第19話 加護研究院
王都を覆う紅蓮の光。
リクは神獣としての力を完全に制御できず、己の中で渦巻く「紅の魂」と「人の心」の狭間で揺れていた。
セリアはその光の中で、ただ静かに彼の名を呼ぶ。
風が凪ぐ――すべての決着は、今ここから始まる。
第19話「加護研究院 ― 封印実験と裏切り ―」
王都の北端、石造りの塔群が並ぶ「加護研究院」。
リクとセリアは、学院の推薦によりここへ派遣された。表向きは“加護共鳴の実験協力者”として。だが裏では、神熊の加護を封印し、王族の加護を完全な支配力へと変えるための計画が進行していた。
研究院の廊下には、魔力を吸い上げる青白い管が這い、どこか病院にも似た無機質な冷気が漂っている。
セリアは肩をすくめながら、リクの腕を軽く引いた。
「ねえ……ここ、空気が重い。生き物の気配が、ない」
リクは頷く。
胸の奥に潜む“紅き熊”――レッドベアーが、低く唸りを上げていた。
『匂うぞ……“封印”の気配だ。奴ら、また神を囚える気だな』
その声を聞くだけで、体の奥が熱くなる。リクは意識を研ぎ澄ませ、セリアの風の加護を感じ取る。彼女の周囲の空気が柔らかく揺らぎ、魔力を和らげていた。
――互いに支え合わねば、呑まれる。
やがて、二人は研究主任・クロイツ博士の前に通された。
「ほう……これが“熊の加護”保持者か。珍しい。通常、動物系加護は暴走しやすいのだが」
博士は分厚い眼鏡の奥で光を反射させ、興味深そうにリクを見つめた。
「あなた方の協力で、王都の加護体系は一段と進化する。安心したまえ、危険はない」
その言葉の裏に潜む嘘を、セリアは風で感じ取っていた。
(……嘘。部屋の空気が揺れた。彼、隠してる)
案の定、リクたちは「魔力適合実験」と称して、封印陣の中心に立たされた。
床には複雑な文様――神熊の紋が刻まれていた。
博士がスイッチを押すと、リクの胸が焼けるように熱くなり、紅の光が暴発した。
『グルァアアアアア!!』
熊の咆哮が響き、塔の天井が震える。
魔力封印装置は次々と破裂し、研究員たちは逃げ惑った。
「リク! 落ち着いて! あなたは人間よ!」
セリアの声が風に乗って響く。
リクは意識の底で、もう一人の自分――紅き獣の目を見た。
『我を殺すな……共に在れ、人の子よ』
リクの中で、何かがひとつになった。紅と蒼、熊と風が融合するように。
爆風が止み、静寂の中で博士が震える声で呟いた。
「ば、馬鹿な……神獣が、人に同化した……!?」
封印は、もはや誰にも制御できなかった。
リクはセリアの手を取り、燃え落ちる研究院を背に、夜の王都へと駆け出す。
その瞳には、もはや迷いはなかった――
「行こう、セリア。
この力で、もう誰も囚わせない」
風が彼らを包み、紅き光が闇を照らした。
夜の王都に、反撃の狼煙が上がる。
炎上する研究棟を背に、リクとセリアは夜の王都の裏路地を駆け抜けた。
爆音と悲鳴、魔力の衝突――それらすべてが背中を押してくる。
リクの肩は裂け、血が滲む。セリアの風がその傷を包むが、彼の体の奥で熊の咆哮がまだ止まらなかった。
『我を縛る鎖、すべて砕け。
この世の加護、偽りの光に過ぎぬ』
頭の中に響くその声は、まるで神の断罪のようだった。
リクは額を押さえながら呻いた。
「……やめろ、落ち着け……俺はお前の器じゃない……!」
セリアが振り返り、強い瞳で彼を見た。
「リク! あなたは“器”じゃなくて、“共に歩む者”よ!」
風が一陣、路地を吹き抜けた。
血と灰の匂いが混ざり合い、夜の空は鈍い赤に染まっている。
王都全体が、まるで呼吸を止めたようだった。
――その時。
後方から、黒装束の追撃部隊が現れた。
王族直属の魔術師団「封印守」。
手には光る槍、背には加護封印の呪符。
「逃がすな! “熊加護”保持者は陛下直轄の実験体だ!」
「セリア・アウル・フェンリアも同行! 二人とも拘束せよ!」
魔術師たちは、空に陣を展開した。
青白い封印光が街の屋根を覆い、逃げ場が消えていく。
「やばい、リク! 東の塔へ!」
セリアが風を操り、二人は屋根を飛び越える。
瓦が砕け、光弾がすぐ背後を掠めた。
リクの左肩が焼け、煙が上がる。
「くっ……!」
それでも止まらない。止まれない。
逃走の中、セリアは短く息を吐いた。
「ねえ、博士が最後に何か叫んでた。“封印成功”って……あれ、何のこと?」
「封印成功……?」
リクは一瞬、心臓が凍るのを感じた。
――まさか。
胸の中で熊の声が低く笑う。
『封印は終わっていない……奴ら、我の“魂の欠片”を奪った』
その瞬間、リクの目が赤く光る。
「セリア、奴らの目的は俺の中の“神熊の核”だ……! 封印なんかじゃない。再現だ!」
「再現……?」
「俺を使って、“もう一体の神熊”を生み出そうとしてる!」
その言葉に、セリアの顔色が変わった。
「それって……神の分裂……?」
「そうだ。奴らは神を二つに裂き、“支配できる神”を造ろうとしてる!」
王都の屋根を飛び越えながら、リクの脳裏にはクロイツ博士の冷たい笑顔が焼き付いていた。
あれは恐怖ではなく――確信の笑みだったのだ。
その頃、燃え落ちた研究棟の地下では、別の影が動いていた。
黒衣の博士、クロイツは生きていた。
右腕を失いながらも、彼は血に濡れた制御核を見つめて微笑む。
「ふふ……神熊の断片は回収できた。王家は喜ぶぞ……だが、“紅の器”が暴走すれば、王都は……」
床に広がる封印陣は、今も淡く光を放っていた。
リクの魂と繋がる赤い糸が、ゆっくりと別の結界に伸びていく。
一方、逃走中のリクは息を切らし、古い教会の裏手に身を隠した。
背中を壁に預け、拳を握る。
「……もう誰も、俺のせいで死なせない」
セリアは彼の隣に座り、静かに囁いた。
「誰も責めてないわ。あなたは“生かされた”のよ。熊も、神も、きっとそう思ってる」
「……セリア、もし俺が――人じゃなくなったら、どうする?」
彼女は一瞬だけ目を伏せ、それから微笑んだ。
「その時は、風で包んであげる。あなたが“帰る場所”を失わないように」
沈黙。
だが、心の奥に小さな光が灯る。
――人の言葉が、獣の怒りを鎮めていく。
その夜、リクは夢を見た。
森の奥、満月の下に一匹の熊がいた。
その熊は、彼と同じ赤い目をしていた。
『我らは同じもの。怒りも、悲しみも、共に背負う。
だが忘れるな、人の子――“神は器を選ばぬ”。器が神を形づくるのだ』
目覚めたリクの頬には涙が伝っていた。
朝の光が差し込み、セリアが眠る姿が見える。
彼女の手が、リクの指に触れていた。
リクは呟いた。
「……俺はもう、逃げない」
王都の鐘が鳴る。
その音が、反撃の合図のように響いた。
⸻
同じ頃、王城の謁見の間では、王族第一王子・カインが玉座に座っていた。
クロイツ博士がひざまずき、赤い宝珠を差し出す。
「陛下……“熊加護の欠片”の回収に成功しました」
カインは無言のまま、宝珠を手に取った。
その瞬間、宝珠の奥で紅い光が蠢き、王子の瞳にも血のような輝きが宿った。
「……なるほど。
神を封じるのではなく――取り込むのだな」
カインの背後に、黒い翼の影が広がる。
“封印王”の再臨を告げる夜は、もうすぐそこまで来ていた。
神と人、獣と愛。
リクとセリア、それぞれの魂がひとつに溶けあいながらも、まだ終わりではない。
紅の炎は鎮まっても、世界には新たな影が生まれようとしていた。
次章、第20話「再生の約束 ― 神の欠片を抱いて ―」へ…。




