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祭 [MATSURI]  作者: 宮沢弘
第一章: 震災前
25/26

1−1:

 明日(あした)勇介(ゆうすけ)は異形に突き飛ばされ、長屋の一間の土間に転げ込んだ。急いで立ち上がろうとする勇介に奥から声がかけられた。

(にい)ちゃん、放っときな」

 声に張りはなく、老人の、それもあまり元気とは言えない、かすれ声だった。

「転げ込んだことは謝ります」

 横に落ちていた中折れ帽を掴み、頭に載せながら勇介は応えた。

「いいって、いいって。暑ぃ(あちぃ)から開けてたってわけでもねぇ。兄ちゃんのために開けといたんだからよ。おかげで入り口も無事だ」

 勇介は異形が走り去っただろう、この一間の向かいにある路地を見た。そこには、すでに異形の姿はなかった。

「兄ちゃん、こっちぃ上がんな。ちぃっと、話でもしようじゃねぇか」

 首を振り、勇介は上り口から中へと上がった。そこには、布団から起き上がろうとしている老人がいた。勇介は手を貸そうかと老人に向かったが、老人は手を前後に振り、応えた。

「気にすんねぇ。これでもここんとかぁかなりマシなんでな」

 老人の否定を受け、勇介は部屋を見回した。座れる場所と言えば、火鉢を挟んだ老人の向かい側、上り口から上がったその場所しかなかった。

「座布団はなかったかい?」

 起き上がり、布団の上に胡座をかいた老人が訊ねた。老人もまた部屋を見回した。

「なかったか…… まぁいいや、そこに座れや。昼飯ゃ(ひるめしゃあ)ねぇが、茶ぁ(ちゃあ)くらい、隣の姉さんが置いてってくれてるからよ」

 老人は火鉢の引き出しから湯飲みと茶筒を取り出し、火鉢に掛かっている鉄瓶を指さした。

「まぁ、勝手にやってくんな」

 そう言われ、勇介は二人分の茶を淹れ、湯飲みの一つを老人の前に置いた。

悪ぃ(わりい)な」

 老人はそう言い、一口、口をつけた。この数分の間にも、老人には疲れが見えるように勇介には思えた。

「それでだ。明日(あした)勇介(ゆうすけ)。そういう名だろ? お前(おめえ)、さっきなんで異形にならなかった? それでなくとも力ぁ(ちからあ)使わなかったなぁなんでだ?」

 勇介は老人を見た。

「怪しまなくていいって。ほれ」

 そう言うと、老人は左手を振った。その左手は異形へと変化していた。

「な?」

 老人はもう一度左手を振った。そこには元通りの左手があった。

先見(さきみ)後見(あとみ)遠見(とおみ)。そんなとこだ」

「では、私が来るのはわかっていたと?」

「言ったろ? 兄ちゃんのために開けといたってよ。それにしても起きられるようになると、こうちょっと寂しいもんだな。茶ぁ(ちゃあ)啜るなら一服も欲しくなるってもんだ」

 老人は勇介を見るといたずらに似た笑顔を浮かべた。

「そらぁそれとしてよ、兄ちゃん、忙しいだろ?」

「それはそうですが」

「相手にしすぎる必要もねぇんだよ。相手ぇしてたら、これから追っ付かなくなっちまう」

「増えるということですか?」

 老人はもう一口喉を湿らせた。

「増えるなぁ。狂舞(きょうぶ)話ぁ(はなしゃあ)知ってんだろ? 連中の、まぁ全部じゃねぇが、お仲間よ」

「なんでそんなことに……」

「そりゃぁお前ぇ(おめえ)、近頃の地震とよ、あの坊主がなぁ」

「あの坊主?」勇介は考えた。「総領が呼び寄せているんですか?」

「いやいや、」老人は急須から自分の湯飲みに注ぎ、また鉄瓶から急須に湯を注いだ。「あの坊主って言っただけだぜ、俺ぁ(おらぁ)。なによりよ地震…… はっきり言やぁ(いやぁ)お山のな、噴火やら、お江戸の地脈やら。無理矢理作った土地だからよ。まぁいろいろとあらぁな」

 もう一口、老人は茶を啜った。

「でだ。兄ちゃんはその全部を相手にできるのかってとこだわな」

「狂舞の話は聞いています。仰るとおりなら…… 手に余るでしょうね」

「だわな。まぁ、兄ちゃんは好きにやってくれてかまわねぇんだけどよ。ちぃと手ぇ(てえ)貸してもらいてぇってな時もあってよ」

「あなたの言うとおりに動けと?」

違ぇ(ちげえ)、違ぇ。俺がなんのかんの言わずともよ、そのあたりはなるようにならぁ。俺の言うとおりなんてよ、俺の方が面倒くさくていけねぇ。ただよ、けりぃ着けて欲しいってのはあるかもな」

「そのうち、わかると?」

「おうよ。だがまぁ、成り行きだ成り行き。そうなったんならそれでよし。ならなかったんならそれでよし」

「私は誰かの都合で動くつもりはありませんよ」

 勇介も湯飲みに口を着けた。

「そうそう、それでなきゃいけねぇ」老人は指を折りなにかを数えはじめた。「明明後日か。今頃によ、もっかい顔出してくんねぇか? 先見だ後見だっていってもよ、信じねぇだろ」

「なにがあるかは知りませんが、もう手紙で連絡が来ているなんていうタネがあるんじゃないですか?」

「ねぇよ。疑え、疑え」老人はかんらかんらと笑った。笑ったはいいものの、咳込むことにもなった。湯飲みから一口啜り、老人は勇介に目を戻した。

「いいかい? 明明後日だ、まぁ偉いさんが来らぁ(くらぁ)

 勇介は訝しげに老人を見るしかなかった。

「なんとお呼びすればいいですか?」

「あぁ? 俺かい? 名字には慣れねぇしなぁ。爺さんでもおやっさんでも、好きな方で呼んべや」

 勇介はしばらく考えた。

「とりあえず、おやっさんでいいですか?」

「おぉよ。それとな、さっきの奴だが三町†ばかり東に行ったところにいるからよ。そっちのけりぃつけたきゃ行ってみな。ちょうどかち合うだろうよ」

 その言葉に、脇に置いていた帽子に勇介は手を置いた。

「おう、行っちめぇな。いいかい? 明明後日だからな」

 勇介は帽子を頭に載せ、会釈をすると急いで土間から出て行った。

「ふぅん、あいつがねぇ。先代も呆けちまってったからなぁ。まぁ、俺も人のこたぁ言えねぇが」

 老人は勇介が使っていた湯飲みを手に取った。

「符も祝詞もいらねぇって先代は言ってたが。ま、いいやね。()の者が認めたならば我が長命、先見(さきみ)遠見(とおみ)後見(あとみ)()の者に分け与える。御霊分け(みたまわけ)倣い(ならい)、分け与えは限りなし」

 老人は勇介の湯飲みを置き、自分の湯飲みから茶を啜り終わると、また布団に潜り込んで行った。


† 330mほど。


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