6話「奮闘」
寝台で眠るクレアを、ダリスはただ黙って見つめていた。
顔まで茨が達したクレアの一日は、薬によって管理されている。
強力な鎮痛剤と睡眠薬が毎日投与され、薬の効果が切れる頃に、どろどろに煮込んだ粥や果物を食べさせ、また眠りにつかせる。
今のクレアに苦痛はない。代わりに自由もない。
……生きている人形のようなものだ。
そんな彼女の隣に座って、ダリスは語りかけた。
「昨日はどこまで話したかな。
ああ……シャルロットの持っている資料をぜんぶ見せてもらったよ。
たった一人でよくあそこまで調べたものだな」
「……あら。お褒めいただき光栄に存じますわ」
くすりと笑ったシャルロットは、テーブルの上に資料を並べて睨みつけている。
ことが事だけに、クレアの件で動けるのはシャルロットとダリスしかいない。
いやふたりとも、今回ばかりは腹心の部下でさえ巻き込むわけにはいかないのだ。
――これは、精霊への宣戦布告なのだから。
そう頭で分かっていても、シャルロットがクレアの部屋に居るのを思い出すと苦虫を噛んだような気持ちになる。……自分が狭量だとわかっている。シャルロットが有能なことも知っている。
けれど。
クレアに頼られるのは自分ひとりがよかったという嫉妬じみた思いが、ダリスに何匹もの苦虫を噛み潰させるのだ。
じっとりと重たい気持ちを飲み込んで、ダリスは自分の分の資料をテーブルの上に乗せた。
シャルロットの蒼い目が意外そうに細められる。
「これ、禁書庫の本ではなくて?」
「僕が許すんだからいいだろう。
大したことは載ってなかったが、見落としがあるかも知れない。読んで――」
くれないか。
というダリスの言葉尻よりも早く、シャルロットが本をめくり始める。
5分で約300ページの本を読んだシャルロットは、残念そうに本を閉じた。
「だめね。新しいことは書いてない。
……気味がわるいわ」
かすかな嫌悪がにじむシャルロットの声に、ダリスも頷いた。
黒い茨の原因がウィンディーネだと記す本はある。茨の呪いが始まった時期の考察が記された本もある。呪いの苦痛を和らげる方法も、あったのに。
どの書物にも、ウィンディーネの茨を解く方法だけはない。考察も嘆きもない。
ある本には、ウィンディーネの呪いを王の選定に使えるという主張もあった。
王妃か側室が父親の疑わしい王子を生んだときの対処法だというのだ。王子が愛した女に茨が現れれば、王子は真の王の子だと。
「……王は人ではないんだな」
「呪いを知らずに、王のもとへやってくる少女たちもね。
王はウィンディーネへの生贄で、
少女たちは王への生贄なのよ」
「……」
ダリスは唇を血がにじむほど噛んだ。
なんていびつで、なんとおぞましい王家なのだ。
そんな身の毛がよだつ王家の血が、ダリスにクレアを連れてこさせたのか。
いや……いや、違う。
「ダリス。まだ報告があるでしょう」
「……ああ。
母上が……ロクサヌ妃が嘘を認めたよ。
正妃が呪いを受けるから、側室なら大丈夫――ははっ」
乾いた笑い声が止まらなかった。
王家の血など関係ない。クレアが人形のように眠るのは、ダリスが愚かだったからだ。
けれどこうも思うのだ。
ダリスと別れていても、クレアはウンディーネに狙われた。
血を吐くような思いで手放しても、クレアはこの寝台で眠っていた。
きっと、ダリスとクレアが出会ったときに、この結末は決められていたのだ。――それが、憎い。
「しっかりして」
「うるさい。わかっている」
冷たいシャルロットの声が、程よく頭を冷やしてくれる。
息を整えてからダリスは一冊の本をテーブルの上に出した。この本が置かれていたのは、国王の書斎だ。
書斎の文机に立てかけられた椅子から見つかった。
椅子は改造されており、クッション部分を持ち上げて見つけたのが――ざらついた質の低い背表紙、タイトルと著者名の印字のない表紙――国王の書斎に相応しくないそまつな本だった。
シャルロットが瞬く。
「……中身はなんだったの?」
「これから別室で読む。呪われているかもしれないからな」
そんなものをうかうかと、クレアの隣で読むわけにはいかない。
ダリスが本を持って立ち上がると、シャルロットは禁書庫の本を読みふけっていた。彼女の瞳の縁にはうっすらと暗い影がある。あまり眠れていないのだろう。
「シャルロット――」
本のページを弾くことで、端的に質問の内容を聞いてくるシャルロットに、ダリスは結局、頭を振って、部屋を出た。
クレアの部屋の隣には、使用人が待機するちいさな部屋がある。丸テーブルといくつかの椅子。背の低い食器棚には、クレアがよく使っていたティーカップが並んでいた。
ティーカップを取り出してみると、くもりひとつない。クレアとの面会が禁止されるまで、クレアの侍女たちは主のお気に入りのカップを毎日磨いていたのだろう。
ほのかな温かい気持ちをもらって、ダリスはカップと本をテーブルの上に置いた。
そして、一息ついて。父が残した本の表紙を開いた。
『この本を読んでいるものは、こう考えているだろう。
どうしてアラン1世からの王はウンディーネの呪いを解かなかったのか。解く方法を探さなかったのか?
答えは簡単だ。王子が王になった時に、彼には一冊の本が精霊神殿の長から渡される。困った王が周りの臣下の顔を見ると……彼らはささやくのだ。
その本を燃やすのです。大丈夫。火打ち石も、もみがらも、水も用意してある。これはただの儀式ですから』
ページの最後がゆがんでいる。まるでこんなページをグシャグシャに潰してやりたかった、というふうに。
『儀式じゃなかった。いや、ああ、儀式だったさ!
先代の王が泥濘にまみれながら必死に調べた、ウンディーネの呪いを解く方法をオレが燃やした!
こんなゴミはいらないとウンディーネに宣言した!』
『お前の味方は誰も居ない。貴族も神殿も敵だ。
お前は……これを読むお前は、誰なんだろうな。
オレの息子か、別の誰かか?
いや、息子にはコレは読ませない。
……ウンディーネの茨はオレが解く』
『幸運にもオレは燃えかすを手にいれた。
父の50年の成果は本一冊なんてものじゃなかった。
見つかる端から焼かれていったが、焦げたページのある本を三冊』
本は父の日記のようで、父は祖父が残した本を悪戦苦闘して読み解き……やがて、絶望していった。
『神もいない! ほかの精霊も応えない!
息子に玉座を譲ってもだめだ!消えない! 逃亡も必ず失敗している。これは人間が……』
『フィリップ王のように、孤独に生きるしかないのか』
『我らが人形のように、ウンディーネの足元へ跪き続ければいいのか』
『ケイトが死んだ』
キャサリン王妃の愛称はにじんでいた。きっと父の涙のせいだ。
父の顔を思い浮かべてみても、泣き顔なんて想像できなかったけれど――日記を書きながら、父は泣いたはずだ。あふれる涙を何度も拭って。拭いきれない涙が日記に落ち、キャサリン王妃の名前をにじませた。
背中を丸めて嗚咽する父の姿が目蓋の裏に浮かぶ。
いつの間にか止まっていた息を吐き出し、ダリスはページをめくる。
「――」
次のページには、二つの筆跡でこう書かれていた。
『呪いを解く方法がわかった』
『部屋で待ってるわ』
父ヨハン一世の筆跡と、王の側室であるダリスの母ロクサヌの筆跡だ。
右側のページは乱雑に破りとられている。ダリスは父の日記を持って走り出した。
ロクサヌの部屋は、青色に満ちていた。
あわい水色の壁紙。ネモフィラの花畑が描かれた絵画。
暖炉の上に置かれたガラスドームの中で咲く青い薔薇。
青一色の部屋の中にロクサヌは居ない。
落胆とともにダリスが部屋に背を向けた時、バルコニーの扉が開いた。
バルコニーには、黒いドレスの女性がダリスに背を向けて立っている。
ドレスと同じほど黒色のやわらかな巻毛も、バルコニーの手すりをやわく掴む手の細さも。彼女をまとうすべてか、ダリスがつい先日に彼女の嘘を問いただしにきた時と変わらない。
「……母上」
ダリスの声に、ロクサヌの緑の瞳がちらりとダリスを見る。
けれど彼女は瞬きの間に、自分の手元に視線を向けた。白い手の中には、あまり上等ではない紙か一枚握られている。
「可哀想にね」
「……なら、渡してください。
それは父上の日記なのでしょう?」
「違うわ。ウンディーネ様がよ。
二代に渡って人間を呪わなければいけなかったウンディーネ様が、可哀想でしかたがないの」
頬に手を添えてほうっとため息をつくロクサヌに、ダリスの心はざわついた。
彼女の言っていることは、これっぽっちも分からない。
けれど日記の紙片を奪うためには、ロクサヌの油断を誘うことも必要か。ダリスが唇を湿らせ言葉を探していると、ロクサヌは紙片を真っ二つに引き裂いた。
「母上!?」
「来てはだめよ、ダリス。
ヨハン様だって即位の時に、この試練を受けられたのだから」
二つの紙片を重ねて、また引き裂く。
四つの紙片を重ねて、ため息をついて、また引き裂く。
母の手の中で、父が見つけた希望が粉々になってゆくのを、ダリスは止められなかった。
なぜ。なぜ。なぜ?
ただ母への問いだけが、頭の中を埋め尽くす。
愛した父の最後を、なぜ破る。父ほどでなくとも愛した息子に、なぜ嘘をつき、陥れる。
それは、なぜならば――
「母上は……父上も、僕も。
愛してなんかいなかったのですね」
呆然とするダリスに、ロクサヌは大輪の華のように笑った。そして粉々になった紙片を両手でグッと握りしめる。
「好きよ?
ヨハンの声が好きだった。明るいのに低くて落ち着いた声。
声が好きだから本を読んでっていうと、呆れるの。でもたくさんの童話を読んでくれたわ。
どんな宝石を身につけても褒めないのに、一輪の薔薇を褒めてくれるところが好きだった。
ダリス。あなたのことだってわたくしは大好き。
ちいさい頃はあまり構ってあげられなかったけれど、家庭教師や騎士からあなたの話を聞くたびに誇らしい気持ちになったわ。
あなたはとくに剣が好きだったわよね。あなたが毎日夜中まで剣を振っていたのを覚えているわ……」
母の告白を聞きながら、ダリスは母に向かい走り出す。
母は艶やかな笑顔のまま、くるりと後ろを向いて、両手をバルコニーの外に向けてパッと広げた。
母の部屋の下は庭だ。夜中に雨で濡れた庭は、あちこちにぬかるみができ、草花はぬれそぼっている。
あの庭に数多の紙片が落ちれば、多くの紙片は読めなくなってしまうだろう。
ダリスは迷わなかった。バルコニーの縁に足をかけ、落ちていく紙片に手を伸ばす。細かく千切れた紙片の一つを掴んだ時、母がダリスを呼ぶ声が聞こえた気がしたが……気のせいだったに違いない。