雨垂れのむこうに
──外では静かに雨が降り出して来た様だった。
耳を澄ますと風を切るような雨音が絶え間なく響いているのが聞こえてくる。雨は、嫌いだ。早く早く、上がってしまって。
「どうぞ、お構いなく」
どこか間の抜けた声に私ははっと我に返った。
お客さま用の余所行きのマグカップにドリップしたコーヒーを注ぎながら、私は視線だけ居間のソファに向け、所在無さげに鎮座している彼氏の知り合いだという青年を眺めた。彼は自ら染谷と名乗っていた。
「いっとくけどね、今日は帰ってこないかもしれないよ。あの人よく平気で一ヶ月以上姿くらますから」
待ちます、染谷は律儀に、あるいはかたくなにそこから動こうとはしない。余程の用なのだろうか。
「だって、今日は六月の第三日曜ですよね」
「そう、なんじゃないの」
「じゃあ、やっぱり今日で間違いないや」
もごもごとそんなことを言う染谷は何度も何度も壁にかかったカレンダーで日付を確認している。ため息をつきながら彼の前にカップを差し出してやる。少しでも邪魔だという自覚を持って欲しいという私のわずかな期待もどうやら染谷にはまったく通じていないようだ。どうも、と口ごもりながら何かを考えるように染谷はコーヒーを回すだけまわしてカップに口をつける気配が無い。まぁ、いいさ。結局は私も形式上もてなしているだけだから。
物書きの真似事で細々と生計を立てている私の彼氏、慶介がまた取材だ何だといいながら行方知れずになったのはつい先月のことだった。私は専門学校に通う傍ら、彼の書生みたいなことをしながらこの家に住み込んでいる。
壁をぐるりと巨大な本棚が取り囲み、そのなかには慶介が敬愛してやまない近代の作家たちの全集やら何やらが所狭しと並べられていた。慶介本人の本もその中にきちんと鎮座している。同人作家だったころの本から、プロとして手がけた今現在までの本。それらを感心したように、染谷がぐるりと部屋を見渡していた。
私と慶介は十歳も離れているので当然彼の知り合いだと言い張る染谷も幾分か私より年上だった。
「和泉さんはもう、歌わないんですか」
不意に染谷が口を開いた。
一瞬何を言われたのか理解できずに、私は目をしばたいた。
染谷は本棚にはもう一切の興味もなくなったというみたいに冷めた眼をしていた。カップをテーブルの上に置き、大きくて骨ばった手をひざの上でゆるく組んでこちらを見上げている。
一重で、切れ長の、力強い瞳が何かもの言いたげに私を見つめている。居心地の悪さに私はおぼつかない足取りで染谷から出来るだけ遠い斜め向かいのソファに腰を落とした。で、何。尋ねると染谷は薄い唇を舌先で舐めた。
「俺、知ってますよ。和泉さん、昔、ライブハウスで歌ってたでしょう」
何かを期待するような、別の意味を含んだような言い方だった。
「なんで」
「見たことあるから」
少し照れたように笑う。確かに私は慶介と付き合う前、歌を歌っていた。CDなんかは出してないけど、何度かプロデューサーと名乗る怪しい親父たちの名刺をもらったことがある。ファンかストーカーかぎりぎりの線を見破らなくてはならないと唐突に思い、私は出来るだけまじめな顔をして染谷を観察した。
赤茶色い髪は肩にかかるくらい長く、指先は荒れているようだった。慶介に比べると派手な人だと思う。慶介はものを書く以外本当に興味の対象が薄く、身だしなみも無頓着でお気に入りのぼろぼろのTシャツは一週間もぶっ続けで着ているようなやつだった。比べて、染谷は身だしなみもそれほど汚いわけではない。ぼろぼろの穴あきジーンズは彼なりのファッションなんだろうと理解できたし、首に巻いたベルトのチョーカーとか右耳にだけ大き目のピアスを三つ空けているところなどから察するに染谷も何らかの形でバンドかなにかに携わっていると推測できた。
「あんた、誰」
歪曲して尋ねるのがめんどくさく、元来私はそれほど繊細に物事を考えることが出来ないたちなので、わいた疑問をそのままぶつける。とたん、染谷は破顔した。のどの奥でくくくと笑うのをこらえているのか肩を小刻みに震わせて。
「疑うのは分かりますけど、あまり露骨に嫌な顔しないでください。傷つきますから」
苦笑しながら言う染谷に説得力が無い、とぼやきながら私はあんたも音楽やってたんでしょう、と切り替えした。染谷はぴたりと笑みを顔に貼り付けて、どうして分かったんですか、と不思議そうな顔をした。
「指先、ぼろぼろになってる。ギターかベースか、もしバンドだったらそこらへんでそこそこの腕前だったでしょう」
「すげぇ。……腕前はどうか分かりませんが、ほぼ正解です。インディーズのギターやってます。知りません? 駅前のポランってライブハウスでやってんですよ」
そこは以前、私が歌をやってたときに活動していたライブハウスだ。それで、私の存在を知っているのだと染谷は続けた。
「あそこにとって和泉さん、伝説の人だから」
冗談なのだろうが、冗談に聞こえない真摯な声で熱っぽく染谷がだからもう歌わないのはもったいないと思うんです、なんてずけずけというもんだから私はいらいらした。
「何。用事って私になの?」
「あ、いや、そうじゃない、ような……」
明らかに染谷は動揺していた。視線がかみ合わなくなり、指先は何かを描くように小刻みに不規則な動きをしている。
「なによ」
言いたいことがあったら言えばいいじゃない。男らしくない。私の言葉に染谷は引き攣った笑いを浮かべた。
「慶介に用事って、口実だったわけ?」
「——そうかもしれません。でも、俺はあなたの歌がきっかけで音楽始めたから」
「やめてよ。……歌は、もうやめたの。私には必要ないから」
「本当に?」
「……あんた、何。スタジオのマスターにでも頼まれたわけ?」
「違います。……じゃあ、言いますけど。えっと、俺、あなたが好きです」
「———は」
今度は私が戸惑う番だった。
「俺、あなたが好きです」
私の聞き間違いではなく、今度ははっきりと染谷は言った。
「……あんたなに言ってんの。正気? 私には慶介がいるんだよ。不謹慎にも程があるよ」
「でも、もう——慶介のこと好きじゃないでしょ、和泉さん」
染谷は噛んで言い含めるように囁いた。
「な、んであんたがそんなこと言うのよ!」
内心、どきりとしていた。否定したくても、出来ない自分をいつの間か知っていた。認めたくはないから黙殺していた、のに。
「だって、慶介が好きだったら俺みたいなの平気で慶介のいない家に入れるなんて出来ないはずだから」
——ああ、そうかもしれない。
否定するより先にそんなことを思ってしまう自分がいる。
好き、とか。
私は本当はよくわからなくなってしまっていた。
確かに付き合いだしたとき、私は慶介が要れば何一ついらないと思えるほど好きだった。だから歌もやめた。いや、歌にすがって生きることが必要じゃ無くなったのだ。
慶介の、ペンだこのある指が好きだった。
機械に頼るのが苦手なのだと、むかし三百枚の新作を万年筆一本で書き上げたことがあるといっていた、ものを作り出すためにあるその指が愛しかった。その手がはじめて私の体に触れたとき、私は慶介のひとつの作品になった。
インクの染みた指先。
私は描かれる。
一人の人間として。
一人の女として。
それがすごく幸せで、気持ちよかったから、私は歌なんかいらないと思った。
この指が、腕が、体が、心が、触れる魂があれば他には何もいらないと思った。
たったひとり、私を必要としてくれる人がいるということ。
たったひとつ、揺らがない真実。
それだけが私の、欲しいものだったから。
なのに今は、わからない。
慶介の体温が、熱かったのか冷たかったのかも定かではない。
「あの人、寂しい人だから、」
寂しいのが死ぬほど嫌いな人だから、だから私がいなくてはだめなんだと流されそうな自分を必死になだめた。
「寂しいのは和泉さん、あなたなんじゃないですか」
じっと、染谷の黒い瞳が私を責める。染谷の手が、そっと私の頬をなでた。
寂しい?
額。瞼。頬。そして、顎。
首筋をたどる染谷の唇の感触。乾いているのに、熱く、しっとりと肌に張り付く。ぞわぞわと頭の芯が痺れていく。
寂しい。
たとえば、抱きしめる体が突然なくなったら取り残された子供みたいに私は泣き出すだろう。
すがりつく確実なものを欲して、それが歌だったり、慶介だったりしただけだ。そして、今の私には歌も慶介も無い。あるのは染谷だけ。
ならば。
すがりつくぐらいいいじゃないか、と開き直るもう一人の私がゆっくりと首をもたげる。
子供のころは自分と同じ大きさのくまのぬいぐるみが無ければ安心して眠ることも出来なかった私。
親の不仲、兄弟との決別、満たされない飢える心をもてあましてばかりだった私。
一人は嫌。
歌っているときは音楽が隣にあって、音楽が満ちた場所には自然と人が集まってきた。だから、歌にすがった。独りではないと、信じたくて。慶介は私と一緒にいることを許してくれていたし、年に何度か取り残される不安を我慢すれば歌を捨てても慶介の隣にいることは私にとって一番満たされたことだった。
でも、いつからだろう。慶介が見えなくなったのは。彼を感じることが出来なくなったのは。ただひたすら一人で孤独を抱えたまま大きなこの家で待つようになったのは。
染谷が来たとき、一瞬だけど慶介の気配がしたように感じた。
慶介と同じ匂い。
慶介と同じ体温。
慶介と。
けいすけ。
け、い、す、け。
「俺の腕の中であいつの名前を呼ぶのはやめてください」
堰が切れたように染谷が声を荒げた。いつのまにか想いが口をついていたようだった。頬に、ぬるい水がこぼれた。染谷の涙。
「なんで、あんたが泣くの」
口の端に流れ込んだ涙を舌先で舐めて、しょっぱいと同時に苦い、と顔をしかめる。
「だってあなたがあまりにも……」
唇が動いた。
(いとしそうにあいつのなまえをいうから)
子供っぽい泣き方をする人だ。
嫌いじゃないな。ぼんやりとそんなことを思う。
自分より弱いものをあやすみたいに、私は指先で染谷の頬を撫でた。じんわりと乾いた他人の皮膚が指先の腹に馴染んでくる。私の指先がほんのりと染谷の体温に染まっていく。
心地いい。
体の境目なんかなくなって、とろりとバターみたいにとろけていけばいい。
それはどんなに気持ちいいんだろう。
「なんで、あいつが帰ってくるって信じてられんですか」
鼻をすすりながら、染谷が訊いた。その言葉の意味が分からなかった。
それはなんか、なんか、こう、すごく、真実めいていて。
かみ締めればかみ締めるほど、重たく胸の奥に沈みこんでいくようで。
「慶介は帰ってくるよ。だってここは私たちの家だもん」
上の空で答える。唇がわなないた。
帰ってくる。帰ってくる。帰ってくる。帰ってくる。だってここが慶介の居場所だし帰る場所だから。そうじゃなかったら、私は。
「帰ってくるよへんなこと言わないでよ」
冷たい汗が、じわりと背筋を伝っていく。つるりとした言葉。つるり。つるりと、捕まえられない、意味を成さない言葉。私の手の中でいたずらに遊んでばかりいる言葉。
か。え。っ。て。く。る。
黒い、ただ、黒い、瞳がじっと私のなかの偽りを引き出そうとしているようで。
怖いと思った。
「和泉さん……あなた、このなかにいったいなにを隠してるんですか——」
私の胸に触れる、大きな手のひら。
胸のふくらみではなく、鎖骨の下の奥、やわらかいところにぐっと踏み込んでいく強さ。
(コノナカニ、)
(イッタイナニヲ)
(カクシテ————)
「何も」
じんわり、沁みこんでいく、優しい熱。
「何も、」
ふるえ。
世界が、ぐらぐら揺らぎそうになる。
なにもかも、根こそぎ。もっていかれてしまう。もっていかれる。
ごめん、待って。まだわからないの。
まだ、さよならもしていないでしょう。
さよならを。させて。おねがい。
「何も隠してないから!」
ぐ、と掴まれた。手首。軋む。骨に、指が食い込む。
染谷の顔。
染谷の、眼。
慶介に似ていた。
何でそう思うんだろう。どうして、どこかで会ったような気がするんだろう。
「慶介は……、兄さんはもういない」
何を。言って。いるの。
白いペンキをぶちまけられたように、目の前が真っ白になる。
「思い出して。和泉さん。俺のこと本当にわかんない?」
「……え、」
「俺、慶介の弟の慶太。親が離婚したせいで苗字は違うけど、兄さんの葬儀で会ったでしょう。ま、あの時は俺もこんな色の頭じゃなかったからアレだけど」
言われてみれば。確かに私は、染谷と会ったことが、ある。どうして忘れていたのだろう。目許も、声も、匂いも。似てるのに。
体からふ……、と力が抜ける。
「——慶介の、葬儀……?」
そうぎ?
床に座り込んだ私を尻目に、染谷は立ち上がってつかつかとあの壁のカレンダーの前に歩いていく。
「今日は、六月の第三週日曜なんかじゃありません」
べりべりと、小気味よい音を立てて染谷はカレンダーを剥がした。それは、私が必死で隠そうとしていた真実のヴェールをも剥いでいく。
「もう、八月ですよ。あいにく今日は台風で、あの日と同じ雨ですけど。和泉さん……やっと、兄さんの四十九日が明けました」
……ああ。あれからもうそんなに時がたってしまったのか。
慶介が死んでから。
私がここに取り残されてから——。
私は俯いた。それを思い出しても薄情なことにこれっぽっちも涙が出なかった。
慶介は死んだ。ふらりとこの家を出て行ったまま、慶介は飲酒運転の車にはねられたのだ。慶介は悪くない。ただ、夜の交差点を歩いていただけ。ただそれだけのことで慶介は死んだ。
葬儀の日、雨が降っていたのだけはおぼろげながら覚えている。火葬のときも私は一度も泣かなかった。泣けなかった。それから私は、この家に帰って、慶介をひたすら待ち続けた。心は少しずつ離れていたのに。なのに。もう。慶介が帰ってこないことを、認めたくなくて。
「この家、もう競売にかけられて買い手が決まったんです。だから。俺、本当はここに」
「———そっか……」
「すみません」
この家は慶介のものだった。次の買い手がついてしまったなら、私は出て行かなくてはいけない。ここから、私は、どこへ行こう。
どこに行ったらいいのだろう。
「和泉さん」
染谷が、私の手を取った。
「それで、もし、行く当てが無いなら俺と一緒に来ませんか」
「え」
「俺のために歌ってくれると嬉しいんですけど」
不謹慎なのは承知です。そうやって笑う染谷は嘘つきだ。だけど、きっと、私を思ってくれている気持ちに嘘はないだろう。
信じていいの。
嬉しいのか悲しいのかよくわからないのに、なんだか泣けてきた。
慶介。ごめん。ごめんね。
やっぱり私はもう、好きの気持ちが少なくってた。この胸は空っぽで、だから泣けなかったのだ。それが悔しくて、情けなくて、薄情な自分を認めるのが怖かった。怖かった。
「……雨、止むまで考えさせて?」
答えは大体決まっているけど、せめて慶介にさよならの思いを込めてあの雨垂れの向こうへ黙祷を捧げよう。
さよなら、慶介。
ごめん、ね。
目を閉じる。
外ではまだ、ばたばたと音を立てて雨が降り注いでいる。
——ああ。きっと。私の代わりに、空が泣いてくれてるのだ。
そう思ったら、ふいに何かががゆっくりと頬を伝い、床に落ちた。