8話「めでたし」
バレリアン王国の王城は、青みがかった石で建てられている。
空を見上げるとそこには海があったと言われるほど深い青の城に、クレアはつい昨日まで住んでいた。
クレアのような下級貴族の娘が、城の一隅で寝込んでいたなんて我が事ながら夢を見ているのではないかと思ってしまう。
ぼうっと城を見上げるクレアの肩を、隣の青年が軽く叩いた。
「やはりまだ具合が……」
「ダリスとシャルロットさまのおかげで、すっかり元気だよ」
「なにかあったら、すぐに言ってくれ」
ダリスは顔全体に不安という文字を、ぺったり貼り付けている。
それもしかたない。クレアは新しい王が立つまで、寝台から起き上がれたことは一度もなかったのだから。……これからダリスの隣でゆっくりと、クレアの言葉や手の温かさで伝えていかなくてはいけない。
ウンディーネの茨は、もうクレアの体から去ったのだ、と。
「これから大変なのはシャルロットさまだよ。
ダリス、一緒に陛下をお支えしていこうね」
シャルロットの名前に、ダリスの表情が固くなる。
ふたりで協力した結果、シャルロットが即位し、クレアのウンディーネの茨を解いた。
クレアが思うに、これは相当に連帯感とかお互いへの好意的な感情を生むはずだ。しかし、不思議なことにダリスとシャルロットの仲は悪化した。
久しぶりにクレアが目蓋を開いた直後など、神聖な儀式に使う杖で取っ組み合いを演じていたのだ。
あの時のふたりの、お互いを見る冷えきった眼差しはなかなかに忘れられない。
喧嘩するほど仲がよくなったのか。あるいは政治的な思惑があるのか。
わからないが、ふたりともクレアには好意的に接してくれているので、クレアの頑張りどころはまずはここかもしれない。
「……ふふっ」
「クレア?」
笑い声をこぼしたクレアに、ダリスが小首を傾げる。
「未来のことを考えるって、こんなに楽しいことだったんだって……ありがとう、ダリス」
「もう38回は聞いた」
「まだまだ言い足りない」
くすりとダリスが笑った。クレアもつられて笑う。
しばらく笑い声を響かせて、クレアはまた城に目を向けた。
「……名残惜しいか?」
「いいえ。
ウンディーネのことを、考えていたの」
城の青色は、水の精霊ウンディーネを慕う色だ。
ウンディーネの夫ではなかったが、彼女を厚く信奉していた十代前の王によって青い城は建てられた。
だけど青い城にも、神殿にも、もうウンディーネは居ない。シャルロットが即位した際にダリスの前に現れて、約束がなくなったから遠くへ行くと言って消えてしまった。
「ウンディーネは、どうして約束がなくなったと言ったのかしらと思って。
初代王の王朝が途切れても、王家がなくなっても、ダリスは初代王の血を引いているのだから……」
「……ウンディーネが僕たちに見ていたのは、初代王の形だったんだろう。玉座に座り、冠を戴き、自分を愛した男の――」
代わり。形。
それがすこしでも欠けてしまえば、精霊には必要なくなった。だから去った。
クレアの呪いが解けたのは、精霊が約束を諦めて遠くへ行った結果だ。
クレアは固く目を瞑った。
ウンディーネに思うところは山のようにあるけれど、彼女のことを考え続けてはいられない。
クレアの呪いが解けたのは、新女王の声にウンディーネが応じたからだということに一般的にはなっている。
だが、事実は違う。
水の精霊は、バレリアン王国にはもう居ない。
これからは人間だけで、国を守らなければならないのだから。
「シャルロットさまのお役に立たなくては……」
固く握ったクレアの拳を、ダリスがぐいと持ち上げた。かと思えば、ダリスはクレアの手の甲に口づける。
突然のことにクレアが目を丸くしていると、ダリスは眉間に五つの皺が寄るほど眉を寄せた。
「僕は嫉妬深い。だから君の命の恩人にだって嫉妬する。だから……」
「……ダリス?」
「君が僕の妻になってくれないと、耐えられそうにない」
クレアはもうダリスの妻だ。シャルロットが女王になる際にダリスと離婚したので、ダリスのただ一人の妻である。
けれどダリスは地面に跪き、クレアの両手を手にとった。
「クレア。僕のたった一人の妻になってくれないだろうか」
真摯に自分を見上げる眼差しに、クレアの顔はじわじわと赤くなっていく。
クレアには小さな夢があった。愛する人のたった一人の妻になる。バレリアン王国ではありふれた、でもクレアとダリスにとっては叶え難い夢だった。
クレアは微笑み、ダリスの手を握って。
彼の耳元でそっと誓いの――愛の言葉を囁いた。