⑦
「宰相殿、これは失礼いたしました。名目だけとはいえ今はまだセレスは貴方様の妻。配慮に欠けておりました」
セレスティーヌの肩を抱き宰相に投げかけられた言葉は完全にケンカを売っていた。
この国で宰相に正面を切ってケンカを売るのは自殺行為に等しいということは常識である。
緊迫した空気の中でもさわやかな笑みを崩さないルートヴィヒと無表情で佇む宰相。
「しかしセレスの為にもここで引き下がるわけにはいかないのです。それに貴方様とは一度お話ししたいと思っておりました」
まるで魔王から姫を守る王子のごとく背後にセレスティーヌを隠して宰相と対峙する。
「宰相殿、どうかこれ以上彼女に付き纏うのは止めていただきたい」
あちらこちらから息を飲む音が聴こえてくる。
「彼女の兄上から話を聞いております。会いたくないというセレスティーヌの意思を無視して貴殿が毎日彼女の実家に押しかけていると。今回のパーティもご子息を使い無理に参加させたようですね」
「ルゥ違うわ。今日も無理やり参加させられたわけではなく私の意思よ」
過去のことは思い出せないが、自分の今の感情ならばよくわかる。
今日のパーティへの参加も、宰相が実家に毎日顔を見せるのも、決して不快だったわけではない。
ただ混乱して受け入れる心の準備が出来ていないだけだったのだ。
宰相を責める言葉をセレスティーヌはきっぱりと否定するがルートヴィヒはそんな彼女に背を向けたまま振り返ろうとはしない。
「今もこうやってセレスを精神的に支配している…なんと卑劣でしょうか」
「一体どういう意味だろうか」
ルートヴィヒの真意を探るように宰相の目が細められると会場の空気はますます冷える。
「宰相殿がセレスティーヌの実家とのかかわりが深い者に、その権力を使い危害を加えているということは分かっているのですよ。そうやって彼女を追い詰めているのでしょう」
周りの人間からどよめきが起こり、セレスティーヌも予想外のことに驚き目を見開く。
「彼女の実家が懇意にしている商人のシャルバン――彼が最近ひどい詐欺にあって破産の危機のようなのです」
「シャルバンが…」
ルートヴィヒの言葉に思わずつぶやくセレスティーヌ。
ここに来る前に会ったシャルバンはひどく憔悴していたが、その裏にまさかそんな事情があったとは思いもしなかった。
「シャルバンはこのところ、それは見事な首飾りをどうにか手に入れようと躍起になっていました。最近元気がないセレスに喜んでもらおうと、すぐに動かせる金が少ない状況でしたが多少無理をして代金を集めたようです」
突然飛び出した自分の名前にさらに驚く。
確かに実家に戻ってからシャルバンが持ってきた商品に魅力を感じず、高価な物は一度も購入していなかった。もしかしたらそれを気に病んでいたのかもしれない。
「しかし結果として首飾りは手に入らず、無理やりかき集めた金だけが消えた。どうやら彼は巧妙な詐欺に引っかかったらしい」
だからあそこまで衰弱していたのかと納得する。
だがシャルバンとてベテランの商人である。そんな彼が詐欺師を見抜けないものだろうかとふと疑問が浮かぶ。
「商人のシャルバン? 知らんな。その話と私は関係があるのかね?」
至極どうでもよさげに投げられた宰相の言葉にルートヴィヒがはっきりと頷く。
「大いに関係があると私は踏んでおります」
「ほぉ?」
「単刀直入に言いましょう。貴殿がシャルバンを罠に嵌めたのではないですか?」
「何の為にかね?」
「セレスの実家周辺の人間を潰し、セレスの兄上に彼女を宰相家へ戻すようにという無言の圧力ですよ。従わなければ次はセレスの実家が破滅する…というね」
ルートヴィヒの話に聞き耳を立てていた周囲の者たちが眉を顰めて興味深そうにひそひそと囁き合う。
いかにも宰相のやりそうなことだと。
「彼が取引を持ちかけられた首飾りはとても偽物とは思えない見事な逸品だったらしいのです。まるでどこかの国の王女のために作られたかのように豪華で、とても一介の詐欺師などが用意できるような代物ではなかったとか」
趣味は悪かったシャルバンであるが、目利きに関してはやはり一流であった。
そんな彼が偽物ではないと判断したのならば間違いなく本物だったのだろう。
だがそれ自体持ち逃げされているのでは確かめようもない。
「更に不自然なことはもう一つ。詐欺にあったという情報が翌日には融資先の耳に入っており通常ではありえないスピードで返済を迫られたと聞きました。そして融資先はシャルバンの商会や屋敷などから回収できる財産をすぐさま根こそぎ持って行ってしまったとか。噂が広まり長年の取引先からも嫌厭され軒並み付き合いを打ち切られ最早商会は破産寸前。しかし一連の出来事はあまりにも流れが早すぎる。まるで誰かがそれを指示しているかのようだ」
「不幸…実に不幸な話だ。だが商人が詐欺師に騙されたとなればその手腕も疑われて然るべき。共倒れなどしたい者がどこにおろうか」
肩を竦め小馬鹿にしたように鼻を鳴らす宰相。
そんな彼の不遜な態度を真っ直ぐ睨みつけるルートヴィヒ。
「その詐欺師とシャルバンが知り合った場所をご存じですか?」
「さぁ? 知らぬな」
「偽りの身分では到底出入り出来ない格式高い場所――王城のパーティで出会ったのです。だからこそ彼はその詐欺師の身元がしっかりした者だと信じ込んでしまったのです」
周囲のざわめきが一際大きくなる。
その声を打ち消すように宰相が口を開いた。
「なんと!王城に詐欺師が出入りしていたと!? いやはや前代未聞ですな」
宰相が芝居掛かった大袈裟な声で驚く。
「詐欺師を王城に導いた者が存在する。そしてそんな事が出来るのは、この国でもかなりの地位を持った人間と推測するのが妥当だとは思いませんか?」
——パチパチパチパチ
宰相が突然手を鳴らし始めた。
静まり返った会場にその音だけが響き渡る。
「グハハハ! 素晴らしい! 実に素晴らしい!」
冷めた空気の中で宰相は一人何が楽しいのか重低音の笑い声を上げる。
「若者の自由な発想にはいつも驚かされる。老ぼれには良い刺激だ」
ニヤニヤと黒い笑みを浮かべ冗談交じりの軽い口調でルートヴィヒへと語りかける。
「楽しい夢物語を聞かせてくれたこと感謝しよう」
「それは私の話が事実ではないと言いたいのでしょうか?」
「貴殿の話は全て憶測の域を出ていない。言いがかり甚だしいが、あまりに荒唐無稽で逆に面白かったぞ」
そう。このルートヴィヒの主張には全く証拠がないのだ。
状況から見て真っ黒だとしても、核心を突くものがなければ裁く事など不可能だ。
「貴殿はその話を被害者本人から聞いたのだろう?」
「ええ、数日前セレスの兄上を訪ねた時に満身創痍のシャルバンと居合わせましたので同席して彼から直接その哀れな話を聞きました」
宰相がその細い目を更に細めていやらしく笑う。
「そうだそうだ、思い出した。あの男はシャルバンと言ったのだったか。つい昨日、ワシもそのシャルバンとかいう男に偶然出くわしたのだった。このところ忙しかったうえに、何せ老いぼれておるのですっかり忘れておった」
先ほどはシャルバンなど知らないと言い切った舌の根も乾かぬうちに、昨日彼に会ったと唐突にカミングアウトする宰相にルートヴィヒは眉をしかめる。
「改めてもう一度そのシャルバンとかいう者に尋ねるといいぞ。本当にその詐欺にワシが関わっていたのかと。恐らく自分の勘違いだったと謝罪してくれるだろう」
「なっ…シャルバンに何かしたのですか!?」
「人聞きの悪い。何やら必死に縋ってくるのでな。二人でじっくりと話して誤解だと納得してもらっただけだ。シャルバンとやらも分かってくれたぞ…命を取られなかっただけ幸運であったのだとな」
平然とそんなことを言ってのける宰相。
ここまで分かりやすく黒いセリフを吐く者は珍しい。
周りはドン引きである。
「老婆心ながら一言。貴殿も気を付けた方がいい。薄っぺらな正義を振りかざすのならば相手を選ぶべきだ」
これは明らかな警告である。余計な詮索はするなと。
そしてそれはルートヴィヒのみならず他の人間に対しても向けられる。
「まぁ貴殿だけに限った話ではないがな。沈黙は金とはよく言ったもの。くだらぬ憶測で噂を広める者のなんと多いことか。それが取り返しのつかぬことになるやもしれぬのにのぅ」
宰相の蛇のような視線が周囲をグルっと嘗め回すと、先程までひそひそと囁き合っていた者達がサッと顔を青くする。
「勿論今日ここに居られる方々はそのように愚かではないと分かっておりますのでご安心くだされ。がははははは!」
大衆に向かい大袈裟な高笑いを響かせる。
まさに宰相の独壇場。
多くの者が俯き床を見つめる。
それでも聞く人間に不安感を与える地響きのような笑い声からは逃れられず、手で耳を覆いたくて堪らなくなった。
誰もが宰相の支配力に圧倒されて怯える中、セレスティーヌは違う感想を抱いていた。
———素敵…イカすわ
セレスティーヌは性格の悪いオッサンの高笑いに脳を痺れさせていた。
多くの少女は成長の過程で少し悪っぽい歳上の男性に惹かれるものである。
しかし彼女は幼い頃から政略結婚が決まっており、その手の話には一切興味がなかった。
そんな話で盛り上がる友人たちを冷めた目で見てさえいたというのに、今この瞬間初めてセレスティーヌは彼女たちの語る内容の意味を理解した。
何やら嬉々として他人を窮地に陥れ悪びれもせず、脅し文句をのたまい太鼓腹を揺らして笑い飛ばすふてぶてしさ。
これこそが大人の危険な香りというやつなのかと納得した。
かつての友人達が聞けば、激臭過ぎて鼻が曲がるわとツッコミを入れられるだろう。
そんな少女達が悪に惹かれるのは一過性のものであり、いずれは安定した職を持つ誠実な男性に惹かれるのだという。
その点、宰相は悪でありながらも立派な職を持ち、毎日欠かさず逢いに来るという誠実さも兼ねそろえた女の理想が詰め込まれた夢のようなガマガエルなのではないかと思えてきた。