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昨日の不幸を、明日の利息に。 ― どん底OL、深夜の神社で未来を買う ―  作者: 久遠 睦


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利息なき祈り、あるいは一万円の余白

第二章:利息なき祈り、あるいは一万円の余白


賽銭箱の奥底へ吸い込まれていった一万円札は、音も立てなかった。

五円玉や百円玉が立てる「チャリン」という軽やかな音さえ、今の美咲には許されないようだった。ただ、闇がその厚みを増したような、奇妙な静寂だけが辺りを支配した。

「……バカみたい」

投げ入れた瞬間の衝動的な熱は、夜風にさらされて瞬く間に冷えていった。

一万円。それは二十九歳の、しがない事務職である美咲にとって、決して「どうでもいい」金額ではない。一回の贅沢なディナーを諦め、数冊の欲しかった本を我慢し、一ヶ月間節約してようやく手元に残る、血の通った一万円だ。それを、名前も知らない神社の、顔も見えない神様に投げ与えてしまった。

美咲は力なく立ち上がり、膝についた砂を払った。

ストッキングはもう修復不可能だし、スマートフォンの画面は無惨にひび割れている。バッグの中身をすべて詰め直し、重い体を引きずって鳥居をくぐり抜けた。

振り返ることはしなかった。振り返れば、自分の愚かさに耐えられなくなって、賽銭箱をこじ開けて一万円を回収したくなるかもしれないと思ったからだ。

深夜の住宅街は、恐ろしいほどに静かだった。

自分の足音だけが、コンクリートに虚しく響く。

マンションの自室に辿り着き、明かりも点けずに玄関に崩れ落ちた。

靴を脱ぐ気力さえない。美咲は暗闇の中で、ただじっと自分の呼吸音を聞いていた。

「神様なんて、いるわけないじゃない」

独り言が、冷たい壁に跳ね返る。

もし神様がいるのなら、あの階段でヒールを折るはずがない。コーヒーをぶっかけられるはずがない。後輩に陰口を叩かれるはずがない。

あの一万円は、自分の人生に対する「供養」のようなものだ。あるいは、これ以上最悪なことが起きないようにという、身勝手な賄賂。

結局、その夜はメイクも落とさず、泥のように眠りについた。

翌朝、目が覚めた時、美咲は微かな期待を抱いていた。

あんな無茶な「お供え」をしたのだ。目が覚めたら、昨日の出来事がすべて夢になっていたり、折れたヒールが元通りになっていたり、あるいは枕元に幸運のチケットが置かれていたり……。

けれど、現実は無慈悲なほどに変わらなかった。

鏡に映るのは、不摂生でむくんだ顔と、昨日の涙でパンパンに腫れた瞼。

床には、画面の割れたスマートフォンが転がっている。

時計の針はいつも通りに進み、美咲は重い体を奮い立たせて、予備のブラウスに腕を通した。

「……まぁ、そうよね。神頼みなんて、気休めですらないわ」

会社へ向かう電車の中、美咲は自嘲気味に笑った。

あの一万円は、ただ失われた。それだけのことだ。

オフィスに着くと、まずは後輩の陽菜に昨日立て替えてもらった昼食代を返さなければならなかった。

「陽菜ちゃん、昨日はありがとう。これ、お昼代」

封筒に入れた千円札を差し出すと、陽菜は昨日と同じ、完璧な営業用の笑顔を見せた。

「あ、すみません佐藤さん。わざわざ封筒に入れていただいて。お気になさらないでくださいね、大変そうでしたし」

(大変そうでしたし――)

その言葉の裏に、昨日トイレで聞いた嘲笑が張り付いているようで、美咲の胸はチクリと痛んだ。けれど、彼女は何も言えなかった。ただ「ありがとう」とだけ返し、自分の席に座った。

一週間、美咲は「なぎ」のように過ごした。

大きな不幸も起きなかったが、これといって良いこともなかった。

高木部長からの風当たりは相変わらず強く、一度失った信頼を取り戻すための地道な作業が続いた。消えたファイルのやり直し、さらにその倍以上のエビデンス集め。

画面の割れたスマホを見るたびに、あの夜の惨めさが蘇る。修理代に数万円かかることを考えると、あの一万円をそちらに回すべきだったと、後悔の念がじわじわと胸を焼いた。

「私、何やってるんだろう……」

金曜日の夜。ようやく一週間の地獄を乗り越え、少しだけ足取りが軽くなった。

足は自然と、あの神社へと向かっていた。

あの一万円が惜しかったからではない。ただ、あの夜の自分を、もう一度客観的に確かめたかったのかもしれない。

到着した「福徳神社」は、夕暮れの時間帯で見ると、深夜とは全く違う表情をしていた。

こんもりとした木々に囲まれ、近所の子供たちが遊ぶ声が遠くから聞こえる。そこは決して「怖い場所」ではなく、むしろ街に溶け込んだ、温かな場所のように見えた。

美咲は鳥居の前で一度立ち止まり、深呼吸をした。

今日は転ばないように、慎重に足元を確かめて進む。

賽銭箱の前に立ち、バッグから財布を取り出した。

今度は、ちゃんと小銭がある。

百円玉を一枚、指先で弾くようにして入れた。

「……先日は、取り乱して失礼しました」

美咲は目を閉じ、手を合わせた。

柏手の音が、透き通った冬の空気に吸い込まれていく。

「あの日の一万円、今の私にはすごく大金なんです。だから……せめて、一万円分の幸せをください。少しずつでいいので。……願い直させてください」

あまりにも現実的で、図々しい願い。

けれど、そう口にした瞬間、不思議と心が軽くなった。

神様に丸投げするのではない。あの一万円を「投資」だと考えれば、少しは前を向ける気がした。一万円分のリターンがあるまでは、腐らずに生きてみよう。そう思えたのだ。

変化は、その翌日から、ごく小さな「芽」のように現れ始めた。

土曜日の朝、久しぶりに近くのパン屋へ向かうと、ちょうど焼きたての食パンが運ばれてきたところだった。

「お姉さん、運がいいね。今、一番いいのが焼けたよ」

店主の気さくな言葉と共に差し出されたパンは、驚くほど香ばしく、温かかった。

家に帰ってバターを乗せて食べると、それだけで一週間の疲れが溶けていくような気がした。

(一万円のうち、まずは二百円分くらいの幸せ……かな)

美咲は心の中で小さくカウントした。

月曜日、会社。

コピー機が詰まって四苦八苦していると、いつもは厳しいはずの他部署のベテラン社員が、「貸してみな、コツがあるんだよ」と鮮やかに直してくれた。

「佐藤さん、いつも頑張ってるね。君が作った前回の資料、見やすくて助かったよ」

思わぬ褒め言葉に、美咲の頬が少し緩んだ。

(これで、五百円分)

彼女は確信を持って、心の中の手帳に書き込んだ。

火曜日。

メインの業務であるプロジェクトの進捗報告。

美咲が必死に作り直した、あの日消えたはずの資料。それを提示した時、高木部長が眼鏡をクイと押し上げた。

「……ほう。前回よりも分析が深くなっている。あのミスを無駄にしなかったようだな」

それは部長なりの、最大限の賛辞だった。

(これは大きいわ。……二千円分くらいかな)

そんな風に、美咲は日常の中に「小さな幸運」を見つけるゲームを始めた。

今までなら見落としていたような、誰かの優しさや、季節の移ろい、仕事の達成感。

一万円という「前払い」をしたことで、彼女の視界は、不幸を探す癖から、幸運を探す癖へと、少しずつシフトしていっていた。

そして、あの日からちょうど十日が経った昼下がり。

オフィスに緊張が走った。

「えっ、宮本さんが……?」

陽菜の悲鳴に近い声が響く。

今期、全社を挙げて進めていた「春の新作プロモーション」のプロジェクトリーダー、エース社員の宮本が、階段で転倒して複雑骨折をしたという知らせが入ったのだ。

全治三ヶ月。プロジェクトは、明日から佳境の準備期間に入るという最悪のタイミングだった。

「誰か、代わりができる奴はいないのか!」

高木部長の怒号が飛ぶ。しかし、誰もが目を逸らした。宮本の仕事量は膨大で、途中から引き継ぐにはあまりに荷が重い。

部長の視線が、オフィスを彷徨う。

そして、一人の社員の前で止まった。

「佐藤……お前、あの日――遅刻したあの日に出していた宮本のフォロー資料、あれを完璧に把握しているのはお前だけだ」

美咲は息を呑んだ。

あの日。

ヒールを折り、コーヒーを被り、陰口を叩かれ、ファイルを消された、あの最悪の日。

美咲は泣きながら、それでも「やるべきこと」だけは放棄しなかった。深夜に目を腫らしながら作成し、翌朝一番に送った宮本宛てのサポートメールと追加分析。

「佐藤、宮本の代役を務めろ。これは宮本本人からの強い希望でもある。『今の進捗を一番理解しているのは佐藤さんだ』とな。……どうだ?」

周囲の空気が、一瞬で変わった。

同僚たちの驚愕の視線、そして、陽菜の顔から血の気が引いていくのが見えた。

「私に……できるでしょうか」

「お前があの日、あの状況で投げ出さなかった姿を、私は見ている。今のうちにしかできない仕事だ」

美咲は震える手で、ひび割れたスマートフォンの画面をなぞった。

これは、神様が用意した帳尻合わせなのだろうか。

いや、違う。

あの日、一万円を投げ打って絶望を断ち切った自分が、ボロボロになりながらも繋いだ一本の糸が、今、大きな運命を手繰り寄せたのだ。

「……はい。やらせてください」

力強く答えた美咲の視界は、あの日、境内でぶちまけられた荷物の中から拾い上げた時よりも、ずっと鮮やかに輝いていた。

(……これで、五千円分。ううん、もしかしたら……)

残りの「利息」を受け取る準備は、もうできている。

美咲はデスクから立ち上がり、新しいプロジェクトファイルを開いた。


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