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三日後の昼、勇介はまた長屋を訪ねた。老人はすでに火鉢の前、布団の上に座っていた。
「大丈夫なんですか?」
「客が来るからよ。寝っ転がってちゃ失礼ってもんだろ」
「私が来たときには寝てましたよね」
老人はかんらかんらと笑い、また咳込んだ。
「いいって、いいって」
まだ咳込んだまま、老人は右手を勇介に向けた。
「あぁ、落ち着いた。大丈夫だ」
火鉢に用意してあった茶筒と急須、そして三つの湯飲みに勇介はお茶を淹れた。
「で、誰なんですか? 今日来るっていうのは」
「そうさなあぁ、三、二、一」
「失礼、ご老人はご在宅かな?」
老人が数えたのに合わせて、ちょうど客が来た。
「あぁ、上がってくんな」
「では、失礼して」
勇介が見るところ、仕立ての良い服をすこしばかり崩した着方をした紳士が上り口から上がってきた。勇介に気づくと、帽子を脱ぎ、一礼をした。
「こちらはお孫さんで?」
「孫か。俺ぁそんな年に見えるかい?」
「見えますね」
その紳士は軽い苦笑いを浮かべた。
「そうかいそうかい。そいつの横でよかったら座ってくんな」
老人は口元を客には隠して勇介に言った。
「孫だとよ。俺の孫なんざ、お前の爺さんより年上だ」
そう言い、いたずらっぽく笑ってみせた。
「え~っとよ。ところであんたぁ誰だい? 爺だからいつでも暇だろうってんで来たんだろうけどよ」
「や、これは失礼。連絡もせずに押しかけた不調法は謝ります。」
紳士は上着の内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚を老人に向けて火鉢に置いた。
「柳 田輔先生ってのかい。それでこの爺になんの用だい?」
そう言いながら、老人は右手を勇介に伸ばすと、指を折ったり開いたりを繰り返した。勇介はジャケットのポケットから刻み煙草の包みを、老人の手に乗せた。
老人は火鉢から煙管を取り出すと、煙草を詰め、火鉢から火を移した。
「このあたりでかなりの高齢の方とのことですので。昔話や言い伝えをご存知かと思いまして」
「まぁ、知らねぇってこたぁねえけどよ」
煙管から一服した老人は、咳込んだ。
「いけねぇいけねぇ。久しぶりだとこうならぁ」
老人はもう二度、三度と咳込んだ。
「お年のようですから、江戸っ子とはいっても粋がらずに」
紳士は笑いながら言った。
「気にしねぇでいいよ。こちとら、都合よく逝っちまうこたぁねぇんだからよ」
「そうは言っても……」
「まぁいいって。それで聞きたいことってなぁどんなんでぇ。なんか言ってくれりゃぁ思い出しもするだろうさ」
老人は煙管をもう一服し、二、三度咳をし、茶を飲み咳を抑えた。
「とは言ってもよ、有名どころは押さえちまってるんだろ?」
紳士に老人は訊ねた。
「そうですね。いわゆる怪談など、有名なものはおそらく。ですので、できればそれ以外のものがあれば」
「それ以外って言ってもなぁ」老人は無精髭のある顎をなでた。「爺の昔話ってわけじゃねぇんだろ?」
「そうですね。そういう意味の昔話とは違うものを。やはり言い伝えのようなものがあれば」
「言い伝えねぇ」
老人は立ち上がると、勇介を箱庭に面した縁側に招いた。
「なんかあるかい? 俺が話そうとするとよ、爺のただの昔話になっちまう。あの先生が欲しいのはそういうのじゃねぇんだろ?」
「違うでしょうね。あの先生の著作を読んだことがありますが。東北での言い伝えでしたし」
「そうかい。う~ん、だよなぁ。こうなりゃお前が頼りだが、なんかねぇか?」
勇介も箱庭に目をやり、考えた。
「駄目ですね。私が話しても宿儺の民の話にしかなりません。言い伝えというより、記録に近いものになります」
「宿儺の民のってなぁいいんじゃねぇか? だけどよ、知られてねぇだろ。あの先生がそういうのを集めてるってんなら、似たような話がねぇかくらいは調べるだろ」
「ですけど、似たようなものは見つからないでしょうね」
「だよなぁ」
老人は頭を掻いた。
「おやっさんの経験や聞いたことで、今だと言い伝えになっているようなものはありませんか?」
「無理言うねぇ。俺ぁ寝ずっぱりだったんだぜ。なにが言い伝えになってるかなんて知らねぇぜ。店賃も何代か他の店子が融通してくれてたくれぇだ。まぁ大家も何代かかなり安くしてくれちゃぁいたがよ」
老人は両手を袖に入れた。
「平将門あたりでなにかありませんか?」
「お前なぁ。先代ならまだしも、俺ぁお江戸にも来ちゃぁいねぇし、生まれてもいねぇ」
「困りましたね」
「おぉ、困ったな。時代かねぁ。異形はあちこちで出てるだろ。そのあたりに学者先生も興味を持ったわけか?」
「いや、そういうわけでもないようですが。フォルクロアが流行のようで」
「ホルクロアか。そりゃぁ宿儺の民に関係するのかい?」
「世界各地に宿儺の民に類する者はいるでしょうから、無関係というわけでもないでしょうが」
老人はそれを聞いて唸った。
「なら、ねぇわけでもねぇかもしんねぇな」
老人は火鉢の前に、布団の上に戻った。
「先生、待たしちまってすまねぇな」
「いえいえ。いくらでも待ちますよ」
紳士はお茶を一口飲んだ。
「でだ。他の連中が知っているかどうかはわかんねぇことなら、いくつかある」
「ぜひ、お教えください」
紳士は懐から手帳と万年筆を取り出した。
「さてと、俺の話を聞いたらよ、先生はしばらく帝都からは離れてくんねぇか? 東北か、そうでなけりゃぁ京都なんかもいいかもな。いいかい? そいじゃぁ、俺が聞いたことがあんのは……」
老人は語り始めた。勇介にとっては、それは紳士が求めている言い伝えではなかった。宿儺の民の記録であり、記憶であり、まれに聞いたことのないものが混ざっていた。それが老人による創作なのか、それとも宿儺の民の記録や記憶にないだけのものなのか、忘れ去られたものなのか、それは勇介には判断がつかなかった。




