どん底のオーケストラ、あるいは綻びたパンプス
第一章:どん底のオーケストラ、あるいは綻びたパンプス
アラームが鳴る三十分前、佐藤美咲は微かな頭痛と共に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む、冬の冷たく鋭い朝日は、二十九歳の肌には少しばかり眩しすぎる。鏡に映る自分は、どこにでもいる「普通のOL」だ。丁寧にスキンケアをし、程よく流行を取り入れたオフィスカジュアルに身を包む。それは彼女にとって、社会という戦場へ出るための、最低限の武装だった。
「よし、今日も頑張ろう」
鏡の中の自分に、言い聞かせるように小さく頷く。お気に入りのベージュのパンプスを履き、マンションのドアを開けた。
それが、すべての「崩壊」の序曲だとは、この時の彼女は知る由もなかった。
最初の一撃は、あまりにも唐突だった。
マンションの階段を数段降りた時、右足の重心がふわりと浮いた。
バキッ。
乾いた、嫌な音が静かな階段に響く。
「あっ……」
短い悲鳴が漏れるより早く、美咲の視界は大きく傾いた。着地した時には、右のヒールが無残にも折れ、彼女は無様に膝をついていた。
「嘘……これ、先月買ったばかりなのに」
膝に目をやると、おろしたてのストッキングが伝線し、膝から太ももにかけて、隠しようのない無慈悲な一本の線を描いている。美咲は折れたヒールを拾い上げ、絶望的な気分で部屋へ引き返した。
自宅で予備の靴に履き替え、ストッキングを替え、駅へと急ぐ道中。さらなる不運が彼女を襲う。
角を曲がった瞬間、向かいから走ってきた男と肩がぶつかった。
「あ、すみま――」
言いかけた言葉は、冷たい感触に遮られた。男が持っていた飲みかけのアイスコーヒーが、美咲の真っ白なブラウスの胸元に、大きな茶色の汚点描いていた。
「チッ、危ねえな」
男は謝るどころか、舌打ちを残して走り去った。
「待って、そんな……」
呆然と立ち尽くす美咲。胸元の汚れは、今の彼女の心そのもののように、どす黒く広がっていく。拭けば拭くほど、それは醜く輪郭を広げるだけだった。
追い打ちをかけるように、駅の電光掲示板には「運転見合わせ」の四文字が躍っていた。
今日は、数ヶ月かけて準備してきた重要な週次会議がある。美咲が担当した売上予測の資料を、役員の前で発表するはずの日だ。
湿り気を帯びた人混みの中で、ようやく会社に滑り込んだのは、会議が始まって三十分が経過した頃だった。
「失礼します……。電車の遅延で……」
消え入りそうな声で会議室のドアを開けると、室内の空気は氷点下まで下がった。
上司の高木部長が、眼鏡の奥の目を冷酷に細めて美咲を射抜く。
「佐藤さん。遅延は不可抗力だが、一本早い電車に乗る余裕はなかったのか? 君の発表のために、役員を含めたこれだけの人間が時間を浪費したんだ。……おまけに、その服の汚れは何だ。プロとしての自覚を疑うよ」
「申し訳、ございません……」
謝罪の言葉は喉に張り付き、役員たちの冷ややかな視線に、耳の裏が痛いほど熱く火照っていた。
昼休み。胃を締め付けるようなストレスを抱えながら、美咲は気分転換を兼ねて、後輩の陽菜を誘って外食へ出た。
注文を終え、いざ会計という時になって、美咲の指先が凍りついた。
バッグの中をいくら探っても、あるはずの長財布が、どこにもない。
(嘘。朝、遅れて出社してパニックになりながら資料を確認した時……デスクの上に置きっぱなしにしたんだ!)
「……あの、陽菜ちゃん。ごめん、財布をデスクに忘れてきちゃって。立て替えてもらってもいいかな?」
美咲は顔を引き攣らせて頼み込んだ。
「あ、いいですよ。大丈夫です」
陽菜は笑顔で応じてくれたが、その目が一瞬、憐れむように揺れたのを、美咲は見逃さなかった。
しかし、その陽菜の優しささえも、残酷な毒へと変わる。
午後、化粧直しに立ったトイレの個室。隣の洗面台から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。先ほど助けてくれたはずの、陽菜の声だった。
「……そうなんですよ。佐藤さん、朝から遅刻して部長に公開処刑されてるのに、お昼は財布忘れたって言って私に払わせて。おまけにブラウスはコーヒーまみれだし、正直見てて痛々しいっていうか……。二十九にもなって、ちょっとだらしないですよね。私だったらあんな姿で会社来れないかも」
一緒にいる誰かの、嘲笑するような含み笑い。
美咲は暗い個室の中で、呼吸を止めた。心臓が、早鐘のように脈打つ。
一番信頼していた後輩に、裏ではそんな風に思われていた。胸元の汚れよりも、その言葉の方が深く、鋭く、美咲の心を汚していった。
逃げるように個室を出て、自分のデスクに戻る。
そこには、主を待つようにぽつんと長財布が置かれていた。それを見て、自分のあまりの惨めさに視界が滲む。
自分を奮い立たせるように、午後の作業に没頭した。
夕方の提出に向けて仕上げていた、来期の大事な予算ファイル。これさえ完璧にこなせば、今日の汚名も少しは返上できるかもしれない。
「あともう少し……」
最後のグラフを挿入しようとした瞬間、画面が唐突に暗転した。
「……え?」
次の瞬間、青い画面にエラーメッセージが浮かび上がる。再起動したデスクトップには、昼過ぎから積み上げてきた数時間分の努力の跡形もなかった。自動保存さえ機能していなかった。
「……あはは」
乾いた、掠れた笑いが漏れた。周囲はすでに帰宅の準備を始めている。
暗くなったオフィスで、美咲は一人、真っ白なExcelシートに向き合った。深夜まで及ぶやり直し作業。空腹と疲労、そして陽菜の言葉が呪文のようにリフレインし、キーボードを叩く指先が微かに震える。
ようやく会社を出たのは、日付が変わる直前だった。
もう、立っているのもしんどい。駅の改札を通ろうとした時、さらなる絶望が彼女を襲う。
「……ない」
今度は、スマートフォンがない。
(……あ、お昼のカフェだ。立て替えてもらったことに動揺して、テーブルに置いたままにしたんだ)
もう、叫び出したかった。
なぜ、今日という一日に、これほどの不幸が凝縮されなければならないのか。
美咲は重い体を引きずって、夜の街を逆走した。
昼間のカフェが入るビルまで戻り、夜間警備員に頭を下げ、手続きをしてようやくスマートフォンを回収した。
ようやく手元に戻ってきた、スマホ。
「お疲れ様です。……大変でしたね」
警備員さんの何気ない、同情の籠もった一言が、限界だった美咲の心に最後の一撃を与えた。
終電の車内。吊革に掴まりながら、美咲は窓に映る自分の顔を見た。
メイクは剥げ落ち、目は赤く腫れ、ブラウスにはコーヒーの染みが残り、代わりの靴はどこか不格好だ。
「私、何やってるんだろう……」
二十九歳。結婚の予定もなければ、キャリアもこの有様だ。
最寄り駅に着き、住宅街を歩く。街灯がまばらなその道で、美咲はふと足を止めた。
いつもはスマートフォンの画面ばかり見ていて、気にも留めていなかった場所。
コンクリートの塀と、古いアパートの間に挟まれるようにして、石造りの鳥居が闇の中に浮かび上がっていた。
「……神社?」
それは、街の喧騒から切り離されたかのように、不自然なほど静まり返っていた。
深夜の神社。普通なら気味が悪いと避けるはずなのに、今の美咲には、その暗闇が自分を優しく飲み込んでくれる、唯一の避難所のように見えた。
導かれるように、彼女は鳥居の下へと足を踏み入れた。
けれど、今日という日は、彼女を最後まで許してはくれなかった。
「あっ――」
鳥居をくぐった瞬間、石畳の僅かな段差に、予備で履いてきた靴の先が引っかかった。
前のめりに倒れ込む。
ガシャッ、バサッ。
握りしめていたバッグの口が開き、中身が深夜の境内に派手にぶちまけられた。
リップ、手帳、ハンカチ、予備のストッキング。そして、つい数十分前にようやく手元に戻ってきたばかりの、あのスマートフォン。
石畳に叩きつけられたスマホの画面は、さらに無惨な蜘蛛の巣状の亀裂を広げていた。
美咲は、起き上がることができなかった。
冷たい石畳に手をついたまま、震える肩を抑える。
「なんで……。なんで私ばっかり、こんな目に遭うの……。もう嫌、もう頑張れないよ……」
止まっていた涙が、今度は決壊したように溢れて止まらなかった。
仕事も、人間関係も、自分の持ち物さえ、何一つ自分の思い通りにいかない。
暗闇の中、散乱した自分の持ち物が、まるで粉々に砕け散った自分の人生の破片のように見えて、美咲は声を殺して泣き続けた。
這いつくばるようにして、散らばった荷物を手探りで集める。
その時、目の前に、古びた賽銭箱があるのに気づいた。
「……神様」
掠れた声で呟く。
こんなに惨めな思いをさせておいて、まだ私から何かを奪うつもりなの?
それなら、もう、いっそ。
美咲は震える手で財布を開いた。
中には、五円玉も、百円玉も、一枚もなかった。
そこにあったのは、今月を生き抜くための、たった一枚の「一万円札」だけだった。
「……もう、どうにでもなれ」
美咲の瞳に、絶望を超えた虚無の光が宿った。
彼女はその一万円札を指先でつまみ上げると、一切の躊躇なく、闇の底へと投げ入れた。




