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祭 [MATSURI]  作者: 宮沢弘
第四章: 震災後1
7/26

4−4:

 勇介はバラッケの裏通りを抜け、崩れた家の跡が並ぶ場所へと出た。そこには、手押しポンプの着いた井戸があった。勇介はポンプを手で漕ぎ、水が溢れるのを待った。だが手応えは軽く、呼び水が必要かもしれないと思った時だった。

「兄ちゃん、そいつぁ飲めねぇぞ」

 振り向くと、そこには着物にハンチング帽を被り、襟巻を巻き、杖を持った老人が立っていた。

「おやっさん」

「おう、俺だ」

「飲めないって。まさかおやっさんが信じているわけではないでしょう? 朝鮮人が毒をなんていう噂を」†

「あぁ、そんなんじゃねぇ。潰れちまってるってだけだ。出たとしても泥水だろうよ」

 老人は帯に引っかけてあった水筒を取ると、勇介に向けて放り投げた。

「やっぱり疲れるかい? 力ぁ使うとよ」

 受け取った水筒から、勇介は一口水を飲んだ。

「えぇ。これは他の力と同じように慣れなんでしょうか?」

「はぁ? お前(おめぇ)なに言ってんだ? 昨日今日、力を使い始めたひよっこじゃあんめぇ。ガキんときから使ってんじゃねぇか」

後見(あとみ)ですか?」

「おうよ」

 老人はそう応えると、かんらかんらと笑った。

「じゃぁ、なぜ疲れるんでしょう?」

「そんなにしんどいもんかい?」

「しんどさは、このところ幾分ましですね。子供の頃は昏倒することもありましたし」

「ましになったなぁ、地震とお山の噴火のせいかもなぁ」

 老人は西に目を向けた。

「そうさなぁ、お前(おめぇ)、さっき二重(ふたえ)に使ったろ? それも関係してんじゃねぇか?」

二重(ふたえ)ではなく、一重(ひとえ)と一つですが。あの場所で異形やら力をおおっぴらに見せるわけにも……」

「わかってるって。別にそれを責めてるわけじゃねぇ。だがよ、実際んとこ幾重(いくえ)までできるんでぇ?」

 また一口、勇介は水筒から水を飲んだ。

幾重(いくえ)ということでしたら、子供の頃に五つまでは。五つ開いた後、昏倒しましたが」

「そいつぁあれかい? 外に幾つも開くのとは違うのかい?」

「えぇ。まったく違いますね。たとえるなら、外に開くのは二倍、三倍として、幾重(いくえ)にも開くのは二乗、三乗といったところでしょうか」

「そいつぁ、わかんねぇたとえだ」

 老人は、またかんらかんらと笑った。

「わかんねぇと言えばよ、一重(ひとえ)に包んだ時ってなぁ、まだ想像できるんだがよ。二重(ふたえ)以上に包んだ時ってなぁ、中ぁどうなってんだい?」

「中ですか?」

 勇介はしばらく沈黙した。

「別段、これという違いは現われませんが」

「そうかい。それじゃぁよ、ここで二重(ふたえ)に包んで、中で異形になってみろや」

「ここでですか?」

「おうよ。そういう使い方なんだろ?」

「それはそうですが」

 勇介は両手を左右に伸ばした。

「ここにあれ」

「まだ異形にゃぁなっちゃいねぇな?」

 外から老人の声が聞こえた。

「まだです。ここにあれ」

「まだかい?」

「なります」

 そこには左右に両手を伸ばした異形がいた。

「まだかい?」

「もうなってます」

「そうかい。よし、解き(ほどき)な」

 異形は勇介に戻り、指弓(ゆびゆみ)‡を弾いた。

「戻って来たかい?」

「えぇ」

「ふううん」老人は唸った。「さっぱりわかんねぇ。お前(おめぇ)が、そこにつっ立ってただけに見えてたぜ。こりゃぁ、やっぱあれかもなぁ」

「心当たりがあるんですか?」

 老人は勇介の目を覗き込んだ。

「いや、なんもねぇ」

「じゃぁ、あれってなんですか?」

「あぁ? そいつぁあれだ。あれはあれだ」

 老人は言葉を濁した。

「それじゃぁよ、俺ぁ帰る(けぇる)わ。とりあえず見るもんは見たしよ」

 老人は右手を勇介に差し出すと、指を曲げ、催促をした。もう一口飲み、勇介は水筒を老人の手に乗せた。

今度ぁ(こんだぁ)お前(おめぇ)んとこに行かぁ。その頃にゃぁ、電気もまた通ってるだろうよ」

 老人は勇介に背を向けると、杖を上に向け、大きく回しながらそう言った。


† 朝鮮人が毒を: 関東大震災の時に実際に流れた噂の一つです。実際に毒を投げ入れられた例はないようです。ただ、噂を根拠として朝鮮人が暴行された例はあります。そのような暴行から朝鮮人を保護しようとした警官もいましたが、その行為はむしろ噂の根拠にもなってしまったようです。また、東北地方出身者の訛りは強かったため、言葉が通じないことから朝鮮人と思われ、噂を根拠に暴行を受けた例もあります。なお、江戸時代の多くの実態としては水道だった井戸という構造も、この噂、あるいはこの噂の広まりに関連しているようです。


‡ 指弓: 指パッチンです。


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