水蚤
かつての友、ユリファは言った。
——所詮短い命さ、と。
そうだろうかと、当時の私は首を傾げた。
もしかしたらこの宇宙以上の寿命を持っているかもしれないじゃないか。
君は、見当違いな返答しかしない生徒を咎める小学校教師のような口ぶりでこういった。
「頭上を泳ぐ魚の一生を、見届けてすらいないじゃないか」
故人の言葉を思い出す隣で、あの時、彼と一緒に見た成魚の孫が交尾をしている。
私はずいぶんと長生きをしてしまったのかもしれない。それもこの体にあるまじき時間を、だ。
いつも隣にいた友人は既に逝き、生死を共にした伴侶達も皆いなくなった。私の一族は私を残して滅んでしまい、ほとんど族滅状態にある。
彼があの時吐いた皮肉は、皮肉にも私の長生きの基準となった。それはそろそろ3サイクル目に突入しようとしている。
こうして長いこと過ごしていると、ごくたまにだが、見知らぬ顔が私のもとを訪ねてくることがある。
「どうしてなにもしないのですか」
そう問う声に、私は決まってこう答える。何もする気が起きないのさ、動いたところで何もできない。
「それでは、なぜそんなにまで長生きなんですか」
さあ、私が知りたいことだ。
「では、生きていて楽しいですか」
それも、私が知りたいね。
「そうですか。長生きの秘訣ってありますか」
短命の秘術を教えてほしいね。
そして会話はいつもそこで途切れる。
それは相手が、自分の欲している回答が満足に得られなかったときばかりではない。私たちは自然という、我が身の母にして最大の敵と隣り合わせなのだから。
今も目の前に、自然の敵の具現ともいえる存在が、体をくねらせて尾びれをしならせながら悠々と泳いでいる。あの者のもつ大きな口に、周囲の水ごと飲み込まれて、帰るものは一人もいない。こうして一人、また一人と、私との会話中に隙を突かれて、彼らは血肉とされるために喰われていく。
その度に、私は考えさせられる。
なぜ私ではなかったのか、私ではいけなかったのか、と。
若い彼らはすぐに喰われて、腐りかけた私は一人取り残される。魚は話している私たちめがけて一直線に突っ込んでいき、数々の同胞を巻き込み、挙句、会話相手をも飲み込んで上に行ってしまう。魚の突進の同一直線上にいるのに、若者は食われて私は見逃される、この違いはいったい何なのだろう。
どうして私はこんなにも生かされなくてはいけないのか。
今まで散っていった友人たちと同じところに往くことを許されず、毎回一定数死んでいく冬の寒さにも見放され、捕食者たる魚にも相手にされない。最近では、そんな所以で、自分よりはるかに若い同胞からも忌み嫌われてしまっている。
おそらく、何かがどこかで、疑いようのなく完全に、成す術なく完璧に、もはや再起不能にこじれてしまったのだろう。
複雑極まる入り組み方をしてしまい、伸び続けながら各所でほつれて絡まった結果、出口はかつての糸の中に潜りこみ、そうなるとほどこうにもほどけない。糸くずのようなものをほぐしたところで、見えてくるのは糸を串刺しにしながら伸び続ける事象の頭であって、かつての物事の本質は混ざり合って意味をなさない。切ろうにも、そうしてしまっては意味を読み取ることは不可能になってしまい、伸びるのを防ごうと頭をつかんでも、事象は危険を察知して一瞬前の自分の体を遡るように串刺して逃げてしまう。
このようにして混迷を極め、元の状態の推測をすることが最早不可能な事態にまでなってしまった筋道に対して、私が出来ることと言えば、ただ翻弄されることしかない。
こんな風になってしまったのは、友人との、あの会話が原因ではないかと、思いはしない。
いくつもの契機が折り重なって今を形成したのだろうと考えるのが妥当で、ならばあれはただの原因の一片に過ぎないのだから。
第一、魚の一生は見届けても、宇宙の一生はまだ見届けていない。
どうやら交尾の最終フェーズが終了し、各々がしたいことをしに、すべきことを成しに、それぞれ動いていく。片方はおそらく卵をつけるに手ごろな水草を探しに行ったのだろう。もう片割れは、見えているはずの私を無視して目の前の同胞に襲いかかっている。
ふと、忘れかけていたことさえ忘れていた情景が浮かび上がる。
友人の一人を失った会話を展開していたとき、頭上で魚たちは確かに交尾をしていた。
会話の最中に彼は食われることになったのだが、その際彼を食した魚はひれに何やら大きな怪我を負っていたのだった。
なぜそれが今急に思い起こされることとなったのかは分からないが、その事実は、かなりの衝撃を伴って、私の体を電撃が駆け巡った。
ついさっきまで見ていたつがいの片方は、同じ怪我を持ってはいなかったか。
もしや、とその魚のほうを振り向いた瞬間、口を開けてその魚がこちらに突進してきていたことに気が付いた。
ようやく、という私の願いは空しくも砕け去り、魚は眼前でその口を閉じて硬直した。
たかだが一瞬だけで、気が付くと既にどこかへ去ってしまっていたが、おそらく彼が伝えようとしていたことを伝えるのには、それを私が理解するのには、十分すぎる時間だった。
きっと彼もほつれてしまっていて、しかもそのことにとっくに気付いていたのだろう。そして、私もそうであることを、私が気付く以前から知っていたのだろう。
思わぬ同胞の存在に驚きつつ、先ほどの突進でずれてしまった位置を直すため、前方に大きく飛び出した二叉の腕を動かし、地道に進んでいく。この生命の灯が果てるのは何時になるだろうと、定位置についてから思い、詮無いこととして、そんな思考を放棄した。
たゆたう水の揺らぎの奥で、幽かに映る欠けた背びれが動いているのを見詰めながら、私はゆっくりと目を瞑った。
初めまして。こんな感じの話を不定期でぼちぼち書いていきます。




