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「それでは次は私でよろしいかな」
「見たところ手ぶらのように見えますが…これから誰かが持ってくるのですか?」
兄が宰相の後ろを覗き込むようにして尋ねるがそれらしい者は見当たらない。
「いいえ、贈り物はすでにここにあります…セレスティーヌ」
「はい」
宰相はセレスティーヌ手を取り真剣な瞳で見つめる。
そんな宰相にドギマギしつつも真面目な雰囲気に押されて返事をするセレスティーヌ。
「ワシがセレスティーヌに渡すことが出来る最高の物を贈ろうと思う。どうか受け取って欲しい」
「だからそれはどこにあるのです」
贈ると言いつつも一向に贈り物を取り出さない宰相に兄が苛立った声で尋ねる。
宰相はセレスティーヌから手を離すと、両腕を軽く広げてにこりと笑った。。
「贈り物はワシ自身。愛する我が妻にワシの全てを捧げよう」
「え…?」
戸惑い困惑するセレスティーヌに更に微笑みかける宰相。
「セレスティーヌに国一番の財と権力を。このハゲを、弛んだ肉を、目尻の皺を、加齢臭…全てそなたのモノだ。好きにすると良い」
「ふはは、前半はまだしも後半は貰っても困りますよ。世間一般ではそれを迷惑というのです。何を考えているのやら」
兄の馬鹿にしきった嘲りは宰相の耳には全く入っていないようで、セレスティーヌにのみ優しげな視線が注がれる。
それに対してセレスティーヌは激しい動揺を見せ、首を横に振り宰相から後退る。
「そ、そうです。こんなオッサンなんて…そんな禿げ頭…そんな弛んだお腹…捧げられたって全然嬉しくなんか…」
そう言いつつも目線は宰相の頭に、腹に、顔にと視線を逸らせない。
「セレスの欲しいものは以前も今も、このオッサンであろう?」
「私は…私は…私の欲しいものは…」
跳ねる心臓を押えふらりとよろめき倒れそうになると、すかさずそれを支えるように宰相が腰に手を回してきた。
一気に縮まった距離にいよいよ鼓動の音がうるさい。
「そう怯えてくれるな。愛い娘だ」
切なげな声でそんなことを呟く宰相。
どこかで聞いた言葉だと思ったその瞬間、セレスティーヌの記憶の枷が外れた。
そう、あれは王太子の策略にはまり敗北者と成り下がり、処刑場に向かう囚人のような面持ちで挑んだ結婚式だった。
傲慢で高飛車だった心はボロボロで、少し触れただけで砂のように崩れてしまいそうだった。
何故自分がいやらしい狒々爺などと結婚などしなくてはならないのかと心底悔しくてたまらなかった。
しかしベールが上がった瞬間、走馬灯のように前世の記憶が浮かんだ。
部屋一面に貼られたオジサマキャラのポスター、オタクとして推していたのはモブのしかも年配男性ばかり。
一見馬鹿ばかしい記憶のように思えるが、どれもこれもセレスティーヌを形成するうえで重要なものだ。
だからこそ、ベールが上がった瞬間、嫌でいやで堪らなかった宰相を目にして「悪くない」と思えたのだ。
印象にあった彼とは別人のように輝いていた。
今思えば結婚式のタイミングで前世を思い出したのは一種の防衛本能の現れだったのかもしれない。本質はそのままに価値観が逆転。
前世であれほど憧れた理想の男性が目の前にいる事実に世界はひっくり返された。
仕方がないので、病める時も健やか成る時も、このデブでハゲのオッサンを愛そうと誓ったのだった。
色々と黒く濁り壊死寸前だったセレスティーヌの心はあの時生まれ変わった。
そして今、その価値観は完全に取り戻された。
「私の最も欲しいものは…旦那様です。セレスティーヌは貴方様の禿頭を何より愛し、この弛んだ肉を何より好み、この目尻の皺を誰より愛で、この加齢臭にメロメロですわ」
驚きに硬直する宰相の腕の中で、彼を真っ直ぐ見つめて美しく微笑む。
「セレス…も、もしや」
「ご心配おかけしました旦那様。セレスは全て思い出しました。貴方様との大切な日々を」
「おお…おお、セレス。良かった…良かったのぅ」
喜びに浸り涙ぐむ宰相。
そんな彼の腕の中からセレスティーヌは顔を寄せる。
そのまま自然と口づけをする。
記憶を失って以来極力セレスティーヌに触れないようにしていた宰相も久々のそれに応える。
失っていた愛を確かめるような熱い口づけと抱擁。
記憶を失くしていた時に悩んでいた嫉妬は本当に不必要で馬鹿ばかしいものであったと、宰相との愛を確かめながら心の中で小さく笑った。
一方、完全に二人だけの世界に入ってしまった夫婦を前に兄は絶望していた。
「そんな…セレスティーヌ…」
長いながい口づけが終わっても未だ互いに手を取り合いうっとりと見つめていた夫婦であったが、兄の悲壮感のある呟きが耳に届きようやく彼に目を向ける。
兄は地面に膝をつき打ちひしがれていた。
「お兄様にもご心配をおかけしたようですね。でももう大丈夫です」
「大丈夫なものか。せっかく軌道を修正して完璧な幸せを手に入れられるチャンスだったというのに…」
「…お兄様」
「嘘だと言ってくれ。君は結婚してからどうかしている…目を覚ましてくれ」
懇願するように言い縋る兄にセレスティーヌは目を細める。
「確かにお兄様のおっしゃる通り私は寝ぼけていたようです」
セレスティーヌの言葉に希望を見たのか兄の目が輝く。
未だ地面に膝をついたままの彼に近づき目線を合わせるようにしゃがみ込むセレスティーヌ。
「お兄様の苦しみに気付きながら放置していた私の失態です。私は妹失格です」
「妹失格なんてそんな大袈裟な…」
「今まで沢山愛してくれてありがとうございました。今日からセレスティーヌはお兄様に守られる甘やかされるだけの妹を卒業します」
「え…」
兄の顔が強張る。
まるで決別の挨拶のようである。
兄は途端に青ざめるが、そんな様子をよそにセレスティーヌは彼の頭に手を伸ばした。
そしてそのまま兄の頭をそっと撫でる。
妹の突拍子もない行動に目を白黒させる。
「これからは私の方がお兄様を甘やかすので覚悟してください」
「セレスティーヌ、何を言っているんだ?」
「手始めにこれをお贈りします」
渡されたのは先程兄が贈った筈のテディベアだ。
「…もう昔の思い出など要らないということか?」
絶望した瞳で可愛らしいテディベアを見つめる兄に小さく笑うセレスティーヌ。
「いいえ。これは今でも私の大切な物で変わりありません。でも今これが必要なのはお兄様の方だから」
「どういう意味だ?」
「ごめんなさいお兄様。私本当は知っていたの。それなのに知らないふりをしていた。お兄様が綺麗で可愛らしい物が大好きだってこと。そして本当は誰よりも甘えたがりだってこと」
「な…いきなり何を言っているんだ。そんなわけないだろう」
セレスティーヌの予想もしていない言葉に激しく狼狽える兄。
「実はお兄様が私のアクセサリーやドレス、小物に興味を持っていたのは気づいておりました。私への贈り物を選んでいる時のお兄様とても楽しそうでしたもの。でも大好きでカッコいい自慢のお兄様にはいつでも雄々しくあって欲しいと勝手な理想を押し付けて気づかないふりをしていたの」
「女性のようになりたいという願望は誓ってないぞ!」
「ええ。お兄様がお姉様に変化なさっても私は歓迎しますが、そうでないことも知っています。ただ単純に可愛い物・綺麗な物を愛でたいだけなのですよね?」
可愛い物を愛でるのは女性と子供のみであるという認識がこの世界には蔓延っている。
男性がそれらを好むなどという事は発想自体が存在しない。
しかしセレスティーヌの中で前世の常識が復活した今、兄の嗜好を受け入れるのは容易であった。
うっすらと察しながらも兄の着せ替え人形を甘んじて受け入れ見て見ぬ振りをしていた以前のセレスティーヌとは違う。
「ぼ、僕はそんな変態じみた人間では…」
「変態なものですか。好む物は人それぞれです。食べ物の好みだってそうでしょう?」
何でもない事のように言ってのけるセレスティーヌを見て瞳を揺らす兄。
視線を手の中のテディベアに移すと苦しそうに目を瞑った。
「…本当はこのテディベアは両親が処分させようとしたのではない。僕が、セレスティーヌから奪う為に嘘を吐いたんだ」
「ええ。知っていました。嘘を吐くお兄様ってとても分かりやすいもの」
何事もないかのように平然として言ってのけるセレスティーヌに愕然とする兄。
しかししばらくすると全てを諦めたように溜息を吐いた。
「すまないセレスティーヌ。幼い君がこの子を嬉しそうに持ち歩いているのを見る度に羨ましくて苦しかった。嫉妬でおかしくなりそうだった。そして今も盗んだこの子を盗まれた張本人に渡すとは厚かましいなんてものではないな。僕の方こそ兄失格だ」
両親がテディベアをセレスティーヌに贈ったのは完全に気まぐれであった筈だ。
だが妹にのみ可愛らしいそれが与えられたことに当時のまだ幼かった兄は羨ましい以上に、とても傷ついただろうと思えばセレスティーヌの胸も痛む。
「私にはお兄様がいたけれど、お兄様には支えなどなかったのですもの。私の方こそお兄様の気持ちを考えもしなかった。お互い様よ」
兄の妹に対する異常なまでの愛情は、彼の心の寂しさの表れであるのだと思い至ったセレスティーヌ。
両親に愛されることがなかった兄妹だが、セレスティーヌは目一杯兄に愛されのびのびと我儘に育った。
だが兄は跡取りとして厳しくされるばかりで誰からも甘やかされることはなかった。
可愛い物が好きなどと口に出来るはずもない。
そんな兄がセレスティーヌを甘やかし、可愛くて綺麗な物を買い与えるのは自身がそうされたいという無意識の願望。
そんな兄の心の奥底の柔らかな部分に気づけたのは前世の記憶を取り戻したからだ。
「これから覚悟してくださいね。お兄様のことうんと甘やかすんだから。溜まっているヘソクリからもういらないという程可愛くて綺麗な贈り物を届けますね。あと、お付き合いする女性が現れた時は大切なお兄様を幸せに出来るヒトか吟味させて頂きますからね」
「セレスティーヌ…」
兄の頭をもう一度優しくなでる。
子供を慈しむ聖母のような優しいその表情に、セレスティーヌはもう甘やかすべき妹ではなく、誰かを守る母であり誰かの隣で人生を歩む妻となった事を悟った兄。
一抹の寂しさと共に純粋に妹の成長を喜ぶ感情が浮かぶ。
「そして今度私の新たな家族達を改めて紹介させてくださいね。リュカは“可愛い”の一等賞ですし、マルクはとても頼りになるのですよ。そして旦那様は世界一の夫なんです。ね、旦那様?」
「うむ、ワシはセレスだけの世界一の夫だ」
今迄黙って兄妹のやり取りを見守っていた宰相がセレスティーヌの横に寄り添う。
セレスティーヌはクリームパンのような腕を取り晴れやかに微笑んだ。
早くリュカを抱きしめ、マルクにも礼を言いたい。
心配かけたことを謝り、喜びを分かち合おう。
そして兄の好物を用意し、宰相とマルクとリュカの4人がかりでおもてなしをしよう。
楽しい計画に心躍る。
「あとね、可愛い物好きのお兄様だけに教えてあげるのですが私の旦那様はとってもキュートですのよ」
声を潜めてそんなことを言うセレスティーヌに兄はきょとんと面食らう。
「つるんとした頭は手触り最高だしムチムチボディは抱き心地抜群。特大のイビキはドラゴンの産声のようなの。ね?可愛いでしょう? お兄様になら今度少し触らせてあげても良くてよ」
「いや、それは遠慮しておこう。僕にはこの子がいるからな」
妹の申し出に慌てて首を横に振りテディベアを見せる兄。
とても自慢げな笑顔にやはり妹はどこか可笑しいことを再確認する。
多分どこかで頭でも打ったのだろうがセレスティーヌが幸せならばそれで良いのだ。
固定概念に捉われ必死に可愛い物好きを隠していた兄であったが、一度認めてしまえば少し変わったセレスティーヌの価値観も受け入れられた。
セレスティーヌは人形のように愛らしく美しいが、彼女は人間であり一人の自立した女性なのだ。
「とっても可愛いのに。この愛らしさが分からないなんてお兄様もまだまだですわ」
「セレスや。ワシのプリチーさはセレス一人で堪能してくれ」
「そうですわね。やっぱり誰にも分けてあげないことにします」
ポフッと宰相のムチムチボディに突撃するセレスティーヌ。
それをよろけることなく受け止める宰相。
幸せそうな二人に、兄は初めてお似合いの夫婦だと思った。