間がいたんだ。それが今回の抜擢に繋がったんだよ」
美咲は深く、深く頭を下げた。
溢れそうになる涙を、今はもう隠さなかった。
「……ありがとうございます。私、あの日、神様に一万円払って『幸せをください』って願いました。でも、神様がくれたのは幸運そのものじゃなくて、前を向くための『きっかけ』だったんですね」
仕事帰り、美咲は導かれるように、あの「福徳神社」へと足を運んだ。
今日は三十歳の誕生日。新しい人生の門出に、どうしても報告したいことがあった。
鳥居の前で丁寧に一礼し、境内に入る。
あの日、派手に転んで中身をぶちまけ、涙に暮れた石畳。今は街灯の光を優しく反射し、彼女の歩みを祝福しているように見えた。
賽銭箱の前に立つと、そこには一人の老いた神職が、竹箒で落ち葉を掃いていた。
美咲が参拝を終えるのを待っていたかのように、老人は手を止め、穏やかに声をかけてきた。
「おや、晴れやかなお顔ですね。良いことがあったのでしょう?」
美咲は驚いて顔を上げた。この神職とまともに言葉を交わすのは、今日が初めてだった。
「はい。以前、ここにとても不作法な形でお願いをしてしまって……そのお礼を言いに来ました」
美咲は財布から百円玉を取り出し、賽銭箱に入れた。
「あの日、自暴自棄になって一万円札を入れちゃったんです。でも、そのおかげで私、変わることができました」
すると老人は、含み笑いをしながら意外な事実を口にした。
「ああ、あの一万円札のお嬢さんでしたか。実はね、あの夜、あなたのすぐ後に参拝された方がおられたのですよ」
「え……?」
「この神社の長年の支援者で、大きな企業の会長を務めておられる方です。その方がね、賽銭箱の中にぽつんと置かれた真新しい一万円札を見て、こう仰った。『今の時代、深夜にこんな痛切な覚悟を置いていく若い人がいるのか。この一万円には、持ち主の人生がかかっているような気がする』と」
美咲は息を呑んだ。
「その会長さんは、翌朝、自分のグループ会社の下にいる者たちに仰ったそうです。『幸運を待つのではなく、幸運を掴むために自分のすべてを賭けられる人間を見落とすな』と。……お嬢さん、あなたの会社の上司の方は、その会長さんの教え子ではありませんか?」
心臓がどくん、と大きく跳ねた。
高木部長がかつて、グループの創業者を恩師と仰いでいた話を思い出した。
あの日、部長が自分を厳しくもチャンスの場に引き上げたのは、決して偶然ではなかった。美咲が放った「一万円の覚悟」というエネルギーが、目に見えない縁を伝わり、部長の心を動かしていたのだ。
「……神様はね、お嬢さん」
老人が、最後の一葉を掃き出しながら静かに言った。
「あなたの背中を、ほんの少しだけ押して、出会うべき人へと繋げただけですよ。一万円という対価を払ってまで『自分を諦めない』と決めたのは、あなた自身だ。その意志が、奇跡を呼んだのです」
美咲は深く頭を下げた。
神社を後にする彼女の背中に、夜風が優しく吹き抜けた。
それはあの日、彼女を凍えさせた冷たい風ではなく、新しい季節の訪れを告げる、温かな春一番だった。
鳥居を出て、美咲はスマートフォンを取り出した。
待ち受け画面には、チーム全員で撮った最高の笑顔が映っている。
もう、画面に亀裂はない。
「よし。三十代、最初の仕事は……」
美咲は顔を上げ、しっかりと地面を蹴って歩き出した。
カツカツと、心地よいリズムを刻むヒールの音。
もう二度と、彼女の足元が揺らぐことはない。
一万円の利息は、彼女の心の中に「一生消えない自信」という形で、永遠に積み立てられていくのだから。
どこにでもいる普通のOLの、どこにもない特別な再出発。
夜空を見上げると、あの日よりもずっと多くの星が、彼女の未来を照らし始めていた。




