背の高い女の子
なおちゃんの部屋に入るや否や、絶対に使用済みの割り箸をキレイに洗って乾かしているキッチンが目に入り、今日限りにしようと思った。とりあえず、やることはやろう。
頑張って2回戦を終えた後、なおちゃんは寝てしまった。かわいい寝顔だったが、ベッドの横の机にも、先端が変色している割り箸が何本かあるのが目に入り、やっぱり、今日限りにしようと心に誓った。
朝、起きると、なおちゃんは、タンクトップ姿であぐらをかきながら、地べたに座って絵を描いていた。
そうだ、この子は芸大に通っていると言っていた気もするし、看護大学だった気もしてきた。いや、看護の子は違う子だ。あの子は直樹と仲良くしていたか。昨晩の記憶が場面場面で蘇る。
「なおちゃん、よく絵を描くの?」
ベッドで横になったまま、小さい声で話しかけてみた。
寝ていると思ったのか、こちらの発言に驚いた表情を見せ、首肯した。
「何描いてるの?」
「ん~、コップだよ。コップに光が射してるんだよ。」
全く絵を描くことも観ることも興味なかったので、そのまま返事もせずに、仰向けの状態のベッドから天井を眺めた。部屋の中央やや窓よりにシーリングライトがあり、他には何もない。壁には時計が1つ掛かっているだけで、カレンダーすら貼っていない。
そもそも、この部屋には物が少ない。ベッドと机、4段のスチールの棚。床に少し日用品があるが、ひとり暮らしの年頃の女子大学生にしては飾り気がない。かと言って散らかっているわけでもない。髪の毛もショートカットだからか、床に落ちていない。女の子特有のいい香りもしない。無味無臭だ。辛うじてシーツはいい匂いがするが。
不思議に感じて、絵を描いているなおちゃんを観た。あ、そういうことか。割り箸で描いてるんだ。先端を削って、インクを付けてるのか。
小学生のころ、フィルムケースの下にティッシュを詰めてから墨汁を垂らし、同じように割り箸で絵を描いたことがある。利き手じゃない方の手を描いた。何度も何度も墨を付けて線を引いた。太さも濃さも均一にならない線に苛立ちを覚えた。早く終わらそうと思った、右手を描くことを。
いつまでもゴロゴロしているのも申し訳なくなって、起き上がり、ベッドに座った。なおちゃんは、真剣な眼差しかどうかは分からないが、集中して、線を引いている。全くこちらを気にしていない様子だ。
「俺も、描いてみよっかな。」
口にしながら、割り箸に手を伸ばした。なおちゃんが、画用紙を取ってくれた。
「絵、上手そうだね。エッチはイマイチだったけど。」
こいつ言いやがるな、と思いつつ、無視して画用紙を受け取った。それなりに普通にショックは受けつつ。
「俺、なおちゃんを描くわ。上半身だけ。実物より可愛く描くね。」
さっきのお返しとばかりに、少し嫌味を込めて放った言葉だが、なおちゃんは気にも留めず、
「よろしくお願いしますね、カズくん。」
と可愛らしく微笑んだ。
字を書くことも少なくなっているので、割り箸1本を握る手に一層違和感がある。中指に当たる割り箸のカドが気になる。なんか割り箸が長い気がする。恐る恐る割り箸にインクを付けて、真っ白な画用紙に割り箸を置いて線を引いた。
描いた右手は、「力強く、迷いのない手を表現している」と評され、6年2組で一番の評価だった。これまで、際立って絵が上手いというわけでもなかったし、図工の成績も「普通」だし、別に絵なんて好きじゃなかった。でも褒めて伸びるタイプだったのだろう。突如、絵の才能が開花したんだと思った。
何が良かったかは分からない。ただそれを境に、少しだけ、絵が好きになった。絵が好きだということを自分に言い聞かせた。
高校は普通科高校に進学したが、周囲の反応を気にせず美術部に入った。それがかっこいいのだとも思っていた。実際は、とてつもなくつまらなかった。当然ながら、基本的には座って静かに絵を描くだけ。粘土や造形をしている人もいたが、絵画一本で挑んだ。
結果、絵が嫌いになった。青春を謳歌したいと思った。中学と同じサッカーを続ければよかったと思った。市の美術展への出展、同じく県の美術展への出展、その程度の実績。受賞も何もない。興味も面白さも感じなくなった。でも美術部を辞めることはなかった。意地もあったし、おしとやかな女の子も多くいた。
割り箸を持ってみると、意外にも描くことに夢中になってしまった。
なおちゃんは、ひと区切り着いたのか、こちらの様子を窺ってきた。立ち上がると女の子にしては背が高い部類になるだろう160cm後半あるスタイルから短パンの下に伸びる白い太ももをのぞかせて、こちらに近づいた。斜め上から画用紙を覗き込んていた。何も言わなかった。
「お腹空いたね、なんか食べる?」
なおちゃんが、まだここにいて欲しいということを遠回しに言ってきた。
「そうだね、なんか食べたいなぁ。なおちゃんが作ってくれるの?」
「パスタ茹でるぐらいだけどね。」
と言って、すぐそこにあるシンクに向かい、鍋に水を入れ始めた。ミートソースかカルボナーラかと想像していると、ザーっと流れる蛇口から水が止まる様子がない。ジャボジャボと鍋から水が溢れ始めた。
鍋をシンクに落とした。
ドンという重たい音と振動があった。まだ水は蛇口から流れ出ている。
か細い声が聞こえる方へ向かった。なおちゃんは流れる水の方を焦点を合わさずに見ている。肩に手を置いた。置くと同時になおちゃんは頽れた。もう体に触れてはいけないと感じた。微かに漏れる嗚咽に戸惑いすら覚えた。
一体何が引き金だったのか。
驚いた。というよりも、悔しくて顔を見せられなかった。たまたま描いた、暇だから描いた、久しぶりに描いた、と思われるカズくんの絵に魅力を感じずにはいられなかった。
色の無い絵こそ画力が出ると思う。色で誤魔化すことで、それっぽく見せることができることも学んだ。ただ1色、墨のインクで描いた絵に光と影ができる。平面である紙に奥行きが生まれる。白い紙に空間が生まれる。私が描かれていた。
小学生の頃は、活発な女子だったと思う、勉強よりも体育やレクリエーションが好きだった。今となっては何の魅力も感じないが、足も速かったし、いつもリレーの選手にだって選ばれていた。それはいわゆる才能だった。運動能力という才能だった。
「努力って、やっぱり才能には勝てないのかな。」
口からこぼれてしまった言葉は、これまでにも心の中で堆積していた思いだった。大学の周りにいる友だちにも何となく劣等感を抱いてしまう。何気なく造った友だちの作品が、私が汗水垂らして造り上げた作品よりも断然出来がいい。そして、昨日出会った男が描いた絵にまで、凌駕されている。
「もう芸術と向き合えないよ。だって残酷なんだもん。」
掠れた声は、才能を持つ男に届いたのだろうか。俯いたまま、すぐそこにいる男の足元を見ていた。
「そうだな、もうやめちゃえばいいじゃない。」
ゆっくりと腰を下ろして、なおちゃんの目線に近づいた。
「別にさ、絵を描いていかなきゃいけないってことは無いんでしょ。芸術一家ってこともなさそうだし。とりあえずさ、チューしていい?」
バカ!と右手で肩を叩いてきた。
もう1回、今度は少し大きな声でバカ!と太腿を叩いてきた。
「まだ、絵の途中だから。」と言って、蛇口を捻ってから部屋に戻り、なおちゃんの上半身の絵を描くのを続けた。もう描かなくていいよ、と聞こえたがそれは無視した。左手に持った割り箸が、いつの間にかしっくり手に、指に収まる感じがしていた。被写体はそこにはいない。でもイメージが残っている。周りの音が耳に届かない。壁に掛かっている時計の秒針は動いているのだろうか。白かった紙に女性が描かれていく。美しい女性が描かれていく。さっき垣間見た涙を目に描き加えた。眉も少し凛々しくしてみた。他にも、他にも、細部を描き込んでいった。
「パスタできたよ。」
白い楕円形の器にミートソースのパスタが盛られている。レトルトのソースだと思うが別に嫌いじゃない。パスタの量も7:3ぐらいの割合になっている。
机を占領していた画用紙を床に置いて、パスタの器が2つ机に置かれた。
涙の跡はもう無い。
両手を合わせて「頂きます!」と、さっきまでの出来事を払拭するように、やや大きめの声で言ってから、フォークを手に取った。パスタをあまり巻いて食べるのが得意じゃないので、フォークで掬って口に入れた。
「なおちゃん、髪の毛、伸ばさないの?」
「作業するときとか邪魔だから、中学生の時からずっとこのくらいかな。高校の時はもうちょっと長かったかも。」
髪の毛の先を触りながら、そう答えた。パスタもその方が食べやすそうだ。
「じゃあ、伸ばそうよ。ショートもいいけど、ロングも似合いそうだし。」
パスタをフォークで器から上に掬って、髪の長さを例えた。
「行儀が悪いよ」
なおちゃんに窘められたが、拒否する言葉は続かなかった。何か考えているのか、なかなかパスタは減っていかない。コップに注がれた烏龍茶だけが少しずつ少なくなっている。また泣くのか。
きっと、カズくんは泣くんじゃないかと心配してくれている。でも、残念ながら泣く予定はない。さっき泣いてしまったときに決めたことがある。もう本気で絵を描かない、と。
なんとなく続けていたのかもしれない。努力すれば絵はうまくなる、ということには、薄々限界があることには気付いていた。
たまにいい感じに描けることもあるし、評価をされることもあるが、違うモチーフになるとまた平凡な絵が出来上がってしまう。確率なのかもしれないとも思った。10回描いたうちに3回いいものが出来ればいいのかもしれない。周りのみんなは違った。10回描いたうち10回いいものが出来るように頑張っていた。だから私も頑張っているフリを続けていた。仲間同士で褒め合い、陰で貶して過ごしてきた。
そもそも芸大に通ったのは憧れが強かった。
自分の隠れた才能が何か開花するのではないかと思っていた。
たまたま高校時代に横浜駅のルミネの近くで、スカウトみたいな人に声を掛けられ、名刺をもらったことがあった。一緒にいた友人ももらっていたので、見境無しなのかと思っていた。でも、少し嬉しかった。
そのスカウトみたいな人が「お二人とも、もうモデル事務所に所属されていますか?」って聞いてきて驚いた。友人と顔を見合わせて笑った。
友人は浮かれて、その日自宅に帰ったあと、そのスカウトからもらった名刺の連絡先に電話をして、オーディションを受けたらしい。結果は合格。でもレッスン料などで、まず50万円必要とのこと。この費用なら良心的だし怖がることもない、と今なら分かるが、高校時代の私たちは騙された!と大騒ぎをしていた。
私も、興味のないフリをして、こっそりモデルの仕事について調べてみたりした。すると、高いと思っていた私の168cmの身長はモデルとしては足りなかった。中途半端な自分を悔いた、そこまではいかないが、もはや呆れた。努力ではどうすることもできない、どちらかと言えば才能にも似ている身長もこんなものかと。私には何か才能があるのかと。高くてコンプレックスだった身長が、高くなく低かった。
それでも、今までに無い、何か光が差した気がした。モデルという職業を調べているうちに、今まで知らなかったいろいろなことを知ることができた。モデルの周りで多くの仕事があるということ。カメラマン、デザイナー、アパレル、撮影スタジオ、編集、印刷、その他にもインテリアやコピーライティングなど知れば知るほど期待が膨らんだ。一見すると華やかな世界が私には開けた。
親を説得して、希望通り進学できた芸大の面々は、個性の塊だった。
私は、ザ・普通だった、間違いなく。
ただ、背が一番高い女の子だった。
「なおちゃんさ、モデルみたいだよね。」
昨日の会ったときから思っていたことを口にしてみた。
カズくんの一言は、今までの苛々を一瞬で頂点に達する的確な言葉だった。
抱きついて、口で口を塞いでやった。驚いた様子だったが、すぐに受け入れてくれた。
「そうだよ、モデルみたいでしょ。」
実際のところ、よく分からないが、なおちゃんはモデルになりたかったのかもしれない。モデルという言葉が琴線に触れたのだと思う。また泣きそうになっているから上を向いている様子も何かかわいい。思い出したかのようにパスタを食べ始めた。
「さっきも言ったけど、髪の毛伸ばせば。ストレートロングってなんかモデルって感じじゃん。」
「いやだね、そんな他の人と同じようなふうにはしたくないよ。」
「あ、なんかモデル目指すって決めちゃった感じ?」
なおちゃんは、泣いていない。とてもきれいに笑っている。
「じゃあ、俺も絵を描こっかな。」
「好きにすれば。」
なおちゃんは、冷たかった。