姫巫女ミリヤム、神罰を受けて余命一年宣告を受ける
王都大神殿の最奥にある祈りの間。
創世の女神への祈りはどこからでも届くが、この大神殿最奥にある祈りの間からが最も届きやすいのだという。
それが嘘か誠か、私にはわからない。
けれど、毎日朝晩二回、私たち四人の姫巫女は創世の女神に祈る。
日々の平穏を、平穏の継続を。それらを与えて下さったことへの感謝を、魔力を込めて。
膝を付いて両手を組み合わせ、軽く頭を下げて女神への祈りを捧げると、全身から魔力が少しずつ抜けていく。
私たち姫巫女の想いを込めた祈りと魔力が、創世の女神の力となる。
毎日の祈りと魔力を自分の力に変えた創世の女神は、季節を回し、雨を降らせ、風を吹かせ、大地に恵を行き渡らせる。そうして、人間はこの世界で生きていくことが出来るのだ。
いつものように祈り始めて数分、胸が大きく鼓動した。
胸が、心臓が締め付けられる。
まるで体の中に手を突っ込まれ、心臓を鷲掴みにされて握り潰されようとしている、そんな激しい痛みだ。
「……っ、う……ううっ」
「……ミリヤム様?」
噴出した汗が肌を伝い、床に落ちる。
「ミリヤム様、どうされました!? 凄い汗だわ!」
「神官様! 騎士様! 大変です、ミリヤム様がっ」
胸の締め付けが激しく、呼吸がうまくできない。
「ミリヤム様!」
名前を呼ぶ大勢の人たちの声を聞きながら、私はそのまま床に倒れて意識を失くした。
***
私の生まれた家は聖クラッセンという。
聖女ナホミ様の残した四姉妹の一人、四女アウレリアを祖とする家だ。
豊穣の女神がたった一人この世に遣わした聖女ナホミ様の血を失わないように繋ぎ、一族の中から魔力量の多い姫巫女や神官を多く輩出し、女神に祈りと魔力を捧げることが使命な家。
私は八歳から神殿で暮らし、十二歳から姫巫女として祈りを捧げ続けて、その任期を間もなく終えようとしていた。
私の後任は、母の妹である叔母の末娘が選ばれており、私と入れ替わりで神殿に入る。
残り三か月の任期。もうじき神殿で暮らす時間も終わり、やっと家に帰ることが出来る……そう思っていたのに。
「……」
目を開ければ真っ白な天井と、天井に取り付けられたカーテンレールとクリーム色のカーテンが目に入った。
神殿内にある治療室だろう。
そこで祈りの間で自分の身に起きたことを思い出した。
あの強烈な胸の痛みはいったいなんだったのだろう? 病気だろうか。
ドアが開け閉めされる音がし、その後すぐベッドを覆うカーテンの隙間から医師が顔を出した。
「おや、気が付いたね。目覚めてよかった」
神殿付きの女性医師ヤスミン先生だ。
「……夜のお祈り中に倒れたことは覚えている?」
「はい」
「あれから十日経ってるんだけど、今まであなたはずっと眠っていたんだ」
「十日も?」
「ああ。倒れたときに覚えてることを話してみて」
ヤスミン先生が私の診察を始める。脈を取り、目の様子を確認し、体温、血圧と調べていく。
「いつものように夜のお祈りしました。そうしたら、突然胸が苦しくなったのです、締め付けられるような感じがしました。心臓がとても大きく鼓動して、息が苦しくなって……そして、気が遠くなったのです」
「今までにそういう症状は?」
「ありません」
「だよねえ、まだ十七、八歳だし? 食事だって神殿のものは素材の味を生かした食事……要するに薄味の健康的な粗食だしね」
首を傾げ、「心臓の音聞かせて貰うよ。夜着のボタンを少し外してくれる?」とヤスミン先生は聴診器を耳にかけた。
私は言われるまま、着せられていた夜着のボタンを外して少しはだけさせる。
「……!」
聴診器のチェストピースと呼ばれる、体に触れる丸い金属部分を手にしたままヤスミン先生は固まった。
「先生?」
「ミ、ミリヤム嬢。その胸の模様のような、痣のようなものはどうしたんだ?」
「え?」
私は首を起こし、夜着の前を大きくはだけさせる。
心臓が収まっているはずの左胸には、妙な模様が広がっていた。
色は淡いピンク色で、創世の女神を現わすエニシダのエンブレムに似ている。
「なに、これ?」
倒れる前にはなかったものだ。
「……診察後、神官長を呼んでくる。ミリヤム嬢はここで待っていて」
真っ青になったヤスミン先生は手早く診察をし、慌てて治療室を出て行った。
この淡いピンク色の模様は、なに? あの時感じた胸の苦しさと関係が?
私はピンク色に変った部分に触れた。
痛くもなければ、痒くもない。いつもと変わらぬ、少し乾燥した肌の感触がしただけだった。
*
今から九年前、私は八歳、姉が十二歳。
聖女ナホミ様の直系である聖クラッセン家に生まれた娘であるのだから、当然姉か私のどちらかには姫巫女としての任期がある。
姉のビアンカが姫巫女に選ばれたのは、彼女が十二歳のとき。女神の創世を祝う〝花祭りの日〟に神殿入りする、予定だった。しかし、姉は当日神殿で暴れ、泣き叫んだという。
『どうして私が、こんな何もないところで四年も過ごさないといけないの!? 絶対に嫌! 美味しいお茶とお菓子を出すカフェもない、演劇もない、可愛い小物もドレスもない! こんなところでただ祈って暮らすなんて、絶対に嫌! 慰問だの奉仕活動だのも大嫌いよ! そもそも、女神なんて物語の中にある想像の産物なのに、どうして私の時間をこんなところで消費しなくちゃいけないの!? 嫌ったら、嫌!』
そう言って癇癪をおこして暴れ、子ども相手に本気になれない神官たちを傷つけ、その場にあった調度品を幾つも壊した。
更に他家の姫巫女である令嬢が姉の暴走を止めようとしたが、姉はその令嬢の髪を掴んで引っ張り、引っ掻き、ビンタをし、罵ったらしい。
私は後から聞いただけでなにが真実でなにが嘘なのかわからないが、とんでもない話だ。
当然、神官長を筆頭に神殿側は怒り心頭、姉は姫巫女失格として家に帰されることとなる。
代わりに急遽、我が家の傍系から一人の令嬢が姉の代わりに姫巫女として神殿入りすることになり、その彼女の後任として私の身柄は神殿に置かれることに決まった。
問題児と分かった姉がおり、そんな姉が当たり前となってしまっている家ではまともな教育も出来ないだろう。幼い私に悪い影響があってからでは遅い、と……国王陛下と神官長が決めたことだった。
姉のせいで、通常姫巫女の任期は二期四年だが、私は三期六年を命じられる。
私は八歳から神殿に引き取られ、十二歳になってからは姫巫女として今まで生きて来たのだ。
問題を起こしたのは姉であるのに、姉妹だという理由で私は八歳で家族から離され、任期が一期分増やされたことは……正直今でも納得できていない。
それでも、大神殿で五年と九か月を過ごし、残り任期三か月となれば〝過ぎたこと〟と割り切れるようになった。起きたことはもう取り消せないし、それももう昔の話。
要するに、諦めたのだ。
残り三か月を恙なく過ごし、後任の姫巫女と入れ替わって実家へと帰る。帰ってからは、結婚の準備と次期当主として勉強を始め、聖クラセッセン家の当主となる。
そういう人生だろうと思っていたのに、これはいったいどういうことなのだろう?
「……つまり?」
自然に首を傾げてしまう。
私の左胸に突然浮かび上がったピンク色の紋様について説明する、と神官長の執務室に呼び出された。言葉通り、説明をされた……のだけれど、説明してくれる言葉は聞こえているのに、意味が理解出来ない。
「お手数ですけど、もう一度、教えて下さいますか?」
ベルンハルト・アーベルと名乗った聖騎士は、嫌な顔もせず首を縦に動かす。
十年近く神殿にいる私だが、彼とは初めて顔を合わせる。黒髪に金色の混じる茶色の瞳を持ち、貴族らしいスッキリした顔立ちに細めの眼鏡がよく似合っていた。
一方、執務室の主である神官長は両手で顔を覆ったまま、椅子に座ったまま固まっている。
神官長の執務室なんて、姫巫女からしたら説教部屋のようなもので落ち着かない。私も幼い頃から何度もこの部屋で叱られてきた。嫌な思い出が沢山あり、居心地の悪い部屋だ。
けれども、アーベル卿の言葉にそんな気持ちは吹き飛んでしまった。
「姫巫女ミリヤム様、あなたの身に浮かんだ紋様は女神が下す神罰のひとつ、『女神の懲罰』。神罰が下った理由は、あなたの姉と婚約者が男女の関係になったから、と思われます。創世の女神は愛情深いのですが、同時に不貞を絶対に許さないため、罰が下ったのだと判断されます」
「……姉と婚約者が男女の関係に? 確かに、貴族として結婚前に関係を結ぶことは褒められたことではないと思います。けれど、正式に結婚の約束をしているのだから、お目こぼしがあるのではないですか? 祖父母の時代じゃああるまいし」
アーベル卿は眉根を寄せ、今度は首を左右に動かす。
「あの、姉はいつ婚約したんでしょう? 婚約者が誰なのかご存知ですか?」
ビアンカ・クラッセンは聖女ナホミ様直系の血筋であるにも関わらず、女神様の存在を否定し、姫巫女になることを拒否したことで〝聖クラッセン家の名誉と信頼を失墜させた、罰当たりな考えを持ち乱暴な問題あり令嬢〟として知れ渡っている。
知らない貴族はいないし、庶民の間にも面白おかしく広がっているのだ。
創世の女神信仰の厚いこの国では、聖女ナホミ様の残した四つの直系生まれの者は結婚相手として大人気で、生まれた瞬間に釣書が来ることも珍しくない。だというのに、直系の血を引く令嬢で、美しい容姿を持っているにも関わらず姉に釣書は一枚も来ていないと聞いていた。
だからこそ、次女である私が姫巫女になり次の当主に決まったのだ。
「そもそもですね、姉と婚約者がそういう関係になったからといって、どうして私に神罰が下るのですか? 意味がわかりませんけど」
「……姉君に婚約者はいらっしゃいません。姉君と男女の関係になった相手というのは、ハンス・ローレンツ伯爵令息です」
椅子に座って固まっていた神官長が「ふう……」と大きな息を吐いた。
「え?」
「ハンス・ローレンツ伯爵令息。覚えておりますか? ミリヤム様、あなたの婚約者です」
「は? は……? はああああ!?」
姫巫女としても貴族令嬢としてもあり得ない声が出て執務室に響き渡ったけれど、アーベル卿も神官長も私を咎めることはなく、私から視線を外したのだった。
***
私、ミリヤム・クラッセンには婚約者がいる。
婚約が結ばれたのは八年前、彼と私が九歳のときだった。
それは姉が神殿で事件を起こし、結婚も次の当主となることも難しくなったため、次女である私が次の〝聖クラッセン家当主〟になることが決まったから。
相手はローレンツ伯爵家の三男、ハンス・ローレンス。薄茶色の髪に青色の瞳を持ち、鼻と頬に浮かんだそばかすと垂れた目が印象的だったことを覚えてる。
ローレンス家は我が家の傍系で、同じ聖女の血筋。さらに子どもは男子ばかり四人という家で、婿入りに問題がないかった。ハンスが選ばれたのは、年が同じという理由だけ。
多くの姫巫女とその婚約者が交わしたように、私とハンスの婚約も神殿の管理する『女神の契約』による婚約が結ばれることとなった。
この『女神の契約』は婚約だけではなく、商売や雇用など全ての契約に使うことが出来るが、少し特殊な契約だ。
創世の女神に交わした契約を絶対に守ると誓うため、とても強い契約を結んだこととなる。
この契約を破れば社会的信用を失い、何らかの神罰が下る。
特に婚約に関しては女神自身が不貞による裏切りを嫌うため、婚約という契約を破った場合はとても強い神罰が下ると言われている。
ハンスは私と結婚するという約束(契約)をしていたため、私以外の女性と深い関係になった時点で『女神の契約』を破ったとみなされた。更に、その深い関係になった相手が私の実姉ビアンカであったことから、一層不貞の罪が重くなった……らしい。
神官長が言うには、このピンクの紋様は私の命を削っている。
女神の下す神罰の中で、『女神の懲罰』はかなり重たい罰だ。
今は淡いピンク色の紋様だけれど徐々に色を濃くしていき、最終的には黒く染まる。紋様が全て黒く染まり切ったとき、私の命は尽きるらしい。
女神様、それはないんじゃないですか?
私は不貞してません。悪いことなんて一つもしてません。
毎日毎日、あなたに祈りを捧げてきましたよね、五年と九か月間一日も欠かさずに。
一般的に二期四年の任期なのに、三期六年も祈っているんですよ。
そんな私に罰を与えて、実際に不貞を犯した姉とハンスはお咎めなしですか?
それはさすがに理不尽じゃあないですか?
祈りの間で一人、巨大な女神像を見上げながら訴えてみたものの……返事などあるわけがない。
「こちらにおいででしたか、ミリヤム様」
「……アーベル卿」
神殿所属の聖騎士、ベルンハルト・アーベル卿。正式には警備部文書課に所属しているという。要するに、聖騎士といっても事務処理と文書管理の担当者。
神殿に所蔵されている膨大な資料の中から、女神が下す神罰について調べ、姉と婚約者ハンスの関係を調べて照合してくれたのが彼だ。
「どうかなさいましたか?」
私が神罰を受けたことは神殿内で知らない者はいない。その理由も同じくだ。
理由が理由だけに、私自身への批判はない。
『婚約者が実姉と男女の関係になったせいで罰を受けることになったって。お可哀そうに』とか『三期六年にもなる任期だって、実姉のせいなのですよね。お気の毒に』とか言われ、酷く哀れまれて遠巻きにされているだけ。
お陰様で周りは静かだけど、話しかけて来るのは神官長と料理長、そしてアーベル卿くらいだ。
「神官長様はお忙しくしておられますので、代わりに私がお話に参りました」
「お話?」
「はい。神官長様の命を受け、『女神の懲罰』を受けた方々のその後について調べました。そのご報告と、ミリヤム様の今後について」
「……お聞きします」
祈りの間を出て、話しをする場として用意したという打ち合わせ室へと向かう。
広い廊下を歩いていると、大神殿には似合わない騒めきと大きな叫び声が聞こえて来た。
「騒がしいですね。何事でしょう?」
「神官長様がお忙しい原因ですよ」
アーベル卿に促されて、壁と大きな観葉植物の隙間から騒ぎの様子をそっと覗き込む。
そこは一般の人たちが女神に祈るための礼拝堂だ。神官が説法と祈りを行う礼拝は毎日、午前中に行われる。今は礼拝の時間ではないため、騒ぎに関わっている人以外は誰もいないようだ。
神官長と数名の神官と聖騎士たちの姿があり、彼らの正面に貴族らしい四人組がいるのが見える。大声で騒いでいるのは四人組の内の三人だ。
「……あ、あれって」
私は騒いでいる人たちの顔を見て、背中に汗が流れていくのを感じた。
「聖クラッセン家ご当主夫妻と、ご令嬢様。そして、ローレンス伯爵令息です」
私の両親と姉と婚約者。騒いでいるのは母と姉と婚約者で、父は困った表情を浮かべ母たちを止めようとしている。
「ミリヤム様がお倒れになったため、そのことと理由をお知らせしました。それからというもの、毎日神殿にやって来ては騒いでいるんですよ」
「なにをしに来ているんですか?」
「あなたに会わせろ、と。姫巫女とご家族の面会は年に一度と決められておりますから、お断りしているのですが、ああして毎日やって来るのです」
「毎日? それはご迷惑をおかけしております。……私が顔を見せれば終わるのでしたら、今からでも顔を出しますけれど?」
大きな声で騒がれては、迷惑でしかない。特に姉と婚約者の声が大きくて、礼拝堂からその周辺にまで響き渡っている。
神官長や神官、聖騎士たちの通常業務にも影響が出てきてしまう。
しかし、アーベル卿は首を左右に振って「行きましょう」と移動をはじめた。
「でも、毎日煩くしてしまって……」
「神官長様が〝ミリヤムと家族らはまだ会わせない〟とお決めになりました。我らは神官長様の命に従うだけです」
神官長が決めたこと、そう言われたらなにも言い返すことはできない。
この神殿では神官長の決めたことが絶対。家族に会うなと言われればそれに従うしかない。
大人しくアーベル卿の後に続きながら、横目で騒いでいる家族を見る。
年に一度しか顔を合わせない家族と婚約者、この十年で十回しか会っていない。
そんな状態なせいか、家族なんだという認識はあるものの……彼らに特別な感情はなにも浮かんでこなかった。
*
「女神の神罰といってもいろいろありますが、ミリヤム様と同じ神罰を過去に受けた者の記録は二名。そのどちらも一年ほどで紋様を黒く染めて、命を落としています」
打ち合わせ室でテーブルを挟んで向かい合ったアーベル卿は、淡々と言った。
「つまり、私も一年程度で……ということですか」
「恐らくは。ただ、過去の記録が二名分しかないため、絶対にそうなるとは言い切れません」
テーブルの上に置かれた書面には、二人の人が神罰を受けた日と亡くなった日の記載がある。一人は十二か月と二週間、もう一人は十三か月と一週間で亡くなった。
「そう、ですか……あと一年」
来年の今頃、私は姉と婚約者のせいで命が終わっているのだろう。
馬鹿みたいだ。
私自身が女神の契約を破ってしまったのなら、まだ受け入れられる。
けれど、私自身の罪ではないことで罰を受けて、命を落とすなんて……
「ミリヤム様、この先の希望はありますか? 神官長様より、ご希望に出来る限り添うようにと命じられております」
「希望?」
「ご希望ならば、今すぐにでも姫巫女の任を降りることも可能です」
神官長は私に残された時間が少ないことを慮って下さったのだろう。残りの時間を私の思うように使うことができるように、と。
「……任期が終わるまでは、今まで通り姫巫女として過ごしたく思います」
「ミリヤム様」
「私の後任になる姫巫女に迷惑はかけたくありません。私が早く辞せば、後任の姫巫女はそれだけ早く神殿入りしなくてはなりません。まだ彼女の家もご自身も準備をしておられる頃でしょう。なにより、私自身に与えられた任期なのですから、責任をもってやり遂げたいのです」
私の後任になる姫巫女は叔母の末娘で私の従妹。
彼女は先月十二歳になったばかりだ。私が神殿に入ったとき、家から離れるのはとても寂しくて、辛かったことを覚えている。もし、私が姫巫女を任期前に切り上げてしまったら、従妹にそれだけ早く神殿に来いと命じることになるのだ。
姫巫女になることは、名誉なことだ。二期四年と任期も決められて、延長はない。それでも、従妹本人にも叔母夫婦にとっても四年間離れて暮らすことは、寂しくて辛いことに変わりはない。
「……承知しました。では、任期を終えたあとは?」
「えっ」
三期六年の姫巫女任期を終える、三ヶ月後、私は……?
神罰を受ける前までは、生家に帰るつもりでいた。
両親の元へ帰り、ハンスとの結婚準備をすすめて結婚。そして次期当主としての勉強をして、母から当主を引き継いで子どもを産んで……そんな未来を予定していた。
でも、今は……生家に帰る気持ちは無くなっている。だからといって、他に行く宛もない。
どうする、私?
「……あの……、申し訳ありません、今はまだわかりません。神殿を出てからどうしたいのか、これから考えてお答えします」
「すみません、突然言われても答えられるわけありませんよね。よくお考えになって、答えがでましたら教えて下さい。他にも希望があれば遠慮なく」
それに、婚約していたハンスは姉と関係を持ったのだ。どんな理由があったにせよ、私の姉と男女の関係になった。
そんな男と結婚して、子どもを作る行為が出来る?
……無理だ。気持ち悪い。無理無理、絶対無理。
「アーベル卿、すぐにお願いしたいことが一つあります」
「なんでしょうか?」
「婚約を止めたいです。白紙でも破棄でもなんでもいいので、ハンス・ローレンス伯爵令息様との婚約を失くしたいのです」
一瞬だけ目を見開いたアーベル卿だったが、すぐに自身に満ちたイイ笑顔を浮かべ「承知しました、お任せ下さい」と首を大きく縦に振ってくれた。
***
神罰が下って倒れてからも、私は姫巫女として神殿で変わらぬ生活を送っている。
神殿での生活が残り一週間となったため、姫巫女として朝晩の祈りはしているけれど、それ以外の仕事は他の姫巫女たちにお願いし、私室の片付けをしている。神殿の生活は清貧が基本だけれど、十年も居ればそれなりに荷物は増えるものだ。
あと、お世話になった関係者に退任の挨拶をし始めたくらい。
今までお世話になったことに感謝を述べれば、自分が神殿を離れるんだという実感が徐々にわいてきている。
最初は淡いピンク色をしていた紋様は三か月で少し濃くなり、ややはっきりしたピンク色になった。痛みや痒みがないのは救いだ。
「ミリヤム様、お手紙です」
「ありがとうございます」
一年に一度しか面会が出来ない姫巫女には、家族や婚約者、友人からの手紙が多く届く。
手紙を配ってくれる神官も数が多いことは良くあることと思っているだろうけれど……分厚く膨らんだ手紙は珍しいため、苦笑いを浮かべてくる。
この封筒の限界に挑戦しているかのような分厚い手紙が一週間に三、四通は届くのだから、苦笑いも浮かぶだろう。
今まで母や姉からの手紙は半年に一通ある程度(父からは週に一通)、婚約者からは一年に一度しか送られてこなかったのに……今までの分を取り戻そうという勢いで送られてくる。手紙を持って来てくれた神官の苦笑いの中には、今になって手紙を大量に送って来ることの滑稽さも含まれてるんだと思う。素直に恥ずかしい。
私との面会を許されなかった母、姉と元婚約者は、神殿の敷地内にも入ることも禁じられた。そのため、手紙をしょっちゅう送って来るようになったのだ。
手紙の内容は封を開けなくてもわかる。
母からは『ビアンカを許してやって欲しい』『ハンスとの結婚を祝福してやって欲しい』『命が尽きる前に、二人を許し祝福しているのだと社交界でアピールして欲しい』この三つ。
姉からは『ハンスを愛してしまった私を許して』『社交界と神殿関係者に自分たちは悪くない、仕方がなかったのだと説明してほしい』『ハンスと私を祝福して』この三つ。
元婚約者からは『ビアンカを愛してしまったことを許して欲しい』『ビアンカとの結婚を祝福して欲しい』『ミリヤムとはずっと離れ離れで愛し合うことが出来なくて、側に居てくれたビアンカに惹かれるのは仕方がないことだろう』この三つ。
私が倒れてすぐに届いた父と父方の祖父母からの手紙は、私の体調を案じる言葉や神殿を出てから顔を出すようにといった言葉が並んでいた。
今届いた分厚い封筒は母と姉の連名だ。読むまでもなく、不快な内容だとわかる。
「……バカらし」
私の余命が一年足らずと知った母は、嘆いたが……すぐに行動を起こした。
我が家には長女ビアンカと次女ミリヤムしか子どもがいない。どちらかが家を継ぐしかなく、私の命が尽きるとわかっている以上、問題ありとされた令嬢でも姉が継ぐしかない。
姉は神殿関係でも社交界でも評判が悪く婚約者の宛てがなかったけれど、ハンスと男女の関係になってしまった以上、二人は結婚するしかない。数年もすれば、跡取りも産まれる。
母の後を継ぐ者をこれから生まれる孫娘にすれば、家は続く。
あとは、地に落ちている家の評判を少しでも回復させるだけだ。そのためには、姉と婚約者に裏切られた私が二人の結婚を認めて祝福するのが一番早い。
当主としては正しい行動なのだろう。
けど、母親としてはどうなんだろう? 私を少しは愛してくれていただろうか?
「……」
縁遠くなった娘など、「ああ、跡取りになる子がいたわね。ぼちぼち帰って来る頃だから、結婚式と当主教育の準備をしなくては」程度の存在だったように思えてならない。
八歳から家族や使用人たちと別れて神殿に預けられて、その後姫巫女として懸命に勤めて来た。
家族とのふれあい、婚約者との交流、親しい友人作りは出来なかった。姉が大好きな素敵なカフェの美味しいスイーツ、流行の本や演劇、可愛らしい装飾品やドレスも無縁だった。
私にあったのは、神殿が与えてくれた教育と女神への祈りと姫巫女としての慈善活動。
神殿で姫巫女として頑張る私を、誇らしい、愛おしいと思ってくれたことはあっただろうか?
私の余命について母は嘆いたが、それは「我が家の跡取り娘が死ぬなんて! やっと家に戻って来て、これから教育しようというところなのに。これからどうしたらいいの!?」という理由ではないだろうか。
私が死んでしまう(しかも原因は実姉と婚約者の不貞)ことに対しては、なにも思わなかったんじゃないだろうか。
そんな風に思ってしまう。
聖女直系の貴族令嬢としては問題しかない姉だが、母は姉を溺愛している。
母にとって姉は初めての子どもで、自分と同じ髪色と瞳の色を持った愛らしい娘。神殿に取られることもなくずっと手元にいて、「お母様」と甘えて来る娘。
手のかかる子ほど可愛いというのは、多分事実だろう。
まだ私が実家で暮らしていた頃、自分自身の気持ちに正直な姉は、沢山わがままを言って両親も使用人たちも手を焼いていた。けれど同時に姉は愛らしい容姿を持ち、人懐っこくて憎めない性格で、わがままも許される雰囲気を持っていたため、皆が実姉を愛して可愛がっていた。
その結果、私は「後でね」という魔法の言葉によって放置され、静かに過ごすしかなかった。
父だけは実際に後から私の話を聞いてくれたし、一緒に出かけたりもしたけれど……母は口だけだったのをよく覚えている。
その後、姉のせいで私は八歳から神殿入り。十二歳からは前代未聞の三期六年という長期に渡る任につき、その間一年に一度しか家族と顔を会わせない生活。
両親と姉、という家族が出来上がっていったのは、自然なことなのだと思う。だって、私は物理的に彼らと一緒にはいないのだから。
私は今まで送られて来た母、姉、婚約者からの未開封の手紙を引き出しから全て取り出し、ゴミ袋の中へ落とした。先ほど届いた手紙も一緒に。
「ミリヤム様、お時間です」
「はい、今行きます」
私室の片付ける手を止め、私は迎えに来てくれたアーベル卿と共に打ち合わせ室へと向かう。
今日は諸々の事務処理を完了させる。貴族らしい生活なんてほとんどしたことはないけれど、私は貴族籍にある身であるため諸々の書類手続きがあるのだ。
アーベル卿と神罰について話をしたのと同じ打ち合わせ室に入ると、そこには父の姿があった。
「ミリヤム! 体の具合はどうだい? 苦しかったり痛かったりはしていないか?」
椅子から立ち上がり、父は足早に近付いて来て私を抱きしめた。
「お久しぶりです、お父様。ご心配いただき、ありがとうございます。紋様はありますが、痛みなどはありません。体調も問題なく過ごしております」
約三か月前、母や姉を止めようとしているのを壁と観葉植物の間からのぞき見したぶりに父の姿を見るが、酷く痩せてしまい、髪に白いものが増えて艶が消えた気がする。
「そうか、それなら一安心だ」
体を離した父は私の頬を撫でた。
改めて見ると、私は父に似ている。私のミルキーベージュの髪色もハシバミ色の瞳も、顔の輪郭も、爪の形も、父から受け継いだものだ。
「お父様、そちらの様子はどうですか? お母様とお姉様は?」
「ああ、皆元気ではいる。……本当にすまないね。おかしな内容の手紙を毎日のように送り続けてるだろう? 止めるように言っているのだけれど、聞き入れてくれないんだ」
父は困ったような、呆れたような顔をして大きく息を吐く。
聞けば、母は私の代わりに姉を後継に据えると決めて、ハンスとの結婚も決めた。姉が生むだろう孫娘を後継にすることも、孫娘に家督を譲るときまで自分が頑張らなくてはならないのも、仕方がないことだろう。
とにかく今は、評判の悪い姉の評判回復に取り組んでいる。
姉はハンスと結婚し、次の当主になれると思っており、「私が嫡女になったのよ! ミリヤムがなっていたことが間違いだったの。だって私が長子なんだもの! 間違いが正されたのよ」と有頂天になっているらしい。
自分の思う様にことが進んだので、今は最高の気持ちだろう。
実際のところは当主になることはなく、次の当主を生むことを求められているのだけだけれど……いつそれに気が付くのだろう? 気付いたとき、きっとひと騒動あるに違いない。
ハンスはというと、姉にベッタリと貼り付いているらしい。
女神の契約を持って交わした本家令嬢との婚約を潰し、その姉と男女の関係を持ったことでハンスは生家の伯爵家から縁を切られたらしい。本家と交わした女神の契約を破るような者は、家に置いておけないと叩き出されたという。つまり、ハンスは姉と結婚できなければ平民になる。
彼は婿入りすることを前提に生きてきたため、騎士や文官として自分で生きていく術も持たないのだ。そのことには気付いているらしく、ハンスは姉に捨てられまいと、毎日姉の機嫌を取りながら、母と共に評判回復のために頑張っているとか。
ただ、母がどんなに頑張っても、やらかしていることがことだけに、評判回復はできていないらしい。
「……お父様は大丈夫ですか?」
「ああ、僕はね……表に立たないからね。大丈夫さ」
大丈夫、とは言いながらも父が疲れているのは見て分かる。
外に出ることはなくても、家の中は充分過ぎるほどゴタゴタしているだろうし、身内である傍系一族たちからの進言や文句も山のように来ているだろうから疲れるだろう。
「楽しくない話ばかりして済まない。事務手続きをしてしまおう」
父はテーブルにつき、書類を広げる。
「これがミリヤムとハンス殿の婚約解消に関係する書類だ。書類の右下にサインをして欲しい。それからこっちが、嫡子の変更届になる。こちらにもサインを」
ハンスと私の婚約解消、嫡子を変更するための書類。この二つの処理が終われば、私はただのミリヤム・クラッセンになれる。
数枚の書類にサインを入れ、父に次の書類を出すように促す。しかし、父は二種類の書類を確認するとそれらを封筒に入れ、手を止めた。
「お父様? まだサインする書類がありますでしょう?」
聖クラッセン家からの除籍届。これにサインをすれば、ただのミリヤムになれる。
私はただのミリヤムとなって、神殿からも実家からも貴族社会からも離れた場所で、残りの時間を静かに暮らすことを決めた。そのためには、除籍届が必要だ。
「……ミリヤム、これにサインを」
父は口元を引き締め、一枚の書類を差し出した。それは除籍届ではなく、移籍届けだ。すでに記入されている移籍先は父の生家で、伯父が当主となっている聖クラッセン家傍系の伯爵家。
「お父様?」
「ミリヤムは僕の大事な娘だよ。手放すなんて、一人で放り出すなんて出来るわけがない」
首を左右に振った父は、私の手を両手で握り込む。
「ミリヤム、僕はアンドレアと離婚する。僕と一緒にクラッセンを出よう」
「お、お父様? 離婚って、お母様と……」
「うん。婿としての責務は果たしたつもりだよ、可愛い娘が二人できたんだもの。ビアンカは……なんだかおかしなことになってしまったけれど、次の当主を誕生させることはできそうだからね。もう僕はあの家には必要ない存在だ。それにね、僕も疲れてしまった……」
私は父の手を握り返した。
「ビアンカやハンス殿のこと、アンドレアの言っていることやっていることを止めさせたかった。もっとミリヤムの気持ちや立場を考えて行動するように、そう僕がいくら言っても、アンドレアもビアンカも全く聞く耳を持たない。きっと、もう彼女たちはミリヤムも僕も必要としていないんだね」
聖クラッセン家の当主は母のアンドレアで、父は婿入りした身だ。家での立場は弱い。元々父は物静かで穏やかな性格の人だから、母に物申すのも大変だったろう。それでも、父は私を護ろうとしてくれたのだ。
その気持ちが、とても嬉しかった。
「幸い、実家を継いでいる兄も〝ミリヤムを連れて帰って来い〟と言ってくれてるんだ。一緒に行こう?」
「でも、お父様、私は……」
父は小さく首を左右に振ると、小さな紙切れを上着の胸ポケットから取り出してテーブルに広げた。そこには住所と小さな地図が書かれている。
「アンドレアと僕の離婚手続きが終わったら、ここで一緒に暮らそう」
「え?」
ぱっと見た限り、知らない住所が書いてある。
恐らく、生家が管理している別宅だろう。そんなところで残りの時間を過ごすのは嫌だ。
私が首を左右に振ると、父は微笑んだ。
「大丈夫、安心して。そこは僕の兄が管理している家だよ。家自体は僕名義になっていて、実家が治める領地にあるんだ」
「伯父様が管理されている、のですか」
「そうだよ。万が一、僕が早々アンドレアに離縁されたときに帰って来られるようにって、婿入りするときに祖父から……ミリヤムからしたら曾お祖父さんから僕が受け継いだ場所なんだ」
聞けば伯父が治める領地の村にある庭付二階建ての家らしい。今も定期的に使用人が掃除をして、室内の空気を入れ替え、庭の手入れもしてくれているとか。
「生家の領地は緑豊かで、湖もあって静かで良いところだよ。家がある村は村と町の中間くらいの大きさかな。湖の畔にあって、女神様をお祀りする小神殿もある。僕の兄が管理しているから、アンドレアもビアンカも簡単には来られない。安心して静かに暮らせるよ。兄の家族も、ミリヤムが来るのを楽しみに待っているんだ」
「……お父様」
私の手を包み込んでいる父の手を再度握り返す。
「全て、ビアンカの責任なのに……どうして。女神様はなぜミリヤムにその責任を問うのか、僕にはわからないよ。ミリヤムが、僕の可愛い娘がやっと神殿から帰って来ると、心待ちにしていたんだ。……八歳から神殿に行ってしまったんだよ? アンドレアとビアンカがどう思っていたのは知らないけど、僕はとても楽しみに待っていたんだ。帰って来たら話したいこと、したいことが沢山あった。一緒にお茶をして、食事をして、買い物に出かけて、演劇を見て……今まで出来なかったことを全部しようと考えていた」
それは、私も思っていた。
今まで家族との交流は殆どなかったけれど、家に帰れば一緒に居られる。食事もお茶も買い物も出来るし、演劇鑑賞やお祭り散策だってできる。一緒に過ごせば、今まで育たなかった家族の情も得ることが出来る、両親と二人姉妹という家族になれる……そう思っていた。
結局それは、思っていただけで終わってしまったけど。
けれど、父が私と同じことを思っていてくれたこと、母や姉の手が回り難い場所を用意し、一緒に暮らそうと言ってくれたことは素直に嬉しい。
「……僭越ながら、私もお父上と共に、そちらのお屋敷で暮らすことをお勧めします」
「アーベル卿?」
私の斜め後ろに立ち、父と私のやり取りを黙って見守っていたアーベル卿は、小さいがはっきりとした声で言った。
「任期を勤めあげて神殿を出た姫巫女は皆、生家に帰られます。ご両親や兄弟の暮らしている場所へと帰るからこそ、我々神殿の者も安心して送り出せるのです。ですが、ミリヤム様は生家に帰ることなく、婚約者殿との結婚も止めて、生家の籍からも抜けて知らない場所へ行って一人で暮らそうとしているのです。これが心配でなくてなんと言うのでしょう」
「えっ……」
「率直に申しますが、ミリヤム様がお一人で生活出来るとはとても思えません。料理も洗濯も掃除もしたことないですよね? 買い物だってしたことがない。今は元気でいらっしゃるが、紋様の影響で今後体調がどう変化するかはわかりません。もし、動けなくなるほど体調が悪くなったら、どうするのですか?」
「……そ、れは……」
「ミリヤム、アーベル卿のおっしゃることは冗談でもなんでもないんだよ。一人での生活はさせられない。それはミリヤムの為でも、皆の為でもある。貴族の家に生まれ育って、八歳から神殿で育ったミリヤムに自分の世話なんてできないでしょう。周りは心配でいられないよ」
言われてからハッとした。
私は女神の神罰を受けている身だ。
今は色が多少濃くなっただけで、痛くも痒くもない紋様だけれど……時間が経って来年の今頃には、体の自由が利かなくなっているとか痛みに耐えているとか、そういう状態になっているかもしれない。
もし動けなくなったとしたら、誰かの手を借りるしかない。
仮に一人で生活したとして、私は期限がやってくれば命を落とす。そして様子を見に来た使用人や親族に、死後数日もしくは数週間を経過した私であったものを発見させるという、非常に衝撃的で不快な思いをさせては駄目だ。
「……ありがとうございます、お父様、アーベル卿。お言葉に甘えさせていただきます」
伯父が管理する場所で父名義の家であるのなら、使用人は伯父の息がかかった人たちばかりで、生家に情報が筒抜けになることも家に突撃されることもないだろう。
使用人がいるから、万が一私の体調が悪化しても手を貸して貰える。
なによりも、父や神官長、神殿の友人たちも皆、私がしっかりした後ろ盾のある安全な場所で暮らすことで安心してもくれるというのなら、それが一番いい。
安堵の表情を浮かべた父とアーベル卿の顔を見ながら、私は正しい選択をしたのだと実感した。
*
花祭りとは、この世界を豊穣の女神が作り出し、様々な命を産み出したとされる日に行われるお祭りだ。
女神の花とされるエニシダが国中に飾られ、この世界の創世を祝い、女神に感謝する。
大神殿では様々な儀式や神官長による説法などが行われ、姫巫女の離任式と任命式も行われる。
姫巫女の離任式・就任式には、両親と父方の伯父夫妻、母方の叔母夫妻が参加しているのが見えたが……姉と姉の婚約者になったハンス・ローレンス伯爵令息の姿はなかった。
もしかすると、姉とハンスは今でも神殿の出入りを禁止されているのかもしれない。
まあ、どうでもいい話だ。
私は後任である従妹と姫巫女の役目を交代し、無事に三期六年に渡る姫巫女の任を終えた。
夜には新しい姫巫女と任期がまだ残っている姫巫女、そして任期を終えた姫巫女。姫巫女たちの家族や親族、神殿関係者や神殿に多く寄進している貴族たちが集まっての祝賀会が開かれる。
でも、私は祝賀会には参加せずにすぐに神殿を出て、伯父夫妻と共に彼らの領地へと向かう。
父は母と離婚と離籍・移籍手続きを済ませてから、追いかけて来る予定になっている。
もう二度と母と姉、元婚約者と顔を合わせることはないだろう……でも、特に悲しくはない。
私にとって家族とは父と神殿にいる大神官、姫巫女仲間、神官や聖騎士たちだ。
聖クラッセン家の家族はただ血縁関係のある人たちであり、ハンスに至っては結婚の約束をしていたことがある遠縁の男性というだけだ。
だからなにも思わないし感じないのだ。でもそれはお互い様だろう。
ミリヤムは聖クラッセンケに次女として生まれて、八歳から神殿に行ってしまった存在だけは承知している娘であり妹であり、ハンスにとっては書類上の婚約者というだけ。
「さよなら」
客車の窓から遠ざかる大神殿を見つめて呟く。
声は回る車輪の音にかき消され、伯父夫妻と共に私を領地へと運ぶべく馬車は走り出した。
***
父が生まれて育ち、伯父一家が治める土地は、聞いていた通り緑豊かで穏やかな土地だった。
私の知っている場所は、王都貴族街にある生家のお屋敷周辺と神殿だけ。王都とも神殿とも違う場所は全てが初めてで、驚きと感動の連続だ。
川を流れる水の冷たさも、湖面に遊ぶ水鳥たちの美しさも、野に咲く花の色鮮やかなことも、リスやムササビといった小動物の愛らしさも、この場所に来て初めて知った。
初めてと言えば、村の人たちとの交流もだ。
初等学校に通う子どもたちとのピクニック会、家具屋さんが主催する小鳥巣箱作り体験学習会、パン屋さん主催のパン作り体験会。季節が変わる度に街を挙げて開催される様々なお祭り、隣の領地からやって来る商人たちが開くバザールなど、姫巫女だったときには体験できなかったことも体験出来た。
父と共に父方の親族と交流しながら穏やかに暮らして……かれこれ一年。
私は残り一か月から二か月で、命の期限を迎えようとしている。
左胸に浮かんだ紋様は淡いピンク色から桃色を経て、薔薇色に変化した。
幸いなことに痛みや痒みなどは未だになく、体が怠いとか動かなくなるとか、そう言った症状もなく過ごせている。
この先、一気に紫色っぽくなって黒くなっていくんだと思う。想像すると怖いので、あまり見ないように考えないようにしている。
「ミリヤム様、お客様がいらしてます。、お約束はないのですけれど……旦那様は外出中でいらっしゃいます。どうしましょう?」
メイドに声をかけられ、私は読んでいた本から顔を上げた。
「お客様? 誰……」
「ベルンハルト・アーベル様とおっしゃる男性です。聖騎士としてミリヤム様と面識があるとおっしゃっているのですが」
「ベルンハルト・アーベルって、あのアーベル卿?」
予想外の来客に私は純粋に驚く。
一年ほど前の花祭りの日、私は姫巫女の任期を終えて神殿を去った。そのときに見送ってくれた人たちの中にアーベル卿の姿があった。
彼の顔を見たのはそれが最後で、手紙のやり取りすらしていない。
王都の大神殿に所属している聖騎士が先触れもなく訪ねて来るなんて、緊急事態だろうか? ドキドキしながら、アーベル卿を応接室へ案内してくれるようお願いした。
*
「お久しぶりです、ミリヤム嬢。ほぼ一年ぶりですね、お元気そうでなによりです。先触れもなくお邪魔しまして、申し訳ありません」
「ご無沙汰しております、アーベル卿。今日は突然のことで驚きましたけれど、何か緊急のご用事でしょうか? 父が不在ですので、私が代わりにお伺いいたします」
応接室とは言いつつも、小さな部屋だ。小ぶりなソファセットを入れたら、もう他には椅子も入れられない。
木製のローテーブルに紅茶と焼き菓子が乗り、メイドが開け放たれた扉の横に立つ。
「緊急、というわけではないのですが……ミリヤム嬢に早めにお知らせしようと思いましたので」
アーベル卿はそう言って、持っていた鞄の中から一冊の本を取り出した。表紙をよく見てみると、それは本ではなく古びた大判手帳だ。
「これは私の実家に保管されていた手記というか、記録帳のようなものです。これを書いていたのは私の曾祖母で、ミリヤム嬢と同じく姫巫女を勤めていました」
「え、姫巫女を?」
「はい。曾祖母は聖女様の三女・エルフリーデ直系である聖ベルメール家の生まれでして、自分はベルメール家傍系出身なのです」
「エルフリーデ様の……」
「はい」
聖女ナホミ様直系の四姉妹を祖とする家は四つ。代を重ねた今は、直系本家を中心として縁戚関係が出来上がっている。聖騎士や神官は勿論、姫巫女もそれぞれの家の傍系の家から多く出ているのだ。
大神殿付きの聖騎士であるアーベル卿が聖女の血筋であることは、なにも不思議ではない。
「お知らせしたいこととは、この手記に書かれた内容でして……ここです」
アーベル卿は栞を挟んでいたページを開く。そこには、女神の神罰を受けた人たちのことが詳しく書かれていた。
「神殿で調べお伝えしたことは勿論事実です。ミリヤム嬢と同じ女神の神罰を受けた者は過去に二人、二人とも十三か月から十四か月で亡くなっています。ですが、この手記には神殿の記録にはなかった三人目の記録があるんです」
「三人目、ですって?」
「その方はすでに亡くなっていますが、神罰によって亡くなったのではありません。彼女は九十五歳、老衰で亡くなったんです」
「……え、九十五歳って、九十四歳という年齢で神罰を?」
そう言うとアーベル卿は目を細めて私をしばし見つめて、大きく息を吐き出しながら首を左右に振った。その背後からは〝バカバカしい〟といった雰囲気が漏れ出ている。
「馬鹿な発言は控えて下さい。彼女が神罰を受けたのは十六歳の頃、あなたと同じ姫巫女として任期最後の年のことです。そして、亡くなったのが九十五歳なのです」
「つまり、その方は、神罰で亡くなったのでは、ない?」
「そう言っています。彼女は神罰を受けましたが、天寿を全うされたのですよ」
「なぜ……?」
アーベル卿は手にした手記に視線を落とした。
「これは自分の私見であって、なんの確証もないことですが……私は、亡くなれた方は神罰を受けることで〝逃がされた〟のだと思うのです」
「……逃がされたって、何から?」
「彼女を縛りつけていた全てのものから、でしょうか」
手記によると、神罰を受けた三人目の女性はホリー・エイデン。
彼女には、姫巫女として神殿入りする前に『女神の契約』を用いて婚約を結んで婚約者がいた。
その婚約者の生家は、違法と法律で定められている麻薬の原料となる植物を染料だとして輸入して、麻薬に作り上げてから闇ルートで売り捌き、法外な利益を得ていたという。さらに薬効の高い麻薬を作り出そうと、領地で植物の違法交配もしていた。
けれど、国の捜査機関が婚約者の生家が行っていた麻薬事業を暴き、関係者全員が逮捕された。
ホリー様の婚約者は麻薬事業に直接関わっていないことが証明されている、その頃彼は全寮制の上級学校に通っていたから。
しかしながら、彼は自身の家が違法な植物を輸入していること、その植物から麻薬を作っていること、新たな麻薬を作り出すために植物の交配をしていることも、全て知っていたのだ。
知っていたにも関わらず、なにも言わず、なにもしなかった。
婚約者本人は刑事罰には問われなかったものの、貴族籍をはく奪されて平民となった。
それら麻薬事業が暴かれた頃、ホリー様は神罰『女神の懲罰』が下されたのだ。
「……どうして、ホリー様が神罰を? 何から逃がされたっていうんですか?」
「神罰を受けるということは、一年ほどで命を落とすということです。先がないことがわかっている女性との婚約は白紙にされて、彼女の希望する生き方が優先されます」
それは、そうだ。私自身がそうだったように、婚約は無くなり、残りの時間を悔いなく好きなように過ごすことが最優先される。
「彼女は傍系男爵家の三女という立場でしたから、婚約者が貴族でなくなったとしても結婚することは可能です。ですが、一年あまりで命を落とすというのなら結婚の話は無くなります」
「ホリー様は姫巫女の任期を終え、婚約者との婚約もなくなって、自由になったと?」
「私は、そう判断しています。すでに彼女は老衰で亡くなれていますから、実際のところは分かりません。ですが神殿を出て三年後、ホリー様は恋仲となった男性とご結婚され、お子様にも恵まれて幸せに暮らされていたようです。……それに、ここを見て下さい」
アーベル卿の手にした手記、その一文が示される。
「ホリー・エイデン様の左胸に浮かんだ神罰の紋様は、薔薇色のままであったと。薄いピンク色から徐々に色を濃くし、薔薇色で変色を止めたとあります。そして、こちら……」
ページが捲られ、前のページの一文に指が止まる。
「神罰で亡くなった二人については、最初に薄いピンク色をしていたことは同じですが、徐々に色を濃くして八か月後には薔薇色を越えて青紫色に、十二か月後には黒に限りなく近い紫色になっていた、と」
「……」
「ミリヤム嬢、あなたの紋様は今どんな色をしていますか? 薔薇色で止まっているのではありませんか?」
私の左胸にある紋様は、薔薇色だ。
もし神罰で命を落とすのならば、もう黒に限りなく近い紫色に変っていなくてはいけない時期。
私は、ホリー様と同じように、神罰を受けながらも……この先も元気に生きて、行ける?
「……アーベル卿」
「あなたにも同じことが起きているのではないでしょうか。今回の神罰、ミリヤム嬢にはなにも非はありません、ホリー・エイデン様と同じです」
アーベル卿は手記を閉じ、とても柔らかな笑みを浮かべて言った。
「ミリヤム嬢、あなたに下った神罰は一年を越えても、命を奪わない可能性があります。私見ですが、あなたは死なない」
「……」
「あなたは三期六年という長い間姫巫女を真面目に勤め上げたのです。女神の計らいにより生家からも、婚約者からも、煩わしい貴族社会からも逃がされた、そう考えられませんか」
その日その時、希望の火が灯った。
もしも、本当にホリー様と同じであったのなら、私はこの先も生きていける。
生きていけるのだとしたら、私は……
***
厨房には焼き上がったクッキーの甘く香ばしい香りが漂っている。
「そろそろかしらね」
オーブンの戸を開ければ、熱気と共に甘い香りが強く吹き出して、美しく焼き上がったクッキーが並んでいた。
「いつものことながら、とても美味しそうですね!」
「花の形が可愛らしくて、食べると美味しいなんて最高ですよ。あ、小包装の準備をしましょう」
クッキーの並んだ鉄板をオーブンから取り出し、油紙の上に乗せて熱を取る。
大まかにクッキーが冷えたら、小さな紙袋に小分けにして完成する。これらは初等学校のバザーに出す品なのだ。
バザーの売り上げ学校の備品、教材の購入費や建物の保全費用など、学校運営費の一部として使われる。クッキーの売り上げなど金額としては微々たるものだろうが、少しでも子どもたちの教育に使われるお金が増えればいい。
窓の外で風に揺れていた洗濯物が突風に煽られ、メイドたちは慌てて厨房を出て行った。
私はメイドたちを見送りながら、厨房隅にある椅子に座って今朝届いた手紙を開ける。父方の従兄から送られてきた手紙は、普段よりも厚みがあった。
中身は伯父一家の近況、従妹の婚約が決まったこととそれに伴うパーティーへの出席案内、そして……私の生家・聖クラッセンの現状だ。
母を始め聖クラッセン家に関係する人たちは、原則伯父の許可がない限り領地に入ることが出来ない。父や私宛ての手紙も、伯父の元へ届けられて選別を受けることになっていて……その殆どが届かない状況だ。
従兄妹たちからの連絡が唯一、生家の様子を知る術になっている。知らなくても問題はないのだけれど、知らないでいたらいたで気になるのだから……仕方がない。
母は変わらず、仕事を熱心に熟しているという。
父から離縁を申し込まれたときは、離婚を拒否して荒れたらしい。しかしながら、姉とハンスのことで手一杯であるのに、さらにそこへ父との離婚問題で揉めることは避けたいと考えたようだった。父の離婚意思が固いことと、私に最後まで付き添いたいと言われて受け入れたそうだ。
……父と母は家が決めた政略結婚であったけれど、母は離婚の申し出を拒否した。多少なりとも父を異性として、家族として想い、頼りにしていたのだろうか? それとも、離縁など外聞が悪いと思ったのだろうか? 気にはなるけれど、もう聞く機会もないだろう。
姉と元婚約者ハンスは無事に結婚し、姉は仮の嫡女として届けられたらしい。夫婦仲は特別良くもなれば悪くもなく、とにかく子どもの誕生を待ち望まれているとか。
やはり、母は姉ではなく孫娘へ爵位を譲るつもりであるようだ。
姉とハンスの世間評価は相変わらず低く、社交界でも神殿関係でも針の筵状態で苦労している。聖女直系の家であるからこそ、一層苦しい立場になるのだ。
母が孫娘に爵位を譲れば、聖クラッセン家という家の評判は少しずつ回復していくだろうが……それまでは耐えるしかない。
姉とハンスは自分たちの世間の評判や周囲の態度が気に入らない(そのため、伯父の家に私宛ての手紙を未だに送りつけているとか)らしいけれど、それも仕方がないと思う。
妹の婚約者を寝取ったということもあるけれど、女神信仰の厚いこの国で女神を否定し、神殿で暴れ、姫巫女失格の烙印を押された姉の評価は、どうあっても回復できるものではない。
恐らく、針の筵となった貴族社会で冷遇されながら生きていくこと、それが姉とハンスに対する女神様の罰なのだろう。
それも自分たちが選んだ道なのだから、家族三人で協力して頑張って欲しい。
「……やあ、とてもいい香りですね」
ひょこっと我が家の厨房に顔を出したのは、ベルンハルト・アーベルその人だ。
私は手紙を封筒に戻し、テーブルに置いた。
「普段甘いものは好まないのですけど、あなたの作ったクッキーやケーキだけは食べたいと思うんですよ」
冷ましているクッキーの中で、形が崩れている、焦げていると分けてあるクッキーを手にし、パクリと口に入れた。「香ばしくて美味しいですね。実は私、このくらい焼けているのが好きなんです」と続けて二枚、三枚と口にする。
「ほどほどにして下さいね、ベルンハルト様」
神罰を受けながら天寿を全うしたホリー様と薔薇色の紋様、その話を聞いてから丸二年。
私は、生きている。
ホリー様の話を聞いて、希望を持ったものの……命の期限と言われていた十四か月を越えるまでは不安だった。一晩で一気に紋様の色が黒くなって命を落とす、そんな悪夢を見ては飛び起きたことが何度もあったくらい。
前向きな気持ちと不安な気持ちを行ったり来たりしながら、一応の期限である十四か月を過ぎた辺りから前向きな気持ちが割合を増やし、二十四か月……二年を越えてからは「大丈夫」と言い切れるようになった。
嬉しかった。安心した。もう悪夢を見ることもなくなった。
けれど、私以上に父や伯父家族、使用人、街の人たちの方が喜んでいたように思う。
「わかっています。あなたの作るものだけが、美味しく感じるんですよ」
「はいはい」
「その返事……わかっているとはとても思えませんね」
彼、ベルンハルト・アーベル様は今、私の〝婚約者〟に収まっている。
王都にある神殿付きの聖騎士を辞した後、彼は父と伯父に私との結婚を申し込んだとか。
申し込みの場でベルンハルト様は、自分が調べたホリー様の神罰とその後の彼女の人生について説明し、私も恐らくホリー様と同じであることを伝えた。なんと、私に話す前に父や伯父家族に話していたのだ。
父と伯父は、ホリー様の神罰が私にも当てはまると確証が持てるまで……要するに十四か月後に私が生きており、私自身がベルンハルト様との結婚を拒否しなければ、という条件で婚約を許可し、そして、彼の求婚は了承された。
私のところに彼との婚約話が回って来たときには、すでに私以外のほぼ全員が婚約を承諾し、なお且つ祝福している状態だったのだ。
断れるような状況でも、雰囲気でもない。父や伯父の家族、使用人たちまでが〝もちろん婚約、するよね?〟と笑顔で圧をかけて来るのだ。
全ての堀を完全に埋められている状態で、断る勇気も反抗する気も起きなかったと言うべきか。
命に限りがあるため結婚などできないと思っていたし、するつもりもなかった。
けれど、この先も生きることが出来ると確信を得てからは、私も結婚できるかもしれないと希望を持った。でももし結婚するとしても、一応私も貴族籍にある令嬢なのだから、結婚相手は父か伯父が決めるものだと思っていたのだ。
ベルンハルト様は年齢も近いし、清潔感のある容姿をしており嫌悪感はない。大神殿の聖騎士となり、事務処理や書類管理をしていたのだから頭の出来もよく、回転も速いのだろう。
胸がキュンキュンするような感情も、燃えるような熱い感情もないが、私が希望する〝穏やかに生活する〟という生活を続行するには丁度良い相手だろう、と思ったから受け入れた。
なぜベルンハルト様が私に求婚したのか、その理由は未だ不明だ。今までに何度か話をふってみまたものの、見事に躱されている。
でも、まあ、それについては慌てることはない……聞き出すための時間はこれから沢山あるのだから。
「そうそう、今週末から二週間休暇が取れました。皆で温泉に行きませんか? 生家の領地にある温泉地なのですが、義父上の関節痛にも効果がありますし、雪景色がとても美しい季節です。今は雪狐や雪兎、雪栗鼠という毛が真っ白で可愛らしい小動物も見られます。そういうの、好きでしょう?」
予想外だったのは、想像していたよりもずっと大切にされていることだ……しかも甘い感じに。
お陰様で婚約してからというもの、順調にほだされている。
子どもの頃から神殿暮らしで異性に対する免疫がなかったせいか、単純だと思うけれど……優しく気遣われ、デートに誘われ、贈り物をされて、喜んでいる自分がいるのだ。
「兄夫婦も、ミリヤムと義父上に会いたいと、是非温泉を楽しんで欲しいと言っていますから遠慮はいりません」
「……雪兎たちには触れるのですか?」
「野生動物なので触れませんが、餌やりは出来ます。触ることが出来るのは雪犬ですね。忠誠心に厚く、優しく、賢く、大きいですが白い毛がモフモフでとても可愛らしいのです。ご希望なら子犬を一匹迎えるようにしましょう」
大きな白いモフモフ? 優しくて賢くて、忠誠心に厚い?
「…………お願いします」
「はい、飛び切り可愛くて賢い子を迎えましょう」
「……ベルンハルト様、これからこのクッキーを小袋に入れて可愛く包装するのですが、手伝って下さい」
手先がとても器用なベルンハルト様が包装したクッキーは、『とても可愛い!』とバザーでとても人気だ。私やメイドが包装するよりも可愛く仕上げるのだから、少々憎らしい。
「どちらもお任せください」
拳で自分の胸を叩き、ベルンハルト様は自信に満ちた笑顔を浮かべた。
最近、私はこの笑顔に弱い。
胸の奥がザワザワし、顔が火照ってくるような落ち着かない気持ちになる。
そう遠くない未来、最初は持ち合わせていなかった胸がキュンキュンして熱くて甘い感情を抱きながら、彼と共に残りの時間を過ごす……そんな人生を歩む気が、しないわけでもない。
この世界で女神が罪を犯した者へ下す神罰の内、最も重たい罰だという『女神の懲罰』を受けると、左胸に女神を現わすエニシダの紋様が浮かぶ。
この紋様を貰った者は、十二か月から十四か月で紋様を黒く染めて命を落とすのだ。
けれど、紋様の色が薔薇色の状態で止まった、『薔薇色の懲罰』を受けた者はその限りではない。
薔薇色のエニシダを持つ者が自身でその後の人生を選ぶことができるように、と神罰の真実については王都神殿の神官長専用書庫に一冊の本としてまとめられ、ひっそりと収められている。
神罰を受けたにも関わらず、紋様の変色が薔薇色で止まった者が現れるそのときまで。
お読み下さりありがとうございます!