4−4:
勇介はバラッケの裏通りを抜け、崩れた家の跡が並ぶ場所へと出た。そこには、手押しポンプの着いた井戸があった。勇介はポンプを手で漕ぎ、水が溢れるのを待った。だが手応えは軽く、呼び水が必要かもしれないと思った時だった。
「兄ちゃん、そいつぁ飲めねぇぞ」
振り向くと、そこには着物にハンチング帽を被り、襟巻を巻き、杖を持った老人が立っていた。
「おやっさん」
「おう、俺だ」
「飲めないって。まさかおやっさんが信じているわけではないでしょう? 朝鮮人が毒をなんていう噂を」†
「あぁ、そんなんじゃねぇ。潰れちまってるってだけだ。出たとしても泥水だろうよ」
老人は帯に引っかけてあった水筒を取ると、勇介に向けて放り投げた。
「やっぱり疲れるかい? 力ぁ使うとよ」
受け取った水筒から、勇介は一口水を飲んだ。
「えぇ。これは他の力と同じように慣れなんでしょうか?」
「はぁ? お前なに言ってんだ? 昨日今日、力を使い始めたひよっこじゃあんめぇ。ガキんときから使ってんじゃねぇか」
「後見ですか?」
「おうよ」
老人はそう応えると、かんらかんらと笑った。
「じゃぁ、なぜ疲れるんでしょう?」
「そんなにしんどいもんかい?」
「しんどさは、このところ幾分ましですね。子供の頃は昏倒することもありましたし」
「ましになったなぁ、地震とお山の噴火のせいかもなぁ」
老人は西に目を向けた。
「そうさなぁ、お前、さっき二重に使ったろ? それも関係してんじゃねぇか?」
「二重ではなく、一重と一つですが。あの場所で異形やら力をおおっぴらに見せるわけにも……」
「わかってるって。別にそれを責めてるわけじゃねぇ。だがよ、実際んとこ幾重までできるんでぇ?」
また一口、勇介は水筒から水を飲んだ。
「幾重ということでしたら、子供の頃に五つまでは。五つ開いた後、昏倒しましたが」
「そいつぁあれかい? 外に幾つも開くのとは違うのかい?」
「えぇ。まったく違いますね。たとえるなら、外に開くのは二倍、三倍として、幾重にも開くのは二乗、三乗といったところでしょうか」
「そいつぁ、わかんねぇたとえだ」
老人は、またかんらかんらと笑った。
「わかんねぇと言えばよ、一重に包んだ時ってなぁ、まだ想像できるんだがよ。二重以上に包んだ時ってなぁ、中ぁどうなってんだい?」
「中ですか?」
勇介はしばらく沈黙した。
「別段、これという違いは現われませんが」
「そうかい。それじゃぁよ、ここで二重に包んで、中で異形になってみろや」
「ここでですか?」
「おうよ。そういう使い方なんだろ?」
「それはそうですが」
勇介は両手を左右に伸ばした。
「ここにあれ」
「まだ異形にゃぁなっちゃいねぇな?」
外から老人の声が聞こえた。
「まだです。ここにあれ」
「まだかい?」
「なります」
そこには左右に両手を伸ばした異形がいた。
「まだかい?」
「もうなってます」
「そうかい。よし、解きな」
異形は勇介に戻り、指弓‡を弾いた。
「戻って来たかい?」
「えぇ」
「ふううん」老人は唸った。「さっぱりわかんねぇ。お前が、そこにつっ立ってただけに見えてたぜ。こりゃぁ、やっぱあれかもなぁ」
「心当たりがあるんですか?」
老人は勇介の目を覗き込んだ。
「いや、なんもねぇ」
「じゃぁ、あれってなんですか?」
「あぁ? そいつぁあれだ。あれはあれだ」
老人は言葉を濁した。
「それじゃぁよ、俺ぁ帰るわ。とりあえず見るもんは見たしよ」
老人は右手を勇介に差し出すと、指を曲げ、催促をした。もう一口飲み、勇介は水筒を老人の手に乗せた。
「今度ぁ、お前んとこに行かぁ。その頃にゃぁ、電気もまた通ってるだろうよ」
老人は勇介に背を向けると、杖を上に向け、大きく回しながらそう言った。
† 朝鮮人が毒を: 関東大震災の時に実際に流れた噂の一つです。実際に毒を投げ入れられた例はないようです。ただ、噂を根拠として朝鮮人が暴行された例はあります。そのような暴行から朝鮮人を保護しようとした警官もいましたが、その行為はむしろ噂の根拠にもなってしまったようです。また、東北地方出身者の訛りは強かったため、言葉が通じないことから朝鮮人と思われ、噂を根拠に暴行を受けた例もあります。なお、江戸時代の多くの実態としては水道だった井戸という構造も、この噂、あるいはこの噂の広まりに関連しているようです。
‡ 指弓: 指パッチンです。