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お久しぶりです。
現在発売中のコミカライズ最新第5巻の内容(記憶喪失編)の小説を投稿いたします。
一応書き終わっておりますのでラストまで投稿できると思います。
それは遠い遠い国の、更に秘境の村に伝わる呪術。
不確かで曖昧なその存在を信じる人間は少ない。
村の若い者は呪術を眉唾と捉え馬鹿にし、受け継ぐ者もどんどん数を減らし今やそれを知るのは長老格の極少数の老人のみ。
呪術の行程は複雑難解、運頼りの側面も否めず、方法を知る老人でさえ成功したことは一度もない。
呪術はひっそりと消えて無くなる運命にあった。
ある時、とある一人の旅人が村を訪れた。
旅人は古い文献から呪術の存在を知りこの村に辿り着いたと情熱的に語る。
最早形骸化し疎まれてさえいるそれを覚えたいという旅人。
世の中奇特な人間も居るものだと村の誰もが驚いたが、人当たりの良い旅人はすぐに村人と打ち解ける。
老人たちは数日の話し合いの結果、悠か遠い国からわざわざ旅してきたという余所者に呪術を託すことに決めた。
旅人はそれを大いに喜び呪術の習得に傾倒していった。
旅人には目的があるという。
聞けばとある人間を排除したいのだと物騒なことを語る。
邪魔で邪魔で仕方ないのだと続ける旅人は満面の笑みを浮かべていた。
その笑顔は狂喜に満ち溢れている。
ただの熱心な研究者だとばかり思っていた老人たちは驚きの表情を浮かべる。
だが気づいたところで時すでに遅し。
旅人の呪術は成った。
旅人の歪んだ情熱の成果か。
老人たちでさえ人生で一度も成しえなかった呪術は、見事成功し対象者に放たれた。
旅人は狂ったように笑った。
セレスティーヌは朝から体調が悪かった。
発熱はしていないが、どこか気だるく酷い頭痛だ。
すぐさま医者に掛かったが恐らく軽い風邪だろうとの事。
横になっていても辛く、気を紛らわせるために白湯を飲んでいた。
リュカは念のため遠ざけたが、乳母に連れられ別室へ去る時は今生の別れとばかりに泣き叫んでいた。
宰相もセレスティーヌをいたく心配し、仕事を午前中で切り上げるべく慌ただしく城へ向かった。
自分の体調不良のせいで大切な人らをここまで心配させていることに心が痛い。
そう感じながら白湯の入ったティーカップに口を付けた瞬間だった。
今までにない激しい頭痛とめまいがセレスティーヌを襲う。
そのまま座っていることが出来ずに椅子から転げ落ちた。
幸い床にはふかふかのカーペットが敷かれておりセレスティーヌの身体もティーカップも無事だ。
しかし彼女の意識はどんどん遠のく。
視界が反転し全てが横になった世界に必死にしがみ付こうとするが、脳を捏ね繰り回されるような激しく不快な頭痛がそれを許さない。
傍に控えていた使用人の叫び声を聴いたのを最後に、セレスティーヌの意識は閉じられた。
―――セレスね、王子さまと結婚して世界一のお姫さまになるの!
幼いながらに気の強さを感じさせる溌剌とした声で宣言する。
これは、小さな頃の己だ。
意識の波をたゆたいながらもぼんやりと感じるセレスティーヌ。
その宣言通りセレスティーヌは自分だけの王子様を見つけ世界一幸せなお姫様になった。
素敵な素敵な王子様。
すらりと長い手足に、しっかりと付いた筋肉が若さを象徴している。
男らしく引き締まったフェイスラインをサラサラの髪が撫でる。
若くてカッコいい、髪の豊かな王子様がセレスティーヌの肩を抱く。
そう、これこそがセレスティーヌの理想である。あれ?
目を開けると見知らぬ天井が広がっていた。
「…ん?」
どうやら仰向けでベッドへ身を横たえているらしい。
自分の状況が分からず情報を拾おうと顔を左右に向けて確認し、その予想外の光景に思わず息を飲む。
ベッドの周りに沢山の人間が自分を囲うようにして立っているのである。
「セレスティーヌっ! 目が覚めたのかい!?」
「セレスティーヌ様っ!良かったです!」
「医者をっ医者を呼んでまいります!」
必死な様子で自分に向かい声を掛けてくる面々だが、あいにく見知った顔は一人だけ。
それも親しいわけではない人物で、一体全体何が起こっているのかさっぱり理解できない。
「あの…」
横たえていた身体を起こし戸惑いながら口を開く。
「ここはどこでしょう…私は何故寝ていたのでしょうか」
唯一の知り合いに向かい疑問を投げかける。
「何かご存知ですか宰相様」
このガマガエルのような宰相が生理的に受け付けず今まで極力関わらないようにしたのに。
だというのに何故今彼が目の前にいるのか。それが一番の謎だった。
「いきなり倒れたらしい。今朝から心配しておったのだがまさか倒れるほど重症だとは…今はどうだ? どこか辛いところはあるかい?」
丸々とした顔を青ざめさせ、涙ぐみ必死な様子で語りかける宰相。
セレスティーヌの疑問は一向に解消されていないがその勢いに押され、問いかけに対して小さく頷く。
「ええ、体調はなんとも。平時と変わりありませんわ」
「そうかっ! 良かった! そなたに何かあればワシは生きてはいられぬ。とにかく目を覚まして良かった」
そう言うが早いか目覚めたばかりのセレスティーヌに巨体が迫る。
ギョッと固まっているうちに気づくと宰相の太い腕に囲われていた。
一瞬何が起こった理解が追い付かないセレスティーヌであったが、鼻の周辺を漂う油臭い不快な加齢臭に今自分が宰相に抱きしめられていることを理解する。
「い、いやぁぁぁぁぁ!!!」
あまりの悍ましさに喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げる。
「セレス!? うおっ!?」
腕から抜け出すべく力いっぱい宰相の胸を押す。
突然のセレスティーヌの悲鳴に怯んだのか思いのほかあっさりと押し勝つことが出来た。
ベッドに乗り出していた巨体は転がり落ちて床に尻餅をつき、その態勢のままセレスティーヌの方をきょとんとした顔で見上げている。
「なんとおぞましい。若い娘を好むとは聞いていたけれど、まさか王太子の婚約者である私にまで食指を動かすなんて」
「……王太子の、婚約者?」
白々しく小さな目を見開く宰相に凍えるような冷たい視線を送る。
「しらばくれても無駄です。宰相である貴方が私の立場を知らなかったとは言わせませんよ」
「セレスや…何を言っているんだい?」
「馴れ馴れしく呼ばないで、この不埒者! さては私を気絶させ知らぬうちに拐ったのね! いくら私が誰よりも美しく魅力的だからといって、して良いことと悪いことがあるのよ! これは立派な犯罪です、早く私を家に帰しなさい変態ジジイ!」
「へ、変態ジジイ?……変態ジジイ?」
セレスティーヌの啖呵によほど衝撃を受けたのか、譫言のように変態ジジイと繰り返す宰相。
セレスティーヌが今まで悪意を持って宰相を罵ったことなど一度もなかった。
周りを囲う使用人たちも彼女の様子がおかしいことに気づきざわつく。
「さぁお医者様、こちらです! お早くっ!」
ここでようやく医者を呼びに行った使用人が戻ってきた。
緊迫した空気の中誰もが医者に縋るような目を向ける。
中でも宰相は医者にしがみついて訴えた。
「先生、妻が、妻の様子がおかしいのです。どうか助けてくだされ!」
医師は宰相家に長年勤めるベテランだが、ここまで宰相が狼狽えているのを見るのは初めてだった。
「どうぞ落ち着いてください。どれ、セレスティーヌ様と二人にしてくれませぬか」
デカイ図体と迫力の圧に押されそうになった医師であるが、プロとして努めて冷静に指示を飛ばす。
信用に値する数少ない人物である老医者に諭されるように肩を叩かれ、宰相は覚束ない足取りで力を失った巨体を引きずるようにして退出した。
そして部屋から出た後も扉の前で微動だにせず待機。
まるで出来が最悪な置物のようにそこでいつまでも待っていると、ようやく扉の向こうの老医者から声がかかった。
今にも死にそうな顔色の宰相を前にこれから己が告げなくてならない内容を思い憂鬱になりかける老医者だがこれも仕事と冷静な表情を保つ。
「まず初めに、セレスティーヌ様のお身体には今のところ問題は見受けられませんでした」
宰相からほっと安堵の息が漏れる。
「しかしどうしたことですかなぁ…どうやらセレスティーヌ様はご結婚後の記憶を全て失くしてしまわれたようです」
「っ、記憶を失くした…」
先ほどのセレスティーヌの態度の違和感からもしやと思ってはいたものの改めて他人に事実を突きつけられて動揺が隠せない宰相。
縋るように愛しいセレスティーヌの方を見ると、彼女もまたこちらを見つめていた。
猫のように吊り上がった大きく丸い目が愛らしいと常々思ってはいたが、その瞳の中に侮蔑と嫌悪が混じっていることに気づかされる。
長年生きてきて嫌というほど女性たちから向けられてきた視線だが、決して妻のセレスティーヌから向けられたことはなかったのに。
それがこのように突然愛する人から嫌悪を向けられれば、いくら心臓に毛が生えていると言われている男といえどもダメージは計り知れない。
「この医者は宰相様、貴方の差し金なのですよね?」
宰相様などと他人行儀に呼ばれる違和感に胸の傷は深くなる。
「貴方と私が結婚したとか、王太子は他国の女王に婿入りしたとか訳の分からないデタラメを言うのです。このように分かりやすい嘘を吐いて一体何を企んでいらっしゃるの?」
セレスティーヌにとって老医者から聞かされた話は到底事実として受け入れられるものではなかった。
悪徳医師の汚名を被せられた老医者は肩を竦め、宰相は体を小刻みに震わせ動揺する。
怒りに任せしばらく睨みつけていたが一向に白状しようとはせず、周囲を囲うように立ち尽くす使用人と思われる者達からも沈痛な空気が流れるばかりであった。
「失礼いたしますセレスティーヌ様」
戸惑いを感じ始めたセレスティーヌの元へ、今度は見知らぬ女性がやって来た。
「目覚められたばかりのセレスティーヌ様にこのようなことを願いますことは慚愧の至りでございますが…」
酷く恐縮した様子で女性がおずおずと話し始める。
「リュカ様を一度だけお抱き頂けないでしょうか。どうしてもセレスティーヌ様を求めて泣き止んで下さらないのです。このままではリュカ様の体力と喉が持ちません…」
セレスティーヌに必死に言い募る女性はリュカの乳母だ。
セレスティーヌが倒れている間、母の不調に何かを感じ取っていたのかいつになくリュカは泣き叫んでいた。
ようやく目覚めたセレスティーヌだがどうやら体調に問題ないらしいとだけ耳にした乳母。
まったく泣き止む気配もなく血管が切れてしまわないか心配なほど顔を真っ赤にして泣き叫ぶリュカをどうにかしようと覚悟を決めてやって来たのだ。
セレスティーヌは常日頃から息子のリュカを大層慈しんでおり、彼女から離すとすぐに情緒が不安定になる息子を極力傍に置いて優先していたので決して罰せられることはないと分かっている。
だが職務を全う出来ず目覚めたばかりのセレスティーヌを頼るしかない己の不甲斐なさを痛感し気落ちしていた。
「どうかお願い致します…」
セレスティーヌの現状を把握している使用人たちはリュカを連れてくるつもりの彼女を止めようとしたが、あまりに消沈した様子で頭を下げるものだから最悪に重い空気だ。
この中をどう切り込んでいこうかと誰もが迷い、口を出すのが遅れた。
そうしている間に乳母の背後から、彼女の補佐らしき女性がとある生き物を腕に抱えて現れた。
女性はそそくさとその生き物をセレスティーヌに渡して身を低くしたまま退出した。
「あぁ、あー、まぁ、まぁまぁ!」
狐につままれたように呆然とするセレスティーヌを見上げ謎の生き物は機嫌良さ気に鳴いている。
腕を伸ばし彼女の顎辺りをペチペチする生き物を改めて観察することにした。
全身どこもかしこも柔らかくミルクの匂いを纏った小さな生き物。
先程まで泣いていたのを表すように目元は湿り、頬は真っ赤に色づいている。
それでもこうしてセレスティーヌの腕の中にいる今はとんでもなく愛らしい表情で微笑んでいる。
これは今迄セレスティーヌには決して縁のなかった、人間の赤ん坊である。
「あーまぁまぁ」
最近リュカは「ママ」という言語を習得していた。
自分の腕の中の謎の生き物が謎の言葉を発しているのを聞いてセレスティーヌは固まったままだ。
「流石はセレスティーヌ様。やはり御母堂の温もりに勝るものなどございませんね」
散々苦労したリュカがコロリと泣き止んだ姿を見た乳母は一切の悪気なくそう呟いた。
「リュカ様、良かったですわね。お母様にお会いできて」
「まぁま。まぁまぁ」
緊迫した中で唯一ほんわかとした空気を醸し出すリュカと乳母。
セレスティーヌは腕の中の赤子を食い入るように見つめる。
自分とどことなく似ているはっきりとした目鼻立ち。
そしてふわふわと儚そうに生える頭髪には宰相の顔が脳裏にちらつく。
「宰相様…この赤子は宰相様のお孫さんか何かですわよね?」
「いいや違うな」
リュカから目を離したセレスティーヌは縋るように宰相に顔を向けた。
セレスティーヌの願いは叶えて然るべきを信条としている宰相だが、今回ばかりは彼女が希望しているだろう返答は出来ない。
「リュカはワシとセレスティーヌの子供だよ」
「私の子なんかじゃないわ!」
宰相の言葉に被せる勢いで叫ぶセレスティーヌ。
まるでその回答が来るのが分かっていたかのような早さである。
「私を丸め込もうと全員デタラメばかり言って! 私は騙されないわ! 早くこの子をどこかへやってちょうだい!」
突然大きな声を上げたセレスティーヌに驚いている乳母へリュカを押し付ける。
セレスティーヌの行動に可愛らしく目をクリクリさせたリュカはもう一度母の下へ戻ろうと手を伸ばすがセレスティーヌは応えてくれない。
普段ならリュカが望めばいつだって美しい笑顔で迎えてくれるのに、今はそっぽを向いてこちらを見ようともしない。
この緊急事態にリュカは再びあらん限りの力を以て持して泣き喚いた。
その凄まじい音量に両手で耳を塞ぐとセレスティーヌは乳母に向かい叫ぶ。
「この生き物を早く連れて行ってちょうだい! それが貴女の仕事でしょう!」
今までのセレスティーヌならば決して言わない台詞だ。
これは何かおかしいとようやく察した乳母は戸惑いながらも言われるがまま泣きわめくリュカを抱えて慌ただしく退室する。
「セレスティーヌ…」
最後まで泣き続け「ママ」を呼んでいたリュカの声が聴こえなくなると、膝に顔を埋めてうずくまってしまったセレスティーヌに宰相がおずおずと呼びかける。
愛息子も心配であるが今は重症のセレスティーヌが優先だ。
「忘れてしまったのだろうが、ワシとそなたは夫婦だ」
話し始めても最早セレスティーヌから反応はない。
それでも宰相は続ける。
「きっかけは王太子の裏切りだった―――」
婚約破棄の件、王太子の策略に乗ってセレスティーヌと婚姻を結んだ件、それに対してセレスティーヌは自分を受け入れてくれた件、宰相は包み隠さず全て話して聞かせた。
「ワシは見ての通りのハゲデブ中年だ。美しいセレスティーヌと釣り合っていないのは重々承知している。だがセレスティーヌはそんなワシを愛していると言ってくれた。どうかもう一度、ワシと恋をしてはくれぬか?」
膝をつきセレスティーヌの手を取り王子様スタイルで懇願する宰相。
だが残念ながらセレスティーヌには記憶がない。
婚約破棄以降の記憶を全て失くしてしまったのだ。
それはつまり蘇った前世の記憶も再び失くしたということと同義である。
今のセレスティーヌには中年男性に魅力を感じる嗜好はどこにも存在しない。
「触らないで!」
宰相の手を乱暴に振り払う。
今のセレスティーヌには宰相に触れられることは単なるセクハラでしたかないのだ。
「王太子と組んで私を陥れるなんてなんと卑劣な男かしら。顔も見たくないわ、出て行ってちょうだい!」
冷たく言い捨てるセレスティーヌに、宰相は項垂れる。
「セレスティーヌ様、宰相様は…」
「待て、いいのだ」
あまりに哀れそうに落ち込む宰相を見てたまらず庇おうとした使用人に本人がストップをかける。
「記憶を失くしたばかりのセレスにいうことではなかった。それに…セレスが言ったことは事実。軽蔑されても仕方ない。こんなオッサンを受け入れてくれていた今までが奇跡だったのだ。今のセレスの反応は至極真っ当だ。すまなかったセレスや。オッサンは近づかないよ。ゆっくり休んでおくれ…」
地面に埋もれてしまいそうなほどの項垂れ具合で重い体を引きずってその場をのっそりのっそりと去っていく。
その後ろ姿を最後まで睨みつけたセレスティーヌは宰相の巨体が見えなくなると、再び膝に顔を埋めてしまった。