③
納得したセレスティーヌは手紙を書き始める。
宛先は宰相の息子だ。
聞きたいことがあるとだけ記した手紙を使用人に託すと、翌日には宰相の息子が飛んできた。
本に書いてあった通りハゲデブ中年の宰相とは似ても似つかない美青年である。
これならば美しいセレスティーヌの相手としても不足ない。
慌てた様子の宰相の息子を客室に招き入れてお茶を勧める。
「セレスティーヌ、体調はどうなのだ?」
「ええ悪くはありません」
「そうか良かった…」
心底安堵した様子にやはり自分たちは恋仲であったのだと確信する。
「父上の落ち込みようが凄まじ…いや、それはどうでもいいのだが、リュカがセレスティーヌを求めて泣き止まないのだ。調子が良いようならどうか一度戻ってリュカに会ってくれないか」
告げられた内容に戸惑いを見せるセレスティーヌ。
それを見た宰相の息子ことマルクは彼女に詰め寄る。
「記憶のことは聞いている。君が戸惑うのも仕方ない。突然自分の子供だと言われて驚いただろう。だがリュカは正真正銘君の子供なんだ。母を求めて泣くあの子を見ていられない。重症な君に無理を言って本当に悪いとは思っているが、少しでいいのだ。戻ってきてあの子を抱きしめて欲しい」
真剣な目で訴えるマルクにセレスティーヌは首を傾げる。
「なぜ?」
「え?」
「なぜ私が無理に赤ん坊を抱きしめなくてはならないの? それは乳母の仕事でしょう?」
悪感情など微塵もない純粋な目で尋ねられマルクは絶句する。
前世の記憶があるセレスティーヌは絶対に言わない台詞である。
「貴族の母親は普通、赤ん坊を抱かないものよ。あのようにふにゃふにゃで弱弱しい生き物、素人が触れて何か事故に繋がっては大事じゃない。宰相家の大切な次男なのでしょう。余計にプロに任せるべきよ。私だってそうやって怪我のないよう厳重に育てられたわ。それが常識ではなくて?」
セレスティーヌに疑問を投げかけられ言い返す言葉が見つからないマルク。
彼女の言うとおり貴族の母親が大切に保護されている我が子とわざわざ面会し抱きしめる必要性は普通ならばないのだ。
思えば記憶を失う前の彼女は貴族には非常に珍しかった。
子育てをなるべく自ら行っていたのだから。
生まれたばかりの我が子をあやし、おしめを替え、母乳を与えるということを彼女があまりに自然にやってのけるものだから、それが当たり前のように思っていた。
だが指摘されて初めてそのようなことをする貴族夫人が稀有であることに気づく。
そして今ここに居るのはマルクの知るセレスティーヌではないことを改めて実感した。
「それに、あの子が怖いの…私にとってあの子は未知そのものだから…」
苦しげに俯いてしまったセレスティーヌにマルクは早急すぎた己を反省する。
彼女はまだこの状況を呑み込めずに苦しんでいる。
セレスティーヌにとって赤ん坊のリュカという存在は失った記憶の象徴であり、心はまだそれを受け入れる準備が出来ていないようだ。
「無理を言ってすまなかった」
「いいえ…」
セレスティーヌは苦しげだった表情を無理に笑顔に戻す。
「それで、実は本日貴方様をお呼び立てしたのはこれのことなのですが」
話題を切り替えるように無理に声のトーンを明るくさせるセレスティーヌ。
取り出してマルクに見せつけたのはシャルバンから取り寄せた例の本だ。
「それは…」
口ごもるマルクに向かいセレスティーヌは笑みを強める。
「マルク様と仰いましたよね…貴方様もお読みになりましたでしょか。この本ロマンチックでとても素敵なお話しでしたわ。このお話のどこまでが真実なのか知りたいのです」
「い、いや、あれはあくまで…」
焦ったように弁明しようとするマルクの言葉に被せるように続けるセレスティーヌ。
「もしかしてあの赤ん坊は私達の子では…」
「っ……」
セレスティーヌの瞳には恋慕というよりもそうあって欲しいという必死さが浮かんでいる。
その姿に思わずマルクの思考が停止する。
セレスティーヌの質問はあまりにマルクにとって都合の良い物であったからだ。
もし本当にリュカがセレスティーヌとマルクの子供だったのなら…。
そんな願望がマルクの心の隙間に悪魔のように入り込む。
「セレスティーヌ…」
本の上に置かれたセレスティーヌの白い手の上にマルクの大きな手が重なる。
彼女の質問に頷いてしまえばなんだか真実になるような気がする。
セレスティーヌがマルクを満面の笑みで旦那様と呼び、リュカが可愛らしく自分に抱っこをせがむ。
そんな妄想に捕らわれたマルクの脳内。
熱に浮かされたように頭がぼんやりしたまま、重ねた手をそのまま強く握りしめた。
「マルク様…?」
突然手を握るマルクに驚き動揺するセレスティーヌ。
それは思わぬマルクの積極的な行動にときめいたからではない。
むしろその逆ともいえる。
遊び慣れたように見える妖艶な美女であるセレスティーヌだが、自他ともに認める箱入り令嬢であった彼女は元婚約者と身内以外の異性と手すら繋いだ経験がない。
容姿が良くとも頭と度量が足りない元婚約者と手など繋いだところで何とも思わないどころか少しの嫌悪さえあった。
だがこの本のような激しい恋に落ちた相手ならばきっと何か違うはずだと思っていた。
本のストーリーには純粋に乙女心を擽られもしたし、目の前のマルクはまるで本から飛び出したような再現度の高い美丈夫である。
ここまで揃っていて胸がときめかない筈がないのだが、何故か心はピクリとも反応しない。
それは兄と手を繋いでいるのとまるで同じ感覚であった。
何故…と自身に問いかけてみても答えは出ない。
一方、セレスティーヌが何かを葛藤している苦しげな表情を見たマルクはハッとした。
繋がっていた手を更に強く握り締め、真剣な目を向ける。
「セレスティーヌ、君が嫁いできてから私たちの関係は良好だった。だがそれはあくまで義理の親子としてだ。いや、友人のような関係だったかもしれない。どちらにしろ、あの本のような関係ではなかった」
きっぱりと言い放つと繋いでいた手をゆっくりと放した。
記憶を失って苦しんでいるセレスティーヌにこれ以上の混乱を与えるべきではない。
それにここで真実を話さなければ、記憶を失う前の生き生きとした彼女を消し去ることになってしまったかもしれない。
一瞬でも自分のエゴを通そうとしてしまった己の弱い心を恥じるマルク。
「そうなのね…」
そんな彼の言葉を聞いたセレスティーヌは本を読んだ時より更に納得した。
自分たちが恋仲でなかったのは確かなようで、状況的には良くない筈だが何故だかホッとした。
「セレスティーヌは父上のことを真実愛していた。少なくとも俺の目にはそう映っていた。あんなに仲のいい夫婦は見たことがない」
「え…」
帰り際、マルクはそんな台詞を残していった。
落ち込みすぎて地面にめり込みそうな父親を詫びのつもりでサポートしようと伝えたマルクのその言葉に、セレスティーヌの混乱は更に激しくなった。
「はぁ…」
マルクを呼び出してから数日、セレスティーヌはずっと悩んでいた。
マルクの最後の言葉は到底今の彼女には受け入れられるものではない。
あんなガマガエルのオッサンと結婚をしただけでなく、それを愛していたなどと言われても納得など出来るはずがない。
だが最近やたら思い出すのはあの日の傷ついた宰相の顔だった。
何故か思い出すと胸が痛むのだ。
今日も宰相が手配した医者に診察をされたが首を傾げるばかりで大した成果はなさそうである。
その医者も他国の王室から引き抜いてきた名医らしいのだが、この診察のために一体いくら使ったのか想像もつかない。
窓から下をこっそり覗けば兄に追い返されすごすごと引き返す宰相の大きな背中があった。
宰相職が多忙でないわけがないのに、最早日課になりつつある光景だ。
その丸みのあるフォルムをじっと見つめていると何故かそわそわする。
この不思議な現象が嫌でないことに驚き、もう自分で自分の事がわからず混乱するばかりである。
一方、上から愛しのセレスティーヌが見つめていることに気づいていない宰相。
冷たく追い返され去り行く中でふと足を止めて振り返る。
セレスティーヌにはいつも温和な宰相であるが、本来の彼は残虐非道、残酷無慈悲な男である。
彼の思う通りにならない者は皆排除される運命にある。
蛇のようにねっとりとしていると悪評のあるその視線の先にあるのは、セレスティーヌの兄とギョロ目の商人シャルバンが楽しげに談笑している。
宰相はその様子を黙って見つめていた。