⑥
宰相からドレスが届いた。
最上級の生地に気が遠くなりそうな程繊細かつ精巧なステッチが施されたそれを箱から取り出して思わず息を飲む。
今まで袖を通した物の中で一番といっても過言ではない程素晴らしい匠の逸品であった。
クリームにより完全に潤いを取り戻した肌とエステによりピカピカに磨き上げられた身体。
それにセレスティーヌの為だけに作り上げられた最高級のドレスを身に纏えば、この世のどんな女性も凌駕してしまう絶世の美女の出来上がりだ。
宰相はこの姿を見てなんというだろうか。
オッサンの反応などどうでもいいはずなのに、考えれば考えるほど気になってくる。
このドレスは宰相が用意したはずなのだから、もし褒めなければ文句の一つでも言ってやろうと心に決める。
約束の時間までまだ少しあるが開け放たれた玄関扉の外をチラチラ覗きながらエントランスホールを落ち着きなくうろついてしまう。
しばらくそうしていると、セレスティーヌの前に人影が現れた。
「あなたは…」
「セレスティーヌ様っ! おお良かったセレスティーヌ様!」
セレスティーヌに駆け寄ってきたのは一人の男だった。
「シャルバン?」
それはセレスティーヌの実家が贔屓にしている商人のシャルバンだった。
「あなた…どうしたのその恰好?」
普段ならばバランスも何も考えなしでただひたすら高価な物を身に着けましたとばかりに宝飾品でギラギラ武装していたのに今日はそれが一つも見当たらない。
そればかりか服すらもどこかよれて薄汚れており、髪も乱れ、特徴的なギョロ目は充血し、その下には真っ黒な隈が浮かんでいる。
いつもの身なりの良さからは考えられないみすぼらしさに目を見張る。
「おお、セレスティーヌ様。お会いしたかったです。どうか、どうかお話を聞いて下さい。もう貴女様しか居ないのです」
商人が涙を浮かべながら身を投げ出す勢いで足元に縋り付いてきた。
突然知り合いのオッサンからそんなことをされたセレスティーヌはドン引きである。
だが彼の身に何かあったことは明白で無下にも出来そうにない雰囲気だ。
「ごめんなさいシャルバン。私これから出かけなくてはいけないの。お兄様も生憎外出中で…」
遠回しに帰ってくれと伝えてみるが、セレスティーヌの足元から動こうとしない商人。
よく屋敷を訪れていた常連である彼を止めて良いのか戸惑っていた護衛達もさすがに両脇を抱え二人がかりで立ちあがらせる。
「恐らくもうしばらくすればお兄様もお戻りになると思うから。少し待っていてくれないかしら」
「いいえ! セレスティーヌ様でないと駄目なのです! もう貴女様しかっ」
護衛二人に抱えられて駄々をこねるオッサンにほとほと困るセレスティーヌ。
「セレスティーヌ様、宰相様がお見えです」
使用人に声を掛けられたセレスティーヌは天の助けとばかりに玄関扉に足を向ける。
「私も夜更け前には戻ると思うから。それまで屋敷で寛いでいらして」
「さ、さいしょ…ひぃぃ」
商人は何かにひどく怯えている様子だったが、慌てていたセレスティーヌはそれに気づくことなく玄関から飛び出す。
そこにはいつもよりめかし込んだ宰相がにこやかにセレスティーヌを待ち構えていた。
「こんばんはセレスティーヌ」
「……」
こうして対面するのは久々で思わず緊張で声が詰まる。
「贈ったドレスを着てくれたのだな。やはり良く似合っている。セレスティーヌはいつだって美しいが、今宵の君は格別だ。ワシの夜の女神。どうか君をエスコートする栄誉を与えてはくれないだろうか」
美男子しか許されないようなキザなセリフを恥ずかしげもなく言ってのける宰相。
そればかりか優美な騎士のごとく腰を折り、手を差し出してきた。
普通ならば鳥肌が立つか鼻で笑ってしまいそうなものなのに、なぜかセレスティーヌの気分は急上昇する。
しかしそれはあってはならない異常な反応である。
セレスティーヌはそんな自分を悟られまいとぷいと顔を反らす。
「あ、あなたの息子のマルク様がどうしてもと言うから仕方なく同伴するだけですから。勘違いしないでくださいね」
冷たい言葉を返しながらも巨大なコッペパンのような手に白魚のような美しい手を乗せる。
「分かっているよセレス。勘違いなどしないさ」
悲しげに微笑む宰相に胸がずきりと痛むが、今の彼女にはどうすることも出来そうにない。
ガラス細工のような繊細さで馬車までエスコートされる。
向かい合う形で乗り込んだセレスティーヌは、二人きりの空間に緊張していた。
何か話題をと思うと、一番に頭に浮かんでくるのはあの赤子のことであった。
最後に目をした赤子は酷く泣いていた。
だがどうしても我が子であるなど認めることが出来ず逃げ出してしまった。
今更自分に赤子を心配する権利などないのかもしれない。
何度も口を開きかけては宰相と目が合うと口を閉じる―を繰り返しもたついている間に会場まで到着してしまった。
馬車から降りると会場中の視線が一斉に集まる。
どうやら宰相夫妻の不仲説はかなり広まっているようで、二人揃って登場したことにより多くの人間が驚きを隠せない様子だ。
そんな周囲の様子を感じ取ったセレスティーヌは、仕方なく、本当に仕方なく、本当の本当に仕方なく宰相の太い腕に手を絡め主催者への挨拶を済ませる。
二人の仲を見せつける為には仕方のないことだと己を納得させちらりと宰相を見やると、彼は触れ合った腕を嬉しげに眼を細めて見つめていた。
ガマガエルが日向ぼっこをしているような表情だという感想と共に、胸にむず痒い何か熱いものがこみ上げる。
頭も茹ったように熱く思わずギュッと目を閉じた。
―――なんでちょっと可愛いとか思っているのよ私!
カエルは苦手なはずなのに。
不可解な感想を持った自分の胸のうちに問いかけてみても当然回答は返ってこない。
セレスティーヌの今回の装いはいつにも増して気合が入っており、その輝くような美貌に余計に注目が集まる。
何やら赤面しているセレスティーヌとそれを微笑ましく見守る宰相に会場のほとんどの人間は夫婦の不仲がガセであったことを確信する。
中にはそれぞれの思いから悔しげにしている連中もいるが、二人の仲を疑う者もおらずましてや割って入ろうとする者など居るわけがない…はずであった。
「こんばんはセレス。良い夜だな」
名前を呼ばれた振り向くと、そこには先日再会したばかりの昔馴染みの青年ルートヴィヒがいた。
サラサラフサフサの金髪に美しいスカイブルーの瞳。
めかし込んだ姿はやはり女性の求める王子様の理想像そのものである。
「あら、こんばんはルゥ。貴方も来ていたのね」
突然声を掛けられ驚きながらも挨拶を返す。
その横で、セレスティーヌの愛らしい唇から男性の愛称が飛び出すと少し肩が揺れる宰相。
ルートヴィヒはそんな宰相には一瞥もくれず、今の演奏が終わりそうなタイミングでセレスティーヌに手を差し出した。
「一曲いかがですか美しいレディ」
「ごめんなさい。まだ到着したばかりだから」
通常、一曲目のダンスはパートナーと踊るのが一般的であるが外国出身であるルートヴィヒは知らないらしい。
やんわり断るとルートヴィヒの凛々しい眉が悲しげにへにょりと下がる。
捨てられた子犬のような表情は会場中の女性陣の母性本能を刺激する。
セレスティーヌも罪悪感が沸き起こった。
「あのねルゥ、この国では…」
「セレスや。友人かね」
セレスティーヌがルートヴィヒに説明しようとするが宰相が会話に割って入った。
「あ、はい。幼い頃に仲の良かった幼馴染です。他国の方ですがこの国で仕事をしているようでこの頃再会しました」
「そうか。ならば若者同士積もる話もあるだろう。ワシに構わず行っておいで」
思いもよらぬ言葉にハッと宰相の方を見るが、にこやかな微笑みを浮かべた彼の心の機微は読み取れない。
セレスティーヌは一瞬途方に暮れる。
優しげな笑顔がセレスティーヌを拒絶している壁のように思えた。
「…分かりました。少しだけ行ってまいります」
今まで散々拒絶していたのはセレスティーヌの方であった。
迷子の子供のような心細さを感じるのはおこがましいのだろう。
「さぁおいで、セレス」
力なく宰相の腕を離すと満足そうに微笑むルートヴィヒの手を取った。
ルートヴィヒに中央までエスコートされながら宰相を目で追うが彼と視線が合うことはなかった。
新たな曲が始まり若い二人のダンスが始まると周囲から感嘆のため息が漏れる。
美男美女の文句のつけようのない絵になる二人の美貌に人々は目を奪われる。
「素敵なお二人ねぇ…セレスティーヌ様のお相手の男性はどなたかしら」
「最近外交官として友好国より赴任された方ですわ」
「まぁ外国の方…お美しいセレスティーヌ様とお似合いねぇ」
最初からそうあるべきであったかのような対に見える美しい二人の話題があちこちから囁かれる。
「しかし到着されてすぐに宰相様から離れてあの男と踊り始めたぞ」
「やはり離縁間近という噂は事実だったということか」
「連れだって来られた時はご夫婦二人良い雰囲気に思えたのだがなぁ。あの美しいお二人を目にしてしまうと、どうしてもご夫婦のバランスの悪さが際立つな」
思わぬ泥沼スキャンダルに大いに盛り上がる。
そんな周りを気にする余裕もなくセレスティーヌは宰相の先ほどの言葉を頭の中で反芻させながらぼんやりと踊り続ける。
「セレス…俺が宰相から君を守ってみせるから。そんなに不安そうな顔をするなよ」
「え…」
目の前のダンスの相手であるルートヴィヒを見上げると、少し困ったように微笑んでいる。
「君の兄上にも頼まれているんだ。無理やり中年男に嫁がされたセレスを助けてやって欲しいと」
「お兄様ったらそんなことをルゥに…」
「俺自身も君をあの悪魔から救うためならなんだってしようと思っている。卑怯な方法でセレスを手に入れて今もこうして君を苦しめている。到底許されることではない」
兄の影響だろう。宰相への敵対心をメラメラと燃やしているルートヴィヒに戸惑う。
「彼、そこまで悪い人ではないと思うの」
思わず宰相を庇うセリフが飛び出した。
セレスティーヌの言葉に虚を突かれたように目を丸くするルートヴィヒ。
だがその目はすぐに憐れむかのように細められた。
「可哀想に…まだ洗脳が解けていないようだ。誰の助けもなく辛い日々の中、そう思い込まなくては君の心は壊れてしまうんだな」
「それはっ…」
すぐに否定が頭に浮かぶ。
それを言葉にすべく口を開いたが、途中から声が止まってしまう。
セレスティーヌは宰相との結婚生活を何も覚えていないのだから。
否定も肯定も出来ようはずがない。
だというのに心は叫ぶ。それは違うと。
曲が終わりに近づくにつれ、普段はピンと張ったセレスティーヌの背筋が丸まる。
「ちょ、ルゥ!? 何!?」
そんな彼女をルートヴィヒが抱きしめる。
脈絡のない突然の行動に茫然とするセレスティーヌ。
女性の興奮した黄色い悲鳴があちこちからあがる。
夫婦の不仲の噂を払拭しようとパーティに参加したのに、これではむしろその噂を助長してしまう。
離れようともがくが囲う腕の力は余計に強くなる。
「セレス…大丈夫、大丈夫だから。俺が助けるから…」
耳元で囁かれる内容に嫌な予感が沸き起こる。
「妻が驚いております。離していただけますかな」
気づくと完全に曲は終っていた。一旦楽団の演奏自体が止み辺りが静まり返る中宰相の野太い声が響き渡る。