夕暮れのもう一人
子供頃の話——。
今だからこそ思い出すのかもしれない、俺はふと二階にあるワンルームアパートの自室から隣接する公園で遊ぶ、子供の声を聞いて埃の被った記憶を呼び起こした。
誰もが通る道だからか、子供が公園ではしゃぐ訳もわからない甲高い声を達観した気持ちで眺めていた。
昼間から安い缶ビールを片手に、グラスに移す手間も惜しんで傾けた。
だから酔っ払いの昔話程度で、つまらない話。
でも、あれはなんだったのだろうと今にして思う。
それは小学校5年生ぐらいの時だ。
学校は地元の顔馴染みばかりで、みんなどこに住んでいるかなど大体わかっていた。近くに小さな工場があったりして親の職業も同じことが多かった。
そんなことで、みんな古い団地に住んでいたり、ちょっと昇進すると町営マンションに移っていく。それでも全員が顔見知りで、昔から知った仲であった。
親付き合いは当たり前で、悪さをするとすぐに知れ渡った。親同士仲が異様に良かったこともあるが、全員が地元から離れずに暮らしているのだ。爺さん婆さんの代から、それよりもっと前から知っている。ここは一種の閉じた村社会だった。ここを一時は離れても、何故かみんなこの町に帰ってくるんだそうだ。
この町はみんな規則正しい。
親達も陽が沈む前には家にいるし、そんな親を見て育った子供も不思議と暗くなる前に帰るのだ。
とはいえ子供は遊び盛りに変わりない。元気な子供が遊べる場所は限られていて、もちろん自転車を持っているやつもクラスに一人か二人しかいなかった。
そいつらも自転車を持っているとはあまり言いたがらなかった。
だって、みんなが羨ましがってずっと貸しっぱなしになるのがわかっていたからだ。遊びなどそっちのけで乗れるようになるまで、自転車を何度も倒しながら交代で乗る。言ってみれば取り合いだ。
だから、そいつもいつしか自転車の話題をしなくなり、いつも集まる公園に来る時には自転車を置いてきていた。
大事にしていた自転車は、すぐにボロボロになって「壊れちゃったや」とA君は言って「ごめん」と続けた。
A君は珍しく山を三つ越えた街から引っ越してきた転校生だった。今となっては全員と友達だ。でもほんの二年くらい前はいきなり町営マンションに越してきたっていうんでちょっとした話題になった。
町は余所者には距離を置きたがるが、直に町民会議にも呼ばれるだろうと婆ちゃんが言っていたのを覚えている。
この町はゆっくりと時間を掛けて馴染んでいくしかないんだと、少し寂しそうに言っていた。
でも、俺はA君とは気があって、遊ぶ時間も増えていった。
自転車を壊されてちょっと裕福なA君が可哀想に見えたこともあったけど。
他の友達もなんとなく察していたんだと思う、それとも子供ながらにうつろい易く、飽きてしまったのかもしれない。自転車の話はそれ以降上がることはなかった。
その少し前くらいからだろうか、A君の両親も町中で見かける回数も増えていた。
町民会議が行われるのは、町の真ん中にある神社の隣の会館だからそれに呼ばれ出したんだろうと思った。A君の親は気さくで、子供に対してもすごく礼儀正しかった。この町では絶対見かけない人達だったんだ。
見た目も顔つきさえも、何もかもが外から来たんだとわかった。
そうは言っても町民会議は決まって夜開かれていたし、それ以外でA君の親を見かけたことはなかった。
A君自身はあっという間に学校に溶け込んでいった。
学校の友達と遊ぶ時は決まって六か七人がいつも集まった。ちょっと広めの公園だが十人を超えると途端に手狭に感じてしまうのだ。
友達とは言っても学校には十四人しかいなくったが、公園に集まる面々はいつも同じという感じでもなかった。声をかけずとも誰かは必ず——六、七——人は集まっているのだ。
そんな中でも俺は家にいるより外で遊ぶことが好きだったため、その集まりには毎日のように行っていた。
他には決まって仲の良い二人——A君とB君——が一緒で、他の三、四人が日毎に入れ替わるイメージだった。比較的喧嘩もなく、犬猿な奴らもいなくって、誰がきても毎日が楽しかったのを今でも覚えている。
A君はとても真面目でどこか落ち着いた雰囲気がある。あまり怒らないような性格だった。ただ、自転車をみんなに見せてきた帰りも、何故か全力で漕いでいた。その一点だけはずっと不思議だったんだ。
それ以外はいたって普通の子供で、周りより勉強ができたとかその程度のこと。
自転車が壊れた後も、彼は帰る時は必ず全力疾走だった。だから、A君と一緒に帰る奴はいないし、いても置いてかれていたんだ。
特別足が速かったわけでもない。でも走るのは好きだったんだと思う。それぐらいA君は走っているイメージがついていた。ある時を境にA君は良く走るようになった。もちろん、これといって彼に門限があるわけではないらしいが、走る理由は聞けなかった。変わった奴は他にもいたんで気にもしなかったんだ。んでA君は町営マンションに住んでいたこともあって比較的優等生って感じで見ていたわけだ。
誰かが付き合いが悪いということもなく、みんながみんなそれなりには仲が良かった。
公園にはなんとはなしに誰かがいるものだった。
そしてA君は帰り時間の最後まで残って、誰もいなくなるのと同時に独り全力で家路を急いだ。
A君はいつもかくれんぼをしたいと言い出す。でも、なんだかんだと絶対に鬼はやりたくないらしい。
みんなの中で、それは決まってしまったルールでA君は最初だけは鬼にならない決まりになった。でも、一番初めに見つかってしまったらA君も鬼をやるという暗黙のルールができていた。
そんなもんだからA君はよっぽど見つからない自信があるのかと思えば、そうではなかった。一言でいえば簡単に見つかる場所に隠れるんだ。もっといえば、隠れなかった。木の背中だったり、木登りをしても低い場所で縮こまっているのだ。
公園内には鍵のかかっていない木造の倉庫があり、近所を掃除するための清掃用具が仕舞われてあった。他にも太い柿の木が何本も生えていた。柿の木は年中、ボコボコした木肌で乾燥してヒビ割れているようで子供ながらにおじいちゃんに囲まれているような気分だった。
他にも遺跡跡みたいな総石造の大きなブロックが建っていて、それが何なのか、古い塔の跡地なのかいまだにはっきりしない。
兎にも角にも鬼ごっこより、かくれんぼに適した景観だった。
でも、所詮は子供用の公園だから隠れられる場所は限られているし、そうでなくともここを熟知した俺達は粗方見つかりづらい場所を把握してしまっているのだ。
今思い出しても、なんであんなに楽しかったのかがわからなかった。子供だからと言ってしまえばそれまでのなのだろうが、よく飽きもせず似たような遊びを毎日毎年繰り返していたものだなと思った。
そんなある日、随分と遊んだ後、そろそろ帰る頃になって俺が鬼をやることになった——俺は鬼になってもなるべく二番目くらいにA君を見つけることにしている。何故かというと彼は必ず何番目か聞いてくるからだ。よっぽど鬼がやりたくないらしかった。でも、今日はこれで最後で、陽は今にも倒れそうな位置まで沈んでいた。
夕日を背に、電柱のような影を引きながら俺は次々と友達を見つけていった。みんなも飽きてきているのか、早く終わらせたいのか、帰る雰囲気のようなものが伝わってきていた。
そんな時、普段なら真っ先に見つけられるA君が、珍しく見つからなかった。
粗方探し終えた頃には、陽は薄暗いオレンジの光だけを届かせるだけとなっていた。
みんなで探し、ぽつりぽつりと暗くなるにつれ怖くなったのか帰っていく。
でも俺は鬼だったこともあって、最後までA君を探した。
声を張っても彼は返事をしなかった。
ふと、俺は倉庫に目がいった。
そこは当然ながら最初に確認した場所だ。大抵の場合、誰かはあそこに隠れていることが多かった。
でも、そこを確認した時は、中は真っ暗で、それでも人がいればわかる程度には奥まっていないのだ。
隠れながらに移動したということは十分考えられた。
でもって、あそこは引き戸だが立て付けの悪さから、たまに引っかかって開かなくなることがあった。
俺は夕日を背に佇む倉庫へと足を向けた。
みんなも探し飽きて、Aは帰ったんだよと口々に言って帰ろうとしていた。
戸に手をかけると、恐ろしいくらいすんなりと開いた。中はすでに夜になっていたようなじんめりとした暗さがあった。
清掃用具があるはずなのにそれすら見えない。
「おい、A、早く出てこいよ。暗くなっちゃうぞ」
俺は声を張り上げた。
すると中から見覚えのあるTシャツがチラリと闇から見える。なんとなく身体の向きから彼はずっと戸の方を向いたようだった。足のつま先が俺に向かっていた。
Aは俺の声に返すのではなく、滑らせるように足を動かして、カクカクと奇妙な口の開き方をする。
「もう見つかチャタ……ボ、ボクが、サイゴだね」
「うっ!!」
俺はAの口から上が真っ黒なことに腰を抜かした。口から上、鼻は当然なく、目もない。
黒一色のビニールを頭から被せられているような様子だった。
そして……Aは首をグルングルン回したり、傾けたりしながら俺の前に姿を見せた。
倉庫から出てくると彼の頭に被さっていた黒い何かは明かりを避けて引いていった。
どういえばいいのかわからないけど、Aはもう俺の知るAではなかった。なんていうか、目が明後日の方向に向いていて、声まで違った。
それがAだとは思えなかったんだ。
「○○クンが、ツギ逃げる番、ね……」
倉庫から出てきたAは遠くを見ながら、俺の前で肩をポンと叩いた。
そして、ゆっくりと家に向かって帰っていく。そこにAの影はなかった。
俺は自分が何を見たのかわからず、なにより怖くて最後まで見届けられなかった。
Aの影がないとわかって咄嗟に自分の影を見ていた。俺の影は尻餅をつく俺を見下ろすように、影が勝手に動き出していた。
俺は逃げなきゃいけないと思った。Aのように頭を食べられる。
そうだ。Aは倉庫でこいつに頭を食われていたんだ。それも自分の影に。
不思議とそんな風に解釈した俺は悪寒に襲われながら、脇目もふらず家路を急いだ。
周りの友達は口々に何やら言っていたが、俺はもう聞こえない。ずっと付いてくるこの黒い何かから逃げなければならなかった。
どこまでも付いてくるこいつは、きっと俺の家までも付いてくる。
暗くなる前に帰らなきゃ……。
俺は自室の二階のベランダから外の公園を眺めた。
Aはあの後、大きな病院に移るらしく、長期治療になるということで引っ越していった。
俺は引っ越す前に一度だけ見舞いにいったことがある。
そこには変わり果てたAがいた。
枕の上で激しく首を動かしていたのだ。いや、厳密には固定具で振らないようにされていたが、ギシギシとベッドが軋む音が病室に響き続けていた。
原因不明らしいが、ガリガリに痩せ細った体は、回復の見込みがないことを知らせていた。彼はずっと帰らなきゃとしか発さなかったらしい。
それ以降、俺はAの見舞いにはいかなかったし、公園での遊びもあれから行かずに、家で引きこもっていた。そう言われていたこともあったし、夕暮れが怖くてあまり外にも出れなかった。公園に行ったのは二回か三回か。
みんなあれからどうしているだろうか。
そしてBは大丈夫だろうか。そうするしかなかった……でも、きっと大丈夫だろう、そんな気がする。Bの家はずっとあの町に根を張っていた。
けれども怖くて俺は今も日中は家の中にいるようにしている。子供を見ればその影を見て、それから自分の薄らいだ影を見てしまうのだ。
食べられなかっただけ良かったんだと、思うようにしている。
もう、あの町に帰ろう——町民が皆そうであるように……俺もあの町に根を張ろう。
直に俺もあの町に帰らないといけなくなる。そういうものなのだ。
この影が完全に消えてしまう前に戻らないと。