⑭
セレスティーヌの記憶は相変わらず戻らない。
王子に婚約破棄をされたことなど、断片的には思い出しつつあるのだが今一つ自分の記憶という実感がわかない。
まるで他人に起こった出来事を覗き見たような感覚だ。
思うように記憶を自分のモノとして受け入れられないことに苛立ちを覚える。
宰相に真摯に愛を乞われる記憶も気に食わない。
まぎれもなく相手は自分であるというのに、宰相がどこぞの女に愛を囁いたように感じて非常に不快だ。
王子に裏切られた記憶では一切感じない嫉妬心に苛まれ、不毛な感情だと分かっていながらも振り回されている。
「セレスや、支度は出来たかな。ああ、今日も美しいな」
自分をうっとりと見つめるオッサンに顔を反らす。
「随分お待たせしたようで申し訳ございません。先に行ってくださってもよろしかったのに」
宰相の顔を見ることなく冷めた声色でそんな言葉をついつい吐き捨ててしまう。
彼には沢山の心配と迷惑をかけてしまっていることはわかっている。
彼に惹かれている事実も受け入れたセレスティーヌだが、どうしても記憶を失う前の己に嫉妬してしまい素っ気ない態度になってしまう。
そしてそれに対して自己嫌悪に陥ってしまうという負のスパイラルを体感中である。
今まで我が道を突き進み嫌いなものは嫌い好きなものは好きと白黒はっきりとした性格だっただけに、感情と言動が伴わない今の自分に対して焦りと苛立ちを感じる今日この頃。
「おしゃれを楽しむセレスを待つ時間はワシの至福の時なのだよ。どんなドレスだろうか、先日贈ったイヤリングを選んでくれるだろうか、それともあのブローチだろうかと想像するだけで時間などすぐに経ってしまうからな」
妻の素っ気ない態度を気にすることなくのほほんとした笑顔を浮かべる宰相。
無限なのではないかと思われる程大きい彼の包容力にセレスティーヌの鼓動は跳ね上がる。
「うむ、昨日贈った髪飾りを早速着けてくれたのだな。見立て通り美しいセレスのシルバーブロンドに良く映えておる。それに合わせたのかな、ドレスと靴の意匠のバランスも実に見事だ。主役の髪飾りが引き立っている」
女性の衣装になどオッサンは興味がないだろうに、真っ先に髪飾りに気づき詳細な感想をくれる。
嬉しさに思わずにやけてしまいそうになる顔を隠すために下を向く。
昨日髪飾りを贈られた時からどんなコーディネートにしようか密かに張り切っていたセレスティーヌ。
宰相家にある服や宝飾品はどれも最高級であるがどうにも自分の物だという意識は薄い。
だから記憶を失って以降の宰相からの贈り物は飛び上がるほど嬉しいのだが、例に漏れず受取るときにはあっさりとした反応しか返せていない。
せめて一番美しく見えるように身に着けようと思っていただけにこの感想は本当に嬉しい。
だがその表情は眉間に皺を寄せて如何にも不機嫌ですといった感情とは真逆のものを作ってしまっていた。
「髪飾りは気に入りましたから。どなたからの贈り物でも物に罪はございませんから身に着けたまでですわ。さ、さぁ出発しますよ!」
これ以上何か余計なことを口走る前に宰相を促すセレスティーヌ。
セレスティーヌと宰相、そして赤ん坊のリュカも一緒だ。
「うむ、リュカも一緒にお出かけでしゅよ」
「ぶぅ」
宰相の腕の中で非常に不本意だという険しい表情で返事をするリュカ。
三人揃って向かったのはマルクのいる病院だ。
自宅療養も可能だが無駄に動かすよりも安静にさせておいた方がいいという判断から運び込まれた病院でそのまま入院中である。
「お加減はいかがですかマルク様」
「あぅ」
「来てやったぞ」
病院の特別室。
広く清潔な部屋の中央に置かれた大きなベッドで上半身を起こして読書をしていたマルクが微笑む。
「ああ、おかげさまで痛みもかなり引いてきた。近々退院出来るようだ。リュカも来てくれたのだな」
「それは良かったです。ほらリュカ、お兄様にご挨拶して」
「う」
相変わらずセレスティーヌ以外には塩対応のリュカはマルクをちらりと見て一言適当に声を発したきり、セレスティーヌに抱き着いたまま眠りに体勢を決め込んでしまった。
そんな異母弟のつれない様子を気にすることなくセレスティーヌに喋りかけるマルク。
「あの男の件、大変だったようだな。気に入らない奴だとは思っていたがまさかここまでの狂気を秘めていたとは見抜けなかった」
「ええ、時間的に本人が直接マルク様を襲ったというのは不可能らしく、他人を使ったのは確かなようですが、連行されてから言葉を使えないほど錯乱しているらしくて…共犯者や詳細を聞き出すのはかなり時間を要しそうです」
「そうか。ところで君の記憶の件だが、それもあの男が関わっていたというのは本当か?」
「はい、おそらく…」
外交問題にも発展した今回の事件。
セレスティーヌとマルクの意向を汲んで必要最低限の人間にしか知られることがないよう取り計らわれた。
「私と関りがあるばかりにマルク様がこのようなケガを負ってしまわれて…申し訳ございません…」
頭を下げるセレスティーヌにマルクは慌てる。
「決して君のせいではないから頭を上げてくれ。こちらこそ心配をかけてすまない」
「そうだぞセレス。マルクはこんな事でくたばるようなやわな奴ではない。こいつは強い、父であるワシが保証する」
「父上…」
宰相が長男を認める発言をするのは珍しく思わず目を丸くするマルク。
照れ臭いのか医者に話を聞きに行くと宰相は病室をそそくさと出て行ってしまった。
それを見送ったセレスティーヌはマルクに微笑む。
「あのヒト本当はマルク様のこと凄く心配していたのですよ。命に別状はないと言われているのに腕利きの外科医たちを呼び寄せて医療チームを結成したり、治療費とは別に病院へ巨額の寄付をしたり」
「そうか。父上がそんなことを。どおりで医者の数が多いと思った」
「リュカには過保護だと思っておりましたが、実はマルク様にもこんなに心配性だったなんて知りませんでした」
マルクは恥ずかしいのか眉を顰めて視線を逸らす。
病室を出て行った宰相と同じ全く同じ表情に血の繋がりを感じ、セレスティーヌは口を隠してクスクス笑う。
「こうして傍にいると、彼の素敵なところが次々に見つかるのです」
呟いたセレスティーヌは、何かを決意したような強さを瞳に宿してマルクに向ける。
「マルク様、聞いて頂きたいお話があります」
「ああ」
何やら真剣な様子に心当たりが思い浮かばず内心首を傾げるマルクだがとりあえず頷く。
「実は私…その、宰相様に惹かれているの…」
顔を真っ赤にして告げられた言葉に思わずポカンとする。
恥ずかしがっているセレスティーヌはたまらず眠るリュカに顔を埋めてしまった。
「いや、うん。知っているが」
「ええ!?」
予想外だと驚くセレスティーヌにマルクは何を今更言っているのだと呆れ返る。
「やだ私、そんなに分かりやすかったですか!?」
「まぁな」
まさかこの絶世の美女がハゲデブ中年に恋をしているなど、以前のセレスティーヌを知らぬ人物であれば気づかないだろう。
しかし、かつての夫婦の円満ぶりを知る人間からすれば記憶がなくともいずれまた惹かれ合うのは容易に想像がつく。
それに加えてセレスティーヌの宰相に対する素っ気ない態度は逆に意識していることがバレバレだった。
「結婚しているのだから問題ないだろう」
真っ赤になって焦っているセレスティーヌを見て、なんだかまともに取り合うのもバカバカしく感じたマルクは投げやりに返す。
「不毛だと分かっているのですが、宰相様が私を大切に扱ってくださる度に、喜びと同時に嫉妬してしまうのです。この方の優しさはきっと以前の私に向けているのだと馬鹿みたいな考えがグルグル巡って、ついつい冷たい態度ばかり取ってしまって…」
最近ずっと思い悩んでいたことを吐露する。
セレスティーヌの事情を知る数少ない者で、こうして相談出来るのはマルクだけである。
「以前の私は宰相様をどのように思っていたのでしょうか」
「俺の知る記憶喪失前のセレスティーヌは父上が世界で一番のイケメンだと思い込んで惚れ込んでいる奇特な女性だったな」
「ええええ!? あ、あの方が、イ、イ、イケメン!? ハゲデブ中年なのに!?」
大多数の人間と同じ反応を示したセレスティーヌの驚きぶりに面食らうマルク。
セレスティーヌの前世のことなど何も知らない人間からすれば不思議に思うのも仕方ない。
記憶を失い知らぬ男の妻となったことを悲観したのだと思っていたが、まさか異性の好みまでスタンダードに戻ってしまったなど気づけるはずがない。
「脂ギッシュなのに!? ちょっと臭いのに!? ツルツルなのに!?」
「あ、ああ。それが素敵だとかよく呟いていたぞ」
「なにそれ頭でも打ったの!?」
あたらずと雖も遠からずだ。
混乱しているセレスティーヌがなんだか可愛らしく見え小さな笑いがこみ上げる。
「そうか、今の君には父上は残念な容姿なのだな」
「はい…」
「だったら今の方が凄いじゃないか。あの容姿を気味悪がりながらも惹かれるなんて。今の君も十分奇特な女性だ」
からかうように告げると、セレスティーヌがきょとんとした顔で見つめてくる。
「金と権力を使うことしか知らない不器用な父上の愛に、記憶を失う前の君は言葉を尽くしその愛を丁寧に返していた。以前の君の愛は分かりやすかった。だが今の君だって少し分かりづらいだけで、愛の大きさは負けてはいない。何しろあの容姿を世間一般の感覚で以てして恋に落ちたのだから。君は記憶が有ろうが無かろうが父上と恋に落ちる運命だったのさ」
マルクの励ましの言葉にセレスティーヌは真剣な顔で耳を傾けている。
「セレスティーヌのことしか目に入らない父上のことだ。今の君の愛にもきっと気づいてくれる。少なくとも父上の君への想いが今後増えることはあっても減ることはないと断言出来るぞ。今も昔も関係なく父上は君を愛している。だから君も父上を信じていればいい」
セレスティーヌは表情を崩すことなく、小さくこくりと頷いた。
何か大切な決心をしたようだった。




