タイトル未定2026/02/11 16:05
第三章:累積する利息、あるいは逆転の采配
宮本さんが座っていた、窓際の広いデスク。そこに移った初日、美咲が感じたのは高揚感ではなく、胃を握りつぶされるような重圧だった。
「佐藤さん、これ。宮本さんから引き継いだ分と、今日の会議資料です」
陽菜が、かつてないほど無表情に書類の束を置いた。あの日、トイレで彼女の本音を聞いて以来、美咲の胸には常に薄い氷が張っている。けれど、今の自分にはそれを溶かしている時間も、割る暇もなかった。
「ありがとう、陽菜ちゃん。……この数値の根拠、宮本さんのメモと少しズレがあるみたいだから、後でもう一度確認してくれる?」
「……わかりました」
陽菜の背中を見送りながら、美咲はふう、と息を吐いた。
椅子が良くなったからといって、能力が突然跳ね上がるわけではない。資料を読み込み、取引先に電話をかけ、各部署の調整に奔走する。慣れないリーダー業務は、美咲の体力を削り、睡眠時間を奪っていった。
けれど、あの日までと決定的に違うことが一つあった。
「……あと三千円分」
深夜、誰もいないオフィスで美咲はひび割れたスマートフォンのメモ帳にそう打ち込んだ。
神社に一万円を捧げて以来、彼女は自分の身に起きる「良いこと」を金額に換算するようになっていた。
朝、エレベーターがちょうど一階で待っていた(十円分)。
ランチで入った店が、たまたま最後の一席だった(五十円分)。
そして、難航していた物流部門との交渉が、相手の担当者がたまたま自分と同じ大学の出身だったことでスムーズに運んだ(二千円分)。
「一万円分の利息をもらうまでは、絶対に倒れない」
それは、もはや執念に近いおまじないだった。
プロジェクトの中盤、最大の試練が訪れた。
春の新作プロモーションの目玉となるはずだった限定パッケージの印刷。その色味が、デザイナーの意向と工場の仕上がりで致命的に食い違ってしまったのだ。
「これじゃ出せませんよ。ブランドイメージが崩れます」
デザイナーの工藤が、険しい表情で校正刷りを突き返した。工藤は業界でも「偏屈な天才」として知られ、妥協を一切許さないことで有名だった。
一方、印刷工場の担当者は頭を抱えていた。
「佐藤さん、これ以上の調整は納期の関係で物理的に不可能です。今の色味でも十分綺麗ですよ。これで進めさせてください」
板挟みになった美咲。周囲の視線が、彼女の決断を急かす。
「佐藤、どうするんだ。宮本なら、うまく折り合いをつけただろうが」
高木部長のプレッシャーが重くのしかかる。
(私ならどうする? 宮本さんならどうする?)
思考が空回りしそうになったその時、ふと美咲の脳裏に、あの最悪の夜の情景が浮かんだ。
深夜の境内でぶちまけた、バラバラの荷物。
あの時、私は「もうどうでもいい」と投げ出した。けれど、同時に「一万円」という、自分にとって重みのあるものを差し出した。
「……もう一度、調整をお願いします。私も工場に同行します」
美咲の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「佐藤さん、何を言ってるんです。もう時間が――」
「工藤さんが納得しないものを世に出して、一番悲しむのはお客様です。工場の皆さんの技術なら、あと一歩踏み込めるはず。……その代わり、プロモーションのスケジュールは、私が他部署と交渉して、後ろに一日だけずらします」
無謀な提案だった。けれど、彼女の瞳には、かつての「流されるだけのOL」の影はなかった。
その日の午後、美咲は印刷工場へと飛んだ。
ひたすら頭を下げ、技術者たちの話を聞き、インクの配合を一緒に見守った。
そして翌日の早朝。
「……できた。これだ」
工場のベテラン職人が、誇らしげに一枚の紙を掲げた。
それは、工藤の理想を完全に体現した、鮮やかで深みのある「春の色」だった。
オフィスに戻り、完成した校正刷りを工藤に見せた時。
彼はしばらくその紙を見つめ、それから美咲の目を見て、小さく笑った。
「……佐藤さん。君は、自分の努力を過小評価しすぎているな。この色を出せたのは、工場の腕じゃない。君が、彼らのプライドに火をつけたからだ」
その言葉と共に、工藤から一通のメールが届いた。
それは、彼が個人的に繋がりのあるインフルエンサーたちへの、プロモーションの協力依頼だった。
「君の熱意に免じて、僕の『利息』も貸してあげるよ」
(……嘘。これ、何円分だろう)
美咲の胸に、熱いものが込み上げた。
計算なんて追いつかない。けれど、彼女は確かに感じていた。
一万円分の幸せどころか、彼女が手にしたのは、それ以上に価値のある「信頼」という名の財産だった。
プロジェクトの進捗は、そこから劇的に加速した。
これまで美咲に冷たかった他部署の人間も、彼女の必死な姿を見て、少しずつ協力的になっていった。
ある日の昼下がり、美咲は給湯室で陽菜と鉢合わせた。
逃げようとした陽菜を、美咲は呼び止めた。
「陽菜ちゃん」
「……はい」
「これ、宮本さんの引き継ぎ資料。私のミスで見落としてた部分、陽菜ちゃんがこっそり直してくれたでしょ? ありがとう」
陽菜は驚いたように目を見開いた。
「……気づいてたんですか」
「気づくよ。陽菜ちゃんの仕事は、いつも丁寧だから。……私ね、あの日のトイレの話、聞いちゃったんだ」
陽菜の顔から血の気が引く。
「でも、あれは本当のことだった。あの時の私は、確かにだらしなくて、情けなかった。だから、怒ってないよ。……むしろ、気づかせてくれてありがとう」
美咲が微笑むと、陽菜の瞳から大粒の涙が溢れ出した。
「すみません、私……佐藤さんのこと、何も分かってなくて……。今の佐藤さん、本当にかっこいいです。私、全力でサポートしますから」
(これで、人間関係の利息……八千円分くらい、かな)
美咲は心の中でそう呟き、後輩の肩を優しく叩いた。
そして迎えた、プロモーション開始の前夜。
美咲は久しぶりに、あの神社へと足を運んだ。
もはや「怖い場所」ではなく、そこは彼女にとって、自分と対話するための大切な聖域になっていた。
賽銭箱の前で、美咲は深い一礼をした。
「神様。あの日の一万円、もう十分すぎるほど返してもらいました。……でも、まだ終わりじゃないですよね?」
風が、神社の木々を優しく揺らした。
彼女のポケットには、修理から戻ってきたばかりの、新しい画面のスマートフォンが入っている。
そこに、一件の通知が届いた。
高木部長からだった。
『明日の初動、期待している。それと、プロジェクト終了後の人事評価について、役員会で推薦を出した。自信を持って臨め』
美咲は顔を上げ、夜空を見上げた。
あの日、絶望の中で見上げた空とは、全く違う星が輝いているように見えた。
「……よし。明日は、私がみんなに幸せを配る番だ」
彼女は百円玉を一枚入れ、力強く柏手を打った。
その音は、明日という新しい一日の幕開けを告げる、祝砲のように響いた。




