5話「遠い昔からの約束」
誰かの話し声が聞こえる。
いったい誰だろう? 侍女たちが見に来てくれたのだろうか?
そこまで考えて、クレアはハッとした。
自分の体には黒い茨が這っているのだ。体の自由を奪い、意識を一時的に刈り取った病が。
――私から、離れて。こんなに近くに居てはだめ。
そう訴えようとしたけれど、呼気がかすかに乱れただけだった。
「……クレア?」
そんな微かに乱れた呼吸へ、藁へ縋るように名前が呼ばれた。ダリスだ。
彼の声を、クレアが聞き間違えるはずがない。
クレアはもう一度、声を出そうとした。けれど口がうまく動いてくれない。
「クレア?」
「あなたは彼女に何がしたいの」
シャルロットの声だ。どんな時も冷静さを失わない彼女の声が、こんなに冷たく聞こえたのは初めてだ。彼女はダリスに対して、声音に乗るほどの侮蔑の念をあらわにしていた。
――二人は喧嘩しているのだろうか?
もしかして、クレアが意識を失ったのを気にしてダリスがクレアから離れずにいて……政務を、放り出してしまったのか。あるいはシャルロットを詰ったのかもしれない。
あまりの申し訳なさに、クレアは消えてなくなりたくなった。
父を亡くしたばかりのダリスを、支えなければならなかったのに。
国王を亡くして動揺する国民を、慰撫するシャルロットの邪魔をしないことが、側室の立場でできることだったのに。
だが、現実はどうだろう?
奇病を得て二人に迷惑をかけ、二人の仕事を邪魔し、言い争いの原因になっているかもしれないのだ。
「問いたいのは僕の方だよ。なぜ? なぜ君が無事なんだ!」
ダリスが叫んだ。憎しみすら感じられる声に、クレアの胸が罪悪感で押し潰されそうになった時。
シャルロットが深い深いため息をついた。
「ウンディーネの茨」
ダリスとシャルロットの間に、沈黙が降ってきた。
だからクレアは、動かない目蓋の下で想像するしかない。
話の流れから察するに、クレアの奇病のことだろう。シャルロットとジョナス医師に感謝しながら、クレアは意識を集中した。
すこしでも早く起きたい。こんな盗み聞きみたく聞くのではなく、二人の会話に参加したかった。それから、それから……。
「……どうやって知った?」
え?
かすかに漏れたクレアの声を、冷淡なダリスの声が塗りつぶす。
「いや……そんなことはどうだっていいな。今すぐに茨を元に戻せ」
「あなた……なにを言っているの?」
「君に死ねと言っている。
クレアの身代わりになれと言っている。
……正妃とはそういうものだろう?」
冷たい手が、クレアの頬を撫ぜる。
ダリスの手だ。
今すぐに応えたいと思うのに、クレアの唇は恐怖で凍りついていた。
いま、ダリスは何と言っただろう? 死ねと聞こえた気がしたのは気のせいだろうか。絶対にそうだ。気のせいに違いない!
思いこもうとすればするほど、クレアの耳は側に居るダリスのちいさな呟きでさえ拾ってしまった。
「クレア、すぐに楽になる。大丈夫……大丈夫だ」
「ダリス、何を言っているの?」
「早くしてくれ。クレアが苦しそうだ」
「……あなたはっ!
クレアを愛しているんでしょう!?」
うるさいなという小声は、気遣いも情も感じられない。そんな声にシャルロットが歯ぎしりする音がする。
これは、夫婦のあるいは友人の言い争いではない。ただひたすらに機嫌を損ねた絶対君主と、君主の道を命がけで正そうとする臣下の無為な交渉だ。
ただ、お互いに不和と徒労を生むだけの時間は、シャルロットが机の上に何かを置いたことで進んだ。
「……これを読んで」
「必要ない」
「クレアを救いたければ読みなさい、ダリス・バレリアン!
……私は今から、クレアの茨を診るわ」
ダリスの躊躇いは瞬きの間で、すぐに紙をめくる音が聞こえはじめた。
クレアの胸の内に広がっていた、ダリスへの恐怖がゆっくりと消えてゆく。
分からないことばかりだけど、ダリスはクレアのことを救おうとしてくれている。きっとそれだけは――本当なのだ。
「クレア」
クレアの名前を呼ぶシャルロットの声も、優しい。
はいと返事をしたかったけれど、クレアの体は相変わらずどこもちっとも動かない。
そんなクレアの無反応をシャルロットは気にした様子はなく、ただクレアの手を優しく握った。
「あなたにも話しておかないとね。
これは遠い遠い昔……
バレリアンが建国された時代から、今の時代まで続く歴史の話なのだから」
そんな前置きをしてから、語られ始めたのはバレリアン王国の物語だった。
かつてこの大地は、五つの国が水源をめぐって戦争を繰り返す荒れた場所だった。
終わらぬ戦を憂えた初代バレリアン王は、同じく人々の争いを悲しんでいた水源の護り主であるウンディーネと出会う。
ふたりは争いを各国の争いを鎮めてまわり、五つの国を一つの国とした。
いつしか愛し合っていたふたりは結婚し、バレリアン王国の初代王と王妃となった。
――ここまではクレアも知っている。
重要なことはここからだと、シャルロットは唇をつよく嚙んだ。
「初代王は王妃に永遠の愛を誓ってしまった。
王は王妃に永遠の愛を誓ってしまった。人間が精霊に永遠を、約束してしまったのよ」
当然、人間である初代王は亡くなった。残されたウンディーネは永遠の愛を信じている。
愛しい夫の最期の言葉――何度生まれ変わっても君を好きになるという約束も、ウンディーネは信じた。
けれど。
神の娘であっても、神ではないウンディーネには魂の見分け方なんて分からない。大陸をさすらうこと百年。疲れきったウンディーネがバレリアンに戻ると、初代王そっくりの王が彼女を出迎えた。
ふたりは以前から知り合いだったかのように、一瞬で恋に落ちたという。
彼の王子が初代王の生まれ変わりだったかどうかは、わからない。
ただ、ウンディーネはこういう風に約束を受け取ったのだ。
――初代王の生まれ変わりは、初代王の血筋から生まれると。
「でもねぇ。
そうそう何度も運命の恋がうまくいくわけがないわよね。
歴史に残っているかぎり、ウンディーネの夫はあとひとりだけ。……失地王アラン一世よ。
アラン一世とウンディーネはうまくいかず、アラン一世は他に寵愛した女性がいたの」
バレリアンの長い歴史の中で、史上もっとも国の領土を奪われた王アラン一世。
四百年ほど前の王の名だ。
「夫とうまくいかない原因を、ウンディーネは女に愛を盗まれたと思い込んで……女を呪い殺したわ。
そこで終わればよかった。そのふたりだけで終わればマシだった。
――アラン一世の時代からね、王や王太子の妃や愛人がたびたび死ぬようになったのよ。
そうなると貴族は不気味がって王家に娘を嫁がせないから、側室なんてものがうまれたわ」
間違いなくウンディーネの仕業だった。
けれど当時の人々は、ウンディーネを厭うどころか余計に敬ったという。彼らはウンディーネの呪いをひた隠し、王家が水の精霊の寵愛を受けていると喧伝した。
「かくしてウンディーネの茨は、いまでも王や王になる男が愛する女を刺すの。
愛しい夫をたぶらかした痴れ者に、じわじわと恐怖を与えてなぶり殺しにするためにね」
シャルロットは、クレアの胸の上に手を置いた。一番初めに黒い茨が現れた場所だ。
ぐしゃりと紙を握りつぶす音がする。そのすぐ後に聞こえたダリスの声は、しゃがれた髑髏が喋っているかのような怨念のこもった声だった。
「嘘をついたのか」
「あなたの母上ほどじゃないわ」
「そうか」
鞘走る音がする。ダリスが剣を抜いたのだ。クレアは体中の力を振り絞り、ようやく目蓋を開いた。
ダリスが剣を振り上げる。彼の顔は憤怒に彩られていた。いっぽう、ベッドの傍の椅子に座っていたシャルロットは、平然としている。ダリスが自分の背後で剣を構えているのに、気づいていないはずがないのに。
「ダリス……」
クレアの唇から漏れた声は、かすかでしわがれていた。
聞き逃されても仕方ないほどの小さな声だったのに、ダリスはハッとクレアの顔を覗き込む。
蒼い瞳にクレアが映ると、ダリスは剣を手放した。代わりにダリスの手は、クレアの頬や髪を撫でる。
「クレア……。クレア……!」
「ご、めんなさい」
「君がなにを謝ることがある?」
「とても心配を、かけてしまったから……」
言葉を口にした途端に咳き込んだクレアの背中を、ダリスは優しく撫でくれた。
床に落ちた剣がなかったら。シャルロットが側にいなかったら……先ほどのことは夢だと思ってしまうほどに、ダリスは普段通りのダリスだった。
けれど夢ではない。全身に回った茨が、クレアに訴える。
――お前は死ぬ、お前は死ぬ。私の夫をたぶらかしたのだから!
精霊相手に、ただの人間はなにができるのだろう?
途方に暮れるクレアの手を、ダリスが強く握った。
「大丈夫……大丈夫だ。
クレアは絶対に……」
「よくならないわ」
「お前……!」
「次の深い眠りから目が覚めたら、今度は痛みで眠れなくなる。
キャサリン王妃は、痛みで気が狂って針を何百本も飲んで死んだそうよ」
キャサリン王妃は、ダリスの継母にあたる。
彼女は五年前に亡くなっており、死因は落馬だったはずだ。
「みんな、み~んな隠されてしまうのよ。
ウンディーネの面子と王家の体面を守るためにね」
シャルロットは語る。
クレアの生存がいかに不可能か。何百年も昔から呪い殺された女たちの死に様が、いかに惨たらしかったか。
王族や貴族は彼女たちの死に様をどんな嘘で覆い隠してきたのか……。
クレアは息を潜めて、シャルロットの話に聞き入った。
自分の身にこれから起こることを、知りたい。けれど話を聞くうちに、クレアは気づいた。
シャルロットの語る話に嘘の響きはない。
けれど、話を聞く者の怒りや悲しみを煽るような毒がある。毒に煽られたダリスが、シャルロットに掴みかかろうとする。
「だめ、ダリス」
クレアの制止に、ダリスの腕が宙で止まる。
「……君がそう言うなら」
「私のことで怒ってくれているのは分かるよ。でも……」
力でねじ伏せてはだめだ。
シャルロットの物言いには、毒や刺があるけれどクレアのことを思っての言葉だと思うから。
けれどシャルロットは鼻を鳴らし、皮肉っぽく笑ってみせた。
「一国の王太子がまるで飼いならされた犬ね」
またダリスの怒りに火を注ぐことを言う。シャルロットの意図がわからない。クレアが目を開ける前、シャルロットはダリスに殺される寸前だったのに。
――クレアが死の運命から逃れられないなら。
残るふたりには、憎み合うのではなく助け合う関係になってほしい。
そう思い、表情を固くしたクレアに、シャルロットはきつい声で言った。
「あなたが次に言いたいこと、当ててみましょうか?
――どうかダリスと手を取り合って、バレリアンを守り続けてください、でしょ」
「無理だ。君が居ないなら」
「無理よ。わたくしの役に立たない男なんて」
ダリスが間髪入れずに否定し、シャルロットも即座に続く。
そしてふたりは、瞳に憎悪を込めて睨み合う。クレアが目蓋を閉じれば、すぐに命のやりとりが始まるだろう。
どうすればいい。どうしたらいい。どうしてこうなったのだ。
クレアの頭を問いばかりが埋め尽くす。ダリスとシャルロットは、いまだに睨みあっている。
息をするのさえためらわれる沈黙の中、クレアはふっと思いついた。
目を瞑って矢を放つような、そんな賭けだけれど。――それでも。
「あの……
それなら……
ふたりで、私を助けてください……」
ふたりの蒼い瞳が見開くのを見届けて、クレアは目蓋を閉じた。