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魔法なんか存在するか!  作者: モチュモチュ
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悪魔達

 保健室に朱美を運んだ後、俺は真っ先に羽間の元に向かっていた。


「答えろ! 朱美に一体何をさせてるんだ!!!」


 俺の剣幕に驚いた様子の羽間にセバスが軽く耳打ちを行う。俺の後を追い掛けて来たのか梨華と工口も理事長室に飛び込んで来る。


「朱美さんが怪我を負ったのですわね」


「ああ、全身に打撲、骨にヒビが入っている可能性もあるって……」


「森にあの様な危険な生き物が出るとは聞いていやがりません」


「ああ、生き物つーか、化け物だけどな。それに贄の扉? そこからヤバい物まで出て来て……ポチ郎が来てくれなかったら死んでた所だぜ」


「贄の扉ですか……贄の扉が現れたにも関わらず、被害がこれ程で済んでいるのは、まだ存在が安定していないと言う事ですわね。ですがそれにも関わらず彼女が敗退を余儀なくされたのは痛いですわね」


「あ、ああ、血肉で出来た気持ちの悪い扉だぜ」


「下らない、偶々扉の形っぽくなっただけだろ」


「あんなのが偶々出来て堪るかってーの! つーか、贄の扉の事チラッと話してなかったか? 99体の生贄とかサタンとか、確かに言ってたぜ」


「だから悪魔なんて存在しない!」


「あんなの見てまだそんな事言ってんのかよ! あんな化け物、悪魔じゃなかったら何だって言うんだよ!」


「野生のイノシシだ!」


「イノシシの訳ねーだろ! 明らかに触手だった! デカいミミズだって言われた方がまだ信じられるぜ。お前も見ただろ扉から出て来た2本の触手を! 見てないとは言わせないぜ!」


「……分かった。確かに触手だった。でも所詮は野生の触手だ。山に居ても可笑しくない」


「可笑しいからな!? 野生の触手って何だよ!? 聞いた事もねーよ!」


 羽間は俺達のやり取りを聞きながら『ふう』と小さく息を吐き、口を開く。


「まだ香さんは私の説明を聞ける状態ではありませんわね」


「聞ける状態って何だよ、至って冷静だ。十分聞けるぞ」


「なら言いますわ。魔法の存在も悪魔の存在も頑なに信じない人に説明しても無駄ですわ。彼女の事情を考えれば、魔法くらいは受け入れられる状態にして置きたかったですわね。……彼女の話しを聞きたければ魔法や悪魔の存在を認める事ですわ」


 気持ちが大きく揺らぐ。彼女の抱えている事情を知る為に魔法の存在を認めろと言う自分と、魔法の存在を認めないと誓った今までの自分がせめぎ合う。グルグルと巡る思考はやがて今の状況も羽間が俺に魔法を信じさせる為に仕込んだ事ではないかと思えて来る。

 だけど結局、彼女が抱えている事情を知りたいと言う気持ちが勝ってしまう。数年越しにやっと再会出来た彼女が何かで苦しんでいるなら助けになりたいと思ってしまう。


「そのやり方は卑怯です! 後出しじゃんけんです。話しを聞いてそれから判断する権利が――」


「もう良い、分かった。魔法を――」


「――殿、その様な取引に応じる必要はありませぬ」


 その声に振り返ると、多少よろめきながらも確りとした足取りで理事長室に入って来る朱美の姿があった。


「少々厄介な獣に襲われただけの事。1度は情けなくも相手の情けで見逃されたが、2度目はない。この刃を確実にあの者の身に叩きつけてくれる。私に止めを刺さなかった事、後悔させてくれるわ」


 朱美は腰の刀を引き抜き、力強く一振りして、静かに鞘に納める。そして俺の顔を見てニコリと笑みを浮かべたかと思うと、その場に崩れ落ちる。俺よりも先にセバスが崩れ落ちる彼女の体を支えて、そのまま理事長室を出て行く。


「安心して下さい。ここの保険の先生は、数々の奇跡を起こしたと言われている無免許ドクター、スプラッター洋子ようこさんですわ。彼女に任せてればどんな怪我も一晩で完治しますわ」


「不安要素しかないぞ。無免許にスプラッターって不安しかないけど!?」


 部屋を飛び出し、朱美を追い掛け様とした俺を羽間は呼び止める。


「彼女の信仰力は、悪い部分から血を吹き出させれば完治すると言う物ですわ。彼女のお陰で屋上からホウキに乗って飛び降りた少女も岩を食べた青年も2週間の入院で完治する事が決まっていますの。朱美さんなら2日もあれば完治いたしますわ」


「すぐにちゃんとした病院に連れて行った方が良い気がして来たんだけど」


「それは止めた方が良いですわ。洋子さんは治療の最終を邪魔されるのが何よりも嫌いな様で、邪魔して来た人をナイフでめった刺しにしてチェーンソーで切りつけるそうですわ」


「殺人鬼だろ! 医者じゃなくて殺人鬼の行動! ……無免許だから医者じゃないのか」


「香、実績があるんだし、ここは任せようじゃねーか」


 俺の肩に手を乗せながらそんな事を言って来る工口を殺気の籠った視線で睨む。


「今すぐお前のそのデカい顔に鉛筆を10本突き刺してそいつの元に送ってやっても良いんだぞ」


「お前の思考の方がよっぽど殺人鬼だろーが!!!」


「とにかく今日はもう遅いですわ。寮に戻って下さい」


「あ、まだ話しは終わってやがりません! 今まで通り、魔法か阿呆かの判断は――」


「早く戻らなければ寮の夕食に間に合いませんわよ」


「ここの寮の料理を食べ損なうとか俺は絶対に嫌だぜ。今日の夕食は何か昨日の朝から楽しみにしてたんだぜ」


「いくら何でも早過ぎるぞ。せめて昨日の朝食後からにしろよ」


「昨日の朝には変わりねーだろーが!」


 俺は工口を追って理事長室を出る。理事長室を出る時、俺はこれでもかと恨みがましい視線で羽間を睨み付ける。

俺は、羽間に朱美を人質に取られている事実を改めて思い知らされるのだった。


 学園の廊下を1人で歩く。今自分が何処に向かっているのかも分からず只、歩き続ける。そんな俺の前に黒い影が現れる。影はゆっくりと人の形を作り、黒い刃を何の躊躇もなく俺のお腹に突き立てる。痛みはなかった。でも、何も出来ないと言う思いが体中から溢れて壊れそうだった。


「――はあ、はあ……夢か」


 体を起した俺は、立てた机の上に登り、天井に耳を押し当てている工口に冷たい視線を向ける。


「何してるんだ?」


 俺の方に視線を向けた工口は一睡もしていないのか瞳が血走り、目の下に分かり易い程の大きなクマを作っていた。


「見て分からねーか? 勿論――」


「――いや、言わなくて良い」


「上には3人、そこと、そこ、そしてここで寝てる事までつき止めたぜ。寝息が可愛いのはこの子、そっちの子は歯ぎしりしてたぜ。寮生活って良いな、なんで俺は最初から寮のある学校に行かなかったのか悔やまれるぜ。合法的に女の子達と1つ屋根の下で眠れるんだぜ? あー、夢が広がるぜ。だって寝てたら屋根が抜けて上から女の子が落ちて来るかも知れないんだぜ。そうなったらもう、あれだぜ、あれ!」


「なあ、工口……」


「ん? なんだ?」


「お前って気持ち悪いな」


「しみじみと言うの止めようか! 本気で言ってる様に聞こえるから!」


「いつも本気だぞ」


「え? マジ?」


 俺は黙ったまま支度を始める。


「あの! 黙らないで欲しんだけど!? そこで黙られると色々とキツイぜ」


「ハゲハゲ工口、キモイ死ねー」


「悪意しかない歌も止めろや!」


「悪意からの歌じゃない、本気の思い、魂を込めて歌ってる」


「もっと悪いだろーが!」


 朝食を食べに食堂に向かう。


「殿! こちらへ、昨日同様毒味は済ませている故。今日はトーストとコンソメスープ、スクランブルエッグにベーコンと西洋料理である」


 俺は一瞬思考が泊まる。昨日と変わらない様子の朱美を見て、目を擦る。夢でも幻でもなく彼女はそこに居た。


「おいおい、ピンピンしてるじゃねーか……何で睨むんですかね? まだ何もしてませんよね!? ……料理取って来るから、香、隣の席確保して置いてくれ」


 工口が確保を頼んだ席に何食わぬ顔で梨華が座り込む。工口は寂しそうな表情を作り無言で朝食を受け取りに向かう。


「どうやら、ドクター洋子の治療が上手く行った様です。あれ程の怪我をどう直したのか、科学的な観点から調べてみたいです」


「む、貴殿は昨日、殿と行動していた……」


「私は三津葉 梨華、科学者です。この人が余りにも頼りないので私も参加する事にしました。よろしくしやがって下さい」


「貴殿は今、殿が頼りないと申したのか?」


 周囲の空気が一瞬にして張りつめた物へと変わる。朱美はスッと手に持っていた箸を音もたてずに置く。


「そうです。何人も保留者を出し――」


「殿の何処が頼りないと申すつもりか!」


「だから既に何人も保留者を出しやがった所です! 昨日も科学的に検証出来る事がまだまだあったにも関わらず保留にしやがりました」


 1歩も引かない2人の視線が交差し、バチバチと火花を鳴らす。いつ刃傷沙汰になっても可笑しくない状況に俺は慌てて止めに入る。


「止めろって、梨華も、朱美だってまだ病み上がりだろ?」


「嫌です! 何か気に食いやがりません! 理事長と同じ天敵の臭いがしやがります!」


「気力体力共に全快故、殿が心配なされぬ理由はない!」


「でも昨日はぶっ倒れたんだぞ?」


 心配する俺の言葉を上から、梨華は挑発する様な言葉を重ねて来る。


「手酷くやられやがったみたいですね」


「やられた訳ではない! 昨日のあれは、敵を見誤り技を外した事が敗因。敵はまだ実態を持っていなかった。それ故に魔天道長流奥義、翔臥しょうが剣を外してしまった」


 そこに工口が戻って来る。工口はさりげなく朱美の隣の席に腰を下ろす。


「最悪だぜ。皆がお代りして、ご飯が殆ど残ってないとかでいつもの量の半分にされちまったぜ」


「良かったな、その顔だけどちょっとは痩せた方が良いからな」


「顔は痩せようがねーからな! 骨格から可笑しいんだよ……何を言わせんのや!? それで道長さん、剣を外したのか? ちょっと聞いた事あるぜ、剣とか技って外した時の方が疲れるって、スポーツ漫画の受け売りだけど」


「顔がデカい癖に良い事を言う。翔臥剣は高速で剣を上下に振る事で空間を引き裂く斬撃をその場に残す技、敵を仕留めるまで斬撃はその場に残り続け、そして敵を仕留めるまで引き裂かれる空間は広がり巨大化し続ける。敵を見失った翔臥剣はあの場で唯一動く事の出来た私を敵だと認識してしまった。大きな技を放った直後、翔臥剣を返せる程の技を放てぬと悟った私は堅牢の構えにて正面から技を受け止めた。昨日の怪我はその時に負った物よ! 敵に負わされた物ではないわ!」


「俺が考えてた話しと色々違うけど!? つーか、そんな技食らってあの程度で済んだって事実の方が恐ろしーぜ」


「敵に当てられなかった地点で敵の策に敗れたって事です」


「――っ! 刀を持った事をない者が言ってくれる!」


俺が止めようと間に入った事で逆に燃料を投下した様な形になってしまう。睨み合いの末、先に仕掛けたのは梨華だった。


「ふん、良く見れば随分科学的ではない格好です。時代遅れも良い所です」


「時代? 下らぬ。武を目指せば自然とこの姿に辿り着く。既に非の付け所ない程に完成された物を時代遅れと申すつもりか?」


「その考え自体が古いです。いいえ、傲慢です。技術と言うのは常に進歩し続けます。この世に完全に完成された物等1つも存在しません」


 一触即発の雰囲気に俺は見守る事しか出来なかった。息の詰まる様な空気に耐えきれなくなったのか、工口はそっとお盆を持ち上げてその場から静かに離れようとする。


「完成された物等存在しないか、良い事を言う」


 朱美の相手を認める様な言葉に俺は心の中で安堵の息を吐く。しかしそれも束の間、朱美は刀を抜き、その場から離れようとしている工口の額に突き付ける。


「しかし殿への侮辱は許さぬ! 撤回して貰う。でなければ斬る」


「誰をですかね!? 道長さん、一体誰を斬るんですかね!? 刀を構えた時、偶々そこに、俺が居たってだけですよね!?」


「嫌です。私は事実を言っただけです。その事実が覆らない限り、発言を撤回する気はありません。例え彼の大きな顔が半分になっても撤回しません!」


「しようよ! こう言うのは普通自分の痛みには耐えられても人の痛みには耐えられないって相場が決まってる物だろーが!?」


「その覚悟は良し、殿にも私が全快している事を知って貰う良い機会だ」


 朱美が刀を静かに振り上げた時だった。犬が飛び出し、工口を庇う。


「わふ!」


「訳します。ポチ郎は『僕は人間に戻る為人間らしく振舞う事に決めたんだ。彼が傷付くのを黙って見ていられない』と言ってやがります」


「ポチ郎! 言語量が明らかに合ってねーけど、俺は信じていたぜ。必ず来てくれるって! 相棒って呼ばせてくれ!」


 工口はポチ郎にしがみ付き、その大きな顔で激しい頬ずりをする。ポチ郎は分かり易く嫌そうな表情を作るが、その場を退こうとはしなかった。


「ポチ郎は『相棒は無理』と言ってます」


「……。いや、何でも良い、こうしてピンチに駆け付けて来てくれただけで嬉しいぜ」


「退け! 獣よ。その男は殿の為に自ら命を投げるべき責務を放棄し、逃げ出した生きる価値を僅かも持ち合わせておらぬ男よ。例え殿の命を守った恩人であっても――」


「俺はこいつの家臣じゃねーから! 自ら命を投げ出してまで守る責務とかねーから!」


「昨日、私は翔臥剣の欠点を知ってしまった。その欠点を克服する術を考え、真翔臥剣を組み立てた。殿、この者で試し斬りをさせて貰いたい。1度で構わぬ故」


 朱美が俺に向かって頭を下げる。


「はあ、仕方ないな。1度だけだからな。2度目はないぞ」


「1度目もねーから!? 1度目で死ぬから!?」


「あのな、峰打ちに決まってるだろ」


「うむ、峰打ち故、安心せよ」


「峰打ちでも死にますよね!? あなた木刀で岩を斬れる人ですよね!?」


「堅牢の構えをすればかすり傷程度ですむだろ」


「出来ねーよ!!!」


 朝食を終えてすぐ、各々授業を受けに向かう。昨日の段階で分かっていた事だが、授業の半分は小学生達と肩を並べて受ける事になる。最初は気恥ずかしさや情けなさ等があったが、実際に授業が始まるとなんて事はなかった。年齢なんかはバラバラで、誰も俺の事を気にする素振りすら見せなかった。

 因みに朱美と幾つか同じ授業を受ける事になり、それはその間も彼女の様子を確認していたが、特に無理をしている様子はなかった。如何やら全快と言うのは嘘でも見栄でもなかったらしい。


 昼食後、合流した俺達は昨日と同様に理事長室に向かう。


「くそー、あのガキ、俺の事を散々馬鹿にしやがって!!!」


「顔の事を言われたくらいで一々怒るなよ」


「顔の事だって決めつけて来るなや! 授業の小テストの点数とか中身の事だよ! 小学生くらいのガキが一々、俺と点数とか、当てられた問題をサラッと解いたりして俺に勝ち誇った顔をしてくんだよ! あー、思い出しただけでも腹立つぜ。お前の所はどうなんだ? そんな憎たらしいガキとかいねーのか」


「居る訳なかろう。殿にその様な態度を取る者が居れば打ち首にしてくれるわ!」


「……冗談に聞こえねーけど、教室内で恐怖政治でも行われてんじゃねーだろーな」


「こっちは年相応の小学生の方が少なかったくらいだぞ。だからワイワイもしてなく、それぞれ黙々とって感じだ」


 その時だった俺のお腹が大きな音を鳴らす、それに呼応する様に工口のお腹も鳴る。


「香もか、何か今日は自棄にお腹が空くぜ。ご飯、お代りしたんだけどな」


「お前と一緒にするな、これは消化の音だぞ。必要な分はちゃんと食べた」


 理事長室が見えて来たタイミングで、フライングボードに乗った梨華が背後から追い掛けて来る。彼女の背負うリュックは昨日に増して膨らんでおり、今にもはちきれそうだった。


「今日こそは保留者を1人も出しません! その為に朝から色々準備して来ました。どんな輩が来やがっても科学的に分析して魔法じゃなく科学だと証明してやります」


 俺も改めて気合を入れ直す。今日も羽間がどんな手で魔法を認めさせようとして来るのか分からないので気が抜けない。

 理事長室のドアを開け、中に入る。中には既に生意気そうな子供が居り、ふて腐れた様子で風船ガムを膨らませていた。


「あ、お前、クソガキ! 俺がさっき言ってた奴、こいつだぜ、こいつ」


「顔デカアホ野郎が来たみたい、でも残念だよ、僕の生きる風船ガム魔法を見せられないなんて、ち、つまんないの」


 その子供は理事長室を出て行く際、工口の脛を思いっきり蹴り付けて出て行く。


「――っ! あのガキ!」


「どう言うつもりですか? 彼が今日の検定対象ではなかったのですか」


「ええ、でもキャンセルさせて貰いましたわ。今日は別の方の検定をして貰いたいと思いまして」


 羽間はパソコンと称している段ボール箱から資料を引っ張り出して俺に手渡して来る。


「年齢16歳、女性、名前は……道長 朱美ですわ」


 羽間の言葉に俺達の視線が朱美に注がれる。彼女は居心地が悪そうに1歩足を引き、刀に手を携える。


「おいおい、彼女自身が剣技だって言い張ってんだぜ。今更、魔法だって話しは無理がないですかね、羽間様」


「ああ、本人が剣技って言ってる以上、全部剣技だろ」


「ええ、それは事実、全て修行の末獲得した剣術、否定しませんわ」


「あれを剣技だって断言されたらされたで、可笑しな感じになるぜ」


「そもそも朱美さんの信仰力は全く別の物ですわ」


「殿の前でその話しは止めて貰おうか……例え理事長が相手でも斬る」


 そう言った朱美の言葉が本気だと言う事は確認するまでもなく分かってしまう。彼女から息が詰まる様な凍てついた空気が流れて来る。彼女の方に不用意に振り返った工口なんかは、震えながらその場に尻餅を着いてしまう。


「贄の扉の出現、昨日の敗退を考えれば、このまま事情も話さずに居る方が危険ではありませんの? どんな形であれ、協力を取り付けて置くべきだと判断しますわ」


「――くっ、しかし、それは……」


「彼女の信仰力は悪魔を出現させる事ですわ」


 羽間の言葉に俺は朱美の方を振り返る。彼女は俺が振り向くのを見るや否や、素早く理事長室を飛び出してしまう。俺があっけに取られている間に羽間は話しを進めて行く。


「5年前、彼女は心の底から悪魔の存在を願いましたわ。その強い信仰心は現実を捻じ曲げ、悪魔を現実に出現させる魔法となりましたわ。その結果は言う間でもないですわね。5年前の悲劇ですわ」


 赤く染まる教室、黒い人の形をした何かが迫って来る光景、忘れたくても忘れる事の出来ない光景に俺は吐き気と共に立ち眩みを起してしまう。


「お、おい、大丈夫か香?」


「ああ、工口の顔を見て少し吐き気がしただけだ」


「心配した俺の気持ちを今すぐ返せや!」


 俺はフラフラとソファーに座り込む。気持ち悪い。まるで風邪でも引いてしまったかの様に思考が働かない。


「昨日出現した中位悪魔のメデュサも彼女の信仰力による物ですわね。この悪魔は生物に取り付く寄生虫に近いですわ。取り付いた生物の体内の臓物と欲を食らいつくし、支配する悪魔ですわ」


「ちょ、ちょっと待て? え? つー事は、道長さんは自分で出した悪魔と死にそうになりながら戦ってるって言うのか? ……戦闘狂の民族かよ、意味分からないぜ」


「1度魔法となるまでに昇華した信仰心を覆すのは非常に難しいですわ。うつ病患者の治療が難しいのに、現実として悪魔が彼女の周りに出現し続けるのです。記憶を全て消さない限り、信仰心を消す事は出来ませんわ。1度、悪魔の出現を願い、現実にしてしまった彼女は一生悪魔と付き合って行く事になりますわ。だから彼女は悪魔に対抗する為の力を止めて剣の道を進み始めたのですわ」


「昨日現れた生物が悪魔だと言う根拠が何もありやがりません。そんな状態で悪魔の存在を認める事は出来やがりません。そもそも悪魔と言う生物の見た目や知能レベル、目的等の定義から協議が必要です」


 羽間は鬱陶しい物でも見る様な視線を梨華に向け、彼女に聞こえる様にため息を吐く。


「面倒くさいですわね。朱美さんが悪魔だと思った物が悪魔ですわ」


「そんな主観的な基準は科学的とは言えません。客観的な基準が必要です」


「なら現行の生物に存在しない生き物全般ですわよ」


「新種や宇宙生命体と言う可能性もあります! 悪魔と言う根拠にはなりやがりません!」


「そもそも、ここで登場する悪魔は彼女の信仰力によって生み出された存在の事ですわ。世間に存在する一般的な悪魔の定義について議論するつもりはありませんわ。全ては彼女次第、彼女の主観的な基準ですわ!」


「なら、彼女がこの顔デカを悪魔だと言ったら、急にこの顔デカが悪魔と言う事になりやがるんですか! 彼女は何度か、彼を悪魔だと断じています!」


「こんな顔のデカい人間、存在しませんわ。悪魔ですわよ、悪魔」


「生物学的には人間ですよ! こんな大きな顔でも一応人間です!」


「知りませんの? 悪魔は人の心に巣食う個体も多いですわ。触手を生やして暴れ回るだけが悪魔ではありませんわ。こんな品性も欠片もない下劣で矮小な心を持った方、悪魔以外の何物でもないですわよ」


「ねえ! 遠回しに俺の事ボロカスに言うの止めよう!? 本人を前に言う事じゃないですよね!? 香も止めに入ってくれや、長い付き合いだろ? 俺が悪魔じゃねーって否定出来るのお前だけだぜ」


「……お前、本当に工口か?」


「ここでそのネタは止めろ! 変な感じになるだろ! 本当に悪魔って事にされかねないだろーが!」


「香さん、先程からこちらの会話に参加して来ませんが、やはり、悪魔の存在を認めるつもりはありませんか?」


「――っ」


 いつもの様に『当たり前だ、認めるか』と言おうとするが、何故か言葉に詰まってしまう。これが羽間の作戦なら俺の弱みを的確についた恐ろしい作戦と言う他ない。俺は慎重に言葉を選びながら口を開く。


「悪魔の存在を認める気はない……でも、彼女に何が起こってるのか知りたい」


 慎重になった結果、出て来た言葉は俺にとって都合が良いだけの物だった。


「随分都合が良いですわね。悪魔の存在を認めてくれなければ、ここ先の話しは真面に出来ませんわ」


 羽間と視線が交差する。互いに互いの事を探る様な視線、お互いに妥協点を見付けようとしているのはすぐに分かってしまう。こう言う時は先に動いた方が負けると相場が決まっているが、今回は先手を取った方が有利だと直感が告げていた。


「悪魔の存在についてお互いに言及しないと言う条件なら話しを進めても良いですわ。もちろん梨華さん、あなたもですわ」


「だから悪魔の定義が――」


 梨華が粘ってくれようとするが、先程の彼女の提案以上の条件を引き出せるとも思えず、俺は話しを先に進める事を優先する。


「分かった。それで構わない」


「何を考えているんですか! これは明らかな罠です! 気づいたら悪魔の存在を認めた事にされるに決まっていやがります。悪魔の定義については明確して置くべきです! それにです、理事長と朱美は『贄の扉』と言う共通のワードを使っていました。2人の間で何らかの繋がりがあるのは明白です、何か企んでやがります」


「その辺りも説明しますわ」


「本当だろうな?」


「嘘を吐く理由もないと思いますわよ。さて、何から話しましょうか。まずは彼女にとっての悪魔からにしますわ」


 羽間は懐から例の黒く不気味な魔導書を引っ張り出す。


「元々彼女に悪魔の具体的なイメージはありませんでしたわ。あるのは抽象的なイメージ、恐ろしい何かと言う物。抽象的な存在程危険な物はありませんわ、ちょっとした事で手の付け様がない化け物を生み出し兼ねませんわ。だから私は彼女に悪魔に関する知識を与えましたわ。これでも私は悪魔を召喚して使役する魔法使いですわ、悪魔に関する知識なら誰にも負けない自信がありますわ。だから現在の彼女が悪魔と定義する物は全てこの魔導書『悪魔辞典』に描かれた悪魔達ですわ」


「余計な事をしやがった様にしか思えないです」


「相変わらず失礼ですわね。彼女の周りから悪魔を消し去る算段も立てての事ですわ。こうもポンポン無秩序に悪魔を召喚されては迷惑極まりありませんわ。中には危険な物も多く混じっていますわ」


「消し去るって、どうやってだ。信じ込んだ事を覆すのは難しいんじゃなかったのか?」


「ええ、否定して、なかった事にするのは、記憶を消すくらいの事をしなければ不可能ですわ。ですが信仰心の延長線上に消滅と言う結果を上乗せしてやれば、自然な形で彼女の周りから悪魔を消す事が出来ますわ」


「なるほど……つまりどう言う事だ」


「分かってねーのかよ」


「具体的に言えば、全ての悪魔を消滅させた、もう現れる事はない、と思わせれば、彼女の周りから悪魔も自然と姿を消すと言う事ですわ」


 それはとても納得の行く考えだった。


「……でも悪魔を全部倒すとか無理だぞ。悪魔の想像が止まらない限り無限に湧いて出て来るものじゃないのか?」


「ええ、普通に悪魔を倒させて行っても無理ですわね。ですので、3柱と呼ばれる悪魔を従える最上位の悪魔の存在を彼女に教え、それらを倒す事で全ての悪魔を葬る事が出来ると話しましたわ」


「でも、嘘だってバレたらどえらい事だぜ」


「顔デカキモブスが何を勘違いしているか分かりませんが、別に嘘ではありませんわ」


「格ゲーのコンボみたいに悪口を叩きつけるの、止めようぜ……本当に止めて下さい」


「3柱は悪魔達の力の象徴ですわ。この悪魔辞典に登場する悪魔達はこの3柱によって生み出されたり、力を分け与えられたりしていますわ。その悪魔達の力の源とも言える3柱を倒すと言う事は、全ての悪魔を消滅させる事と同義ですの」


 俺は羽間の話しを精査して行く。とは言っても悪魔の存在を言及しないと取り決めた以上、湧き上がる疑問や質問の殆どが意味をなさない物だった。梨華は相変わらず不満気な表情を作り、俺達の話しを静観している。


「それってさ、3柱って物凄くつえーんじゃねーのか?」


「当然ですわ。3柱の1体目は、冥界を司る神と言われし存在、冥王ハデス。死その物と恐れられ、死した全ての物はハデスの支配下に落ちてしまいますわ。ハデスが見た物、触れた物、声を聞いた物、その全ては速やかに死を迎え、冥界に引きずり込まれますわ」


 羽間が開いて俺達に見せて来た悪魔辞典には手書きで黒い羽衣を来た不気味な容姿をした痩せこけた人の姿が描かれている。


「いきなり化け物じゃねーか。そんなの現れたら普通に終わりじゃねーか!」


「そう簡単に現れませんわよ。ハデスがこの世に顕現する方法は煉獄の門を通る事のみ、その煉獄の門がある場所は全て等しく巨大な封印石、そしてその封印石を守る森神の巨大なクマによって守られていますわ。封印石を破壊して森神の血を捧げたりしない限り、煉獄の門が開いたりはしませんわ」


「……開いちゃってるじゃねーか!!! 巨大なクマと岩を壊した話し昨日聞いたんだけど!? それじゃねーか!?」


「落ち着け工口、話しを紐付けし過ぎだ。関係ないに決まってるだろ」


「ああ、知っていたのですか。ええ、彼女は既に冥王ハデスを討ち果たしていますわ。今の彼女の刀や防具はそのハデスを使って作られた物ですわ」


「思いっきり関係してるじゃねーかよ!!! つーか、倒してのかよ!? 見ただけで死ぬ様な化け物をどう倒したんだよ」


「その時の戦いで天魔道長流を完成させ、一刀両断したそうですわ」


「もうどっちが化け物なのか分からねーぜ」


「朱美が化け物に見えるなら眼科に行った方が良いぞ。彼女は普通の女の子だぞ」


「お前こそ眼科に行けや!」


「コホン、3柱が2体目は、全ての悪魔を従えし存在、悪魔王サタン。名の通り全ての悪魔を従える悪魔の中の悪魔ですわ。ありとあらゆる魔と欲を操る事が出来て、サタンの前では、人は全ての欲を抑えられなくなり、欲のままに動く獣と成り果て、悪魔に落ちてしまうと言われていますわ。サタンには腹心とも言える7つの大罪を司る悪魔達がいて、その悪魔達は常に人を苦しめ貶め、魂を醜く染め上げ、悪魔達の贄にしているそうですわ。サタンが顕現した時、地上は悪魔達の宴の会場と化し、人類は滅びを迎えると言われていますわ」


 羽間が見ていたページには天使と争う悪魔が絵描かれた絵画が張り付けられている。


「待ってくれ……いやいや、待とうか! 羽間様、限度と言う物がないですかね? 人類滅びてるじゃねーか! そんな化け物を呼び出して倒そうとしたら人類滅びるじゃねーか!?」


「ああ、そんなのを顕現させようとするなんて正気じゃないぞ。なんでもっと弱い設定にしてないんだ!」


「99体の悪魔に取り付かれた生き物を捧げて作った贄の扉から無理矢理サタンを顕現させれば、サタンも悪魔の軍隊を急に準備出来ませんわ。精々用意出来るのは腹心くらいですわ。その場合、地上を半壊させる程の被害で済みますわ」


「それなら何とかなるか」


「ならねーだろ! 半壊してるじゃねーか!? って、ちょっと待て……3柱って事はこれ以上の化け物が居るって言うのかよ……」


「ええ、最後の柱は……全ての悪魔の料理を任されし存在、コックですわ」


「物凄く場違いな奴が混じってませんかね!? ラスボスとか裏ボスが並ぶ所に、雑魚敵が混じってないですかね!? 話しの流れ的にルシファーとかそう言うのが出て来る物じゃねーのかよ」


 羽間が開いた悪魔辞典のページには絵はなく、はてなマークが大きく描かれているだけだった。如何やら見た目に関する情報はないらしい。


「ルシファーはサタンの別名ですわ。中途半端知識で悪魔の事を語らないで欲しいですわ! コック、それはもう恐ろしい悪魔ですわ。場合によってはサタンやハデス以上に恐ろしい悪魔ですの」


「ゴクリ……そいつら以上ってマジかよ」


「ええ……コックは人の魂を使って悪魔が食べる料理を作るのですわ」


 数秒の沈黙の後、工口が口を開く。


「……それだけ?」


「それだけとは何ですの。人間を料理するのですわよ。十分恐ろしいですわ」


「確かに恐ろしいな! 人を料理にする悪魔って怖いぜ。そんな悪魔が目の前に現れたら、ちびる程怖いぜ……でもサタンとかと比べたらショボいのよな! 格下も格下だろーが!?」


 そこで今まで黙り込んでいた梨華が口を開く。


「贄の扉が出現したと言う事は、サタンは既に顕現してやがると言う事ですか? 最初に言っておきますが、あなたの話しを鵜呑みにしたつもりはありません。死体を積み上げて扉を作れば物質転送装置になると言う科学的な根拠が全くありやがりません」


「それでも現れるから魔法と表現出来るのですわ」


 梨華は苦虫を噛み潰したような表情を作りながら羽間を睨み付ける。


「それに、そもそも大前提を間違えていますわ。悪魔を顕現させるのはあくまで道長さんの信仰力ですわ。贄の扉が出現したからサタンが出て来ると言う訳ではありませんわ。贄の扉はあくまで前提条件、彼女がサタンを顕現させる為の準備が整ったと言うだけの事。サタンの顕現は彼女次第ですわ。昨日の段階で完全に出現出来なかったと言う事は、まだ彼女の中でサタンが顕現する為の前提条件が整ってなかったのだと思いますわ」


「このまま整わねー方が良い気がするのは俺だけか」


「それもおそらく時間の問題だと思いますわ。彼女自身、サタンとの対峙を望んでいるのですから」


「サタンの特徴とか弱点は?」


「最強の悪魔ですわ。弱点なんかありませんわよ。特徴と言えば、見る物全てを魅了する程のとても美しい見た目をしているそうですわ。元々は天使ですから。堕天して頭に黒い捻じれた2本の角と漆黒の翼が生えてるので一目見れば分かりますわ、おそらく」


「おそらくって……」


「サタンなんてとんでもない存在、私自身見た事はありませんわ。それにサタンの姿は道長さんのイメージの影響を強く受けますわ。彼女がサタンをどう捉えているかで見た目も大きく変わると思いますわ」


「ちゃんと弱点とか作って置いて欲しいぜ、例えば背中のボタンを押したら爆発ぶぐはっ!? ちょ、何すんだよ!」


 工口は突然、梨華にドロップキックされ俺を巻き込みながら倒れ込んで来る。俺は、倒れ込んで来た工口に対して怒りが抑え切れず、彼の顔に何度も拳を叩き込みながら起き上がり、床に倒れ込む工口の顔を力の限り踏みつける。


「冗談で済まない力の掛け方だけど!?」


「ああ、何か工口の顔を見てたら急にムカついて来た。悪気はないんだ」


「私もです。何故が言い様のない怒りが溢れて仕方ないだけです。敵意も悪意もないです」


「嘘を吐くなや! 命を奪おうとしてる人間の力の掛け方じゃねーか! いた、背骨にかかかと落としはアカン!? い、いぎっ!?」


「ロープを持って来ましたわ。これで机に張り付けて殴る方がサンドバックとして効率的ですわ」


「待て待て、ロープは可笑しいって! 俺が何したって言うんだってーの!?」


「異様な程にムカつくだけですわ。このムカつきを例えたら、楽しみに取って置いたプリンを勝手に食べられた後、プリンの感想を自慢げに語られた時くらいの怒りですわ! ここまでムカつくと思わず笑ってしまいますわ」


「私は完成したジグソーパズルを面白半分に壊された時くらいの怒りです」


「俺は朝目覚めたら体が工口と入れ替わってた時ぐらいの怒りだぞ」


「それどう言う意味や!? なんで俺と入れ替わってだけで殺意湧く程怒って、いぎっ!? わ、分かった、謝る! 土下座でも何でもするから!? すみませんでした! でした!!! 痛い、いたっ!? 土下座までしましたけど!? マジで死ぬって、人死にが出る袋の仕方だから!?」


 その時だった。部屋の隅から白髪で腰が曲がった老人が杖をつきながらゆっくりと歩いて来る。よぼよぼとおぼつかない足取りで工口の傍まで来る。俺達は自然と工口から離れていた。まるでそうする事が礼儀の様に自然と体が動いていた。


「た、助かったぜ……良く分からねーけど、爺さん、感謝するぜ」


「何が感謝じゃ!!! 最近の若い者は!!! 礼儀がなっとらん!!!」


 老人は突然鬼の様な表情を作り、両手で杖を大きく振り上げる。その時、杖の先端が鋭利な刃物になっている事に気付く。誰もが工口の命を諦めかけた時だった。


「摩天道長流奥義、突祇先とつぎぜん!」


 理事長室の壁がドリルでも叩きつけられたかの様に穴が開き、閃光が走る。先行は老人の胸を貫き、そこを中心にねじる様に老人の体を破壊して行く。


「このワシ、憤怒の山村を打ち破るとは何者、ぐぎがががぎゃぁぁぁあああ」


 老人は醜悪な赤黒い触手の化け物と成り果てながら朽ちて行く。


「いってー、後、5秒遅れてたらマジで死んでたぜ……おい、今舌打ち聞こえたんですけど!? 誰だ!? 舌打ちした奴!」


 羽間が手を上げるのを見て、負けじと言った様子で梨華も手を上げる。俺も2人に合わせて手を上げる。


「全員上げて来るのは想定外過ぎるぜ……」


「殿! 御無事か!」


「如何やら7つの大罪が出現している様ですね」


「それは、いえ、なんと言えばよいか……」


 朱美はチラチラと俺の様子を伺いながら視線をさ迷わせる。


「香、さっきのを見て、悪魔じゃないとか言い出さねーよな」


「悪魔? 山村さんだろ」


「流石に無理があるだろ! 現実を見ろや! いるじゃねーか! 目の前に! 悪魔!」


「この寄生虫は人に擬態する事も出来るのですね。サンプルを回収して成分やDNAを調べないと。何由来の生物が分かれば科学的に生物の正体を特定する事が出来ます」


「香さんとはこの件に関して悪魔の存在についてお互いに言及しないと取り決めた上で、大体の事情を説明させて貰いましたわ」


「それは誠であるか、殿」


「ああ、まあ、そう言う事だから」


「昨日、殿を襲おうとしたイノシシであるが、強欲の猪村と名乗った故、気にはなっておったが、既にサタンの腹心である七つの大罪が紛れ込んでいるらしい。私を前にしても隠れもしなかった寮の食堂に居た暴食の太田は既に始末して来たわ。残る大罪は4つ」


「傲慢、嫉妬、色欲、怠惰ですわね」


「色欲、だと?」


 工口は色欲と言う単語に異常な反応を示す。


「恐ろしいですわね、憤怒の前では湧き上がる怒りを抑え切れませんでしたわ。如何やら大罪達は周囲に人々にそれぞれが司る感情を影響させるみたいですの」


「やけにお代わりしてる生徒が多かったのは暴食の所為だったのか」


 俺がボソッとそんな事を呟いた瞬間、梨華に両肩を掴まれ激しく前後に揺さぶられる。


「何考えてやがるんですか! そんな非科学的な話しで納得しないで下さい!」


「――っ、ああ、そうだな。危ない所だった、危うく騙されていたぞ」


「殿、安心して下され、大罪の悪魔等すぐに見つけ出し始末してくれる」


「人々が大罪の影響を受けている場所を見つけ出せば大罪達の居場所は――」


 羽間の言葉を最後まで聞かずに工口は積極的に動き始める。


「――良し、ここは手分けして捜すとしようぜ。こう言うのは人海戦術で一刻も早く見つけ出した方が良いぜ」


 そう言って理事長室を飛び出して行こうとする工口に俺は疑いの眼差しを向ける。


「待て、自分が逃げる事しか考えてない工口がそんな事を言い出すなんて可笑しい。何か企んでるだろ。色欲の所為だとか言って痴漢しまくる気じゃないのか?」


「……その手もあったのか! でも俺は色欲の影響で皆が凄い事をしてる所に混ざりたい! いや、必ず混ざる!!! 今の俺は誰にも止められないぜ!」


 工口は理事長室を飛び出して行ってしまう。


「大罪達の居場所は簡単に見付けられるかも知れませんが、大罪達は人に擬態していますわ。見分ける方法を見つけ出さなければ迂闊に手を出せません」


「私の剣ならば可能よ。斬ればよい、悪魔なら斬れ、悪魔でなければ斬れぬ故」


「問題はそれだけではありませんわ。大罪達に近づく事でその影響を受けてしまいますわ」


「人の感情は化学物質によって変化させられています。有名なのがセロトニンです。この化学物質が脳内に分泌される事で人は幸せを感じるのです。恐らく、大罪を名乗って居る者達は意識に影響を与えるフェロモンを発生させているのだと思います」


「それってマスクとかで何とかならないのか」


「花粉や細菌とは違うのです、そんな物では防げません。防護服の着用を推奨します」


「そんな物で大罪達の力は防げませんわよ。7つの大罪はサタンの人々の欲を解放する魔法の1つですわ。それを眷属に分けただけ、言うなら七つの大罪はサタンの魔法の中継器ですわ。欲の解放を防ぐには天使が持つ規律の盾が必要になりますわ」


「何が盾ですか! そんな物で空中に散布された化学物質防げる訳がありません! 放射能汚染にも対応している防護服が必要です!」


 梨華は今にも羽間に噛みつきそうな勢いで睨み付ける。今にも言い争いが始まると思った時だった、突然梨華が座り込み、やる気をなくしてしまう。


「なんか急にどうでも良くなって来やがりました。今日からずっと寝て過ごします。そうです、私のロボットを作って私の代わりをして貰います」


「これは……急にやる気が……怠惰の影響ですわ」


 羽間は自分の頬を抓りながら立ち上がり、寝転がる梨華の頬を何度も叩く。


「何しやがるんですか!?」


「すぐにここを離れますわよ!」


「殿、こちらへ! くっ、殿も影響を、殿、失礼する」


 朱美は、ぐだっと座り込んでいた俺を脇に抱えて理事長室を飛び出し、そのまま廊下の窓を突き破ってグラウンドに飛び出す。彼女の後を追って羽間達もグラウンドに出て来る。

 朱美の無茶苦茶な行動に文句を言いたいと思うが、何故か口を開くのさえ面倒に感じで、状況に流されるまま、全てを受け入れる。


「そうやって私以外の女性を見るなんて最低!!!」


「ま、待てって、急に教室から出て来たら見るだろ! そっちに意識を向けただけ、俺はいつだって君の事を――」


「うるさい! この最低男! 浮気者!!! 死ね!!!」


 そんな女性の声が2階の廊下から聞こえ、その直後、工口が強烈なビンタと共にガラス窓を突き破ってグラウンドに落ちて来る。


「力、強っ。待って死ねって――っ。落ちてるじゃねーか!? あああああ!? 頼む誰か受け止めてくれ! このまま地面に叩きつけられたら死ぬ!?」


 工口は下に居る俺達を見て助けを求める様に両手を広げて来る。その場に居た誰もがスッと脇に避け、工口が地面に着弾するのを待つ。


「よっと、危ないわね。ほら、平気?」


「あ、ああ、はい」


「全くもう、働き過ぎって言うちょるやろ? ちょっとは、休みなさいって、ほらやつれた顔して、今日1日は寝とき、カレー作っておくさかい、起きたらお食べぇ」


 エプロン姿の肝っ玉母さんと言った風貌の女性が、工口を受け止めてそのまま地面に寝かせる。彼女の動きに合わせる様にグラウンドで部活をしていた生徒達がバタバタと倒れ始める。肝っ玉母さんは工口だけでなく倒れた生徒達に『全くもう』と呟きながら何処から取り出したのかタオルケットを掛けて行く。


「間違いありませんわ、彼女が怠惰ですわ」


「何言ってんだぜ。あんな気の利くオフクロが怠惰な訳ねーだろ。何なら働き者だぜ。お日様の香りがするぜ。俺もあんなオフクロが欲しいぜ」


 芋虫の様に地面を這って俺達の元に来た工口がタオルケットの匂いを嗅いで幸せそうな顔をする。そんな工口の姿を見ていると彼女が怠惰だと確信を持ってしまう。


「おい、確りしろ!」


「そのゴミは捨て置いて、距離を取りますわよ!」


 俺達は羽間の言葉に導かれる様にグラウンドの中央に向かって駆け出す。


「防護服も寮から持って来るべきでした。今からでも遅くないです。寮の防護服を……あ、そうです、あれはクロットを扱った時に汚染を受けてそのまま放置していたんでした。今のあれに触れたら全身クロットになってしまいます」


「だから防護服は無意味だと何度言えば分かりますの!」


「怪しい盾を使うよりは確実に効果がありやがります!」


「どっちもここにないんだから揉めるな! それよりあれはどうすれば撃退出来るんだ!」


 怠惰、近付くだけでやる気がなくなると言うのは1番厄介な相手なのかも知れない。何らかの対策を講じなければ工口の様に芋虫になってしまう。


「感情に影響を与える力、厄介な物よ……だが、近付く事が出来なくとも問題はない。近付かずに攻撃すれば良いだけの事! 殿、私の後ろへ……摩天道長流奥義、斬!」


 朱美がその場にて引き抜いた刀を勢い良く振るう。その場の空気を引き裂いた斬撃が地面を軽く抉りながら肝っ玉母さんの元に向かって行く。直撃すると思われたまさにその時、晴れ渡った空に突然雷鳴が響き渡り、稲妻の光と共に斬撃が消し飛ばされる。そしてその場に2本の真っ黒で捻じれた角が生え、黒い翼を背中に生やした……何処から見てもミラーボールとしか言えない物体が浮いていた。

 ミラーボールを見た瞬間、朱美の表情が一瞬だけ柔らかくなり、それを反動にでもする様に一気に引き締める。


「ふっ、ついに現れおったか、悪魔王サタン!!!」


「ミラーボールだろ! 角と翼を付けたミラーボール!」


 俺は思わずそう叫んでしまう。どう見てもミラーボールだった。


「捻じれた角に翼……そして美しい見た目、悪魔辞典に書かれていた特徴と合致いたしますわ。神々しさと禍々しさを兼ね備えた堕天使でもある悪魔王サタンと言うべき容姿ですわ! 香さん、あれの何処がミラーボールに見えると言いますの!」


「……そ、そうだぜ、香、良く見ろや……あの角に翼、間違いねーじゃねーか」


 グランドを必死に芋虫移動して疲れ果てた様子の工口が会話に参加して来る。そこまでするなら普通に歩けよと言う言葉を呑み込み、サタンについての話題を優先する。


「同意するなら、体の部分に触れろ! あのミラーボールにちゃんと触れろ!」


「ミラーボール? あんなのはサタンに憧れを抱いた下位の悪魔が作った模造品、そんな物とあの御姿を比べて欲しくないですわ! よく見て欲しいですわ、本物は全くの別物ですわ」


「そうだぜ。香はクラブとか行った事ねーだろ。そんな所に置いてるミラーボールとは訳が違うぜ。輝きからして違う、ツヤも何もかも違うぜ」


「絶対大差ないだろ」


 2階から前髪で顔が隠れたやせ細った女性がサタンの前に飛び降りて来る。


「怠惰の藤田、私よりサタン様の近くに居るなんて許せない!」


「嫉妬の三岡ちゃんは、気にし過ぎよ。疲れちゃうでしょ。ほら、温かいミルクココア用意したから、これでも飲んでおつきなさい」


 その直後、壁を壊して体つきのがっしりした不良少年が飛び出して来る。


「この学園には俺の傲慢を受け入れるに値する者は1人もいない様だ、嘆かわしい」


「あれが傲慢だとすると、あの煙の影の向こうに居るのは、ゴクリ、色欲……」


 工口が怠惰の影響から逃れたのか、キリっとした表情を作って素早く立ち上がる。


「あら、傲慢の江原は相変わらずねぇ。そんな事言ってると足元、救われちゃうわよぉ」


「うるせー! 色欲のオカマ野郎!」


「私には森脇ってちゃんとした名前があるのよぉ」


「俺のワクワクした気持ちを返せや! ちくしょーが!!!」


 何故か工口も精神的なダメージを負っていた。


「サタンとその腹心が集合している今が千載一遇の機会、一網打尽にしてくれるわ――っ」


 朱美は刀を振り上げた所で動きを止める。それと保々同時に周囲に倒れていた生徒達がゆっくりと起き上がり、まるでゾンビの様にこちらに向かってゆっくりと歩き始める。それだで止まらず、生徒達の体の何処かから皮膚が裂け、触手が飛び出して来る。


「はっ、私はミルクココアなんか飲みながら何を……。サタン様、すみません。悪魔の現地調達ですがこれだけしか出来ませんでした」


 クルクルと回るミラーボールを見て嫉妬の三岡は『ありがとうございます』と言いながら深々と頭を下げる。


「如何やらサタンは大罪を使って生徒達を悪魔に変えようと目論んでいた様ですわ」


「あぶねー、あのまま怠惰に囚われていたら俺も体から触手を生やす事になってたのか」


「そうなってたら顔だけじゃなくて体まで化け物になっていたのか」


「どう言う意味だ! 顔も化け物じゃねーよ!」


 触手を生やした生徒達の中には初日に魔法検定した上半身裸の筋肉男、肉男が混じっていた。


「筋肉を限界まで鍛えて筋肉愛を語ろうじゃないか!!! めくるめく筋肉の世界に自分と共に行こう!!!」


「ムキムキマッスル!!!」


 彼がマッスルポーズを取ると彼の体からそんな声が合唱でもする様に聞こえて来る。そんな筋肉男の後ろから、両手を目にも止まらぬ速さで動かす風起し男、風太が現れる。


「ほらほらほら! 手で起こした風で木の葉を10秒も浮かせてやったぜ! 2桁、2桁の大台に乗せるなんて俺って天才過ぎるぜ! ヒャッハー!!! 獲物がいるぜ! 囲め! 俺の風起しで浮かせてやんよ!!! ヒャヒャヒャッハー!!!」


 肉男と風太がこちらに狙いを定め、触手を伸ばしながら迫って来る。俺は視線を朱美に向ける。彼女の視線は真っ直ぐサタンと周囲の大罪達に注がれている。夏でもないのにかかわらず彼女の額からはツウっと汗が垂れ、地面に零れ落ちる。

 彼女の緊張具合を見て、俺は状況がかなり切迫している事に気付く。先程の斬撃をサタンに止められたのは致命的だった。俺がここに居て襲われる可能性がある以上、朱美も迂闊にサタンとの距離を詰められないでいるのだろう。それに加えて増えて行く敵の数、じり貧になれば待っているのは敗北と言う結果だった。


「良し、俺は風起しを何とかする。工口はあの筋肉男を任せる!」


「おい! サラッと俺に飛んでもない化け物の相手を任せるなや! あんなのどうしろって言うんだよ」


「そんなの自分で考えろ。俺はあれと関わり合いたくない」


「殿! その様な危険を冒す必要等ありませぬ、あの様な雑魚、私に任せよ。2秒と掛からず――」


「朱美は他に相手にすべき奴がいるだろ。こっちは大丈夫だから、そいつに集中しろ」


 とは言った物の、別に喧嘩が強い訳ではない。両手と触手で枯葉を扇いでいるだけの奴だが、あの触手で襲われたらひとたまりもない。梨華に何か有効な武器がないか聞くとして、あれば良し、なかった時は、逃げるくらいなら出来るか。


「殿……承知いたした」


 朱美の視線が鋭くなり、明確な殺気がサタンに向けて注がれる。朱美が足腰に力を込めたと分かった瞬間だった。彼女が纏う空気が一気に変わる。まるで冬の刺す様な空気となり、サタンに向かって一直線に迫る。

 迫る朱美、大罪達に緊張が走る。朱美が刀を振り上げた直後だった。彼女の正面にピンク色の巨大な風船が突然現れ、爆発する。ピンク色の破片が飛び散り、それが周囲の生徒に張り付く。ゴムの様に伸びるそれに捕らわれた生徒達は、トリモチにでも捕まったかの様に動けなくなる。朱美はその場から離れる事で難を逃れていた。


「あれー? 仕留めたんだと思ったんだけどなー。1つ良い? 君達、僕より弱い癖に先に飛び出さないでくれる。僕の動く風船ガムで皆、捕まえて、サタン様の部下にしてやるんだから。行け、猛犬ガッムー」


 少年が膨らましたピンクの風船ガムは人を呑み込めそうな程の巨大で凶暴な犬の姿へと変わり、ガムに捕らわれた生徒達達を呑み込み捕らえて行く。


「あいつ、今朝の生意気なガキじゃねーか!」


「――考え得る中で最悪の状況ですわね」


「鬼気迫る口調の割に顔は嬉しそうに見えるのは気の所為か?」


 俺は羽間の口元が緩んだのを見逃さなかった。


「この絶望的な状況を喜ぶ理由なんて1つもありませんわ。分かっていますの? ここの生徒達はその辺に居る一般人ではありませんわ。全てが神の作った摂理に反する程の信仰心を持った者達ですわ、彼らが神に反する悪魔になると言う事は、その信仰心もまたより強力な物へとなりますわ。それがそのまま敵となったのですわよ」


 羽間の視線をなぞると自然と筋肉男と風船ガムの少年が視界に入り込む。


「まずは筋肉男ですわ。彼は力が1段階上昇して、こちらが限界まで鍛えてないにもかかわらず筋肉の声が聞こえるまでになってしまいましたわ! 余りにも強力で恐ろしい魔法になりましたわ」

 筋肉男のマッスルポーズに合わせる様にして触手もムキムキになり、彼の筋肉達が触手と合唱でもする様に叫ぶ。


「ムキムキマッスル!!!」


「何処がだよ! ムキムキマッスル言ってるだけだぞ」


 俺の言葉に羽間がニヤリと笑みを浮かべる。


「これで喋る筋肉を魔法だと認めさせられましたわ」


「!? ……こいつ! 腹話術だ、腹話術!」


 完全に油断していた。悪魔について言及しないと約束を交わしたが、魔法は別だ。羽間にとって今は、ピンチでも危機的状況等ではなかった、むしろ俺に魔法を認めさせる為の絶好の機会だった。やはり先程の笑みは気の所為ではなかったらしい。俺の脳内はターボでも掛った車の様にフル回転し始め、魔法を否定する術を捜し始める。


「そうですか、では、あちらの風船ガムの犬はどう説明するつもりですの?」


 羽間は余裕のある笑みを浮かべながら、こちらに迫って来る風船ガムで出来た巨大な犬を指さす。


「あれは……」


 普通の犬と言うには大き過ぎる。それだけでなく舞い上がった土煙等でピンク色の犬は茶色く汚れ始めている。それが、あれを膨らんだ風船ガムだと言う事実を強調させている。雑な意見を出し、それを1度でも看破されると一気に苦しくなってしまう。慎重に言葉を選ばなければならない。


「そんな事で揉めてる状況じゃねーだろ!!! 俺にあの筋肉ダルマ押し付けて置いて、どうでも良い事で揉めんなや!!!」


「――ふざけるな! 分かってるのか! 俺はさっき危うく魔法を認める所だったんだぞ!!! 状況を理解してないのはそっちだ! これは戦争なんだぞ!!!」


「状況を理解出来てねーのはそっちだろーが!!! 生徒が触手生やして襲い掛かって来てんだぜ!!!」


 不意に俺はこのまま動く風船ガムについて羽間と話し合うより、話題を反らした方が安全なのではと思ってしまう。俺はすぐにその考えを実行に移す。


「……何とか生徒達を元に戻す方法はないのか?」


「あれは寄生虫によって一時的に脳がマヒしている状態だと思われます。ですので虫下しの薬を飲ませれば治りやがるはずです、今、寄生虫の成分分析を行っているのでそれが終了次第、薬の製造に移るつもりです」


「待てや……体に穴開いてそこから触手が飛び出してるんだぜ? 薬でどうこうなる問題じゃねーだろ」


「私の科学が信じられないって言いやがるんですか!!!」


 梨華は傍に浮かせていたフライングボードを工口に向かって飛ばす。


「ちょっ、フライングボードをブーメランの様に飛ばすの止めてくれませんかね!? 大切な物ですよね! あ、ちょ、押すなって!?」


 工口はフライングボードに押される形で肉男の元に向かって行く。俺は工口に向かって一先ず合唱して置く。


「悪魔の力を供給している大罪達、もしくはその大元であるサタンを撃てば元に戻るはずですわ」


「サタンや大罪共の相手は私が引き受ける故」


「道長さん、戻って来てくれてよかったですわ。彼ら大罪達に不用意に接近すれば、他の生徒達の様に取り込まれ兼ねませんわ。無策で突っ込むのではなく、何か対抗策を講じなければ――」


「――心配は無用よ。取り込まれるより早く接近して大罪共を斬る。先程は邪魔が入り速度を上げられなかったから引いただけの事」


 俺は朱美の目を見て彼女が本気で言っている事を理解する。なら俺が出来る事は――。

「分かった。今はあの風船ガムを何とかする方法を考えるぞ。彼は検定対象だったんだろ。何か知らないのか? 弱点とか」


 俺は視線を受けた羽間は首を横に振る。


「手元に資料がないのでなんとも……そう言えば負けず嫌いでしたわね。なんでもトップでないと気の済まない性格でしたわ。今は傲慢の影響で、そこにうぬぼれまで上乗せされていますわね」


「生徒より先に暴れ回りながらこちらに迫って来ている犬を科学的に何とかした方が良いのではないのですか?」


 俺は土煙を上げながら暴れている巨大なピンク色の犬に視線を向ける。生徒に当たろうが木で擦れようが割れる気配は一切ない。


「あんなのどうしろって言うんだ。氷で冷やして固めろとか言うつもりか?」


 靴底に張り付いたガムを取るのは氷で固めるのが1番だと何処かで聞いた事がある。


「あのサイズを冷やす氷を様出来るのですか? もっと良い方法があります。ガムの主成分は油に溶けやがります。なので油を掛ければあの風船ガムは形を保てなくなるはずです」


「油は? 持ってるか?」


「勿論です」


「良し、朱美、待っててくれ、すぐに片付けて来るぞ」


 俺は梨華からチューブで出すタイプの油を受け取り、それを片手に俺達の方に迫って来ていた巨大な風船ガムの犬に向かって行く……が、すぐに手の平で収まる程度の油で対処出来るとも思えずに引き返そうとする。しかし時すでに遅し、無作為に暴れていた犬が獲物見付けた獣の様に俺にターゲットを絞り込み、一気に迫って来る。人がどれだけ必死に走っても叶う事のない速度に、あっさりと追い付かれ回り込まれてしまう。

 牙を剥き出しにしたそいつに噛みつかれると思った時だった、1匹の勇敢な犬、ポチ郎がそいつの体に食らいつく。ポチ郎に合わせる様にカラスやイノシシに猫と言った動物達が一斉に巨大な風船ガムの犬に群がる。ポチ郎の後ろの方で寄添雨が動物達に指示を出していた。俺は破れかぶれでチューブから油を捻り出しながら、犬に口に投げ込む。すると犬は急に苦しみ出し、そして溶けて行く。しかし、安堵の息を吐くのも束の間、新しい犬がすぐに追加される。


 ポチ郎の一鳴きで数体の動物達が集まり、風船ガムの少年の元に駆け出す。それを見たガム少年は風船ガムで棒を作り、自分に迫って来るポチ達を正面から迎え撃つのだった。


「糞、ガムの方はポチ郎に任せるしかなさそうだ」


「威勢良く立ち向かった割に何も出来ませんでしたわね」


「うるさいぞ」


「いえ、殿の働きは見事故」


 そう言われると言われたで悲しくなって来るな。


「あらー、鍛え方が足りないわよ。もっとこうして、こうして筋肉ちゃんに負荷を掛けないと、ほらほらほら」


「あぎゃあぁぁぁぁぁあああああ」


 工口の断末魔が聞こえて来る、そちらを意識的に見ない様に視線を背けると、別のキツイ物が視界に飛び込んで来る。

 ドスンと上空から、ヒラヒラとピンク色のスカートをはためかせた1人の影がグランドに降り立つ。


「止めるんだ、恵美!」


「いつもいつもいつも! お父さんばっかり変身して! 私だって変身したいのに! 魔法少女になりたいのは私なの!!!」


 触手が絡みついたステッキを持った幼い少女が、宙に浮きあがりながら、魔法少女へと姿を変えた自分の父親を嫉妬の眼差しで睨み付ける。彼女がステッキを振り下ろすと、空中からホイップクリームが生まれ、彼女の父親に襲いかかる。


「ぐおおおおお!? がはっ!? ゴボゴボ……ゲホゲホッ。恵美、パパばかり変身して済まないと思ってる。でもパパは信じてる。いつか2人で魔法少女になれる日が来るって、一緒に世界の平和を守ろうって!」


「嘘! 嘘嘘嘘!!!」


 彼女の父親は何度も繰り出されるホイップクリームの弾丸をクロスさせた両腕で防ぎながら少女の元へと1歩ずつ着実に近付いて行く。


「見て欲しいですわ。如何やら彼女は魔法少女に変身出来るだけでなく、ホイップクリームを出せる様になっていますわ」


「変身は出来ないからな」


「つまり魔法でホイップクリームを出せる様になった事は認めると言う事ですの?」


「……ステッキの影にホイップクリームを入れた袋でも隠してるんだろ。あの触手がチューブになってて……」


「ですが、あの量的に無理があるのではありませんの。それに彼女、浮いていますわ」


 確かにホイップクリームで一部が豪雪地帯の様になってしまっている。あんな量のホイップクリームはタンカーでもなければ用意出来ないだろう。それに確かに宙に浮いている。完璧に浮いている。


「……そ、そもそも、変身出来てないんだから、何しても関係ない」


「随分と強引な言い分ですわね」


 俺と羽間のそんなやり取り等、当人達は知る由もなく、互いの思いをぶつけ合う。


「だから! いつもの『パパダメだよ』って叱ってくれる可愛い恵美に戻ってくれ! パパは! パパは本当は世界なんてどうだって良いんだ。パパが魔法少女を続けているのは、恵美の笑顔の為なんだ!!!」


「パパ嫌い、パパ嫌、パパ、パ……ああああ、あああぁぁぁあああ」


 頭を抱えて苦しむ少女を彼女の父親が抱き止める。そして少女の腕から生えてステッキに絡みついていた触手を引き抜く。触手を引き抜かれた少女は意識を失い、父親の腕の中で眠りに落ちる。父親は両頬に涙を伝わしながら、その場を立ち去って行くのだった。

「格好が逆なら感動出来たんだけどな」


 俺はその光景を見ながら思わずそんな事を呟いてしまうのだった。


「あー何で石なんかあんな硬い物食おうと思ったんだろ。土で良くね」


「ホウキに乗って空を飛ぼうとするより、布団で眠って空飛べた方が良かったし」


 怠惰の影響を受けている生徒は無視しても問題なさそうだった。


「さあ、共に筋肉とめくるめく愛の対話を行おうではないか!」


「あぎゃああああぁぁぁあああああ!?」


 相変わらず地獄の様な悲鳴を上げる工口の元にちょっとした転機が訪れる。


「せいーはっ! 石破神拳!!!」


「ぬんっ! ほほう、私の筋肉を震わせるとはあなた、何者」


「やはりこの石破神拳は岩でなければ壊せぬか。自分は只の空手家。名乗る程の名はない! せいせいせいせい!」


「ふんぬ、そらそらそらそら! 筋肉達も君と戦える事を光栄だと叫んでいるよ!」


「ムキムキマッスル!!!」


 筋肉男と空手男の空気が震える程の激しい打撃の応酬が繰り広げられる。打撃でお互いの着ている服が弾け飛んで行くのを見て、俺は彼らをこれ以上視界に入れない様に努める。


「お嬢様、御無事でしたか」


「セバス、遅いですわよ」


「すみません。少し準備に手間取りまして。必要かと思い規律の盾を人数分用意しました」


「天使の道具とか言ってなかったのか? そんなの人数分――」


 段ボールに色まで塗り無駄に凝った作りの小さな盾を手渡される。

「絶対役に立たないだろ」


「もしかしたらエネルギーシールドを展開する装置が組み込まれているかも知れません。操作はどうするのですか?」


 そんな物何処に組み込むって言うんだ?


「それらは使い捨ての模造品、ですが効果の方は間違いなく存在しています。こうしてピンで服に取り付ければ効力を発揮します」


 俺は胡散臭い物を見る目で、段ボールで出来た規律の盾と羽間に視線を向ける。


「別に要らなければ持たなくても構いませんわ。体からあんな気持ちの悪い触手を生やしたければ自由にして構いませんわ」


 俺は触手を生やして暴れている生徒を見て無言で盾を服にピン止めする。


「そ、そうですね、まずは効力を確認してから、科学的に検証すべきです」


 如何やら梨華の方も俺と同意見だった様だ。


 ポチ郎の方でも動きがあったのか、風船ガムの巨大犬の動きが鈍くなる。朱美がその機会を見逃す事はなかった。


「殿、行って参る故」


 朱美は俺の返事も聞かずに駆け出す。駆け出した彼女の行く手を阻む様に触手を生やした生徒達が立ち塞がる。


「摩天道長流奥義、風道!」


 朱美の正面の生徒達が左右に吹き飛んだかと思った直後、彼女の背後に向かって突風の様な追い風が吹き、その風に乗る様に彼女の体が加速する。


 最初に傲慢の江原が反応して朱美の正面に飛び出して来る。


「少しは楽しめそう――な、がはっ」


 しかし彼は既に朱美に斬られていた。真面に言葉を発する事もなく触手の塊へと成り果ててしまう。朱美は止まる事無く、色欲の森脇を斬り、ついでと言わんばかりに怠惰の藤田に斬撃を飛ばす。そして本命のサタンに向かって奥義を放つ。


「摩天道長流奥義、真翔臥剣!」


「サタン様、あぶな――ぎゃあああぁぁぁあ!?」


 サタンを庇おうとした嫉妬の三岡は斬撃の虚空に呑まれて一瞬で消え去る。サタンは体を光速で回転させ、斬撃を真正面から受け止める。激しい火花が舞い散る。まるでチェーンソーで鉄板を斬っている様な激しい音がグラウンドに響き渡った。

 永遠に続きそうに思われたその攻防にも終わりは訪れる。太陽光を反射しながら周囲に撒き散らしていた小さな四角の光に亀裂が入り歪む、綺麗な四角から形が崩れたと思った時だった。サタンの体が爆散して細切れになり、周囲に飛び散る。それと同時に触手に操られていた生徒達がバタリ、バタリと次々に倒れて行く。


「やりやがったのですか?」


「おいおい、それはやれてないフラグだから言うなや!」


「フラグとか科学的じゃありません。私は状況を正しく認識したいだけです」


「なんだ生きてたのか」


「言い方が色々気になるけど、ああ、生きて帰れたぜ……明日からボディウエイトしないとならないからな」


 思いっきり何かの影響を受けている様だった。


「しかし、これだけ騒ぎを起こした割にあっさりって気もするぜ」


「それだけ彼女の剣技が強いと言う事だろ」


「強いってレベルじゃねーだろ」


 朱美は粉々になったミラーボールを冷たく見下げた後、刀を鞘に納めながらこちらに向かって駆けて来る。


「殿、無事――っ」


 彼女は目にも止まらぬ速さで刀を引き抜き、斬撃を放つ。斬撃は空を切り裂き、上空へと霧散して行く。


「これは、危ない危ない」


 聞くだけで人を不快にさせる声に朱美は刀を構え直す。


「……コックか」


「ええ、3柱の1人、コックです。以降お見知りおきを……最もすぐに思える必要もなくなるでしょうが」


 半透明の体に白いコック棒を被った得体の知れない何かが突然、宙に現れる。


「サタン、いつまで寝てるつもりですか? 忠告したはずです、此度の我々の敵は1人だと、軍等、その1人を屠った後にじっくりと作ればよいと」


 コックは何処からともなく触手を取り出し、香りを嗅いだ後、味見でもする様に触手を口に含む。


「これは……良いですね。人々のとても濃い欲を吸い取り、芳醇な香りを放つメデュサです。素晴らしい具材ですね。この様な素晴らしい食材を提供いただいた事、感謝の念が堪えません」


 コックは何処からともなく取り出したフライパンに無数の触手をぶち込み始める。


「怠惰と強欲を下地に傲慢と憤怒に味付け、そして暴食で味を調え、最後に色欲と嫉妬をすり潰したソースを掛ければ完成です。さあ、サタンあなたの為に調理いたしました、食べて下さい。ああ、その状態では食べられませんでしたね。仕方ありません」


 コックが指先をパチリと鳴らした瞬間、飛び散っていたミラーボールの破片がフライパンの中に吸い込まれる様に飛び込んで行く。


「食事して貰うのと一緒に調理してしまうのも変わりありませんよね。おっと、サタンの心臓を持って行かれては困りますね」


 いつの間にかサタンの傍に移動していた羽間を見て、コックはニヤリと笑みを浮かべた様な気がする。実際そいつに顔と呼べる物がない為、分からないが確信にめいた何かがあった。


「ちっ、目ざといですわ」


 羽間は、手の平サイズの真っ赤に輝く太陽の様な宝石を背中に隠すが、光り輝くと言う宝石の性質上、隠しきれなかった。コックが指を鳴らすと、羽間は打ち捨てられたゴミ袋の様に吹き飛ぶ。彼女の手から離れた宝石はスッとそこにあるのが正しいかの様にコックの手の中に納まる。


「これを狙うと言う事は……それなりの知識を持つ者と考えて良さそうですね。邪魔ですので消えて貰います。コックも料理を作るだけではなく厨房に沸くネズミの処分くらいはするのですよ」


 コックが指を鳴らすと淀んだ空気の塊が、先程吹き飛ばされ、真面に体制も整えられていない羽間に迫る。


「お嬢様!!! ぐぬあああっ!? すみません、お嬢様、如何やらここまでです。この老体、もう動きません」


「……セバス、戻ったら腰を踏んであげますわ」


「それは至福の楽しみでございます」


 意識を失うセバスを抱えながら羽間は校舎の方に避難する。


「まあ良いでしょう。今はネズミなんかより優先した事があります。いつぶりでしょうか、こんな、興奮冷め止まないのは! 最高の素材を使い、最高の料理を作る……こんな喜びの前では他の事等出来ようはずがありません!」


 コックが叫ぶと同時にフライパンから闇が広がる。その闇は空へと昇って行き、青い空を赤黒く染めて行く。


「ここからが腕の見せ所、もっと闇の勢いを上げて、更に! 強く、欲を引き出し、広がる闇があらゆる光も失った深淵の闇になる瞬間を見極め……仕上げの心臓を素早く打ち込む、さあ、来い……復活の雷鳴よ!」


 フライパンに向かって空に広がる闇の中から紫色の稲妻が降りそそぐ。眩い光が消えた直後だった。フライパンの中から浅黒い腕が1本飛び出す、そのすぐ後、同じく浅黒い足が飛び出て来る。

それはホラー映画でしか見られない様な光景だった。それはまさしく化け物の誕生の瞬間だった。もう片方の腕が物理法則を無視してフライパンの中から飛び出す。もう片方の足も……。


「……クモかよ、色々とグロ過ぎて言葉も出て来ないぜ。一体どんな化け物が出て来るって言うんだよ」


「……料理だろ」


 俺の一言に工口は呆れた表情で視線を向けて来るが、俺の顔を見た瞬間、何も言わずに視線をフライパンに戻す。如何やら俺は、工口に何も言って貰えない程に余裕のない表情を作っていたらしい。


「訳が分かりません。あのフライパンはどうなってやがるのですか。明らかに内部容量が超えた物が出て来てやがります。それにこれは日食、ではないです。空間に空間が重ねられて、この様な現象は初めて見ました。観測して科学的に――」


 空に闇は色の濃いインクを薄く引き延ばしたかの様に真の色を見せる。赤黒く、まるで空を血で染める様におどろおどろしい色が広がって行く。紫色の稲妻と共に幾度も雷鳴が轟響き渡る。


「科学的? 無駄ですわね。悪魔王サタンが本当の意味でこの地に降り立つのですわ。この空は悪魔の世の空。これが、この世を地獄へと変えるサタンの力……。可笑しいと思っていましたわ。悪魔の王とまで言われた最強の悪魔、サタンがあの様なミラーボールの訳がなかったのですわ」


 俺は校舎の中の廊下を使って戻って来た羽間に冷たい視線を向ける。


「思いっきりあれがサタンだって俺を納得させようとしてただろ」


「あれはまだ、完全に顕現出来ていない不安定な姿。サタンはおそらく皮肉の意味を込めて。人の堕落と欲が最も渦巻くクラブの象徴とも言えるミラーボールの姿を取っていたのですわ。真の姿は、この悪魔辞典に書かれている通り、とても恐ろしく、そしてとても美しい、闇を迎え入れた大天使に相応しい容姿のはずですの」


 羽間は俺に悪魔辞典に描かれたサタンと思わしき古い絵を見せて来る。


「美しい要素なんて、今の所1つもないぞ」


 そう言った直後だった。フライパンの中から、漆黒に染まった6枚の翼が飛び出し、まるで大輪の花でも咲かせる様に広がる。悔しい事にその翼を美しいと思ってしまう。

 ゴクリ、その場に居た誰もがその光景に息を呑んでしまう。雷鳴だけが響き渡る沈黙の中、黒い羽毛で覆われた体と共に頭がゆっくりとフライパンからせり上がって来る。


「……コック、手間を掛けた」


 男性とも女性とも取れる美しい声だった。只、その声には悪意の感情しか籠っておらず、身震いする程の恐ろしさがあった。サタンが手を伸ばすと腕から触手が飛び出し、コックを縛り上げる。


「がはっ!? あががが」


「感謝する」


「感謝しているなら……触手を、放して……貰えませんか」


「ああ、そうだな」


 サタンがそう言葉を返すと同時に触手が僅かに膨らみ、次の瞬間にはコックは体から黒い液体を撒き散らしながら捻り潰されてしまう。サタンは潰れてボロ雑巾の様になったコックを呑み終えた空き缶でも捨てる要領で無造作に投げ捨てる。


「悪魔辞典に記された通りですわ。無慈悲で残酷な悪魔の王……体よりも大きな漆黒の翼は、元が天使、それが6枚もあるのは大天使である証。人とは大きく違う浅黒い皮膚に締まりの良い肉体、その体を覆う様に纏われた黒い羽毛の衣、そんな誰が見ても美しいと思える肉体の端々から覗く、グロテスクな触手」


 突然、フライパンから大量の触手が溢れ出て、フライパンが紙でも引き裂く様にバラバラに弾け飛ぶ。


 ……この世に完全な状態でサタンが顕現する。お辞儀でもする様に体を折り畳んでいたサタンがゆっくりと頭を上げる。

 

 そのサタンの頭は……ミラーボールのままだった。


「そして、まるで巨大な宝石を張り付けた様な頭は見る者全てを惹き付けてしまいますわ」


「ミラーボールだぞ。あの頭、宝石じゃなくてミラーボール」


「あれの何処がミラーボールに見えますの? 宝石をちりばめた美しさの象徴とも言える頭ですわ」


「さて、我を痛めつけてくれたのは君か。良いだろう」


 サタンは、刀を構え直す朱美に視線を向け、自分の頭を勢い良く回転させた後、天に付き上げた指をパシリと鳴らす。その瞬間、雷鳴と同時に稲妻がサタンの四方に落ちる。

 光と信じられない程の雷の音に、一瞬だけだが目も耳も完全に使い物にならなくなる。次に目が見える様になった時、サタンの頭に四方からカラフルな謎の光が注がれており、回転するサタンの頭によって周囲に光のイルミネーションを生み出していた。


「完全にミラーボールだぞ」


「……みたいですわね」


 羽間は能面の様な表情を作りながらサタンの姿を諦め混じりの視線で見詰めるのだった。


「体と頭が合ってなさ過ぎるぜ」


「R地点にエリフマトリが置かれているとしてZ軸を変えずに……」


 梨華は良く分からない計算式を必死に地面に殴り描いている。俺達がそんな余裕を持ってサタンの姿を見ていられたのは、その僅かな時間だった。


「欲のままに踊り狂え」


 サタンの呪文の様な不穏な言葉と共に無数の雷が地上に降り注ぐ。


「3RZの2乗になって、これに――あ、ああああああ。私の式が!? 黒焦げになりやがりました!?」


「おいおいおい!? あんなの当たったら即死するぜ!? 自分より高い物の近く――あの木の下! ……よし、ここなら安全じじじばばばばああああ……」


「あの顔デカは何してやがるのですか。木より人体の方が、電気伝導率が良いので、雷が木に落ちたとしても近くに居れば人体の方に移動しやがります。素直に校舎の中に逃げ込むのが1番安全です」


 梨華は姿勢を低くして校舎に向かって移動を始める。雷が近くに落ちる瞬間、羽間は俺を盾にする様にして屈み込む。文句を言う間もなく、俺は落雷の直撃を受ける。


「ああああ……あれ?」


「如何やら規律の盾で1度は無効出来る様ですわ。そうと分かればさっさと校舎に移動させて貰いますわね」


「この……ああもう!」


 文句を言うより移動を優先した方が良いと判断して、俺は羽間の後を追って校舎へと飛び込む。ホッと息を吐くのも束の間、グランドでは朱美とサタンの最終決戦が勃発していた。


「いつまで逃げ回れるかな?」


 無数の雷撃に混じって無数の触手が1本1本ドリルの様に鋭く、朱美を狙って襲い掛かる。朱美は四方から襲って来るサタンの攻撃をギリギリの所で交わしながらも、隙を見つけては斬撃を放つが、サタンのそのことごとくを片腕で打ち飛ばしてしまう。


 当然いつまでもそんな状態が続く訳もなく、1つの閃光が朱美の体を貫く。それによって動きを鈍らせた彼女に、まるで餌に群がる獣の様に触手が群がる。


「天魔道長奥義、堅牢の構え……っ! 摩天道長流奥義、突祇先!」


 朱美は触手の攻撃を全てその身で受けきった後、目にも止まらぬ速さで刀を真っ直ぐ伸ばす。突きから放たれた螺旋を描く斬撃は、彼女の正面の触手を突き破りながらサタンの元に向かって行く。


「無駄だ」


 サタンはいとも容易くその斬撃を噛み潰す様に上下に動かした両手で受け止め、そのまま消し潰す、その直後だった。サタンのその腕と心臓を朱美の刀が貫いていた。接触時の衝撃がこちらまでハッキリと伝わって来る。それがどれ程凄まじい突きなのか肌で感じてしまう。


「摩天道長流奥義、瞬突……」


「貴様……」


 サタンは、刀に貫かれた腕が引き裂かれるのもいとわず刀から引き抜き、朱美の顔を掴んで、思いっきり地面に叩きつける。そこにすかさず触手で追撃を入れる。


「――っ、くううっ」


 朱美は苦悶の表情を浮かべながらも、なんとかサタンから距離を取る。ふらつき構えもブレる彼女の姿を見ていると相当なダメージを負っている事は明白だった。朱美は雷撃をよけきれないと判断したのか、堅牢の構えを取りその場から動かなくなる。


「今ので我を倒せず戦意を喪失したか、いつまでその守りが持つか見ものだ」


 サタンの攻撃はより一層激しくなり朱美に襲い掛かかる。


「なんで心臓を貫いたのに平然としてるんだ、もう体、治り始めてるし……」


 俺は自分が迂闊な事を口走った事に気付き、慌てて口を抑える。チラリと羽間に視線を送る。『魔法ですわ』そう言われた時、どう返せば良いか答えが見つかる気がしなかった。


「おそらく別の場所にあるのですわ。相手は悪魔、悪魔にとっての心臓とは力の源の事ですわ。人と同じ場所にあると考える方が不自然ですの。道長さんは今まで悪魔を完全に両断して来ましたわ。だから弱点等と言った場所を気にもして来なかったのでしょう。今回彼女が捨て身に近い一点集中攻撃に出たのもそれだけ相手が強いと言う事ですわ」


 羽間は、俺の心配等余所に真剣に朱美とサタンの様子を伺っていた。


「最初に頭だけで存在していた事から考えて、心臓は頭部にあると考えて良さそうですわ」


 なんの確証もない只の予測でしかないが正しい様に思う。


「ここをこうして、ちょうど良い物がありました、くくくっ、出来ました!!!」


 梨華の嬉しそうな声とは裏腹に羽間はしかめっ面を作りながらスッと身を引く。


「うっ、私にその得体の知れない機械を見せやがらないで欲しいですわ」


 クモの巣を固めた様な金属の塊を手に梨華は不気味な笑みを浮かべる。


「あいつは数式を踏みにじりやがりました! 科学の敵です! 絶対に許しやがりません!」


 梨華はそれをサタンの近くに向かって投げつける。その瞬間から朱美に襲い掛かっていた雷の全てが、その金属の塊へと誘導されて行く。サタンの頭をライトアップしていたカラフルな光も、全て、その金属の塊へと吸い込まれて行く。


「内部のエレクトリックマジカルを電気にのみ反応する様に作った特製の避雷針です。周囲の電力は全てあれに吸収されやがります」


 サタンはすぐに触手を撒き付け持ち上げようとするが、それに真面に触れる事も叶わなかった。


「壊そうとしたり、投げ飛ばそうとしても無駄です。取り込んだ電気を使いグラビティ・ラインを起動して反重力を発生させています。周囲10センチの範囲限定ですが隕石を衝突させるぐらいの力でなければ触れる事も出来ません。逆に地面に触れている部分には同じ力の重力を発生させています」


「何だこれは、忌々しい」


 サタンは自棄になって触手で梨華が投げた装置を叩きつけるが、グランドにクレーターが作られるだけで、装置はびくともする事はなかった。俺はこの千載一遇の機会を逃せば次はないと思い、朱美に向かって叫ぶ。


「サタンの心臓は頭にあるぞ!!!」


 そんな俺の言葉を聞いても朱美は、堅牢の構えを解く事はなかった。彼女の様子に不安を覚える俺にサタンが皮肉交じりの笑みを向けて来る。


「愚か者が、まさかその者が破れかぶれで我に攻撃したとでも思っておるのか。貴様はその者の実力を何1つ理解出来ていない。そいつは我の心臓を確りと捉え、刀を振るった。そう、あの一撃は確実に我の存在を刈り取る最初にして最後の一撃であった。しかしその攻撃でも我の心臓は傷付かなかった」


 サタンは自分の胸を抉り真っ赤に輝く宝石の様な塊を俺に見せて来る。


「直撃を受けてもこの通り傷付かず、逆に刃を弾き飛ばした。それ故の絶望、それ故の戦意喪失。頭に心臓? あまりに愚かな助言に呆れを通り越して笑いが込み上げて来る」


 サタンは蔑みの目を俺に向けながら胸に心臓を戻す。俺は言葉を失ってしまう。自分がどれ程低い次元から物事を見ていたのか思い知らされる。岩を木刀で叩き切れる程の修行を重ねた彼女の実力を何1つ理解出来ていなかった。


「……殿は、愚か者等ではないわ!」


「ほう、まだ、それ程の闘志を燃やす事が出来るとは」


「奴を頭からぶった切れと言う殿の激昂、ありがたく聞き届けた。それと1つ、訂正させて貰おうか、私が悪魔を目の前にして戦意を失う事等ありぬわ!」


 朱美は刀を真っ赤な鞘に納め、今度は鞘に納めたまま刀を構える。


「死は等しく訪れ……炎獄は等しく魂を焦がし、闇は等しく平等に……摩天道長流秘技、獄炎烈火!」


 彼女が持つ鞘や防具が彼女の言葉に反応する様に真っ赤に燃え上がり、溶岩の様にドロドロに溶けて行く。


「……ハデス、奴は貴様に倒されていたのであったな。奴の役目を引き継いでいたと言う事か。その役目も我が引き受けさせて貰う。我は悪魔の王だけで収まらぬ、奴が居らぬなら我は冥界の王ともなろう」


 サタンが朱美に無数の触手を伸ばす。朱美は刀に張り付く溶岩の雫を飛ばす。サタンの触手がその雫に触れた瞬間、まるで導火線の様に触手が消し燃えて行く。


「稲妻――ちっ、使えぬか! まあ良い、人如きが我に敵う筈もない」


 サタンが自分の背中の羽をむしると、千切られた羽は螺旋を描く様に連なり合いスピアーの形を作る。サタンが武器を構えたと思った時だった。その場からサタンの姿が消える。


 その直後、空気を震わせる振動と共に朱美と刃を交え合うサタンの姿があった。


「天魔道長流奥義、真翔臥剣!」


「2度も同じ技が通じると思うな!!!」


 空間を引き裂く朱美の斬撃をサタンはスピアーで高速で何度も貫き破壊する。朱美はそんなサタンの胴を目掛けて溶岩を纏う刀を振るう。次の瞬間にはサタンの姿は彼女の正面から消え、グラウンドの端まで移動していた。またサタンが構えの態勢を取ると同時に姿が消え、今度は一呼吸の間をおいて朱美の背後に現れる。


「斬!」


 朱美の放った切り上げでサタンの右腕が切り飛ばされる。サタンはすぐに間合いを取る。


「――っ、我の動きが見えているのか!」


「見える必要はない。摩天道長流の剣技は自然と悪魔に向かって振るわれる。何処から攻めて来ようとこの剣は貴様を捉える」


「下らぬ戯言を、貴様が刀を振る様より早く、その体に風穴を空けてくれる!」


 サタンは自分の羽を更にむしり取り大量のスピアーを作り、再生した触手で絡めるようにして握り込んで行く。そして四方に触手を広げると同時にサタンの姿が音もなく消える。スピアーを持った触手が次々に朱美に襲い掛かる。

 朱美は襲い掛かって来る触手の半分を避け、もう半分を叩き切って行く。最初の触手が1度引き下がり、第二陣が仕掛けるタイミングで、サタンが僅かな風切り音を立てながら朱美の正面に現れ、スピアーを彼女の胸に放つ。


「かはっ……」


 朱美の口から唾混じりの血が溢れ、グランドに飛沫血痕を残す。だが倒れたのはサタンの方だった。


「相打ち……ではないか。肉を切らせて骨を絶つと言う物か……」


崩れ落ちる様に倒れながらサタンの体が真っ2つに両断され、燃え上がりながら消えて行く。最後に残ったのはルビーの様な真っ赤な心臓だけだった。


 完全に消滅するサタンを見届けた朱美はその場でゆっくりと膝を折る。空に光が戻る、真っ赤に染まっていた空が浄化される様に綺麗な青を取り戻して行く。朱美の防具や刀も熱が収まり、元の真っ赤な物へと戻って行く。


「朱美、大丈夫か……いや、喋らなくて良い」


 俺は、虚ろな瞳のまま笑みを浮かべる朱美の体を支える。俺のすぐ後に飛び出した梨華は自分が投げた避雷針を褒めたたえながら回収しようとして苦戦を始める。羽間はグランドに落ちていたサタンの心臓を回収して魔導書の中に収める。


「これでサタンも片付いた様ですわね。コックもサタンに始末され……」


「調理に置いて、最も重要な事は何か分かりますか?」


 俺と羽間はそちらに視線を向け、息を呑む。そこには黒くドロドロした物がうごめいていた。それは誰も答えてないにも関わらず語り続ける。


「そう、理解です。料理の理解、食材の理解、道具の理解……理解、理解、理解、正しく理解する事で最高の料理を完成させる事が出来るのです。私はあなたにサタン以上の何かを感じ取りました。ああ、理解したい。あなたを! 思いを! 魂を! そして……料理したい」


 朱美が気力を振り絞って刀を握り込むより早く黒い塊は彼女の傷口から体内へと侵入してしまう。朱美の体がビクッと震えたかと思うと彼女はそのまま倒れ込む。彼女の胸元から真っ白な水晶の様な物が浮かび上がり、その中で彼女の過去が映像となり、グルグルと再生を続けている。その綺麗な白い水晶が少しずつ黒く染まって行く。


「これは、不味いですわ」


「何がどうなって、これは一体――っ!?」


 その水晶に指先が触れた瞬間、朱美の過去の記憶がダイレクトに頭の中に流れ込んで来る。俺は熱せられた鉄板に触れたかの様に指先をそこから勢い良く放す。一瞬だったが、それでも壮絶と分かってしまう修行の記憶だった。その記憶は見ただけで疲れ果ててしまう程の物だった。


「コック、3柱の1体と言うだけの事がありますわ。悪魔の調理人と言うのは、人間を調理して悪魔に料理を出す存在ではなく、悪魔を調理する存在、悪魔を生み出す悪魔と言う事でしたのね。堕落した者に力を分け与え悪魔へと変えるサタンとは違い、その者の魂を穢し、その者を根本から悪魔へと作り変えてしまう様ですわ。このままでは……手に入れる所か……」


 俺は少しずつ黒く染まって行く、彼女の胸元に浮かび上がった水晶を見詰める。


「どうすれば良い?」


 羽間は真剣な眼差しで俺の事を真っ直ぐ見詰めて来る。


「……この先に踏み込むのなら魔法の存在をもう否定する事は出来なくなりますわよ」


 自分が何の為に魔法の存在を否定していたのか思い返す。始まりは小学生の時の事件。あれは全ての始まりだった。悪魔の存在を否定する為に俺は魔法も超能力も幽霊もあらゆるオカルトを否定して来た。

 どうして悪魔の存在を否定して来たのか。全ては朱美の為だった。悪魔が居ると信じ、その所為で悪魔が現れたと思い、教室での事件も自分の責任の様に感じていた朱美の為だった。


「……彼女がコックを倒せば悪魔はすべて消える。そうなれば彼女の悪魔を出現させる魔法を否定する必要すら無くなる。そんな力、持っていないんだからな」


「……そう言えばこれはそう言う話しでしたわね」


 羽間はまるで小さい子供を見る様な視線を俺に向け、笑みを浮かべる。


「目を閉じて、彼女の魂に触れて下さい。そして思い浮かべるのです、彼女と過ごした日々の出来事を……。魂の同期が始まり、あなたと彼女の魂が一時的に溶け合いますわ。後は、彼女に悪意を吹き込んでいる存在を追い払うだけですわ」


 目を閉じながら彼女の魂に触れる。早送りされた映像でも見る様に彼女の過去の記憶が流れ込んで来る。その映像はやがて調節でも終わるかの様に等倍速になり、ハッキリとした物へと変わる。


 あどけなさが残る幼い朱美の姿が車のバックミラーに移る。


「飛ばすー飛ばすー私達―」


「朱美、もう5年生でしょ、シートの上に立たない、シートベルトを付けなさい」


「ふふん、後ろの席はシートベルトしなくても良いって、聞いたもん」


「聞いたって、誰に?」


「えっと……お化け」


「こら、また嘘吐いて、どうせパパが余計な事教えたんでしょ」


「え、パパは、後部座席は減点にはならないって話しを……」


「朱美、嘘って吐き続けると本当になるのよ。本当にお化けが現れたらどうするつもりなの」


「んー、友達になる」


「はは、パパもお化けが居たら友達になりたいよ。いやー、最近は朱美も超常現象や都市伝説に興味を持ってくれてパパも嬉しいよ。やっぱりパパの影響かなー。今度お勧めのビデオがあるから――」


「パパの影響じゃないわよ。あの男の子、名前は何だっけ、あの子の所為よ。はあ、何でお化けの存在とか信じちゃうのかしら。その子、御札とか持ち歩いてるのよ」


「ママ、香君だよ。香君なんでも信じてすぐに騙されちゃうから、私がちゃんとした知識を持たないとダメなの」


「それは怖い話を聞かせ甲斐がありそうな子だね」


「パパ、止めてよね。他人様の子供にまで変な影響与えるの」


「変とは失礼な、オカルトや超常現象って言うのは事実この世に存在してる科学では解明の出来ない不可思議の現象の事なんだ」


「はい、また始まりました」


「ちょっとは興味持ってくれても良くない? その言い方傷付いた」


「はいはい、あなたは昔から――」


 言い争いを始める両親に退屈を感じたのか、朱美は窓の外に視線を向ける。山道を走る車の窓の外には見渡す限りの山が広がって居た。


「高―いね」


 朱美は車の窓にオデコを張り付けながら景色を見つけ続ける。景色にもすぐに飽きたのか、彼女は自分の吐く息で白く染まる窓を見詰めながら落書きを始める。


「折角だ、何かするか、朱美、どうだ? しりとりでもしないか?」


「うーん、しない」


「あらら、フラれちゃったか」


「仕方ないからママが付き合ってあげる」


「うえ」


「うえって何よ、うえって」


「ママ、物凄く強いじゃん。しかも『む』とか『よ』で徹底的に責めて来るし」


「広辞苑で『る』や『り』の項目をあなたが必死に調べて覚えたりするから仕方ないでしょ、戦略よ、戦略」


 ボケッと窓の外の景色を見詰めていた朱美の視界に白い光り輝く球体が映り込む。彼女は驚きの眼差しでそれを見詰める。


「わ、わわ……UFO! パパ、ママ! 見て、ほら見て! UFO!!!」


「え? UFOだって?」


「パパ、前!!!」


 正面の曲がり道から頭を出したトラクターと接触しそうになり、彼女の父親はハンドルを思いっきり横に切ろうとする。それをハンドルに絡みつく黒く醜い悪魔とでも言うべき何かが邪魔をする。

黒い何かの所為で上手く曲がらなかった車はトラクターに接触してしまう。彼女の乗った車はトラクターの巨体に弾き飛ばされ、崖の底に真っ逆さまに落ちて行く。山道の方では無理なハンドル操作をしたトラクターが横転し、大爆発を引き起こしていた。

 崖から落ちた朱美の乗った車は木に直撃し、シートベルトをしていなかった朱美はフロントガラスから吹き飛び、車の外に投げされる。その直後、炎上した車が爆発、彼女の意識はそこでなくなる。


 そこから彼女の悪夢が始まる。警察だけでなく保険会社のしつこい取り調べ、心身共に疲弊していた彼女から、両親の余所見運転からの事故だと無理矢理聞き出し、挙句の果てにはそれを悪意ある言葉で詰る。トラクターを運転していた人の遺族、そのトラクターの事故に巻き込まれなくなった遺族からも詰りや誹りの言葉が彼女に投げ付けられた。

 それは学校内でも同様だった。6人の死者を出し5人の重軽傷者を出した車の事故は大きくニュースに取り上げられ、彼女の父親が事故の原因を作った悪人として取り出さられると、『人殺し』『殺人鬼』等の心無い言葉が彼女に投げ付けられる。

 夢の中で、彼女の両親にまで責められる。『お前の所為だ』『本当の事故の原因はお前だ』『パパに余所見をさせたのはお前だ』と両親からしつこく責められる。そんな悪夢を朱美は毎晩の様に見る様になっていた。


 違う、違う違う違う違う、違う違う違う違う違う!!!


 壊れかけた魂から放たれる断末魔にも似た彼女の思いが、直接脳内に叩きつけられる。その思いは毒その物だった。触れるだけで全てを破壊したい衝動に駆られる程強烈な毒、彼女自身、その毒に侵され、何もかも壊そうとしていた。


「皆死ねばいい」


 電気も付けない自室に籠った彼女は、何度も、何度もその言葉を呟き続ける。周囲の光が全て閉ざされ、深淵の闇に沈んで行くなか、突然光が差し込む。


「ごはん、持って来たぞ。今日はなんとカレーだよ。冷蔵庫に入れておくから、えーっと、それじゃ、僕は帰るから――」


 朱美は差し込む光に必死に手を伸ばす。消えていきそうになるその光に必死に手を伸ばし続ける。


「待って!」


 光の先に居たのは、幼い頃の俺だった。俺は目の前の光景を見ながらゆっくりとその時の事を思い出していた。

 事故の後、落ち込み自宅に引きこもってしまった彼女を心配して俺の母が毎日の様に料理を作り、俺はそれを彼女に届けていた。いつもの様に声を掛けて帰ろうとした時、部屋から飛び出して来た彼女に引き止められて、あの言葉を言われたのだった。


「……悪魔の所為なの」


「あ、悪魔!?」


「う、うん、パパが悪いみたいになってるけど、本当に事故を起こしたのは悪魔なの。悪魔が現れて、ハンドルを無理矢理動かして……その、信じてくれないよね」


「塩! は幽霊か。聖水! 教会から聖水貰って来る! あ、そ、そうだ。僕の家に泊まりにおいで。お母さんは良ければとか言ってたけど、悪魔が襲って来るかも知れないなら1人でいたらダメだよ! 絶対だぞ!」


「……あ、待って……どうして……疑わないの、悪魔なんて◇▽〇のに」


 ザッピング音によって彼女が後半何を呟いたのか良く聞こえなかった。


 そこから登場する俺は今の自分からすると信じられない程に悪魔の存在を徹底的に信じていた。学校で彼女を責める生徒がいれば悪魔の仕業だと言う事を伝え、調べた悪魔の知識を伝えたりしていた。気付けば学校で彼女を罵る者はいなくなっていた。

 分からないのは、俺が悪魔の事を話す度に朱美の胸の奥でチクチクとした小さな痛みが疼く事だ。当時の俺は気付かなかったが、彼女の表情は憂いで満ちていた。その事をどれだけ考えても彼女の考えが分かる事はなく、時間だけが流れて行く。


 そして……あの悲劇が訪れる。切っ掛けはささやかな事だった。1人の給食費がなくなると言う、小学時代に1度くらいは経験するそんなありきたりな事件。


「香―、また悪魔の仕業とか言い出すつもりか? 誰かが盗んだんだよ! 大量殺人犯の子供のそいつとかな。悪魔の仕業? バッカらしい、そんなの居る訳ないだろ」


「悪魔は居るよ! 皆だって信じてくれたじゃん!」


「バッカじゃねーの、その殺人犯の娘がおっかなくて何も言わなかっただけ、でも俺は言うぜ。いい加減目を覚ませ、お前、その女に騙されてんだよ!」


「良く言った、正直付き合い切れなかったしー」


「うん、私も、悪魔ってねえ」


「そんなの居る訳ないじゃん」


「いい加減卒業した方が良いと思うよ、そう言うの」


 クラスの中で戸惑い混じりの失笑が巻き起こる。悔しさを悲しさ滲ませながら俯く幼い俺の姿を見て、朱美の中から増悪に溢れた感情が溢れ出す。


 不意に質量保存の法則を思い出してしまう。物質同士が化学変化を起して全く別も物に変わったとしても、それらの物質の総質量は変わらないと言う物だ。

 感情や思いと言う物も同じなのだと知る。彼女に向けられた、クラスメイトからの誹り、心無い言葉、遺族からの憎しみ、その全てが消える事無く彼女の中に残り続けていた。そして今、それがまるで彼女の感情かの様に彼女の中から溢れ出す。


 彼女の思いを感じながら、それは君の思いじゃないと否定したかった。君は何も悪くないと言いたかった。しかし、いくら叫んでも俺の声が彼女に伝わる事はなかった。それ所が、あのシーンを迎えてしまう。


 黒い悪魔……彼女の中の増悪から生み出されたそれは、何もかもを壊して行く。全てを憎しみのままに消し去って行く。


 そこで映像はブラックアウトしてしまう。


 どうして彼女が悪魔の存在を信じた俺を責めたのか、俺を責めた時、どんな思いだったのか分かってしまう。その直後の後悔の思いの大きさも……。彼女があの事件にどれ程の責任を感じる様になったのかも……。


「そうしてあなたはどれ程の嘘を重ね続けるのですか?」


 聞いているだけで虫唾かは知る様なコックの声が聞こえて来る。俺は急いで声が聞こえて来る方に向かう。


「何の話しだ、私に嘘等ない」


「いいえ、嘘、嘘、嘘、嘘……あなたは嘘しか存在しない。全てが嘘に塗れている。正直になったどうですか? この世に悪魔なんて存在しないと」


「――黙れ! 全て悪魔の仕業よ、だから私は全ての悪魔を斬ると決めて……」


「そうですか。ならば私があなたの記憶から嘘を捌いで真実を見せて差し上げましょう」


「真実? 下らぬ戯言を――」


「まずは車の事故です」


 コックの言葉が聞こえて来たと思った時だった。VRゴーグルでも付けられたかの様に視界が強制的に、車の事故直前の映像に変わる。

 黒く醜い悪魔が彼女の父が必死に動かそうとしているハンドルを邪魔している。コックはその悪魔にナイフを入れ、そのまま切り離してしまう。


「真実はこうです。あの時、悪魔なんて存在しなかった!」


「……止めろ」


「あの時、事故を引き起こしたのは悪魔でもなければあなたの父親でもない、あの事故の原因を作ったのは――」


「止めろ!!!」


「……次はこの記憶です。あなたが最初の嘘を吐いた日」


 今度は部屋に引きこもった彼女に料理を持って来た俺の姿が映し出される。


「あなたはこの時に思ってしまった。彼にだけは真実を知られたくないと、あの車の中で何が起こったのか、何か起こってしまったのか。そうして全てを悪魔の仕業だと嘘を吐いた。あなたも認めているじゃないですか。そのアクを取って差し上げます」


 コックはザッピング音で聞こえなかった箇所をお玉で雑音だけ掬い上げる。すると幼い彼女の言葉がハッキリと最後まで聞こえる『……あ、待って……どうして……疑わないの、悪魔なんて嘘なのに』そう言って彼女は悲しみ混じりの視線を走り去って行く俺に向ける。


「あなたは知っていた。どんな嘘であっても彼は無条件で信じてしまうと、そう言う人物と知ってた上で嘘を吐いて騙したのです」


「――っ、違う」


「そうしてあなたは彼を利用して嘘を真実に変えたのです。彼を利用する事で自分1人では信じ切れなかった嘘を自分の中でも真実なのだと嘘を嘘ではなくしたのです」


「違う!!!」


「そして仕上げはこれです。クラスメイトが悪魔に襲われる、余りにも酷い事件。この記憶をスパイスで味を整えると……」


 教室で黒い何か暴れ続ける。そのあまりに辛酸な光景に、俺は吐き気と共に目を閉じるが映像が見えなくなる事はなかった。コックがその黒い悪魔に一つまみの粉をふり掛ける。すると人の形をしただけの黒い何かから黒い色だけが消えて行く。


「違う、あり得ない! 違う!!!」


「悪魔は全て嘘、あなたが作り出した嘘、嘘、嘘! 悪魔等存在しないのです。この時も! ああ、違いました。失礼いたしました。確かに悪魔はずっと存在していた様です。あなたと言うとても醜く残忍な悪魔が!!!」


 その人の形をした黒い何かは朱美の姿へと変わって行く。クラスメイトの血を浴び、愉悦で顔を醜く歪ませた彼女の姿へと変わって行く。


「ああ、ああ、ああああぁぁぁああああああああ!!!」


 彼女の咆哮の様な叫び声に俺は急ぐ。コックから底知れぬ悪意の様な物が伝わって来る。コックの行いの全てが悪意で溢れていた。


「朱美!!!」


「全く困った物です。想定外と言うべきです。こんな場所まで来れる人間がいるとは、ここは心の中なのですよ……なるほど、簡単に騙され何でも信じてしまう、あなたですか、ならば納得です」


「黙れ! 俺は騙されたり――」


「誰かに言われたのではありませんか? こうすれば心に入る事が出来るなんて事を……。あなたはそれを馬鹿正直に信じた。ですがその信仰心は素晴らしいと賞賛いたします。何故なら、他人の心に入り込むなんて私でも苦労する芸当を簡単にやってのけてしまうのですから」


 俺は思わず言葉に詰まる。様々な事が頭の中を駆け巡る。だが『疑え』と言う心の声で。すぐにそれがコックの仕掛けた罠だと気付く。


「危ない、危うく騙される所だった。この嘘吐き野郎が!」


 俺はコックに蔑みの視線を向けた後、その視線を朱美に向け直す。彼女は屈み込み肩を細かく震わせていた。


「嘘? 私は彼女の中で塗り固められていた嘘を捌いただけですよ?」


「うるさい!」


「そもそもあなたも信じていなかったと記憶していますが、悪魔の存在を。私も同じ様に悪魔の存在を否定しただけです。褒められこそして責められる結われはないと思いますが」


 朱美の体に黒い何かがゆっくりと纏わりついて行く。その黒い物は彼女をあの時の悪魔へと変えようとしていた。


 この全てが羽間の仕掛けた壮大な芝居の一コマの様な気がして来る。俺が1歩踏み込んだ瞬間、待っていましたと言わんばかりに勝ち誇った表情をした羽間が出て来るのではと思ってしまう。


 考えるな、そんなの知るか! 今は朱美の事だけを考えろ。


「確りしろ! 全部そいつが作った嘘だ! 騙されるな!」


「くくはははは、もう手遅れです。既にその身は悪魔へと堕ちました。いいえ、少し違いますか。彼女は最初から悪魔でした。私は、そんな彼女に施されていた余計な味付けを無くしたと言うべきですね」


 俺は彼女の纏わりつこうとしている黒い何かを剥ぎ取ろうとする。しかしどれだけ引き剥がしてもそれを上回る速さで纏わりついて行く。俺はこれ以上黒い物が彼女の纏わりつかない様に彼女を強く抱き止める。


「俺は見た、あの時、確かに居たんだ。黒い悪魔が、それは朱美じゃない。別に居たんだ」


「殿……何を勘違いしてるが知らぬが、それこそが私よ」


「違う!!! あの時、確かに居たんだ。朱美と一緒にその悪魔に襲われた。これがその時の傷、朱美の同じ様な刺し傷があるはずだぞ!」


 俺は、今もお腹に残る刺し傷を朱美に見せる。しかし彼女は虚ろな視線のまま虚空を見詰める。


「……長い悪魔との戦いで私の体にはその様な傷が幾つも残っておる。その様な物を見せられても――」


 俺の中で段々と怒りが込み上がって来る。


「ふざけるな……ふざけるな!!! そんな奴と俺の言葉のどっちを信じるんだよ!!! なんでそんな悪魔の言葉を信じて俺の言葉を信じてくれないんだよ!!!」


「……殿」


 涙が溢れて来る。自分でも自分が分からなくなって来る。俺は感情に突き動かされるまま口を開く。


「あの時、朱美は言ったよな! 悪魔の話しなんか信じて欲しくなかったって!!! それから俺はそう言うの全部信じない様にして来た! それがどれだけ大変か分かるか! 信じないって物凄く疲れるんだぞ。自分に『信じない、信じない』って何度も言い聞かせて」


 完全な八つ当たりだった。でも言わずには居られなかった。今、自分と彼女への誓いを破ろうとしているのだから。


「5年もだぞ、5年も! そうして過ごして来た俺が言ってるんだぞ。あの時、朱美とは別に悪魔は居たんだって、そいつが暴れ回ったんだって! 悪魔なんて居ないって思い続けて来た俺が認める何かが居たんだよ!!! そんな俺の言葉を信じてくれたって良いだろ? 俺の事を信じてくれたって良いだろ……なあ……」


 悔しかった。悪意まみれの悪魔の言葉に負けるのが悔しくて腹立たしかった。他人に信じて貰えない事の悔しさや悲しみが強烈な波となって襲い掛かって来る。どう仕様もラナイ思いに支配されるまま、何度も地面に自分の拳を叩きつけていると、カチャリ、そんな金属音が彼女の手元から聞こえて来る。


「私は……愚か者であるな。本当に自分が情けない」


 朱美は素早く目尻の涙を拭いながら静かに立ち上がり、刀を抜く。その瞳には一切の迷いなどなく、コックを自分にあだなす明確な敵として認識していた。


「な、何故……あの状態から立ち直った!? 完全に悪魔に堕ちたはず――っ。あ、あり得ません。私の調理は完璧だった。まさか……これも信仰心だと言うのですか、彼女が悪魔でないと言うあなたの信仰心が、彼女を悪魔ではなくしたと言う――」


「私の中から消えよ! 摩天道長流奥義、斬!」


「がはっ……こんな事、あり、ああぐぐああああああ!」


 朱美は詰まらない物を斬ったと言わんばかりに刀を素早く収め、その場に片膝を着く。


「殿、私は改めて誓わせて貰いたい。私はこの先、何があろうとあなたに忠義を尽くす事を約束致す故、宜しくお頼み申す」


「えっと、えー、宜しく?」


 ゆっくりと後ろに惹かれる様な感覚と共に、彼女から離れて行く。あっと思った時には俺は現実世界に戻って来ていた。朱美の名前を叫ぼうとしてすぐに止める。俺の目の前には安らかな顔で寝息を立てる朱美の姿があったからだ。

 ふと、俺は悪魔の存在を認めた事実を思い出し、羽間の存在を捜して周囲を見渡す。しかし彼女の姿は何処にも見当たらなかった。俺は黒焦げになりながらモゾモゾとこちらに這って来ている工口に視線を向ける。


「羽間は?」


「なあ、それより先に俺の心配しろや! 死にかけてる俺の心配してくれや!」


「それで羽間は?」


「……。羽間様なら道長さんの胸元に浮かんでいた白い水晶? から黒スライムの様な物が飛び出して来た時に、その飛び出した奴と道長さんの刀を持って校舎の中に向かって走って行ったぜ。恐らく理事長室じゃねーか?」


「本当に理事長は自分勝手です! サタンの心臓の成分を調べたいので貸して欲しい申し出た所、儀式に使うとか言って、私に良く分からない術を掛けて動けなくして来やがりました。悪魔使いの理事長が彼女に悪魔退治なんかさせてる地点で怪しいと思っていたんです! やっぱり何か企んでやがったんです」


「儀式?」


 不穏な単語に嫌な予感を覚えた瞬間だった。


 パリン。そんなガラスでも割れる様な甲高い音が響いたかと思うと空が文字通り割れて行く。割れた空から覗くのは無数の眼だった。無限とも言える数の眼が割れた空から俺達の事を覗いていた。

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