この気持ちに抗えない
神殿にはすぐに話をつけるとのことで、正式なアニマの契約を行う日取りは近そうだ。それまでは部屋の中でのみ自由にしていいと言われたものの、皇帝が退室してホッとしているルガルを見遣る。
いたいけな子供に言うべきか悩むが、わかってもらうには仕方ない。ここは心を鬼にしなくては。
「あのね、ルガル……」
『ユリア? どうしたの?』
「まずはお風呂に入らない?」
『えっ!?』
「獣臭いわよ、あなた」
『えっ……』
何を想像したのか、動揺と羞恥に揺れた瞳が瞬時に絶望に染まる。尻尾も上がったり下がったりと忙しなく、くるくると回りながらも自分の匂いを確認する仕草は大きくなっても可愛らしい。
あの日アニマになってから汚れだけ落とされただけでしっかり洗われてはいないのだろう。アニマは契約者以外に触られるのを本能的に嫌う上に、ルガルと私の状況からして仕方なかったとはいえ私の部屋で自由に過ごすとなるとやっぱり困る。
ルガルも一応下手な毛繕いはしていたようだが、さすがに一度お風呂で綺麗に洗った方がいいだろう。ぺしょりと耳を下げて気落ちしている様子のルガルを手招いて浴室に向かう。
怪我が酷い間はメイドの手を借りていたが、今までも準備だけしてもらって一人で入っていたので勝手はわかる。プールほどの湯船にすでに湯は張っており、ふわりと花の香りが立ち込めている。
「一応確認するけど、人の姿にはなれそう?」
『その……ごめん、よくわからなくて……』
「そう、じゃあ仕方ないわね」
『? ユリ……アッ!?』
ギョッとするルガルの前で脱いだのは華やかなドレスで、ちゃんと下に薄手のワンピースを着ているので安心してほしい。さすがに私もここで裸になって一緒にお風呂に入るわけにはいかない。多少濡れても見た目は子供なので胸はまだぺったんこだし、このくらいの露出は許されるだろう。
ルガルは色気のない私から初々しく目を逸らしていたが、その隙にお風呂のお湯を桶で掬って掛ければ尻尾を爆発させてビョンと飛び跳ねた。
『ま、まさか、ユリアがおれを洗うの!?』
「自分じゃ洗えないでしょう? なら私しかいないじゃない」
『うっ、それは、そうだけどっ』
「ほら、泡立てるから動かないで」
『……っ、……ッ!』
やるからにはふわっふわのもっふもふにしたい。アニマとの生活が当たり前の世界なのでアニマ用のシャンプーは種別ごとに数多く取り揃えてあり、ルガル用に用意したのも狼用の高級シャンプーだ。元は人間だけどまあ大丈夫だろう。
全身にお湯を掛けていけばますますガリガリで心配になる細さになる。もっと食べさせないとと思いながらわしわしと背中から泡立てていく。まるで彫刻のように固まって動かないルガルのおかげで洗いやすい。
「痒いところはない?」
『な、ない、です……』
「そんなに緊張しなくても酷くしないわよ」
『そういう問題じゃなくて……ひっ、し、尻尾はいいよ!』
「ダメよ、しっかり洗わなくちゃ」
『っ、あ、ひぅ……っ』
……思わずペット感覚で洗ってしまっているが、私は今とんでもないことをしているのかもしれない。へたりと腰を抜かしたルガルを見てふと正気に返ったものの、お尻や前の部分こそ綺麗にしなければ意味がない。
今からでも男性の使用人に頼む? いや、それだとルガルの人としての尊厳を傷付けるかもしれない。ああでもアニマショップでは問答無用で洗われていただろうし、狼の姿なのだから恥ずかしいのも一瞬だ。すでに息も絶え絶えなルガルには悪いが手早く済ませてしまおう。
「ねえルガル、ここも洗っていいかしら?」
『ここ、って、──ッッッ!!?』
できるだけ平然と流れ作業のようにお腹から下へと手を伸ばしていく。硬い何かに触れた瞬間、ガシッとその手が誰かに強く掴まれた。
「そこはおれが、自分で、やるから……っ」
「あら、そう。助かるわ」
いきなり人間の姿になったルガルから背中を向けて目を逸らす。び、びっくりした……。人になっても裸のままだが、自分の手で洗ってくれるのはありがたい。できれば最初から人になってもらいたかったけどそうもうまくはいかないのだろう。
そういえば狼用のシャンプーのままだと伝えようとして、耳まで真っ赤だったルガルの顔を思い出してそっとしておく。じわじわと私まで熱くなった顔をタオルで拭いて誤魔化した。
「しっかり洗えたならお風呂に入っていいわよ。ゆっくり温まってね」
「あ……ユリアは? 入らないの?」
「私は後で入るわ。あなたの着替えを取りに……っくしゅ!」
「ユリアも濡れたんだから温まらないと! おれは後でいいから、先に入って!」
「でも、ルガルの方が裸でしょ?」
「おれはいいよ! それよりユリアがまた熱でも出たら……っ」
「ルガルが風邪を引いても私が代わりになるのよね」
「っ……ごめん……」
お互いに背中を向けての会話だが、声だけで感情が伝わるのはアニマの契約のせいか。はぁ、と溜め息をつけばビクリと不安がるところまでわかって苦笑する。ルガルは私に気を遣いすぎだ。別にこんなことで嫌ったりしないのにね。
「わかった。なら、一緒に入りましょう」
「……えっ?」
「絶対こっち見ないでね」
「う、うん……っ」
さすがに湯船に浸かるとなると服を脱いでバスタオルを巻く。ルガルにもタオルを渡して、少し離れてお風呂に入れば冷えた体が温まる。ルガルもちゃんと浸かっているようで、白銀の髪が湯気に紛れてちらりと見えた。
「ルガル、気持ちいい?」
「うん、おれ、お風呂がこんなに気持ちいいって知らなかったよ。店でも冷たい水とシャンプーで丸洗いされるだけだったし」
「気に入ってくれて良かったわ。私のアニマになったからには常日頃から綺麗にしてもらわなくちゃならないんだから、一人で入れるように覚えてね」
「えっと……狼の時、は?」
「ちゃんと毛繕いしてくれるならそれでいいわ」
「気を付けます……」
下手な自覚はあったらしい。人間なのに狼をするのも大変だなぁとお風呂の気持ちよさで気が緩むが、あまり長湯しても子供の体には負担が大きい。先に上がろうと体を隠しながら立ち上がれば、慣れない動きに塞がった足の傷がズキンと痛んだ。
「っ、た」
「ユリア!」
バシャッと大きく湯が揺れる。前に倒れ込みそうになった体はしっかりと支えられ、ポチャンと二人分の汗が滴る。お腹と腕を掴むルガルの手は熱く、顔はさっきよりももっと近い。
濡れた髪が、濡れた肌が、美少年のルガルをますます色っぽくさせていた。
「危なかった……大丈夫? 具合い悪い?」
「大丈夫……ちょっと足が痛んだだけ。助かったわ、ありがとう、ルガル」
「…………」
「ルガル?」
離れない体勢に至近距離のルガルを見上げる。彼の視線は私の太股に向いていて、バスタオルが捲れたそこには塞がって間もない傷痕が残っている。
おそらく薄くなっても残るだろう傷痕がドレスで隠れる場所でよかった。傷物として噂されるのだけは御免だとその視線から逃れるようにバスタオルで隠そうとして、するりと伸びてきた手になぞられる。
ルガルの指が、まだ肉が盛り上がった傷痕を撫でた。
「っ、ルガル……!」
「おれのせいで、こんなに綺麗なユリアの体に、傷が……」
「んっ、やめ、て……っ」
「おれが……ユリアに……」
「っ、いっ……たいからやめなさい、ルガル!」
「え……わぁっ!?」
バシャンッとまたもや大きく波打つ湯船にルガルが倒れ込む。その隙にお風呂から上がった私をポカンとした様子で見上げるのはびしょ濡れになった狼の姿で、バスローブを羽織って部屋に戻る私を見て慌てて湯船から飛び出してブルブルと体を振って水気を払っている。
待つつもりもない私は髪をタオルで拭きながら部屋に戻っていて、同じくタオルを器用に体に掛けたルガルがその後を追う。部屋でパジャマに着替えている間もうろうろと落ち着きなく、チラチラと向けてくる視線は全て無視してベッドに潜り込めばベッドの下でルガルが不安そうに鼻を鳴らした。
『ユリア……おれも一緒に寝ていい?』
「ダメ。ソファで寝なさい」
『その、ソファだと少し狭くて……』
「ソファで寝なさい」
『はい……』
しょぼ、と耳と尻尾を垂らしたルガルがソファからはみ出しながらも丸くなる。ごめんね、もう触らないから、と何度も謝ってくる言葉に「おやすみ」と返せば、『おやすみ……』と哀しげな声に胸が痛んだがそれだけじゃない。
顔が熱い。心臓はずっとドキドキして、触れられた傷痕は痛いのに甘く疼いている。こんなの嘘だ、吊り橋効果だと否定したくなるのに、いつまで経っても熱が引かなくてポカポカする。
たぶんきっとこれは風邪だ。また熱が出たんだ。じゃないと、おかしいもの。だって、これじゃあまるで、私が──
へぷしゅっ。くしゃみをしたルガルに、これ以上考えるのはやめにした。
「……ルガル、こっちに来なさい」
『! いいの?』
「体、ちゃんと拭けてないでしょ」
すぐに尻尾を振って跳んできたルガルの体をタオルで拭きながら小さく息をつく。
ルガルはアニマだ。私の命綱であり、私を殺す凶器。利用するけど利用させるわけにはいかない。適度な距離を保たなければ。
そう、思いつつも。洗ったばかりの毛並みはふわふわのもふもふで、あまりの触り心地に気付けば一緒に眠ってしまっていたのはしょうがない。人類はもふもふの前であまりにも無力だ。