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7話「たったひとつ」


生け垣の裏からちいさな泣き声が聞こえる。

クレアは足音を忍ばせて草むらを覗き込み、ぱちくりと瞬いた。

使用人の子どもかと思ったら、まったく知らない男の子だったのだ。

男の子もクレアに気づいて、碧の目を丸くする。


「どうしたの? 迷子?」

「……」

「ゆっくりでいいよ」


笑って隣に腰を下ろしたクレアに、男の子は限りなくちいさな声で言った。


「蜂が……居て……」

「もう居ないよ?」

「でも……」

「わかった。蜂が来たら私が追い払ってあげる」


クレアが伸ばした手を、男の子はおずおずと掴む。

自分より小さな手に、クレアの胸は使命感でいっぱいになった。


――守ってあげたい。


胸に宿った想いのままに、クレアは男の子の手を引いた。男の子がこの国の王子様だと知るのは、もう少し後のことだった。


 

目蓋を開ける。一日を始める息を吸う。

真っ先に考えるのはクレアのことだ。

全身に回った黒い茨がクレアの命を奪っていないか確かめるために、ダリスはシャルロットとともにクレアを助けると決めた日から、クレアの寝台の隣にソファを置いてそこで寝ている。

上体を起こし、クレアの顔を覗きこむ。

顔を這う黒い茨。頑なに閉じられた目蓋。かすかな息をもらす唇。


「好きだ……」


ダリスがぽつりとこぼした言葉に、完璧な令嬢のため息が乗っかる。


「二階から落ちて目が覚めての第一声が、それ?」

「シャルロット、居たのか」

「あなたたちの寝顔を二時間も見ながら、パズルを解いていたところよ」


シャルロットの前にあるテーブルの上には、無数の紙片が一ページの紙になるよう並べられている。立ち上がって見てみると、紙の大半は泥水を吸って字がふやけていた。

シャルロットの白い指が紙の一番上を指す。


「ここは辛うじて読み取れるわ。ウンディーネと初代王の約束について書いているみたい。

 こちらはだめね。修復もできるかどうか……」


呪いを解く方法の部分が特に酷いのだとシャルロットは続けた。


「義母上は部屋で軟禁中よ」

「……母上は話さないよ。僕を憎んでいる」

「それは――そうかもね」


眉根を寄せるシャルロットに、ダリスはとくに気にせずふやけた紙の一番下を指した。


「この文章が気になるんだが」

「オレが生きている間にやらなければいけない、ね。

 陛下はウンディーネの茨を解くことに執着していらしたから、その執念のあらわれかしら」

「いや……」


違う。頭の隅で何かが引っかかる。

たしかに父は、ウンディーネの茨を解くことに執着していた。

日記の一ページ、一ページに刻みこまれた筆致の強さ。ページの一面に几帳面に記される研究の進捗。

父は急に亡くなったように思えたが、この日記を読んでみれば納得してしまう。父は研究のためにもう何年間もまともな睡眠をとっていなかったのだ。

生命を削って父が得た、呪いを解く方法。

そのページへ最後に書かれている文章は、本当に執念だけなのか。


父の日記を、ダリスはじっと見る。

日記には日付が書いていない。だから最後の日記が書かれた日を正確に特定するのは難しいが、父が亡くなる半年前だと思われる。

その頃、何があったかと思い返して――ダリスは息を止めた。

ダリスとシャルロットの結婚を、貴族たちが決めたあたりだ。


「なにか気づいたの?」

「……」

「ちょっと。わたくしを無視するなんていい度胸してるわね」


シャルロットとの結婚がもう覆せないところまできてから、ダリスは母の助言もあって、父にクレアを側室にすることを告げに言った。

執務室でダリスの言葉を聞いた父は、机から顔をあげることもなく、そうかと頷いて。


『――』


ちいさく何かを呟いていた。

小さすぎて、あのときはため息をついたのだと思っていた。けれど思い返してみれば、父は唇を動かしていた。

どんな動きだったか? いや、やはりため息をついていたのではないか?

思い出の中の父の顔を、日記を見たときのようにじっと見る。


『……に』

『こ……に』


『こどもがうまれるまえに』


「……父のやろうとしていたことがわかった」


ダリスがこぼした言葉に、シャルロットが先を促すように眉尻をあげる。


バレリアン王国では、王になるための条件として王太子である間に結婚して王子をつくらなければならない。

この条件は王家の血を確実に残すためのものであるが、バレリアン王国ではしばしばこんな使われ方をした。

反抗的な王を退位に追い込み、王太子を王に、王太子の息子を王太子にする。

父が怖れていたのは正にこれだろう。

父の見つけた呪いを解く方法は、父が王として生きている場合のみに使えるのだ。


「父は……ヨハン一世は」


寝台を振り返る。クレアが居る。ならば、ダリスはどんな言葉だって口にすることができる。


「自分の代で王朝を、そして王家をも終わらせようとしていたんだ。

 初代王の血筋を玉座から完全に降りさせる。そうすれば、ウンディーネの茨が消える。

 理屈はわからないが、確かにと思う」

「……そして誰もその方法を試さなかったわけも、ね」


ぽつりと呟いたシャルロットは、ぎゅっと唇を噛みしめる。

ダリスも行き場のないやるせなさをすこしでも吐き出したくて、ため息をついた。


バレリアンはウンディーネの寵愛を受けた王の国。

すなわち建国以来、一度も王朝の変化がない。目を皿のようにして歴史書を見ても、玉座をめぐる争いすらなかった。

一方他国では、王朝は猫の目のように目まぐるしく変わる。

王家も些細な理由であっというまに断絶する。王位継承権を持つ者同士での――ときには継承権を持たぬ者も参加して――玉座をめぐる争いは、国を滅ぼすほど凄惨なことになることもあるのだと聞く。


つまるところ、初代王の血筋である王家の男を玉座に戴くかぎり、バレリアンは他国よりずっと安定した国でいられるのだ。

だからきっと誰もが目を瞑ってきた。

救いを求めようとする王の目も、むりやり塞いできた。


――すべては国のため。この国を守るために。


ギシギシと音がするほど歯を噛みしめ、ダリスは口を開いた。


「知ったことか」


ダリスの宣言に、シャルロットはこめかみを揉み解している。


「クレア、クレア、クレア……。

 予想以上の犬根性だわ。どういう出会い方をしたら、あなたたちそうなるのよ」

「……誰にも言わないなら、話そう」

「あら~。急にあなたの声だけが聞こえなくなったみたいだわ~」

「そうか、奇遇だな。僕も突然永遠に話す気がなくなった」


厄介事の話なごめんだとばかりに、シャルロットが両手を合わせてにこりと笑う。

ダリスもシャルロットの鉄面皮笑顔を見習って、瞳を細めて微笑んだ。

そうしてお互いの作り物の笑顔を見習うこと数秒間。

ふたりの顔からは笑顔が消え、話の続きが始まる前に、ダリスはシャルロットの蒼い瞳を見ながら名前を呼んだ。


「シャルロット――」

「なあに?」


小首を傾げる麗しの公爵令嬢に、ダリスの胸はざわついた。

クレアが眠りについてから、ずっと気になっていたことがある。けれどそれを尋ねた時に、ダリスとシャルロットの関係は徹底的に変わってしまうだろう。


――唯一の味方を失うのは避けたい。しかし。


ダリスはもう我慢の限界だった。


「シャルロットはクレアのことが、僕のように好きなのか?」


ダリスの問いにシャルロットは、めいっぱい蒼い瞳を見開いて。


「…………は?」


腹に響くほど重たく冷たい声で呟いたあと、ダリスを睥睨した。

その迫力といったら、西方の国に棲むという人食いの人面虎のようだ。


「あなたの脳内にはクレアとの恋愛事情しか詰まっていないのかしら!?」

「しかし、君はクレアの望みを叶えてくれているし、そもそも僕との結婚だって、クレアが居ないと意味がないと言っていた……」

「わたくしにはわたくしの事情や信念があるのよ!

 この粉砂糖まぶしたチョコレートケーキ脳!!」


ぜいぜいと荒い息をつくシャルロットの眼光は、ぎらぎらと輝くナイフより殺意に満ちている。けれどチョコレートケーキはクレアの好物だとダリスが告げれば、シャルロットは大きく深いため息をついた後、脱力した。


「……わたくし、子どもが産めないのよ。

 でも公爵令嬢が、レディ・シャルロット・シンアがそんなこと許されると思う?

 公爵家の父と伯爵家の母が、そんな役立たずの娘しか生せなかったなんて……この国で許されると思う?」


いいやとダリスは頭を振った。シャルロットはくすりと笑う。


「だからわたくしには、王子の妻になる必要があったの。

 あなたとクレアの子どもを、わたくしが育てたかった。

 ……だからね、クレアがウンディーネの茨に侵されたときに絶望したわよ? 

 あなたはクレア以外の側室を求めない。それどころかクレアの後追いをしかねないわ。

 側室が死んで。王子が死んで。あとに残るのは、正妃のわたくしだけ。

 きっとそうなったら、みなさんこぞってわたくしに罪をなすりつけたでしょうね……冗談じゃないわよ」


シャルロットの声が一段と低くなる。

だからあの時の彼女は恥辱にまみれた死を待つより、ダリスに殺されることを選んだ。ダリスやほかの貴族たちに、恐怖と恥辱を味合わせるためだけに。

 

「……でも、クレアが、助けてと言ったから。

 わたくし、あんな風に頼られたのが、初めてだったから。

 存外気分がよくなっちゃって、クレアを助けることにしたの」


不思議そうに小首を傾げたシャルロットが、かすかな笑い声をこぼす。


「それにね、クレアだけじゃないのよ。

 なにも事情を知らないクレアの侍女が、頭を下げて頼んでくるの。まだデビュタント前の女の子が忍びこんできたことがあったわ。クレアから連絡がなくなって心配だったのですって」

「たぶんミーシャだ。……お転婆だな」

「可愛かったわ。クレアをいじめないでくださいって、泣きそうな顔で言ってくるんだもの」


意地悪な言葉とは裏腹に、シャルロットの眼差しは優しい。

少女がシャルロットの部屋に不法侵入してきたなんて話や、男爵令嬢のミーシャが行方不明になったという話をダリスは聞いたことがない。きっとシャルロットがうまく手を回して、ミーシャをこっそりと帰してくれたのだろう。


「……」


シャルロットの告白に、ダリスは胸に手をあてた。

胸がもやもやする。今までシャルロットに向けていた、嫌悪や憎しみとは違う。

たぶんこれは……嫉妬だ。


「シャルロット、君が次の王になれ」

「……ダリス。この三十分間で、わたくしに何度、ため息をつかせる気なのかしら」

「シンア公爵家にも、リンディル伯爵家にもいまの王家の血筋は入っていない」


アラン失地王の時代に失われた領地の大半を取り戻した功績により、シンア家は公爵家に叙された。リンディル伯爵家はもとは国有数の大店で、五代前の王妃から格別の厚遇をうけて伯爵位を得たという。

家格は高いが、どちらの家も比較的に新しい貴族だ。バレリアンとウンディーネの因縁に、なんの関わりもない。ウンディーネがシャルロットの血筋に執着することはないだろう。

それにシンア公爵家は、王を玉座に縛り続ける貴族たちとも違うはずだ。

ウンディーネの茨について知っていたら、シンア公爵はシャルロットとダリスの結婚を腹を切ってでも止めていただろうから。


王家と無関係の血筋。下位の者の言葉を聞く器量。隠されていた資料を見つけ出し、正確に読み解いた頭の良さ。武力でも財力でも頼れる実家。

まるであつらえたように、シャルロットは女王にぴったりだ。

 

――ダリスとは、違って。


ダリスの頬には自然と笑みが浮かぶ。反対にシャルロットの頬はひくりとひきつった。


「あなたがいきなり笑うと気味が悪いのだけれど」

「そうか。……国には王が必要だ。女王になってくれ、シャルロット」


呆れたようにシャルロットが肩を竦める。


「無茶苦茶にするわよ」

「民の意見を聞きながらやればいい」

「……初代女王になってしまうのだけれど?」

「たしかに初代王のような強い個性……いや神秘的な面があったほうがいいか。考えておく」

「……はぁぁ~……。

 もういいわ。もういい、やってあげる。

 ただし女王の神秘的なできごとには、クレアにも手伝ってもらうから」


ダリスはクレアの寝台に目を向けた。

クレアは眠っている。ウンディーネの茨に顔まで侵された彼女が、どうやってシャルロットに協力するのだ。

困惑したままシャルロットを見れば、彼女はにまりと口角をつりあげていた。


「民衆の前でわたくしが、クレアにかかった呪いを解くのよ。――ウンディーネの力を借りて、ね」



こまごまとした打ち合わせが終わり、シャルロットはクレアの部屋を去った。

ダリスは寝台横のソファに座り、息をひそめてクレアの寝顔を眺めた。


むかしの話だ。

ダリスは蜂が怖かった。あの奇妙な形も、命を奪う毒針も、侍女が閉め忘れた窓から入ってきたことも。


だからダリスは部屋から逃げた。廊下の脇で侍女がけらけら笑っていた。

ダリスは護衛の騎士に助けを求めた。彼らはこう言った。逃げるから追いかけてくる。立ち向かえば追ってこない。

ダリスは両親をアテにしなかった。父はめったにダリスの住む宮へ来なかったし、母は父の気を惹くために父の執務室に入り浸っていた。


誰も助けてくれないから、ダリスはひたすらに走り続けて……いつの間にか、知らない屋敷の生け垣の側に居た。

かさりと草を踏む音がして、体を強張らせたダリスの前に、ふわふわとした栗色の髪の女の子が現れた。

彼女はダリスを見て、はちみつ色の瞳を丸くすると。


『どうしたの? 迷子?』

『ゆっくりでいいよ』

『もう居ないよ?』

『わかった。蜂が来たら私が追い払ってあげる』


ダリスが欲しかったものを、ぜんぶくれたのだ。

だから、あのときからずっと思っている。

君だけでいい。君さえいればいい。

君を……


「好きだ、クレア」


クレアの手を握って目を瞑る。

守りたい。百万の民と引き換えにしても、君だけは。


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