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「リュシエンヌはまだ見つからないのか!」
感情に任せて手を払えば、卓上から書類が舞い落ちた。
「くそっ、精鋭と名高い騎士団が聞いて呆れるっ。…そもそも見張りの者は、何をしていたんだ!」
その内の一枚が空中で捕えられ、音も無くジュルダンの手元に差し出された。
「流石に次期王子妃を、兵如きが常に監視する訳にはいかないだろう。仮に誰かが、そんな事をしたら、君が一番許せない、違うかい?」
やり場のない怒りを抑えつけるように、肩で息をするジュルダンが声の主を睨め付けた。
「当たり前の事を…。リュシエンヌを眺める権利など誰にも与えない。他人の視線に触れさせるなんて認められるはすがない。あの状況になれば此方の申し出を受けるはずだった。もう少しでリュシエンヌの全てを手に入れる事が出来たのに!転移が上手くいけば閉じ込めて、依存させて…くそっ、何故失敗したんだ。…あぁ、私はどうしたら…!」
顔を赤くして怒ったかと思えば、青ざめた様子でジュルダンは目の前の人物に縋りついた。ジュルダンは華やかな金髪に碧眼という、グレミヨン王家の血筋が色濃く出ている。負の感情に支配された今でも、その輝きは消えていないが少し窶れていた。
「君の頼みは断れないからね。…けれど叶えるのは、とても難しいんだ。最後まで頑張れるかい?」
ジュルダンは息を呑み、目を見開いた。その瞳に希望の光を輝かせて。意を決し大きく頷いた。
「この可能性を逃せば、リュシエンヌ嬢が二度と見つからないかもしれない」
「それだけは絶対に許されない」
被せる様にジュルダンが唸る。彼の不安を緩和するべく、柔らかな笑みで頷いた。
「あぁ、そうだな。最後までやり遂げれば、リュシエンヌ嬢は君のものだ」
その言葉の気迫に中てられたか、それともリュシエンヌを手に入れた事を想像し喜んだのか、或いはその両方かもしれないが、ジュルダンは壊れた人形のように首を縦に振り続けた。
「さぁ、教えてあげよう」
幼子を諭す様な慈愛に満ちた声色に、ジュルダンは向かい合う。歌のように心地良い旋律が、ジュルダンを包み込む。頷きながら、やるべき事を理解した。
「…ならば、まだあの女にも役割りを与えなくては…。上手く演じてもらうとしよう。到底及ばないにしても」
仄暗い感情と共に、ジュルダンは右手を握り締め、望みを繋いだ。
「待っていて、リュシエンヌ。誰にも渡さない」
切欠は何だったか、贈った花が萎れてしまったとかそんな他愛のない出来事。
リュシエンヌの潤んだ瞳にはジュルダンだけで占められていた。思わずゾクリとして息を呑む。微笑む彼女も好ましいが、リュシエンヌの涙を引き出すのは自分だけという優越感で埋め尽くされる。
例えるなら神々に触れる事を許された様な、背徳感とも取れる昏い気持ち。初めて生まれた感情は、捻じれていたからこそなのか味わった事の無い高揚感に震えた。
もう一度あのリュシエンヌに会いたい。
社交辞令で他の令嬢へ甘い言葉を囁いた時に、同じ表情のリュシエンヌを見る事が出来た。淑女教育の所為でほんの僅かな変化ではあったけれど。
ジュルダンは陰りのある笑みを浮かべながら、懐から懐中時計を取り出す。大粒の紅玉が施されたそれは、リュシエンヌの瞳の色に合わせた最高級品だ。親指で艶やかな宝石をなぞり口づけを落とす。
応える様にキラリと輝きが増す。こうしているとリュシエンヌに、すぐ会える予感がしてくる。
願いが通じてか、リュシエンヌが見つかったという知らせが齎されたのは、翌日だった。
◇
グレミヨン国の西に位置する隣国コデルリエ王国の王太子、フィリベール・コデルリエは艶やかな黒髪に紫の瞳が印象的な美丈夫だ。ジュルダンと同年代という縁もあり、これまでに幾度かグレミヨン王国へ来訪していた。
たまたま通りかかったフィリベールによって、リュシエンヌはコデルリエ王宮内に立ち竦んでいる所を発見された。
フィリベールとリュシエンヌは外交で顔見知りだった事から、不審者扱いではなく要人として保護されたのは不幸中の幸いだろう。
何故グレミヨン城内に囚われていたはずのリュシエンヌが、隣国の王宮に居たのか謎は残っていたが、現在は自身の領地へと、その身を移されていた。ドランブル領はコデルリエ国に面しており、比較的移動が容易だった為だ。
「すぐさま迎えに行くべきです!私が参りましょう」
ジュルダンの進言も虚しく、国王及びドランブル公爵家がそれを許さなかった。
何らかの要因で強制転移が発動され、巻き込まれたリュシエンヌは体力を大幅に消耗しているという。命に別状は無いが、回復も兼ねてゆっくり療養するようにという医師から診断書も添えられていた。加えて表向きは婚約破棄され打ちひしがれている為とドランブル公爵に睨まれれば、それら全てに心当たりがあるジュルダンは渋々ではあるが引き下がるしかない。
リュシエンヌがドランブル領に戻ったという事以外、両国の王家と、ごく一部の者だけの極秘とされた。王家の関係者であるはずのマリエルも知らされなかった。
「一生、領地に籠って二度と王都に来なければいいのよ。優秀な私が居れば、不出来な公爵令嬢の居場所なんかないもの!」
ここ数日、同じ事ばかり喚くマリエルに返事をする使用人は居らず、けれど彼女は上機嫌のまま続けた。
「最近、中々ジュルダン様と会えないけれど、いい事?これは二人に必要な時間なのよ。私達が更に優秀になった暁には、きっとジュルダン様が王になるのではなくて?」
現王だけではない。ジュルダンより王位継承権上位の王太子、王弟に対して不敬極まりない発言だなんて思いもしないマリエルは、誰もが無反応な事にも目もくれず(実際は不用意な発言で罰せられないように黙るしか出来なかったのだが)、目の前にいる自分と良く似た髪色の侍女に語り掛け、無言は肯定だとばかりに何度も頷いた。
「えぇ、えぇ。分かっているわ」
マリエルは目の前、相変わらず口を閉ざした侍女に微笑みを向けた。
「私、頑張らなくてはね!」
困惑しながらも、侍女は目の前の職務を粛々と全うした。
それから数日後、若い女性を狙った猟奇的な事件が起こった。被害者は意識不明のまま発見され、女性の命とも言える髪がばっさり切られていた。翌日になり女性は目を覚まし、ある事に気付く。彼女の髪によく似た榛色の毛束を右手で握り締めていた事に。
当初は若い娘が何故とは思われたものの、何らかの理由で自分で切ったのだと余り問題視されなかった。だが、後に人形の髪だと判明し謎が深まる事となる。
二人目の犠牲者は耳を失くし、陶器製の小さな耳を二つ持っていたのだから。
◇
女性ばかりが連続して狙われるという身近な恐怖は、あっという間に世間を駆け巡った。ジュルダンの人騒がせな婚約破棄に代わり、猟奇的な未解決事件で王国中が持ち切りとなった。
襲われた女性たちは意識不明で、髪の毛を皮切りに、ある者は耳や足を…と身体の一部を失っており、替わりに無くなった場所と同じ部位である人形の一部を握り締めている状態で発見された。その後、意識を取り戻しはするものの、事件の記憶は疎か言葉も碌に話せず廃人のようになっていた。
それ以外に被害者の共通点は見当たらず、マリエルの侍女だった下級貴族の令嬢を筆頭に修道女、町娘と立場や生まれもバラバラ。
三度目の被害者が出た後で、国中に通達がなされた。若い女性は外出の際、夜間は避けなるべく一人にはならない様にと。併せて警邏の人数と巡回の数も増やされた。
何でも、自分の侍女が狙われたのはマリエルと間違われたからだと、ジュルダンに泣きついたのだとか。
「きっと次に狙われるのは私だもの…。恐ろしくて妃教育や学園へ行けないわ!」
「…あぁ、君を守らないと」
ジュルダンに優しく微笑みを向けられて、涙目のマリエルはコクリと頷いた。マリエルの朱に染まる頬を撫でると、ジュルダンは少し悲しそうに眉尻を下げた。
「犯人を見つけるまで、今より忙しくなる。また会えない日々が続くだろう。最善を尽くす、だから」
「会えない時間は辛いですが、これは私達への試練なのですわ。二人で乗り越えましょう!」
「…いい子で待っていて」
ふわりと優しく抱きしめられれば、爽やかな柑橘系の香りに包まれる。
「あぁ、殿下。どうぞ、ご無事で」
「…心配ない、すぐに戻る」
颯爽と退室するジュルダンの後ろ姿を目で追った。このような状況にも関わらず、マリエルはウットリと幸せを噛み締めた。
◇◇◇
遠くの時計台の鐘が鳴り、日付けの変更を告げている。疲労はしているのに眠る事も出来ず、辺りをぼんやりと眺めていた。暗い地下牢の中でも目が慣れ暫くした頃、リュシエンヌは異変を感じた。
「何かしら、梟…ではないようね」
初めは夜の動物たちの声かと思っていたが、時を追う毎に音は静かに大きくなっていた。リュシエンヌは身を潜め、けれど神経を張り巡らせて様子を窺った。
不意に白い光が足元から広がり、古代文字が次々と浮かび上がっていく。それを囲む様に大きな円が、何時の間にかリュシエンヌを囲んでいた。
「これは魔法陣…!」
避けなければと立ち上がったが、一歩出遅れてしまった。いけないと思った瞬間、胸元から温かさが伝わり、身の丈程の黒い盾が現れると魔法陣から伸びる光をガキンと弾く。
盾は更に厚みを増し、水晶柱のようにリュシエンヌを包み込むと、彼女と共に音も無く消え失せた。
魔法陣の光は、まるで何かを探す巨人の腕のように牢の中を巡って行く。三度ほど周回した後、動きを止め粒となって霧散した。
◇
フィリベール・コデルリエは足早に王宮の一室に向かっていた。首に掛けた宝珠を握り締め、息を切らして。
要人の中でもフィリベールが心を寄せた者にしか案内しない、コデルリエ王国が一望出来る見晴らしの良い部屋だ。
扉を前にして、呼吸を整えた後、静かに開いた。
大きなガラス窓から月明りが差しこみ、仄暗い部屋が部分的に青白く浮かび上がる。部屋の中央へと歩を進めた時、キィンと鋭く澄んだ音が空間を引き裂いた。
身の丈程の黒い水晶が現れ、霧が晴れるように消えて行く。
「ドランブル嬢」
私の問いかけに紅い瞳が真っすぐ此方を見据えた。
「…フィリベール殿下、まさか」
「えぇ、そうです。ようこそコデルリエ王国へ。大丈夫、ここは安全です。お疲れでしょう、今夜は一先ずゆっくりとお休みください。詳しい事は明日にでも」
聡明な彼女は概ね理解したようで、此方の申し出に是と頷いた。逸る心を押し殺し、紳士たるべく振舞うように心掛けた。
◇
婚約破棄に断罪、投獄から国を跨ぐ転移まで目まぐるしい一日を過ごし、心身ともに疲弊していた。長年の心配事が無くなり、気が抜けたのもある。そこへ来てコデルリエ王国が素晴らしい持て成しをするものだから、そう心の中で言い訳をしつつリュシエンヌは後ろ髪を引かれながらも寝台から起きあがった。
滑らかな肌触りが素晴らしい絹の寝具、繊細な彫刻が施されている宮棚付きの重厚な寝台。横には揃いの意匠だと分かる小さな台があり、朝露が残っている摘みたての薔薇がフワリと香り立つ。過度な煌びやかさは無いが、一つ一つが上質で使う人を思った配慮が溢れている。その気遣いがリュシエンヌは大変好ましかった。
扉を叩く音に返事をすると、朝の仕度をと侍女が入室してきた。
「…ウラリー、貴女の元気な顔が見られて嬉しいわ」
「リュシエンヌ様、覚えていていただけていたなんて!またお仕え出来て、とても光栄です」
手早く洗面器に温かな湯を注ぎながら、陽だまりのような笑顔を向ける。ウラリーの明るい赤色の髪が太陽を浴び、キラキラと輝く。
「貴女の事を忘れられるものですか。今回も宜しくお願いね」
薄紫色のドレスをリュシエンヌに着つけながら、お任せくださいと笑った。
◇
朝食の後、移動して通された場所はフィリベールの執務室だった。ウラリーは紅茶を二人の前に置くと、入口の扉付近で待機した。
「ドランブル嬢、良く休めただろうか」
リュシエンヌに茶を勧めながら、フィリベールは自分も手に取る。青色の繊細な植物画が美しい茶器で目にも鮮やかだ。
「御陰様で大変ゆっくりする事が出来ました。ご配慮くださりありがとうございます」
「それは良かった。今は私的な場、堅苦しい事は抜きにして、昔のようにお互い名前で呼び合うというのは」
「えぇ、私の事はリュシエンヌと」
「ありがとう、リュシエンヌ。貴女からフィリベールと呼ばれる栄誉に感謝を」
艶やかな黒髪から覗く紫色の瞳が優しく細められる。思わずドキリとしたが、この御仁はいつもこんな調子だ。
「早速ですが」
リュシエンヌは首に手を伸ばし、首飾りを外すと目の前にそっと置いた。
「私が貴国に転移したのは、これが原因でしょうか」
黒い石が付いた小ぶりの装飾品に視線を落とす。フィリベールは手に取り、目の高さまで持ち上げると太陽光に翳した。
「流石、鋭い。…ただもう暫く持っていて欲しい」
成程、まだ危険が去った訳では無いのかと小さく頷いた。
フィリベールはリュシエンヌの背後に回ると、シャラという小さな金属音と共に首飾りを付け直した。微かに触れた指先に意識が集まってしまう。
「未だ白い影が残っている」
「例の何か良くないもの…でしたか。えぇ、確かにまだ付いて…おりますね」
フィリベールは眉間に皺を寄せながら、立ったまま窓から遠くを見やる。晴れ渡る青空の彼方、半球形に靄がかかっている箇所がある。グレミヨン王国のある方角だと、すぐに気が付いた。
「元凶は別にあるのだろう。本体が日々大きくなっていっている。…気を抜くな、リュシエンヌ」
「肝に銘じておきますわ、ご忠告感謝いたします」
リュシエンヌがフィリベールの目を見つめたまま礼を言えば、彼もまた視線を合わせたまま力強く頷いた。
「大丈夫、その守りは大方の攻撃は躱せる。それで防げない何かが起こっても必ず助ける、安心して欲しい」
まるで愛を囁くような言葉。
「何から何まで、ありがとうございます」
お礼を述べる途中で、フィリベールがリュシエンヌの前で跪いた。突然の事にリュシエンヌは驚きを隠せない。
「殿下、下の者に膝を折るなどなりません」
フィリベールは微笑みながらリュシエンヌの手を取ると、指先に唇を落とす。柔らかな感触から熱が広がり、顔が全身が赤くなっているのが分かる。そのまま身動き一つ出来ない。
「漸くだ。空位となった貴女の婚約者に立候補できる」
「お戯れを。婚約を破棄された疵物です」
リュシエンヌが自嘲しながら瞳を伏せると、手を引かれ気付けばフィリベールの腕の中に居た。
「これまでグレミヨンの第二王子に対して嫌悪しかなかったが、今回リュシエンヌを手放してくれた事だけは評価に値する。もう奴に遠慮はしない。リュシエンヌをずっと想っていた。どうか私との未来を考えて欲しい」
フィリベールの紫水晶のような瞳が煌き、優しく微笑んだ。あの頃と変わらない笑顔に、嘗ての約束を思い出す。
父と共に外交でコデルリエ王国の地を踏み、フィリベールと出会った。後から聞いた話によると、初めからフィリベールとリュシエンヌの顔合わせを兼ねていたそうだ。両国の国交を強化するべく、リュシエンヌがコデルリエへ嫁ぐ事を視野に入れて話が進んでおり、幸い二人は仲が良かった。だが、帰国後、ジュルダンが強引にリュシエンヌと婚約を結んでしまった。
「今は思わず抱きしめてしまったが、勿論リュシエンヌの気持ちを尊重する。何時までも待つつもりだ、考えてみて欲しい」
「私も」
火照る顔に気付きながらも、しっかりとフィリベールを見つめた。
「私もフィリベールをお慕いしております。ジュルダン殿下との婚約を境に、この想いに蓋をし閉じ込めて過ごしてきましたが、もういいのですね」
「あぁ、ありがとう。もう少しこの幸せに浸っていたいのだが…奴が黙っているとは思えない」
「そうでしょうか、ジュルダン殿下には嫌われておりましたもの」
心情を映すように、リュシエンヌの紅い瞳が揺れる。
「寧ろその逆だと思うが、第二王子の暴挙は余りにも目撃者が多すぎる。グレミヨン国王はリュシエンヌを救出に牢へ向かったはずだ。そこでリュシエンヌが居なくなった事を知り、表沙汰には出来ないにせよ捜索する。先手を打って、一足先にドランブル公爵領へ身を遷すのが安全だろう。ドランブル公爵が守ってくれる。勿論、こちらのからも警備の者を送り込む。今はまだ我々の繋がりに感づかれるのは得策ではない」
人差し指でリュシエンヌの頬をなぞり、輝く銀髪を一房取り口付ける。
「離れたくはないのだが、全てを片付けなくてはな。…迎えに行く、必ず」
頬を染めながらも、リュシエンヌの瞳には強い意志が見て取れた。
「領地からにはなりますが、私も白い影には十分注意いたします」
「あぁ、だが無理はするな」
リュシエンヌは胸の首飾りを握り締め、力強く頷いた。