その日、甘美な餌となる
ルガルが私のアニマになってから四年。
私が十二歳になるまでは至って良好な主従関係が築けていたはずだ。
ルガルには皇帝による厳しい監視が付いていたし、私も生き延びるために世の中を変えようと必死だった。
アニマに頼らない医療の発展、促進、支援に尽力し、天才児という立場を利用して前世の私が知る限りの治療法を伝授したりもした。
それにより、アニマを崇拝し、神の力だと崇めている派閥からは、アニマに対する冒涜だと人の手による治療をバッシングする声も上がったようだが、皇女の私に届く前に全てかき消された。
絶対的な力を持つ皇帝に守られているうちは私の身の安全も安心だ。
騎士団長に剣術や体術も習い、ルガルも怪我をしないように気を付けながら毎日鍛錬に励んでいた。
その間も弟のディルクはしょっちゅう私に会いに来たし、家庭教師のジュリオは私の代理として医療機関の顔役になってくれた。
未来の大司教アランは順調に大司教への道を歩んでいっているらしく、彼に関してはアニマの処遇に関する話し合いの席でたびたび顔を合わせているので、推しの成長を目の当たりにできるのはありがたい。
皇帝は相変わらず私を溺愛してくれているし、心配性で病弱な皇后もまだ健在だ。
皇女でありながらあまり人の悪意に触れず、穏やかに生きてこれたのも周りに大事に守られていたからだ。
ユリアが死ぬ事件が起こるまであと六年。
このままあっという間に年月が流れていくのかと思いきや、一つの問題が浮上した。
それはとある日の私の身体の変化から始まる。
『ユリア、大丈夫……?』
その日は朝から調子が悪く、食欲も無かったので訓練を控えて自室で休むことにした。
腹痛や悪寒も本来なら頑丈なアニマが引き受けてくれるのだが、もちろん私とルガルの間ではそんな効果もなく。
やむなく痛み止めの薬草を煎じて飲んで寝れば少しはマシになるだろうとベッドに籠る。
ルガルはそんな私を気遣わしげに見つめ、ベッドを揺らさないように乗り上げることなくいい子にしている。
元々大きかった狼の体躯は今やベッドの上からでも見上げるほどだ。
それでも時々はそのもふもふを堪能したくて広いベッドで一緒に眠ることを許していたのだが、流石にもう限界かもしれない。
この広大な宮廷ですらルガルにとっては手狭に感じているだろうに、文句も言わず、我儘も言わない。
彼の負い目につけ込んだのは自分だとはいえ、罪悪感を覚えないほど私も残忍な性格じゃない。
少なからずルガルには感謝している。
こうして体調が悪い日でも部屋から追い出さないほどには。
「大丈夫よ。寝ていれば治るわ」
『でも……』
「いいから、大人しく抱き枕になってちょうだい」
最高級の毛布よりもふわふわで暖かいルガルの体毛に顔を埋めて眠ると幾分か気分が楽になる。
心配そうにベッドに乗り上げ、枕元で丸くなるルガルはペットとして見れば健気すぎるほど優秀だ。
この頃には人に戻るタイミングも決まってお風呂の時くらいで、他で人になるのを見る機会もないからかルガルを男として意識することもなかった。
ただ、前はもふもふされることを喜んでいたのに、いつしか逃げるようにその時間は短くなり、今は複雑そうに尻尾が床に叩きつけられていることも多い。
思春期を獣として過ごしているため、彼も何かと思うことはあるのだろう。
それでもこうして私が弱っていると側に来て心配してくれるところを見ると、まだ彼が純粋に私を慕っていることがわかって少しは安心できる。
もふり、もふもふ。
良いものを食べさせ、運動し、整った環境で過ごす狼の毛艶は今日も素晴らしい。
ジクジクと痛むお腹からなんとか意識を逸らしながら、気付けば私は気絶するように眠りに落ちていた。
「……リア、……ユリア……」
「んぅ……?」
次に私が起きたのは真っ暗な部屋の中で、窓から月明かりが差し込んでいることからして夕食も食べずに随分と眠ってしまったようだ。
とりあえずベッドサイドの灯りを付けようと手を伸ばすのに、硬い何かが行く手を拒む。
こんな所に壁なんてあっただろうかと怪訝に思いながら寝起きで霞む目を擦る。
ゴシゴシと強く擦っていたのを見かねてか、誰かの手がそれを優しく掴んで止めた。
ベッドの上、手を掴むにはあまりにも近い距離にいる誰かを気にしないわけがない。
一気に目が冴えた私の目の前で、裸の男が間近で私を見つめている。
月光を浴びた銀髪はキラキラと輝き、暗い部屋でもその瞳がギラギラと黄金に光っているのが良くわかる。
ああ、人になったルガルかと安堵したのも一瞬で、彼の雰囲気にぞわりと鳥肌が立つ。
まるで、飢えた肉食動物を前にした草食動物のように危機感に身震いした。
「……ルガル? どうして人の姿になってるの……?」
上半身どころか、彼は下も何も身につけていないのに恥ずかしがる素振りも見せない。
それがますます違和感を募らせて思わず距離を取ろうと身を引くのに、掴まれた腕を離してくれる様子もない。
なんだか変だ。ルガルの様子がおかしい。
大声を出せばきっと私の部屋を守る衛兵が駆けつけてくれるだろう。
だがそうすればルガルはまた檻に入れられるどころか、一生私から切り離されて死なない程度に飼い殺しされるはめになるかもしれない。
下手をすればルガルだと認識されず、殺されることだってあり得るのだ。
人を呼ぶのは得策じゃない。私がなんとかするしかない。
いきなり刺激しないようにおそるおそる声を掛けてみてもルガルの反応はおぼつかない。
もっと他に気になることでもあるのか、じっと私の下腹部を眺めている気がする。
「……ユリア、大丈夫? どこか、痛いところはない……?」
「え? ああ、腹痛ならだいぶ落ち着いたわ。まだそれを心配してくれていたのね」
その視線の意味は心配だったのかとホッとする。
気遣ってくれるのは嬉しいが、いささか圧が強すぎる。こんなことで人の姿になられるのも心臓に悪い。
水でも飲もうと改めてベッドサイドの灯りに手を伸ばしたいのに、依然とルガルの手は離れない。
まだ何か言いたいことでもあるのかと胡乱げにルガルを見上げて、ひゅっと息を呑んだ。
「じゃあ……ユリアから血の匂いがするのはどうして? なんでこんな……美味しそうな匂いが、ユリアからするの……?」
「ル、ルガル……?」
爛々と輝く血走った目、止めどなく溢れる涎がぼたぼたとシーツを濡らしていく。
人の姿に戻っていながら、獣のような雰囲気の彼に言葉を失う。
血の匂いなんて、一体どこからかと疑問に思って、まさかとシーツを捲る。
べっとりと股の辺りを赤く染める血に腹痛の理由を悟った。
ユリアの身体が十二歳で初潮を迎えたのだ。
「これは……怪我したわけじゃなくて、その……」
それをどうルガルに伝えるべきか。
言い淀む私に構わずルガルはスンスンと鼻先を血溜まりに近付け、漏れ出る先を辿る。
子宮で排卵が始まって使わなかった内膜が剥がれているだけだと説明したところで理解できるとは思えない。
足の付け根にまでルガルの顔が近付いたのに気付いて、バッと頭を掴んで押し離す。
それでも強い力で抵抗されたら私の腕力では敵わない。
ぐうっと身を乗り出したルガルの鼻先が私の下腹部にすり寄り、すんっと匂いを嗅いでくる。
ぐりぐりと頭を擦り付け、乱れて捲れ上がった服の下から覗く私の素肌をべろりと舐められたらもう限界だった。
「や、め……っルガル……!」
「食べたい……ユリア……いい匂い……っ」
「んっ、ぁ……ひ、ぅ……っ」
ぞわぞわして、びくびくして。このままじゃまずいと本能が逃げろというのに、体が石のように固まって動けない。
グルルと低く唸る声が人型のルガルから聞こえて、人間らしさはどこに行ったのかと詰め寄りたいのにそれもできない。
ルガルの舌がゆっくりと下腹部のさらに下へと下りていく。
まだ血で濡れたそこに辿り着く前に、私のキャパシティは限界を突破した。
「こっの……やめなさい、バカ狼!!!」
「キャンッ⁉︎」
どかっと全力で足蹴にしたルガルがベッドの上から床に落ちる。
腕力こそ敵わないが、これでも私も鍛錬しているのだ。油断して気が抜けた相手になら隙をつくことは可能だ。
ベッドから落ちた拍子に狼に戻ったルガルが何が起きたのかわからない顔をして転がったまま私を見上げる。
そんな姿に今は可愛いと思うまでもなく、鼻息荒く睨み付けた。
「ルガル、朝まで廊下で頭を冷やしてきなさい」
『ユ、ユリア……ごめん、おれ、どうかしてて……』
「私が許すまで絶対に近付かないで。いいわね」
『はい……ごめんなさい……』
尻尾を垂らし、哀愁を漂わせながら器用に前足でドアを開けて廊下に出ていくルガルの後ろ姿を見送る。
バタンと閉じた扉の向こうではルガルが追い出されたことに戸惑う衛兵の様子が思い浮かぶが、今はそれどころじゃない。
ぐったりと肩を落として血塗れのシーツに溜息をつく。
湯浴みをして、着替えて、シーツも替えてもらわないと、それから……。
「ルガルは、どうしようかしら……」
初潮を迎えた私に興奮し、昂っていた彼の立派なものを思い出して項垂れる。
ひとまず私もシーツと同じくらい真っ赤になった顔を冷ますことから始めた方が良さそうだ。